2018年12月8日土曜日

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪

はじめに ─ 日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪
 
 NEJ(2012年)に続いて中級のNIJがこの(2018年)秋出版されました。これで、基礎(入門・初級)から中級までの日本語教育について、ぼく自身の考えと教育構想をようやく具体的な形にすることができました。

現在の日本語教育実践は労多くして功少なし
 今、この時点で改めて、ぼくは一体何をしたかったのかと考えてみました。それは、日本語教育実践の再生ということのようです。
 日本語教育の具体的な現場の実践は、根本の構想が有効でないために、「労多くして功少なし」、つまり現場の先生があれこれと工夫していっしょうけんめい教えてもなかなか結果が出ない、という状況になっています。現在の日本語教育のカリキュラムや教材では今後もこの状況が続くでしょう。それでは、いっしょうけんめい学生を支援しようとしている先生の努力がちっとも報われません。
 ぼくがやりたかったことは、そのような現状を克服して、学生たちが着実に成果をあげて、現場の先生たちの熱意と創意工夫が報われるような教育実践ができる新しい日本語教育のプラットフォームを作ることでした。

「教育の良し悪しはすべて授業をする教師の教え方にかかっている」?
 日本語の先生たちの間ではしばしば「教科書『を』教えるのではなく、教科書『で』教えるのだ!」と言われます。そして、「教科書『で』教える」でも飽き足らず、上のような「授業至上主義」あるいは「教師の教授方法至上主義」的な発言に至ります。
 上の言葉はすでに日本語を教えている先生たちの間でよく言われています。また、日本語教員の養成課程でも、これから日本語の先生になろうかと考えている人たちにいの一番に言われる「お説教」です。そんな事情ですので、ベテランであれ若手の先生であれ、日本語を教えている先生はほぼみんな上の言葉を信じています。そして、そのご教説に従って、日々、創意工夫に励んでいます。
 上の言葉をもう少し詳しく言うと、「教育が有効となるかどうかはすべて授業を計画し実施する教師の教え方にかかっている」となります。このご教説」は何を意味しているのでしょう。日本語教育のことを知らない人がこの言葉を聞いてどのように思うかという形で想像してみましょう。

第一声 わー、日本語を教えるってたいへんそう!(終わりなく永遠に創意工夫を続ける? それは厄介な仕事で、とてもしんどそう! ほとんど自虐趣味!?)
第二声 うん? 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」? 一つひとつの授業が大事なのはわかるけど、そもそもの教育の企画や、カリキュラムや、学習や授業実践を支える教材などもすごく大事なんじゃない? そのあたりは、どうなっているのだろう?
第三声 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」ということは、日本語の先生というのは、授業に配当された言語事項をとにかく創意工夫して教えればいい」ということ? 日本語の先生は「言語事項指導請負人」ということ?
第四声 日本語の先生の仕事の重要部分はあてがわれた言語事項をしっかりと教えるということ? 何だかこじんまりした仕事で、それで十全な仕事をしていると言えるのかなあ。先生たちがそんなふうにばかりしていて、「日本語ができるようになる」という結果を出すことができるのかなあ?
第五声 日本語教育では、(教師も学生も多かれ少なかれ頼りにするはずの)教材や、(学生がその筋道で学び教師がその筋道で教える)教育計画(カリキュラム)や、そもそものアプローチ(「何を」「どのように」習得させていくのかについての根本原理)などは、あまり問題にされないの? 専門的に議論されないの? 一つのコースを担当する先生たちは設定されたゴールや目標の達成に向けて協力し合いながら授業を実践するんじゃないの?
第六声 また、日本語を教えている人たちは、「媒介語を使用しない直接法で日本語を教える」らしいけど、媒介語は日本語の習得を阻害しないようにしながら効果的に使ったらいいのでは? 実際のところ学生たちは辞書や文法書(最近はみんなネット上のものを使っている!)を利用しているわけだし。「媒介語を使用しない直接法で」というのに固執するのはドグマ的な感じがするし、そもそもの「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」というのも何だか前近代的な感じがする。


 現在日本語教育に従事している人の「精神」は上の「教育の良し悪しは…」という言葉によく集約されていると思います。しかし、その「精神」は、日本語教育のことを知らない人が聞くと、上の第一声から第六声のように、いろいろな疑問が提示されます。端的に言うと、合理主義の精神が感じられないということです。ただし、ここに言う合理主義というのは、ニーズ分析をしてそれに基づいてコースデザインをするというような現金なやり方を言っているのではありません。むしろ、日本語の習得と習得支援について熟考した上で思い描かれた優れた日本語教育実践を実際に実際に実現するという構想を完遂できるように緻密にもくろまれた合理的な企画と開発をするということです。それは、容易なことではありませんが。

新しい日本語教育の構想と実践の創造
 ぼくはかれこれ40年近くも日本語教育の仕事をしています。そして、ずっと前から、「今の日本語教育の企画では有効な教育実践ができるわけがない!」と言ってきました。他方で、日本語の先生たちや先生を養成・研修している大先生たちのほうは上のように「教師の教授方法が最重要の問題!」と言い続けてきました。そして、現場の先生たちは大先生や先輩の先生方の言葉に従って、教え方を工夫しつつどうにかこうにか日本語教育を支えてきました。しかし、ぼくには教授方法が最重要の問題とは思えません。また、教材を改善すればいいという問題だとも思えません。むしろ、根本の教育企画に問題があるからこそ、上のような精神論(合理的な企画と開発と実行ではなく、個々のメンバーの多大な努力と強靱な精神で状況を乗り切ろうとすること)が横行するのだと思います。根本の教育企画を練り直して、教師が相応の仕事をすれば十分な教育成果を出すことができて、創意工夫をすればさらに優れた教育成果が得られるような教育企画にしないと、日本語教育という仕事はいつまで経っても精神論が横行する「ブラックな仕事」のままです。
 さて、教育企画が問題となると、教育企画を刷新しなければなりません。そして、教育企画を新たにすると、当然、その教育企画を反映して学習と教育実践を支える教材も制作しなければなりません。また、期待される具体的な授業の原理やイメージも多かれ少なかれ提案する必要があるでしょう。つまり、新たな教育実践を創造するためには、企画・教材・具体的な実践を包括する構想が必要です。ぼく自身は日本語教育の経験を重ね、第二言語教育学を探究しつつ、そのような構想をずっと温め続けてきたように思います。そして、その構想がようやく具体化されました。それが、自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の日本語教育からなる表現活動中心の日本語教育です。

内容も方法もこれまでの日本語教育とは異なる表現活動中心の日本語教育
 表現活動中心の日本語教育は、日本語教育実践を再生するための新たな日本語教育の提案です。 そして、その基礎教育を支える教材がNEJ(『A New Approach to Elementary Japanese ─ テーマで学ぶ基礎日本語』くろしお出版)で、初中級から中級段階の教育を支えるのがNIJ(『A New Approach to Intermediate Japanese ─ テーマで学ぶ中級日本語』くろしお出版)です。
 専門的な職業として日本語を教えている人で、日本語を教えるということをただ文の作り方(文型・文法)と文の要素(語彙)や、ひらがなやカタカナや漢字を教えることと考える人は少ないだろうと思います。そして、現在の流行(はやり)は「コミュニケーションができる」ようにすることです。しかし、日本語を教えることを「日本語でコミュニケーションができる」ように教えることと見るようになると、どちらかというと、「道を尋ねる」「買い物をする」「友だちを誘う」「ものを頼む」などの実用的なコミュニケーションが注目されるようになりました。つまり、「日本語ができる/話せる」の実際をそのような実用的な用を足すコミュニケーションができることと見たわけです。しかし、そのような実用的なコミュニケーションの仕方を教えるだけでは、基幹的な日本語力は身につきませんし、文型・文法や語彙などの言語事項も十分に習得することができません。これまでの日本語教育は、「文型・文法(と語彙)か、実用的なコミュニケーションか」という2つの間で揺れていました

忘れられた領域としての社交的なコミュニケーションあるいは表現活動
 これまでの日本語教育の内容と方法の議論では、「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という議論ばかりがされてきました。そして、そうした二者択一の議論の中でまったく気づかれていないのが、文型・文法でも実用的なコミュニケーションでもない第3の領域としての社交的コミュニケーションあるいは表現活動です。この社交的なコミュニケーションあるいは表現活動の「発見」が日本語教育の構想の重要な転換点となります。そのような立場で、表現活動を中心に据えて構想された日本語教育を、ここでは表現活動中心の日本語教育と呼びます。

自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の中級日本語教育
 表現活動中心の日本語教育の具体的な教育企画として、基礎段階で自己表現活動中心の基礎日本語教育を企画し、初中級から中級段階でテーマ表現活動中心の中級日本語教育を企画しました。
 自己表現活動表現活動の基礎的な部分で、自己表現活動中心の基礎日本語教育におけるテーマとしては自分のことや自分の身の回りのことや人についてあれこれ話す(話したり、聞いたり、やり取りしたり、書いたり、読んだりすること)を選んでいます。具体的な内容は、NEJのテーマ(http://nej.9640.jp/sample/contents)です。そして、テーマについての表現活動より進んだ表現活動で、テーマ表現活動中心の中級日本語教育としては、自分や家族などに関するさまざまなテーマや人間一般や社会一般に関するさまざまなテーマを扱っています。具体的な内容は、NIJのテーマ(https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg)です。

NEJやNIJは新しい教材ではなく、新しい日本語教育を創造するためのリソース
 NEJやNIJは従来的な意味での新しい教科書ではありません。NEJやNIJは表現活動中心の日本語教育の構想の上にあり、それらは同教育を具体化するためのプラットホームであり「触媒」です。NEJやNIJは、日本語促進的な言語活動従事(♠2)を触発して、言語事項の習得を伴いながら日本語技量を育成する表現活動中心の日本語教育を創造するための中核的なリソースです。
 ですから、NEJやNIJを使って、その中で出てくる言語事項の指導をして、その後に本文を聴解活動や読解活動の素材にするというような教育実践は、表現活動中心の日本語教育という新しい日本語教育の趣旨に合致したものではありません。NEJやNIJを活用することにおいて重要なことは、実際に教育を行う実践者が表現活動中心の日本語教育という構想をよく理解し、教材が誘発するするさまざまな言語活動をしっかりと想像すること、そしてその上で、教育構想の趣旨に合致し、教育のねらいや目標の達成を力強く後押しする教育を創造的に実践することです。つまり、重要なのは、実際に教育を担当する先生が表現活動中心の日本語教育ということの趣旨をよく理解して、NEJやNIJを自身及び学習者を支えるリソースとしてうまく活用して、表現活動中心の日本語教育を主体的に実践することです。

日本語教育再生の日本語教育へ
 表現活動中心の日本語教育はこれまでの日本語教育とは内容も方法も大きく異なります。そして、そこで期待される教師の役割もこれまでのものとは異なります。しかし、その実践方法は、決してむずかしいものではありません。多くの先生が、表現活動中心の日本語教育(以下の♡以外の本文では、表現活動の日本語教育と略記)を知り、NEJやNIJを活用して、自己表現活動中心の基礎日本語教育(以下の♡以外の本文では、自己表現の日本語教育と略記)やテーマ表現活動中心の中級日本語教育(以下の♡以外の本文では、テーマ表現の日本語教育と略記)を主体的に実践してくれることを願いつつ、以下では、♡教育の趣旨と内容、♠教育企画、♣教材、♢教育実践の4つの領域に分けて、各々3項目で、表現活動中心の日本語教育についてその趣旨を説明したいと思います。

※参考文献
 表現活動中心の日本語教育の理論的な背景を知りたい方は、以下の本を参考にしてください。同書では、理論的な背景と共に、特に基礎段階(NEJ)のユニットの授業の進め方や具体的な授業の方法が紹介されています。
西口光一(2015)『対話原理と第二言語の習得と教育』くろしお出版

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