2019年1月26日土曜日

読書教養人はえらい人?

 以下の記事は、相変わらず!! 日本語教育(学)の関心から書いています。
 小説家、大学の先生、評論家、ジャーナリストなどはたいてい小さい頃から現在も引き続いて強烈に本を読んでいます。本を読むスピードやネットで情報にアクセスしてそれを読み解くスピードも強烈です。元ジャーナリストでその後一念発起してイギリスに留学して博士号をとって今ぼくの身近な同僚になっている人がいますが、かれは仕事をフツーにこなしながらも、小説、教養書、専門書などを日常的に読んでいて、たぶん1週間に数冊いっていると思います。たいへんな「読書馬力」です。『火花』で芥川賞をとった又吉くんの読書量も半端ではありません。
 新聞やテレビなどにしばしば出てきて、ものを書いたり、いろいろな発言をしたりしているそういう種類の人たちを仮に言論人と呼ぶことにしましょう。言論人の多くは、最近では、自身のブログなどでも発信をしていらっしゃいます。
 言論人はえらい人なのでしょうか? うーん、えらいのかなあ? 本を読むことが日常にある家庭出身でもなく、本を読むことが日常になっている人が身近にいない環境で育ったぼくには、今振り返ってみると、八百屋のおっちゃんや、豆腐屋・お好み焼き屋のおっちゃんとおばちゃんや、鶏肉・玉子屋や肉屋や酒屋のおっちゃんとおばちゃんなど、日々お仕事に励んで町の人たちの生活を支えている人たちがとても「えらいなー」と思えるのです。たぶん、町の人たちの生活に奉仕していてせっせと働くその姿がビビッドに「えらいなー」と思えるのでしょう。それと比べると、新聞やテレビで出てくる言論人は、どうかすると「能書きを垂れてお金を稼いでいる」ふうに見えてしまいます。「どうかすると」というのは、たぶん2種類あって、一つは「えらそうに」話す人。大阪人としては「えらそうなこと言うて、お前、なんぼのもんやねん!」と言いたくなります。もう一つは、議論がどんどん舞い上がってしまって、本来の重要なテーマを忘れてしまって、議論の相手とだけの議論・討論にはまってしまっているのに平気で「白熱して」議論を続けている場合です。これは「何、しょうもない能書きばっかり言うてるねん!」となります。
 趣味の世界の中で「議論がどんそん舞い上がって…『白熱して』議論を続けている」というのは別にかまわないでしょう。それは、趣味の世界、広い意味で娯楽の世界なので、見ている人、読んでいる人も本気で議論しているのを聞く・読むのはそれはそれで圧巻でしょう。しかし、世の中の問題、社会のいろいろな問題について議論しているときに、「フツーの人の暮らし」を忘れて議論していらっしゃる(←これ、皮肉の敬語!)のは、どうもうさんくさいです。「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」と聞きたくなります。
 ここまでは、どうも「まくら」です。では、収束、2つ。
 言論人云々について言うと、言論人と読書教養人は異なるのだと思います。読書教養人は「表(舞台)」に出るかどうかにかかわらず読書を楽しみ教養を身につけますます人格を高めている人です。言論人は、その中の一部として「表(舞台)」に出ている人です。読書は本来は、言論や議論のためにすることではなく、私事としてひっそりとするものでしょう。もちろん友人同士の間で「この本はすばらしかった!」というような共有はあると思いますが。言論が「生業(なりわい)」になってしまうと、そのような「本来の読書」から離れていってしまうのかなあと思います。そして、人文系の大学の先生においてもどうもそういう「よろしくない傾向」に傾いている気がします。人文系の大学の先生は、本来的には高度な読書教養人(であるべき)なのだと思います。
 もう一つの収束。日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、上のような意味での高度な読書教養人(であるべき)なのでしょうか? うーん、これはむずかしい質問です。日本語教育学や第二言語教育学を教育実践に資する学問と定義するなら、答えは「No!」となります。「教育実践に資する学問」と定義すると、教育実践のために教育実践者に向けて積極的に発言しなくてはならなくなるわけで、そうなると「本来の読書」から離れてしまいます。
 それに対し、日本語教育学や第二言語教育学は日本語教育や第二言語教育への関心という部分で教育実践とつながりはあるが、それをきっかけとして人文学の一分野として自由に研究を展開していっていい、というふうに考えると、上の質問への答えは「Yes!」となります。そして、日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、日本語教育や第二言語教育への関心をスタートとしながらも自身の興味・関心にまかせてどんどん「本の世界」に入って行ってもいい、のめり込んでもいい、ということになります。しかし、ここで一つの「むずかしさ」が生じます。「本の世界」に深く入って行けば行くほど「微に入り細に入り」の議論になってしまって、そうした議論は教育実践者にとって、(a)疎遠でよそよそしい議論、(b)自身の目の前の関心から離れた議論、になってしまうという「むずかしさ」です。しかし、…。(a)と(b)について考えてみましょう。
 (a)に関しては「微に入り細に入りでややこしくてゴメンね。でも、我慢して読んで! 聞いて!」と言うほかありません。そして、(b)に関しては、「目の前の関心」というのが本当にそれでいいのかを振り返るためにあれこれ言語やコミュニケーションや意識や社会文化的現実のことを深く探究して公表しているわけで、それを「わたしの目の前の関心はそれではない」と言って読んで・聞いてもらえないとなると大いに残念ですと言わざるを得ません。ただし! このように「残念です!」と言えるのは、研究者自身において自分の研究が教育実践と重要なつながりがあると確信できている場合だけです。そうでない場合は、「こんな研究をしているのですが、教育実践とのつながりはわたしもよくわかりません」と告白するのが誠実です。このあたり、厄介なのは、「重要なつながりがある」との確信が思い込みである可能性があることです。結局、「重要なつながりがあるか/ありそうか」は、話を聞いて/本を読んでくださる教育実践者のほうの「野生の直感」に委ねるしかありません。
 結論として言いたいのは、実はこの「野生の直感」です。教育実践者の人たちがしっかりと「野生の直感」を磨いて、しっかりと、本当に教育実践のことを真摯に考えて研究活動をしている大学の先生とそうでない先生を見抜かなければなりません。これが、先の「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」という言論人への質問とつながるわけです。うさんくさい日本語教育学・第二言語教育学の大学の先生もたくさんいる? 変に教育実践とつながりがあるように発言するからうさんくさいのです。自身に「重要なつながりの確信」がないのなら、「つながりはわたしもわかりません」と正直に言えばいいのです。「えらい人」の不正直は罪が重い!!

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