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2019年12月15日日曜日

日本語教育学って何だろう?

 「日本語教育能力の判定に関する報告(案)に対するパブコメが一昨日(12月13日(金)に締切となりました。一方、来年5月の日本語教育学会の総合テーマは「日本語教育学の輪郭を描く」です。
 この間、日本語教育学って何なのだろう? 日本語教育学は過去40年の間に発展したのだろうか? これから発展するのだろうか? どのように発展する必要があるのだろうか? などについて考えました。そんな話をします。

1.現行の検定試験の内容は何か
 現行の検討試験や教員養成・教師養成課程の内容は、平成12年度の「日本語教育のための教員養成について」(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/nihongokyoiku_suishin/nihongokyoiku_yosei/pdf/nihongokyoiku_yosei.pdf)を基本として引き継いでいます。つまり、約20年前のままです。
 この内容は、約20年前の日本語教育学の状況を参考にして教員として必要と考えられる事項が「社会・文化・地域」「言語と社会」「言語と心理」「言語と教育」「言語」の5つの分野、16の下位区分にわたって列挙されたものです。それらの事項の後ろにはさらにキーワードというものが列挙されています。上掲「教員養成について」のpp.11−12。(その後文化庁では、そうした事項の列挙では養成課程にバラツキがあるということで、2018年3月に必須の50項目というものを絞り込んで、現在はその50項目と教育実習が含まれることが養成課程の「基準」となっています。)

2.20年前に日本語教育学の体系はあったか
 平成12年の「教員養成について」が出たときに、日本語教育学の体系はあったでしょうか。残念ながらありませんでした。逆に、その「教員養成について」を検討するときに、日本語教育学の体系のようなものがいわばはじめて意識されたと言わなければなりません。しかし、上記のような状況で、日本語教育学を体系づけることはできませんでした。

3.日本語教育学と「教員養成について」の内容との関係
 20年前の「教員養成について」に盛り込まれている内容は、当時の日本語教育関係の研究者の(a)「守備範囲」と、(b)「守備範囲」ではないが目に届いていた」部分です。逆に言うと、当時の日本語教育関係の研究者の目に届いていない」内容や領域はそこには入っていません。

4.日本語教育学の輪郭について
 新たに日本語教育学の輪郭を描くにあたっては、これまでの(a)「守備範囲」と(b)「守備範囲」ではないが「目に届いている」部分を参考にしながら、(c)として、(c)現在発展中の重要分野も含めながら、研究分野と研究テーマを包括できる体系を構築しなければなりません。そして、学の体系というのであるから、(ア)研究領域、(イ)研究系、(ウ)研究分野、(エ)研究テーマというような階層構造での全体の整理が必要です。

5.日本語教育学の体系の構築をめぐる観点
 4のような認識の下にいくつかの観点を提示したいと思います。
(1) 日本語教育は第二言語教育の一分野である。ゆえに、個別の目標言語を超越した応用言語学や第二言語習得研究は、日本語学や社会言語学や特殊目的日本語教育論などとは独立した、そして第一の研究領域として第二言語教育学領域が設定されなければならない。
(2) 日本語教育は「日本語×教育」なので、第二の研究領域として、「日本語教育基礎領域」を設定し、その下に、日本語学系、教育学系、心理学系などの関連の系を配置するのが適当である。
(3) 上のように第二言語教育学領域と日本語教育基礎領域を設定した上で、日本語教育という現象をめぐる研究分野として日本語教育事情領域を、また、日本語教育の実践を研究する分野として日本語教育実践領域を、それぞれ設定するのが適当である。
(4) 4で(c)として言及した現在発展中の重要分野として、言語理論学が必要である。これまでの日本語教育学は、そもそも言語とはどのようなものであるか、つまり、言語と人間、言語と社会・文化、言語と認知、言語と知性等のそもそもの関係を考究することなしに日本語教育の学や日本語教育の実践に臨んできた。そのために、言語は単に実体として捉えられ、シンボルとして厳密に記号学的に把握されることがなかった。このことが、これまでの日本語学等への偏った依拠と相俟って、日本語教育を即物としての言語事項を扱う営みに矮小化してしまっている。教育実践に追従するのではなく、教育実践により広く深遠な視野を提供すべき日本語教育学としては、そうした言語理論学がぜひとも必要である。

 以上のような観点を踏まえて、日本語教育学の体系(私案)を作成しました。コメントなどお寄せいただければ。
https://www.dropbox.com/s/pm1kbv87p0kngge/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%BD%93%E7%B3%BB.pdf?dl=0
 


2019年9月18日水曜日

どんな日本語教育者になる? ー 勉強者? 発信もするスーパー勉強者?

 ある研究会の友人が研究会のメーリングリストで、知の探求者の分類表ということで、以下のような4象限の図を紹介してくれました。(この図は、『在野研究ビギナーズ』(荒木優太編著、アマゾン日本の思想でベストセラー第1位)を読んで、山本隆一さんがblog(https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/09/08/222032)で提示しているものです) そこでは「勉強者」というおもしろいカテゴリーが提案されています。また、ここに言う「スーパー研究者」というのは「複数の分野にまたがり得る優れた研究者で(たぶん哲学的な造詣もあって!)応用的なアイデアも豊富な人」というようなことかと思います。




で、これを参考にして考えたこと。

1.理系の場合はB(勉強者)の価値は高い
 まず、4象限を右上から時計回りに、SR:スーパー研究者(学者)、B:勉強者、M:マニア、R:研究者、としましょう。荒木優太さん(『在野研究ビギナーズ』の著者)も山本隆一さん(blogで図を発信した人)も基本理系の人ではないかと思います。そして、理系の場合は、あらゆる分野で、実験やシミュレーションなどに基づいた「実のある研究」が十分すぎるほど行われていると思います。つまり、現在「利用可能で(活用されることを待っている)そこにある知」が極めて豊富です。ですから、B(勉強者)の価値はとても高いと思います。

2.「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」というのは一応わかる
 しかし、日本語教育学を振り返ってみてください。日本語教育学には「利用可能でそこにある知」が一見たくさんあります。しかし、その知の大部分は、日本語について(日本語学)と、日本語の使われ方について(社会言語学、会話分析)です。(当面は、実践研究での知の蓄積の話はどけておきます。) そして、それらの知は、日本語教育の実践に「直接に応用が可能」でしょうか。この「直接に応用が可能か」という部分がぼくがずっと「警鐘を鳴らしている」ところです。
 端的に言って、現在利用可能な知は、直接に応用は可能ではありません。応用のためには、(1)まずは知の「出番」を見極めなければなりません、そして、(2)教育指導として適切な形に「仕立て直して」利用しなければなりません。
 現在「利用可能でそこにある知」を生産し続けている研究所の研究者や大学のセンセたちは、「どうぞどんどん使ってください!」「わたしたち(研究者)はいろんな(利用可能な)知を皆さん(日本語教育実践者)に提供してるでしょ!」というスタンスで、「自分たちが好きな」知をただ増やし続けています。そして、研究の方面に必ずしも強くない日本語教育実践者はいつもかれらが発信するディスコースの量と「ややこしさ」に圧倒されて煙に巻かれてそしてひれ伏すばかりです。そんな文脈があるので、「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」という立場は一見「悪くない」感じがします。

3.知性の充実こそ日本語教育学の現状を打破する
 しかし、現在の大勢の日本語教育学の知を生産しているR(研究者)たちとクリティカルに対話をしても、日本語教育学にとって本質的に必要な知は出てこないと思います。ぼくが「日本語教育学には知性が足りない!」(https://koichimikaryo.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlと言ったのはそういう問題意識の表明です。
 結局、問題は、現在の日本語教育学というのは、実際には個別の研究領域の単なる寄せ集めになっていて、そういう個別の学を統括する総括的な学がないということです。そして、そのことが、日本語教育学を迷走させています。実践研究を推進しているグループは、そのような現状を改善・打開するためのかれらとしての試みとして、実践研究というのを強力に推進しているのでしょう。それは、「前向きな」一つの姿勢だと思います。
 ただ、ぼく自身は、それよりも知性の充実こそが必須だと思っています。ただし、忘れてはいけないのは、「日本語教育実践への真摯な関心を維持しながら」です。知性の探究には大きな時間と努力が要ります。ですので、それをやり始めると、ややもすると当初の問題意識である実践への真摯な関心から離れたり、それを忘れたりしてしまいます。

4.新たな本質的に必要な知を生産して発信するB
 当面は、B(勉強者)としてやっていくのはいいと思います。ただし、「既存の知」のBではなく、「新たな本質的に必要な知」を探究するBです。
 でも、考えてみてください。この「新たな本質的に必要な知」をどこの誰が生産してくれるでしょう? 日本語教育学全体をながめても「ほぼいない!」です。そうすると、当面はBでも、近い将来には「新たな本質的に必要な知を生産して発信するB」にならないといけないのでは? それも業績のために発信するのではなく、日本語教育のギョーカイでの知性の拡充を促進するために発信することになります。どのようなメディア、モード、方法でそういう発信をするかは、検討しなければなりませんが。(もちろん業績にもなる形であるなら、それはそれでいい!) 

5.「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」というドライブ(推進力)
 実践への真摯な関心を維持しながらそういう本質的に必要な知を探究する場や「コミュニティ」がぜひとも必要です。そして、知の生産とシェアの場の「馬力」を高く維持するためには、ぜひ「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」という心意気を持つことが期待されます。それが「新たな知を探究する」強力なドライブ(推進力)になるからです。
 ちなみに言うと、日本語教育者&日本語教育学者は、日本語という対象が関わる諸分野だけでなく、言語と言語の習得と習得支援や言語と文化と現実の構成や言語と文化と自己などがテーマとなる分野についても探究する必要があると思います。そのような意味で、日本語教育者&日本語教育学者は避けがたく「オールラウンド・プレイヤー」であることを求められているように思います。ですから、基本はB(勉強者)なのでしょう。ぼく自身、そういう意識です。そして、その行きつく先は、個別分野のR(研究者)を凌駕する「スーパーB」です。そんなBやスーパーBが増えると、日本語教育(学)の分野は俄然おもしろくなると思います。

2019年1月26日土曜日

読書教養人はえらい人?

 以下の記事は、相変わらず!! 日本語教育(学)の関心から書いています。
 小説家、大学の先生、評論家、ジャーナリストなどはたいてい小さい頃から現在も引き続いて強烈に本を読んでいます。本を読むスピードやネットで情報にアクセスしてそれを読み解くスピードも強烈です。元ジャーナリストでその後一念発起してイギリスに留学して博士号をとって今ぼくの身近な同僚になっている人がいますが、かれは仕事をフツーにこなしながらも、小説、教養書、専門書などを日常的に読んでいて、たぶん1週間に数冊いっていると思います。たいへんな「読書馬力」です。『火花』で芥川賞をとった又吉くんの読書量も半端ではありません。
 新聞やテレビなどにしばしば出てきて、ものを書いたり、いろいろな発言をしたりしているそういう種類の人たちを仮に言論人と呼ぶことにしましょう。言論人の多くは、最近では、自身のブログなどでも発信をしていらっしゃいます。
 言論人はえらい人なのでしょうか? うーん、えらいのかなあ? 本を読むことが日常にある家庭出身でもなく、本を読むことが日常になっている人が身近にいない環境で育ったぼくには、今振り返ってみると、八百屋のおっちゃんや、豆腐屋・お好み焼き屋のおっちゃんとおばちゃんや、鶏肉・玉子屋や肉屋や酒屋のおっちゃんとおばちゃんなど、日々お仕事に励んで町の人たちの生活を支えている人たちがとても「えらいなー」と思えるのです。たぶん、町の人たちの生活に奉仕していてせっせと働くその姿がビビッドに「えらいなー」と思えるのでしょう。それと比べると、新聞やテレビで出てくる言論人は、どうかすると「能書きを垂れてお金を稼いでいる」ふうに見えてしまいます。「どうかすると」というのは、たぶん2種類あって、一つは「えらそうに」話す人。大阪人としては「えらそうなこと言うて、お前、なんぼのもんやねん!」と言いたくなります。もう一つは、議論がどんどん舞い上がってしまって、本来の重要なテーマを忘れてしまって、議論の相手とだけの議論・討論にはまってしまっているのに平気で「白熱して」議論を続けている場合です。これは「何、しょうもない能書きばっかり言うてるねん!」となります。
 趣味の世界の中で「議論がどんそん舞い上がって…『白熱して』議論を続けている」というのは別にかまわないでしょう。それは、趣味の世界、広い意味で娯楽の世界なので、見ている人、読んでいる人も本気で議論しているのを聞く・読むのはそれはそれで圧巻でしょう。しかし、世の中の問題、社会のいろいろな問題について議論しているときに、「フツーの人の暮らし」を忘れて議論していらっしゃる(←これ、皮肉の敬語!)のは、どうもうさんくさいです。「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」と聞きたくなります。
 ここまでは、どうも「まくら」です。では、収束、2つ。
 言論人云々について言うと、言論人と読書教養人は異なるのだと思います。読書教養人は「表(舞台)」に出るかどうかにかかわらず読書を楽しみ教養を身につけますます人格を高めている人です。言論人は、その中の一部として「表(舞台)」に出ている人です。読書は本来は、言論や議論のためにすることではなく、私事としてひっそりとするものでしょう。もちろん友人同士の間で「この本はすばらしかった!」というような共有はあると思いますが。言論が「生業(なりわい)」になってしまうと、そのような「本来の読書」から離れていってしまうのかなあと思います。そして、人文系の大学の先生においてもどうもそういう「よろしくない傾向」に傾いている気がします。人文系の大学の先生は、本来的には高度な読書教養人(であるべき)なのだと思います。
 もう一つの収束。日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、上のような意味での高度な読書教養人(であるべき)なのでしょうか? うーん、これはむずかしい質問です。日本語教育学や第二言語教育学を教育実践に資する学問と定義するなら、答えは「No!」となります。「教育実践に資する学問」と定義すると、教育実践のために教育実践者に向けて積極的に発言しなくてはならなくなるわけで、そうなると「本来の読書」から離れてしまいます。
 それに対し、日本語教育学や第二言語教育学は日本語教育や第二言語教育への関心という部分で教育実践とつながりはあるが、それをきっかけとして人文学の一分野として自由に研究を展開していっていい、というふうに考えると、上の質問への答えは「Yes!」となります。そして、日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、日本語教育や第二言語教育への関心をスタートとしながらも自身の興味・関心にまかせてどんどん「本の世界」に入って行ってもいい、のめり込んでもいい、ということになります。しかし、ここで一つの「むずかしさ」が生じます。「本の世界」に深く入って行けば行くほど「微に入り細に入り」の議論になってしまって、そうした議論は教育実践者にとって、(a)疎遠でよそよそしい議論、(b)自身の目の前の関心から離れた議論、になってしまうという「むずかしさ」です。しかし、…。(a)と(b)について考えてみましょう。
 (a)に関しては「微に入り細に入りでややこしくてゴメンね。でも、我慢して読んで! 聞いて!」と言うほかありません。そして、(b)に関しては、「目の前の関心」というのが本当にそれでいいのかを振り返るためにあれこれ言語やコミュニケーションや意識や社会文化的現実のことを深く探究して公表しているわけで、それを「わたしの目の前の関心はそれではない」と言って読んで・聞いてもらえないとなると大いに残念ですと言わざるを得ません。ただし! このように「残念です!」と言えるのは、研究者自身において自分の研究が教育実践と重要なつながりがあると確信できている場合だけです。そうでない場合は、「こんな研究をしているのですが、教育実践とのつながりはわたしもよくわかりません」と告白するのが誠実です。このあたり、厄介なのは、「重要なつながりがある」との確信が思い込みである可能性があることです。結局、「重要なつながりがあるか/ありそうか」は、話を聞いて/本を読んでくださる教育実践者のほうの「野生の直感」に委ねるしかありません。
 結論として言いたいのは、実はこの「野生の直感」です。教育実践者の人たちがしっかりと「野生の直感」を磨いて、しっかりと、本当に教育実践のことを真摯に考えて研究活動をしている大学の先生とそうでない先生を見抜かなければなりません。これが、先の「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」という言論人への質問とつながるわけです。うさんくさい日本語教育学・第二言語教育学の大学の先生もたくさんいる? 変に教育実践とつながりがあるように発言するからうさんくさいのです。自身に「重要なつながりの確信」がないのなら、「つながりはわたしもわかりません」と正直に言えばいいのです。「えらい人」の不正直は罪が重い!!