2018年12月8日土曜日

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪

はじめに ─ 日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪
 
 NEJ(2012年)に続いて中級のNIJがこの(2018年)秋出版されました。これで、基礎(入門・初級)から中級までの日本語教育について、ぼく自身の考えと教育構想をようやく具体的な形にすることができました。

現在の日本語教育実践は労多くして功少なし
 今、この時点で改めて、ぼくは一体何をしたかったのかと考えてみました。それは、日本語教育実践の再生ということのようです。
 日本語教育の具体的な現場の実践は、根本の構想が有効でないために、「労多くして功少なし」、つまり現場の先生があれこれと工夫していっしょうけんめい教えてもなかなか結果が出ない、という状況になっています。現在の日本語教育のカリキュラムや教材では今後もこの状況が続くでしょう。それでは、いっしょうけんめい学生を支援しようとしている先生の努力がちっとも報われません。
 ぼくがやりたかったことは、そのような現状を克服して、学生たちが着実に成果をあげて、現場の先生たちの熱意と創意工夫が報われるような教育実践ができる新しい日本語教育のプラットフォームを作ることでした。

「教育の良し悪しはすべて授業をする教師の教え方にかかっている」?
 日本語の先生たちの間ではしばしば「教科書『を』教えるのではなく、教科書『で』教えるのだ!」と言われます。そして、「教科書『で』教える」でも飽き足らず、上のような「授業至上主義」あるいは「教師の教授方法至上主義」的な発言に至ります。
 上の言葉はすでに日本語を教えている先生たちの間でよく言われています。また、日本語教員の養成課程でも、これから日本語の先生になろうかと考えている人たちにいの一番に言われる「お説教」です。そんな事情ですので、ベテランであれ若手の先生であれ、日本語を教えている先生はほぼみんな上の言葉を信じています。そして、そのご教説に従って、日々、創意工夫に励んでいます。
 上の言葉をもう少し詳しく言うと、「教育が有効となるかどうかはすべて授業を計画し実施する教師の教え方にかかっている」となります。このご教説」は何を意味しているのでしょう。日本語教育のことを知らない人がこの言葉を聞いてどのように思うかという形で想像してみましょう。

第一声 わー、日本語を教えるってたいへんそう!(終わりなく永遠に創意工夫を続ける? それは厄介な仕事で、とてもしんどそう! ほとんど自虐趣味!?)
第二声 うん? 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」? 一つひとつの授業が大事なのはわかるけど、そもそもの教育の企画や、カリキュラムや、学習や授業実践を支える教材などもすごく大事なんじゃない? そのあたりは、どうなっているのだろう?
第三声 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」ということは、日本語の先生というのは、授業に配当された言語事項をとにかく創意工夫して教えればいい」ということ? 日本語の先生は「言語事項指導請負人」ということ?
第四声 日本語の先生の仕事の重要部分はあてがわれた言語事項をしっかりと教えるということ? 何だかこじんまりした仕事で、それで十全な仕事をしていると言えるのかなあ。先生たちがそんなふうにばかりしていて、「日本語ができるようになる」という結果を出すことができるのかなあ?
第五声 日本語教育では、(教師も学生も多かれ少なかれ頼りにするはずの)教材や、(学生がその筋道で学び教師がその筋道で教える)教育計画(カリキュラム)や、そもそものアプローチ(「何を」「どのように」習得させていくのかについての根本原理)などは、あまり問題にされないの? 専門的に議論されないの? 一つのコースを担当する先生たちは設定されたゴールや目標の達成に向けて協力し合いながら授業を実践するんじゃないの?
第六声 また、日本語を教えている人たちは、「媒介語を使用しない直接法で日本語を教える」らしいけど、媒介語は日本語の習得を阻害しないようにしながら効果的に使ったらいいのでは? 実際のところ学生たちは辞書や文法書(最近はみんなネット上のものを使っている!)を利用しているわけだし。「媒介語を使用しない直接法で」というのに固執するのはドグマ的な感じがするし、そもそもの「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」というのも何だか前近代的な感じがする。


 現在日本語教育に従事している人の「精神」は上の「教育の良し悪しは…」という言葉によく集約されていると思います。しかし、その「精神」は、日本語教育のことを知らない人が聞くと、上の第一声から第六声のように、いろいろな疑問が提示されます。端的に言うと、合理主義の精神が感じられないということです。ただし、ここに言う合理主義というのは、ニーズ分析をしてそれに基づいてコースデザインをするというような現金なやり方を言っているのではありません。むしろ、日本語の習得と習得支援について熟考した上で思い描かれた優れた日本語教育実践を実際に実際に実現するという構想を完遂できるように緻密にもくろまれた合理的な企画と開発をするということです。それは、容易なことではありませんが。

新しい日本語教育の構想と実践の創造
 ぼくはかれこれ40年近くも日本語教育の仕事をしています。そして、ずっと前から、「今の日本語教育の企画では有効な教育実践ができるわけがない!」と言ってきました。他方で、日本語の先生たちや先生を養成・研修している大先生たちのほうは上のように「教師の教授方法が最重要の問題!」と言い続けてきました。そして、現場の先生たちは大先生や先輩の先生方の言葉に従って、教え方を工夫しつつどうにかこうにか日本語教育を支えてきました。しかし、ぼくには教授方法が最重要の問題とは思えません。また、教材を改善すればいいという問題だとも思えません。むしろ、根本の教育企画に問題があるからこそ、上のような精神論(合理的な企画と開発と実行ではなく、個々のメンバーの多大な努力と強靱な精神で状況を乗り切ろうとすること)が横行するのだと思います。根本の教育企画を練り直して、教師が相応の仕事をすれば十分な教育成果を出すことができて、創意工夫をすればさらに優れた教育成果が得られるような教育企画にしないと、日本語教育という仕事はいつまで経っても精神論が横行する「ブラックな仕事」のままです。
 さて、教育企画が問題となると、教育企画を刷新しなければなりません。そして、教育企画を新たにすると、当然、その教育企画を反映して学習と教育実践を支える教材も制作しなければなりません。また、期待される具体的な授業の原理やイメージも多かれ少なかれ提案する必要があるでしょう。つまり、新たな教育実践を創造するためには、企画・教材・具体的な実践を包括する構想が必要です。ぼく自身は日本語教育の経験を重ね、第二言語教育学を探究しつつ、そのような構想をずっと温め続けてきたように思います。そして、その構想がようやく具体化されました。それが、自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の日本語教育からなる表現活動中心の日本語教育です。

内容も方法もこれまでの日本語教育とは異なる表現活動中心の日本語教育
 表現活動中心の日本語教育は、日本語教育実践を再生するための新たな日本語教育の提案です。 そして、その基礎教育を支える教材がNEJ(『A New Approach to Elementary Japanese ─ テーマで学ぶ基礎日本語』くろしお出版)で、初中級から中級段階の教育を支えるのがNIJ(『A New Approach to Intermediate Japanese ─ テーマで学ぶ中級日本語』くろしお出版)です。
 専門的な職業として日本語を教えている人で、日本語を教えるということをただ文の作り方(文型・文法)と文の要素(語彙)や、ひらがなやカタカナや漢字を教えることと考える人は少ないだろうと思います。そして、現在の流行(はやり)は「コミュニケーションができる」ようにすることです。しかし、日本語を教えることを「日本語でコミュニケーションができる」ように教えることと見るようになると、どちらかというと、「道を尋ねる」「買い物をする」「友だちを誘う」「ものを頼む」などの実用的なコミュニケーションが注目されるようになりました。つまり、「日本語ができる/話せる」の実際をそのような実用的な用を足すコミュニケーションができることと見たわけです。しかし、そのような実用的なコミュニケーションの仕方を教えるだけでは、基幹的な日本語力は身につきませんし、文型・文法や語彙などの言語事項も十分に習得することができません。これまでの日本語教育は、「文型・文法(と語彙)か、実用的なコミュニケーションか」という2つの間で揺れていました

忘れられた領域としての社交的なコミュニケーションあるいは表現活動
 これまでの日本語教育の内容と方法の議論では、「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という議論ばかりがされてきました。そして、そうした二者択一の議論の中でまったく気づかれていないのが、文型・文法でも実用的なコミュニケーションでもない第3の領域としての社交的コミュニケーションあるいは表現活動です。この社交的なコミュニケーションあるいは表現活動の「発見」が日本語教育の構想の重要な転換点となります。そのような立場で、表現活動を中心に据えて構想された日本語教育を、ここでは表現活動中心の日本語教育と呼びます。

自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の中級日本語教育
 表現活動中心の日本語教育の具体的な教育企画として、基礎段階で自己表現活動中心の基礎日本語教育を企画し、初中級から中級段階でテーマ表現活動中心の中級日本語教育を企画しました。
 自己表現活動表現活動の基礎的な部分で、自己表現活動中心の基礎日本語教育におけるテーマとしては自分のことや自分の身の回りのことや人についてあれこれ話す(話したり、聞いたり、やり取りしたり、書いたり、読んだりすること)を選んでいます。具体的な内容は、NEJのテーマ(http://nej.9640.jp/sample/contents)です。そして、テーマについての表現活動より進んだ表現活動で、テーマ表現活動中心の中級日本語教育としては、自分や家族などに関するさまざまなテーマや人間一般や社会一般に関するさまざまなテーマを扱っています。具体的な内容は、NIJのテーマ(https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg)です。

NEJやNIJは新しい教材ではなく、新しい日本語教育を創造するためのリソース
 NEJやNIJは従来的な意味での新しい教科書ではありません。NEJやNIJは表現活動中心の日本語教育の構想の上にあり、それらは同教育を具体化するためのプラットホームであり「触媒」です。NEJやNIJは、日本語促進的な言語活動従事(♠2)を触発して、言語事項の習得を伴いながら日本語技量を育成する表現活動中心の日本語教育を創造するための中核的なリソースです。
 ですから、NEJやNIJを使って、その中で出てくる言語事項の指導をして、その後に本文を聴解活動や読解活動の素材にするというような教育実践は、表現活動中心の日本語教育という新しい日本語教育の趣旨に合致したものではありません。NEJやNIJを活用することにおいて重要なことは、実際に教育を行う実践者が表現活動中心の日本語教育という構想をよく理解し、教材が誘発するするさまざまな言語活動をしっかりと想像すること、そしてその上で、教育構想の趣旨に合致し、教育のねらいや目標の達成を力強く後押しする教育を創造的に実践することです。つまり、重要なのは、実際に教育を担当する先生が表現活動中心の日本語教育ということの趣旨をよく理解して、NEJやNIJを自身及び学習者を支えるリソースとしてうまく活用して、表現活動中心の日本語教育を主体的に実践することです。

日本語教育再生の日本語教育へ
 表現活動中心の日本語教育はこれまでの日本語教育とは内容も方法も大きく異なります。そして、そこで期待される教師の役割もこれまでのものとは異なります。しかし、その実践方法は、決してむずかしいものではありません。多くの先生が、表現活動中心の日本語教育(以下の♡以外の本文では、表現活動の日本語教育と略記)を知り、NEJやNIJを活用して、自己表現活動中心の基礎日本語教育(以下の♡以外の本文では、自己表現の日本語教育と略記)やテーマ表現活動中心の中級日本語教育(以下の♡以外の本文では、テーマ表現の日本語教育と略記)を主体的に実践してくれることを願いつつ、以下では、♡教育の趣旨と内容、♠教育企画、♣教材、♢教育実践の4つの領域に分けて、各々3項目で、表現活動中心の日本語教育についてその趣旨を説明したいと思います。

※参考文献
 表現活動中心の日本語教育の理論的な背景を知りたい方は、以下の本を参考にしてください。同書では、理論的な背景と共に、特に基礎段階(NEJ)のユニットの授業の進め方や具体的な授業の方法が紹介されています。
西口光一(2015)『対話原理と第二言語の習得と教育』くろしお出版

2018年12月2日日曜日

オンボロ船と新造船

以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー 第49号 2018年12月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。

2018年12月号 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!) 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない?  うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く!  日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! (に)

2018年11月2日金曜日

日本語教育学における知性と教養を考える②


この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2018年11月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを再掲しています。

 「…知性と教養を考える」の第2回です。今回は、短いです。適宜に第1回の記事を参照してください。
 人間の知的能力を一定のスケールで俯瞰すると、「知識→教養→知性」というような並べ方ができるのではないかと思います。ざっと言うと、左のほうが知ること関係、右のほうが知ったことをオーガナイズ(組織化する、統合する)というようなことになります。そして、右から言って、「知性は鋭くなる」、「教養は深まる/豊かになる」、そして「知識は広がる」となります。
 この2回のエッセイで言いたかったことは、前回の最後に言った“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要です” です。そして、そのような「知的作業がまだ行われていない」のです。
 日本語教育の学会や研究会などに行くと、しばしば日本語教育に多かれ少なかれ関心をもつ特定分野の研究者がその豊富な知識と専門的な教養に基づいて滔々と話していらっしゃる姿を目にします。そんな姿を見ると、「特定分野の知識・知見だけで、なんで日本語の習得と教育という多面的で重層的で輻輳的な現象について物が言えるの?」と、その大胆さに! 不思議を感じます。また、「そんなやたらに怒濤の如く知識の『排出』をして…」と、自分の土俵で自分の「気」の赴くままに自分のペースで「位押し」(自身の地位や立場と「力」を存分に発揮して相手を圧倒すること、筆者創作の言葉)をしているという感じがします。
 前者と後者の「感じ」について話します。まずは前者。
 いかなる分野であれ個別の研究分野の知識・知見に基づいて日本語の習得と教育という現象について何か物を言うことはできないでしょう。ただし、ここに言う個別の研究分野というのには、哲学や理論○○学というようなメタレベル(個別を架橋するレベル)の学問(探究・追求・研究)は含まれません。他方で、上の“ ”内の「さまざまな関連分野」には、メタレベルの学問が含まれます。そして、上の“ ”内で言いたいことは、そういうメタレベルの学問をむしろ中心にしてそれに個別の研究分野も含めて“さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に…”ということです。
 次は、後ろの「感じ」について。個別の研究分野の「大学の先生」は「位押し」をしては、だめです。日本語教育に従事している現場の先生たちの興味や関心や悩みにもっと耳を傾けるべきです。そして、現場の先生たちに寄り添って、自身が何ができるか(できないか!)を謙虚に「反省」して、正直に話をしなければなりません。そして、その「耳を傾ける」と「反省」は、気持ちをベースにした知性的な活動です。そのようにしないと、「位押し」をして、ただ単に自身の「位」を保持するばかりとなります。
 書きながら考えていますが、日本語教育学に関して主張したいのは以下のことのようです。
1.メタレベルの学問への関心が低い。
2.“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要”という認識がない。
3.上で言ったような、気持ちをベースにした知性的な活動を怠っている。
 メタレベルの学問ということで言うと、日本語学を専門としている人あるいはそれに興味のある人は、まずは、言語研究のメタレベルの研究ということで、ヤーコブソンやマルチネやバンヴェニストなどのプラーグ学派の言語学などに触れていただくのがよいかと思います。
 少しまとまりが悪いですが、これで、「日本語教育における知性と教養」を終わります。皆さんは、どのような感想をもったでしょうか。

2018年10月14日日曜日

日本語教育に関係する(にじり寄りかどわかす?)大学のセンセ(とその予備軍)の胡散臭さ

 10月に入り新学期が始まりました。(新渡日の留学生たちはフレッシュな顔でキャンパスに現れ)院生たちも皆さん清々しい気持ちでまたキャンパスにもどってきました。MゼミやDゼミが始まり、10月に入ってすでにいくつかの小さな研究会にも参加し、いろいろな人と日本語教育の実践や、日本語教育に関わる研究のことなどについて、議論し、情報交換をし、意見を交わしました。そんな中で、ふと上のようなことを感じました。「日本語教育に関係する(絡みつこうとする)大学の先生(及びその予備軍)は胡散臭いなあ」ということです。できるだけ簡潔に話そうと思います。
 大学の先生の2大仕事は、教育と研究です。教育というのは、「教える」ことを通して教養があり健全な批判精神を有する社会に有為な人を育てる、というくらいのことでしょうか。そして、研究というのは、各先生のそれぞれの専門分野の研究となります。日本語教育に「関係しそうな」分野としては、日本語学、認知言語学、コーパス言語学、音声学、社会言語学、第二言語習得研究、会話分析、言語政策などでしょうか。研究というのは、それぞれの分野ですでに蓄積があって、しかしその蓄積をもってもまだ解明されていないことを、解明する営みです。ですから、本来、「内にこもった」「内的自律性のある」営みです。もう少しわかりやすく言うと、研究者が対話し議論するべき相手は基本的には同じ研究分野の研究者です。つまり、同じ研究分野の研究者相互で切磋琢磨して、当該の研究分野のさまざまなテーマの研究を前進させるべきものです。そのようにしてこそ、当該の研究コミュニティでの正統な一人前のメンバーとなります。
 大学の(専任の)先生になっている人の中には、教育の義務は日本語を教えることで、その他に研究は上のようなそれぞれの研究分野でやっているという人がたくさんいます。そんな人は、日本語教育者と各自の分野の研究者という2つのアイデンティティを明確にもってほしいと思います。そして、各自の研究分野においては、それはそれで立派な研究をして、その分野で一人前にやってほしいと思います。そして、教育の義務のほうの日本語教育も、自身の研究分野や研究テーマに限定しないで広く関係の知見をリサーチして解釈して仲間と協働してしっかりといい仕事をしてほしいと思います。そのような(専任の)先生の場合は、たいていコーディネータという役割を担い、非常勤の先生たちとチームになって仕事をするのが普通です。コーディネータというのは、コースを計画し、教材を選択(作成?)し、しばしば教育の内容や方法に関して一定の指針を示すべき立場です。その立場の人が、真摯に教育に取り組まなかったり、自身の研究的関心に大きく偏った教育計画をしたり教育指針を出したりすると、それはいずれも自己チュー(自己中心的)な振る舞いだと言わなければなりません。そんな専任教員=コーディネータの下で仕事をしなければならない非常勤の先生は気の毒としか言いようがありません。教育の責任として日本語教育に携わる専任教員は日本語教育に関する広い専門的な教養を身につけておくべきです。そして、自身の研究分野の強みを生かしながら、非常勤の先生たちと仲間として協働していい仕事ができるようにリードしなければなりません。
 さて、このエッセイで言いたい「胡散臭い」先生は上のような先生の話ではありません。むしろ、日本語教育が出身だが、今は教育の責任として日本語教育の責任を負っていない、めでたく大学のセンセになりおおせた人です。そういう人は、どうかすると、研究者としても中途半端なのに、日本語教育に対してあれこれ発言をします。先に言ったように研究者の第一の対話相手・議論相手は同分野の研究者です。ですから、そっちでしっかりと対話・議論して一人前にやってほしいと思います。そして、ざっくりと一般的に言ってしまうと、研究で明らかになったことは、その研究が純粋な研究であればあるほど、教育実践に役に立つものはありません。そんなことは、研究を純粋に突き詰めている人には自明なことです。そして、中途半端な人にかぎって妙に教育実践に対して「研究の立場から」あれこれ発言する傾向があるように思います。フツーの日本語の先生から見たら「権威のある」大学のセンセが日本語教育について発言するのは慎重にするべきだと思います。その部分で慎重でない人は、胡散臭いです。ただし、自身の発言が日本語教育の実践の総体の一部としてバランスよく具体化されるところまで責任をもつ覚悟がある場合は、発言していいと思います。
 もう終わろうと思いますが、ぼくが胡散臭さを感じるのは、「そんなふうに発言しているあなたは、その発言を具体化する『優れた教育実践』を実際に創造してきたのか、あるいは、これからそれを創造する気持ちと予定があるのか」という部分です。日本語教育に本気で関心をもっているなら、自分がリーダーになって「優れた教育実践」を創造してください、ということです。それを示すのが、一番のご自身の主張が受け入れられることになります。日本語教育(学)関係では、個人による一定の「優れた教育実践」は報告されているかと思います。しかし、チームで実施された、原理に基づく「優れた教育実践」はほとんど報告がないかと思います。研究的な傾向のある人は原理を考えているはずですから、そういう人が中心になって、原理に基づく「優れた教育実践」を創造して、報告をしてほしいと思います。
 結論。若い院生たちは、将来、そういう胡散臭い大学のセンセになってほしくないと思います。
 すべて、日本語教育の発展のためです。そして、先日は、院生たちと話していて、「やっぱり、日本語教育学っていうのは成りたたないよねえ!」と皆さんため息をついていました。

日本語教育学における知性と教養を考える①

この記事は、NJ研究会フォーラム2018年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを、再掲しています。

 このテーマはどうも長くなってしまいそうなので、2回に分けて話します。今回は1回目です。
 知性と教養というのは、昭和の前半までは社会全体のごく一部の人しか身につけていなかったのではいないでしょうか。大阪の南のほうの元々は農村地域であった町で育ったわたしが子どもの頃は、親やそれ以上の世代について言うと、元庄屋さんだった人や、元地主で現在もお屋敷に住んでいる人の一部(本を読むのが好きな人)だけが、読書階級・教養階級でした。それ以外の人は、学校に通わせてもらってようやく一定の「読み書きそろばん」ができるようになったというような具合でした。しかし、学齢期の大部分やその一部が戦時と重なった人は、学校に十分に通うことができず、「読み書きそろばん」も必ずしも十分に身につけることができていません。そんな「それ以外の人」の家庭に育ったわたしには、知性と教養は本来「自分の文化圏外のもの」です。ですから、そういうものを求められつつ仕事をしながらも、同じように知性と教養を動員して仕事をしている人たちと自分は「違う人種」だとほとんどいつも違和感を感じてます。ちなみに、「それ以外の人」の名誉のために言うと、「それ以外の人」が身につけている高次の美徳は、誠実さと品位と人としての矜持と、それらに基づく信用かと思います。知性と教養がなくても、そういう美徳を備えた人はたくさんいます。
 知性と教養の対比について、先ずは、一般論から。
 知識というのは物を知っていることです。地理的な知識、歴史的な知識、自然や植物・生物に関する知識、技術的な知識などいろいろな知識があります。ここで言っている知識は、学校で教えられるその種の知識も含まれますが、学校では教えられないが社会で共有されているその種の知識もあります。わたしのおじいちゃんの世代は、和歌山、福井、徳島とは言わず、紀州、越前、阿波などと言って、かれらの交通網のイメージと重ねて、豊富な地理的知識を持っていました。また、自身の直接的な経験や上の世代の話を聞いて、近現代の歴史的な知識が豊富な人も多かったです。農家の人は、自然や植物・生物に関する知識が豊富でした。そして、職人は自身の工作活動に関わる道具使用の技量を身につけていることはいうまでもなく、各種の資材や塗料や接着剤やそれらの用途をよく知っていました。昭和までの小学校で学んだ知識は、そのような生活・生産活動に関わる知識及びその一定の抽象化であったのだろうと思います。そして、それらと並行して言語の技量つまり国語と、数の技量つまり算数が教えられました。現代の小学校では、同様のロジックで、現代の生活や生産活動を営むことに関わる基礎的な知識が教えられているということになります。「基礎的な知識」が増大しているので、現代の中学校での教育内容も小学校からの基礎的な知識の教育の延長と見るのが適当でしょう。このような幅広い教育が大学に至るまで推し進められて、それを通して人々が身につけるのが教養です。ただし、教養があるというのは単にあれこれの知識が豊富だということではありません。教養と言うには各種の知識がその人の人格とうまい具合に統合されていなければなりません。理科系の技術的な知識が教養ということと疎遠な感じがするのはこうした教養の定義に由来するのでしょう。
 では、一般的に知性と教養とは何か? とりあえず比喩的に言うと、「教養は深まる」、「知性は鋭くなる」というイメージを持っています。一定の教養のある人は、さらに本を読んだり、ネットで興味のあることを調べたり、博物館などを訪ねたりして、一層教養を深めることができます。それは、人格と結びついた人文的な知識の拡充と円熟です。そこには、円みが感じられます。これに対し、知性というのは鋭さでしょう。この鋭いというのは何か? それは、本質を突いた物の見方ができる、俯瞰する視野を持っていてその視野の下に知識が整然と整理整頓されている、ということでしょうか。ですから、その気になれば、物事をわかりやすく話すことができます。
 教養のある人は、しばしば教養にどっぷりと浸っています。そして、どうかすると、教養の勢いにまかせて奔流のように話をします。その話はめくるめく展開していってとてもおもしろいのですが、どうかすると取り留めのないものになってしまいます。一方で、知性のある人が知性に勢い にまかせて話をすると、実際には整理整頓されて話をしているのですが、しばしばとても早口になり、聞いている人は「目が回る」というような具合になってしまいます。この後者の知性派の代表選手が茂木健一郎です。茂木健一郎は脳科学者で、脳科学の専門家で人文科学の知識も豊富です。知性派のかれの話は、実は整理されているのですが、早口でどんどん話が進むので、聞く方はちゃんと理解しようとすると「目が回り」ます。
 さて、ここから日本語教育(学)に引きつけて。日本語教育学関係で大学の先生になっている人は、ご専門が日本語学にせよ、音声学にせよ、社会言語学にせよ、第二言語習得研究にせよ、それぞれの分野を中心として実に豊富な知識をもっていらしゃいます。ですから、フツーの日本語教師がそういう先生方から話を聞くと、何をたずねても奔流のようにお話になるので、圧倒されてしまいます。もちろん、端っから自分の「土俵」に引き込んで話しているわけで、聴衆も「この先生のこのテーマの話を聞こう」と足を運んだところですでに相手の「土俵」に入っているわけで、大学の先生はその「土俵」の専門家なので、奔流のように話せるのは当たり前です。そして、そんな話を聞いて、一部の「(生)真面目な」日本語教師は「わたしは本当に知識が不足しているので、もっともっと勉強しなければならない」と思い、その一方で、一定の経験があって勘の鋭い日本語教師は「この(大学の)先生は自身の知識が日本語教育にとって重要で必要なように滔々と話しているけれど、本当にそうなのか」と疑います。
 日本語教育の実践経験の有無にかかわらず、大学の先生になって「研究」ということを長年してきた先生は、その研究分野のスペシャリストです。そして、かれらは自身の分野については長年やっているだけに本当に知識が豊富です。そんなかれらが、日本語教育関係の集まりに呼ばれると、日本語教育の実践に役立つことを積極的に(自身の目から見て一定の自信をもって積極的に)あるいは消極的に(本当はあまり何とも言えないと思いつつ司会者や聴衆に促されてしぶしぶ)話します。「積極的に」か「消極的に」かは、人によって違います。さて、ここで注意しなければいけないのは、かれらは日本語の習得や習得支援ということの全般を見渡して考究しているジェネラリスト(広域的専門家)ではなく、局所的なスペシャリスト(特定領域的専門家)だということです。ですから、かれらからの日本語教育実践に向けたアイデアや助言は、特定分野の立場からのアイデアや助言です。そして、特定分野の立場からのアイデアや助言ですから、当然偏らざるを得ません。ですから、日本語教師がそういう大学の先生から話を聞くときは、あらかじめ「この先生の話は○○学の立場からの話だ」と開き直って聞くのが無難です。それは何も「大それたこと」ではありません。日本語教育を責任をもって担っているのは、そういう大学の先生ではなく、個々及びチームとしての日本語の先生なのですから、何でも自分(たち)の責任においてやればいいのです。そのように開き直って聞かないと「もっともっと勉強しなければ」という「積極性のマゾヒズム」になりがちです。
 フツーの大学の先生は、ご専門の分野を中心とした専門的な知識と教養は豊富です。しかし、専門以外の分野の知識や教養はしばしば不足しています。また、日本語教育を俯瞰する目線もたいていは欠けています。日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で「ねじ伏せる」ことが必要です。日本語教育学の世界では、そのような力を要する知的作業がまだ行われていないようです。次回は知性を中心に。(に)

2018年9月1日土曜日

日本語習得における文法と語彙の位置づけ

この記事は、NJ研究会フォーラム2018年9月号(https://archives.mag2.com/0001672602/?l=pfa161f2bd)に掲載されたものを、再掲しています。

 日本語を教えるというのは、学習者が日本語ができるように教育・指導することです。日本語ができるというのは、学習者があれこれの言語活動に日本語で従事できるようになることです。どんな「能書き」を並べたとしても、「日本語」の部分の増強の企画と成果がないと、日本語教育とは言えません。しかし、その部分を「日本語」として記述すると、どうしてもラング(システムとしての言語)中心の内容になってしまいます。おそらく、教育目標としては「斯く斯く然々の言語活動に日本語で従事することができる」というふうに記述して、その目標達成を確認(評価)するためのガイドラインに言語事項的な側面も書いておくという方法が適当かと思います。
 さて、わたしたち日本語教育者は学習者が「あれこれの言語活動に従事できる」ようにと、日本語のコースを企画し、計画して、教育を実践するわけですが、最終的に学習者と交わって具体的に教育・指導をするのは授業を担当する教師集団です。そして、教育の企画・計画では、学習者における日本語習得の経路に沿う形でカリキュラムを策定することができ、各ユニットの終了点での目標を示し、そこに至る経路の概略を示すことはできます。そして、表現活動の日本語教育(NEJでの教育やNIJでの教育)では、そのようにしています。しかし、ユニット全体に対しても各授業に対しても習得するべき言語事項を示すことはできませんし、補強すべき言語的側面(音声、語彙、文法、社会言語的側面など)を一つひとつ明示することもできません。当該のユニットの教育実践は、ユニットの目標達成ということをにらんで、授業を担当する教師集団で、教師個々に判断して、あるいは教師集団で判断と対応を共有しながら、行うほかありません。つまり、日本語ができるようにするためのすべての側面は、学習者がそれらに習熟できるように、その教師集団によってうまくカバーされなければなりません。
 さて、日本語技量を育成する教育と指導はざっくりと言って、どの側面にどれくらい注意とエネルギーを向けるのが適当でしょうか。日本語技量を構成する側面ということで、取りあえずは書記言語のことは除くとして、文法の側面、語彙の側面、音声の側面を考えましょう。そして、まずはということで、基礎日本語教育の場合を考えてみましょう。
 まず、音声の側面については、入門期に「解決」しておくのがいいと思います。しかし、入門期にすべて解決はなかなかできませんので、それ以降も、一応比重5%と見積もっておきましょう。残る95%は、文法の側面と語彙の側面です。文型・文法を柱とした従来的な基礎(初級)日本語教育では、文法の側面への比重は80%とか90%もあるのではないかと思います。語彙の側面への比重はせいぜい10%程度でしょう。ここが問題です! 日本語の文型・文法はそんなにむずかしい? たったの10%の比重で期待される言語活動に従事するのに関係する語彙が十分に習得できる? 日本語の先生たちは、「語彙は、単語を覚えることなので、学習者ががんばれば自分でできる。しかし、文型・文法は教師主導で教えないと学習者は習得することはできない」と考えているようです。これ、第1文も、第2文も、ほんと?
 根本の問題は、日本語において文法(文型を含む)とは何か、です。 ヨーロッパの諸言語では、名詞に、冠詞や代名詞(単に「友だちと」とは言えず、「with my firiend」と言わなければならない)がついたり、人称によって動詞が変化したり、名詞や形容詞に男性形や女性形があったり、また名詞と形容詞の間で性や数の一致が要求されたりと、いろいろと文法があります。日本語にはそのような文法はありません。日本語は膠着語の一つで、日本語の構造は、端的に「〔名詞+助詞〕+〔名詞+助詞〕+述部」です。そして、述部にいろいろな助動詞などがついていろいろな表現が作られます。受動態の文や使役の文や使役受け身の文では、それぞれ独自の〔名詞+助詞〕が要求されますが、それぞれのタイプの文はそれぞれのタイプの文として指導すれば「文法的に」むずかしいことはほとんどありません。(それを、能動態から受動態へというふうに文の変換というふうに教えるからむずかしくなるのです!!) 日本語で文法らしい文法は、せいぜい五段動詞の活用くらいのもので、助詞の用法も単独の意味・用法にすぎず、文法と呼べるほどのものではありません。となると、日本語の文法は、五段動詞の活用だけであとは文型となります。文型は、名前の通り文の型(パターン)ですから、むずかしい面はほとんどありません。こんなふうに考えると、文法(文型を含む)の側面に80%や90%の教育的な労力を傾けるのは無駄だとなります。
 次に、語彙です。語彙の学習は、単に単語を覚えることではありません。「服を着ました」「パジャマを着ました」などを学習しても、“wear a cap”、“wear jeans”、“wear glasses”を言うことはできません。それぞれ、帽子を「かぶる」、ジーンズを「はく」、メガネを「かける」となります。また、「ジュースを飲む」や「ビールを飲む」などを習得したとしても、学習者は決して薬をのむ」は言えません。さらには、教科書に「音楽を聞きました」と書いてあるしそのように練習しているのに、学生はわざわざ「音楽“に”聞きました」と言ってくれます。このように、語彙の学習は、個々の単語を覚えることに限定していては、必ずしも成果はでません。ここに紹介したような、広い意味でのコロケーション(言い回し)といっしょに学習し習得してこそ、真の語彙力となります。先に、日本語には文法はないと主張しましたが、このような語彙に関わるコロケーションこそ日本語の文法と呼ぶにふさわしいのではないかとも思えます。そして、そうであるなら、コロケーションを含めた語彙を指導し習得させるという教授活動は、十分に語彙と文法の両方を教えていることとなります。そして、教師の積極的な教育と指導があってこそそうした側面を学習者は習得できるわけです。学習者にまかせてよいものではありません。
 結論。日本語技量育成のための教授活動の比重は、音声5%、コロケーションを含めた語彙80%、文法(文型を含む)15%です。文法と語彙の立場の逆転ですね!!

2018年8月4日土曜日

研究者であることと実践者であることは相容れない!?

NJ研究会フォーラム・マンスリー(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)の「羅針盤」として以下のような記事を投稿しました。

 標記のようなテーマで話します。このメルマガは、日本語教育学や第二言語教育学の人たちの間で共有されているメルマガですので、「研究者であることと実践者であることは相容れない」と言うと、ガッカリする人もいるだろうし、反発する人もいるだろうと思います。また、このように言うと、「研究」を要求されている大学の先生であることと、日本語教育者であることは、相容れないように聞こえてしまいます。また、そもそも日本語教育学や第二言語教育学なんてあるのか、という疑問にまで行ってしまいます。

 教育実践者は、教育の企画においても、教材の制作や作成においても、そしてもちろん授業の計画や具体的な教育実践においても、常にその時々に自身の信念が問われるわけで、意識的であるか無意識的であるかいずれにせよ、その問いへの自分なりの答え・信念を根拠に判断を下して、実践者としての行為をしています。教育実践者は、「信念の塊」であらざるを得ません。言うまでもありませんが、教育実践者の信念は、自身の教育者としての経験だけでなく、教師教育期間中に学んだことや、その後に学んだことや他の先生から教示を受けたことなどをもとに、あるものは受け入れ、あるものは拒む形で、形成されています。実践者と実践者の間では、教育についての議論をすることができます。その場合に提示される個々の意見や見解は、当該の実践者のそのテーマについての信念であるわけです。その場合に、どれほどにさまざまな学問研究を吸収してその信念が形成されているかが問題となります。そして、さらに言うと、日本語教育学というところで、どれほどのさまざまな学問研究が普及しているかが根本の問題となります。

 一方、研究者は、理論志向の研究者であれ、実証志向の研究者であれ、本来的に言うと教育実践に関心がありません。ただし、教育実践をきっかけに特定の研究テーマに関心を持つことはあります。研究者が研究をするのは、当該の研究領域の当該の研究課題について考究・探究・検証するためであって、研究の目的は、当該の研究分野の進展、研究課題の解明に貢献するためです。研究というのは、研究領域特定的(ディシプリナリー、disciplinary)にならざるを得ません。学際的な研究(interdisciplinary study)というのがありますが、それは特定の研究課題についてさまざまな研究領域(ディシプリン)からのアプローチをするということであって、一つの論文の中で学際的になっているわけではありません。ですので、ある研究を行った結果として、その研究結果に基づいて教育実践について何かを語るということは本来はできないはずです。できることはせいぜい、教育実践との関係でその研究の研究領域は他の研究領域との対比でどのような位置にあって、それ故に、その研究領域が教育実践に対してどのような貢献ができそうかを論じる程度で、その研究そのものの教育的示唆を論じるのは乱暴だと言うほかありません。とはいえ、いずれにせよ、研究者はそもそも教育実践に関心があるわけではないので、積極的に教育について何かを言おうとする研究者はいないと思います。研究者が教育について何か言うとするならば、「この理論的議論から敷衍すると…」とか「今回の実証的研究で得られた結果から敷衍すると…」という言い方をするはずで、それはその人の信念ではなく、あくまで「研究からの敷衍」です。個人としての見解は言わないというのが、そもそも研究者の鉄則です。ですので、「わたしの研究的な背景とわたしの教育実践者としての経験から推論すると…」というふうに話し始めたら、その瞬間にその人の立ち位置は研究者ではなく実践者の立ち位置となります。「研究者であることと実践者であることは相容れない」と言ったのは、このことです。

 実践領域と関連した研究領域として、未来共生学を紹介したいと思います。ここで紹介するのは大学院5年間の副専攻プログラムのような形で実施されている、大阪大学の未来共生イノベータープログラムです。同プログラムは、充実した研究的背景を有しつつ、実際に多文化共生関係の仕事に関わり、その仕事に革新(イノベーション)的に取り組むことができる人材へと教育することが目的です。毎年、大阪大学の大学院新入生の応募者の中から20名が選ばれて、先生たちと共に「共学」しています。その研究成果が、『未来共生学』に掲載されています。http://www.respect.osaka-u.ac.jp/publications/をご参照ください。掲載されている論文は、未来共生というテーマに、哲学、倫理学、社会学、人類学、心理学などさまざまなアプローチで斬り込んでいます。ぼく自身、この『未来共生学』の編集委員として関わっていましたが、同プログラム開始時や、同ジャーナル創刊号当初は「未来共生学って、なんだろう?」というような具合でした。しかしながら、関係の教員や積極的な学生たちの努力のおかげで、なんとか「○○学」らしくなったと思います。そんなこともあって、ぼく自身は、日本語教育学と未来共生学をしばしば横に並べて比べてしまいます。未来共生学は、立派な一つの学際的な研究分野としての地歩を築いたと思います。それに比して、わたしたちの日本語教育学はどうかなあ…。ただ、少し「内幕」をばらすと、未来共生イノベーターの修了生の半分は(いずれ)「立派な研究者」になるだろうなあ、という感じです。未来共生イノベーターという「泥臭い現場的な仕事」をする人はひじょうに少ないように思います。それに対して、日本語教育者の仕事は、(少なくとも今は!)なかなか「泥臭い」です。
 『未来共生学』は、日本語教育学の将来を考える際のひじょうに重要な参考になると思います。未来共生イノベーターの院生たちは、先生たちからとても豊かな学問的な薫陶を受けつつ、東北の被災地のボランティア活動なども経験して「社会派」的な意識と態度も育みながら、「すくすく」育っています。(に)