2019年9月8日日曜日

日本語教育者=日本語教育という仕事を理知的に捉え、理知的に考え場合によっては探究もし、実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする人

 昨日、土曜の会(@関学梅田キャンパス、doyounokai@gmail.com)がありました。いつものようにすばらしく教養深く、理知的で、真摯な議論が展開されました。そんな中で、わたし及びこの仲間たちは「何者になる」ことを目指し、「何者が増える」ことを切望しているのだろうかと考えました。
 
 従来からぼくは、「日本語教師」という言葉は避けて、「日本語教育者」という言葉を使っています。例えば、ぼく自身のことは「日本語教師」と言うと「収まっていない」感じで、「日本語教育研究者」と言い方をすると日本語教育の実践を傍観している感じになって日本語教育の実践に常に関与しているぼく自身のスタンスを反映しません。そうなると、ぼく自身の、日本語教育の実践とのスタンスと研究的な姿勢と研究の取り組みを包含する呼び方はやはり「日本語教育者」かなあと…。
 で、土曜の会に参加している人たちはけっこうぼくと同じオリエンテーションがある人たちだという気がしています。つまり、日本語教育者であったり、そうなることをめざしている感じがします。じゃあ、日本語教育者というのはどんな人か?
 日本語教育者は、
(1)日本語教育という仕事を理知的に捉え、
(2)理知的に考え場合によっては探究もし、
(3)実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする
人、でしょうか。 で、ご覧のように「理知的」というのがどうもキーのようです。「理知的」というのがキーワードになるのは、業界全体としては「理知的」が不足しているという認識なのでしょう。
 そして、このオリエンテーションの基盤にある根本の姿勢は、「いい仕事、誇れる仕事をしたい」ということです。そのためには、当面は?「理知的」を厚くしなければならないという問題意識なのでしょう。
 ただし、…。「知性的」と「理知的」はどう違うか?
 ぼく自身は、 理知的=知性が豊かで明敏×感性が豊かで鋭い と考えています。言語教育に適正に従事するためには、知性だけではなく、人間や言葉や人間文化や人と人の言葉を仲介とした接触・交流や言語の習得などについての感性も大いに必要だと思います。(感性を磨きあげて言葉にしたものが「野生の知性」?←これ、ぼくの好きな言葉!)

 ということで、日本語教育者をめざそう! ということでどうでしょう!?

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