2019年9月号羅針盤 現象学から人間科学へ⑤
前回は、「志向性、ノエシスとノエマなどの概念もからめながら現象学というものが何なのかを改めて考えたいと思います」と言って終えました。今回は、多くの人を惑わしている現象学のその後の展開の概略図を示したいと思います。この話は、このような形で語られたことはたぶん今まで一度もなかったと思います。
1.現象学の実存主義的展開
現象学の展開は、ヨーロッパにおける実存主義的な展開と、北米に移って発展した社会学理論への展開という2つに分けて見なければなりません。まずは、ヨーロッパにおける展開の話をします。
ヨーロッパにおいて、フッサール(1859−1938)の現象学は、弟子であったハイデガー(1889−1976)によって実存主義的な展開を見せます。そして、その実存主義的展開は、隣国フランスでサルトルやボーヴォワールによって実存主義運動として花開きます。だいたい1940年代の後半から70年代です。『存在と無 ─ 現象学的存在論の試み』(1943年)以降、実存主義の旗手で当代一の知識人としてサルトルの名声は不動のものとなります。(ちなみに、ハイデガーは、その後の哲学・思想に強く広範な影響を及ぼした20世紀最大の哲学書と言われる『存在と時間』で一般に実存主義の哲学者と言われていますが、ハイデガー自身は実存主義の哲学者と見られることをきっぱりと拒否していました。ハイデガーが実存主義の哲学者と見られるのは、一般に流通している『存在と時間』が実はハイデガーが構想していた上下2巻の本の上巻だけであり、そして、それは上下2巻の本でハイデガーが意図していた「存在一般の意味の追究」の準備作業としての人間存在の分析でしかなかったのですが、その後下巻が出ることなく、上巻のみが『存在と時間』として一人歩きしたという事情によります。その上巻のみの『存在と時間』が出るや否やドイツの思想界に巨大な衝撃を与え一挙に思想界の形成を変えたために、同書で展開された人間存在の分析によってハイデガーは実存主義の哲学者と見られるようになった、というような次第です。しかし、ハイデガーの思想的営為の全体の中に『存在と時間』を位置づけようとする諸研究を見れば、かれの仕事の中心は実存主義の部分にはないことが分かります。)
フッサールの現象学的な観点を継承したハイデガーの思想は、ヨーロッパにおいてもう一つの展開を見せます。解釈学への展開です。主な担い手はガダマーです。こちらの展開については次回や次々回でもう一度論じます。
哲学的な背景を踏まえて現象学的な心理学について論じているラングドリッジは、現象学におけるこれら2つの実存主義的な展開を、実存的転回と解釈学的転回と呼んでいます。
2.現象学の社会学理論への展開
第一次大戦前のオーストリアのウィーン生まれのアルフレッド・シュッツ(1899−1959)は、ウィーン大学卒業後、銀行の法律業務に従事する傍ら研究を続け、1932年にはウェーバーの理解社会学とフッサールの現象学を融合した『社会的世界の意味構成』を出版し、同書をフッサールに捧げました。それ以来フッサールとの交流が始まり、それは1938年のフッサールの死去まで続きました。やがて、ナチスの台頭によりユダヤ系であるシュッツは母国を出ざるを得ない状況となり、1939年にはアメリカに亡命しました。そして、アメリカに移ってからも銀行での仕事と研究を並行して行い、社会学理論の発展に大きな功績を残しました。著名な社会学者であるピーター・バーガーやトーマス・ルックマンはシュッツの弟子です。
シュッツの研究は現象学的社会学と呼ばれています。現象学の物の見方に基づいて社会というものの正体を究明しようとする研究です。
3.実存主義と現象学的社会学が現象学的である点
ハイデガーの実存主義と現象学的社会学の重要な現象学的な重複点は、いずれも「そもそも○○とは何か」を追究している点です。ハイデガーは『存在と時間』で現存在という独自の用語を軸として「そもそも人間という存在とは何か」を追究しています。現存在=Daseinというのは、「da」(そこ)と「sein」(ある/いる)の組み合わせで、人間という存在を前提なしのデフォルトで捉えて追究するためにハイデガーが作った造語です。そして、『存在と時間』以後のハイデガーは、人間という存在と世界という存在の両者を含めて「そもそも存在するとは何か」を追究しています。
一方、社会学に関心を置くシュッツは、現象学の視点に基づいて「そもそも社会とは何か」を追究しました。銀行家と研究者という「二足のわらじ」のシュッツは、少数の著作しか残していませんが、いずれもひじょうに重厚なものです。そして、晩年のシュッツの遺稿はルックマンによって『生活世界の構造』としてまとめ上げられ、バーガーとルックマンの共著になる『現実の社会的構成』は社会学理論の名著として現在も読み継がれています。バーガーは、『現実の社会的構成』の一年後に宗教を社会学的に分析しようという試みの『聖なる天蓋』を上梓し、その第1章で自身の社会学の立場をコンパクトながら明瞭に提示しています。これらはいずれも、日常的世界に生きるわたしたちにとって、また社会学の対象として、「そもそも社会とは何か」を考究したものです。
実存主義と現象学的社会学がいずれも現象学的である重要点は、人間的実存を志向的であるというふうに捉えている点です。そして、それだけでなく、両者ではいずれにおいても、実存の重要な立脚点として言語を置いています。この点が、現象学的心理学においても、またわたしたちの関心である第二言語の習得と習得支援を考える第二言語教育理論においても重要な視点となります。
4.むすび
このあたりが区切りになりますので、これで今回は終わりたいと思います。後期ハイデガーの重要書である『「ヒューマニズム」について』からの有名な「言葉は、存在の家である」の一節を紹介して次節への繋ぎとしたいと思います。
行為することの本質は、実らせ達成することなのである。…本来的にはただ、すでに存在しているもののみが、実らせ達成されうるものなのである。ところで、あらゆるものに先だって「存在している」ものは、存在である。思索というものは、その存在の、人間の本質に対する関わりを、実らせ達成するのである。…思索は、この関わりを、ただ、存在から思索自身へと委ねられた事柄として、存在に対して、捧げ提供するだけなのである。この差し出し提供する働きの大切な点は、思索において、存在が言葉となってくる、ということのうちに存している。言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。(『「ヒューマニズム」について』pp.17−18)
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