2019年10月1日火曜日

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

この時期は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものです。

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

 今回は、現象学とは何かをできるだけ簡明に説明し、さらに現象学と現象学的心理学を架橋する議論を紹介したいと思います。
 メルロ=ポンティは、自然的態度、エポケー、現象学的還元について以下のようにうまく説明しています。(木田からの孫引きで、原著はまだ確認していません。) すなわち、自然的態度に生きるかぎりでのわたしたちは、環境や外的諸条件によってさまざまに条件づけられています。メルロ=ポンティはこれを「負わされた条件」と呼んでいます。そして、現象学的還元は、この「負わされた条件」を、エポケー(判断留保)という操作をすることによって、「意識された条件」あるいは「自覚された条件」に変えようとすることです。決して条件づけられていることを否定しようと試みることではありません。(第4回の末尾のメルロ=ポンティの引用ももう一度見てください。)

1.『イデーン1』における志向性の再考
 初期の『論理学研究』で、フッサールは、意識の志向性という視点を中心に据えて主として心理学主義を批判しました。そして、中期の『イデーン1』においてはより包括的に自然主義批判を行います。そのために、志向性の問題も考え直されることとなります。『論理学研究』で問題になっていたのは広い意味での心理というイデア的対象の構成に関心が置かれていました。しかし、『イデーン1』においては、イデア的か実在かを問わずすべての対象の構成が関心の対象となりました。すなわち、すべての志向的対象の存在が、それを構成する意識の志向作用に遡って明らかにされなければないこととなりました。そして、一般的に、存在と意識とは厳密な相関関係をなしているのであって、いかなる存在もそれが意味をもつかぎりは必ずそれに対応する意識の構成作業があり、その作業においてそれがそのような意味をもつものとして所与となるのです。
 ここで間奏として、『イデーン1』におけるフッサールのねらいを見ておきたいと思います。上のように、世界の存在とその意味に関するあらゆる仮定や先入見が還元によって排除(一旦、判断保留)され、世界や世界の内部で経験され得るすべての存在者(存在者というのは、実際には「者」ではなく、対象として存在する「もの」、筆者注)の本質的な区別と構造は、それら存在者が与えられるさまざまな意識の作業にまで遡って問い直されることになります。例えば、自然科学や精神科学の用いる基本的な概念やカテゴリーは、たいていの場合素朴な世界革新の上に立つわたしたちの日常的経験から汲み取られたものです。それが、それらの諸科学が究極の根拠づけをもち得ない理由です。ですから、それら科学の基本的概念やカテゴリーは、現象学によって根本的に検討し直さなければならないのです。そして、フッサールによると、超越論的現象学こそ、かつてのデカルトの試みと同様に、自己と世界とを意識している者としてのわたしたち自身の確実性に立ち返っていっさいの諸科学を基礎づけなおすべき基礎学だとなります。

2.ノエシスとノエマ
 さて、議論をわたしたちの関心に近づけていきたいと思います。
 端的に、上に言う存在者がノエマで、それに与えられる意識あるいは志向作用がノエシスとなります。ラングドリッジはこれをわかりやすく、ノエマ=経験されることノエシス=経験される仕方、と説明しています。つまり、意識あるいは経験の一般的構造は、志向作用であるノエシス的契機と、そこで志向される対象であるノエマ的契機との相関関係として捉えられるわけです。
 ラングドリッジは、それ以前の意識についての考え方の「自己中心的袋小路」問題について論じ、現象学から現象学的心理学への橋渡しをしています。

 過去200〜300年にわたって哲学では、とりわけ17世紀のデカルトの哲学に従って、私たちは自己自身と自分の考えや感情に気づくのであって、そのようなものとして意識は、そうした考えや感情を導く外部の事象に向かうというより、内部に向かうというように、きわめて特別なしかたで理解されてきたのだった。この、意識についてのデカルト主義的な考え方では、私たちの意識は「何かについての」意識ではなくなってしまう。代わりに、哲学者たちが「自己中心的袋小路」(egocentric predicament)と称したものにとらえられてしまう。神経科学の研究成果は、一見したところ、意識についてのそのような見解を支持しているように思われる。…もし気づきが内面に向かっているのであれば、私たちはどのようにして外部世界に触れることができるのか、という難問(自己中心的袋小路)に直面することになる。さらなる問題として、私たちは、どのようにして、同じように自分自身の主観性の囚われとなっている他人の世界を知ることができるのであろうか。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 ラングドリッジは、明快に指摘します。

 志向性はここでは、…何かをしようと意図する(intention)という普通の意味で使われているのではない。そうではなくて、私たちが意識している(conscious)時は ─ 気づいているときは、と言ってもよいが ─ いつでも何かを意識している(または何かに気づいている)、という事実のことを言うのである。…現象学者にとっては、…意識が世界に向かうそのしかたが、焦点となる。なぜなら意識は、志向的に世界のなかの諸対象に関わるからである。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 そして、現象学的心理学の研究対象を以下のように規定します。
 
 現象学的心理学の研究対象となるのは、世界についてのこの意識であり、具体的に言えば、人間の意識と世界との関係である。それは経験の公共的な(public、筆者注)領域である。…(現象学的心理学では、筆者捕捉)志向的な相関関係において事象が現れるがままの経験とそれが私たちに現れるしかたに取り組むことになる。…これによって心理学という企ては、脳の中の思考のパターンを探究するというよりは、ある人物とその住まっている世界に起こっていることを基にしたものになる。このような構想の結果として、現象学的心理学にとって、経験を理解すること、そしてその人がその住まっている世界をどのように知覚しているかが、中心的な関心事となる。(Langdridge, 2007, pp.13-14、邦訳pp.16-17、一部改訳)

 ここに言う志向的な相関関係が、ノエシス的契機(事象が現れるままの経験)とノエマ的契機(それが私たちに現れる仕方)の相関関係であることは言うまでもありません。

3.環境と世界と、体験と経験
 現象学では志向性が働く以前の生のままの世界のことをしばしば(世界の代わりに)環境と呼びます。つまり、わたしたち一人ひとりは、ある時空間にいて、そこで原初的に環境と接し交わるわけです。そして、わたしたちが覚醒しているかぎり、志向性が自ずと働いて、「何か」としてこの環境を知り、それと交わって生きることを営みます。その「何か」が世界やその中の対象(両者を合わせて存在者)となります。
 実は、日本語とドイツ語は便利で、前者の原初的な環境との交わりと後者の世界との交わりをそれぞれ別の言葉で言うことができます。前者が体験、ドイツ語ではErlebnisで、後者が経験、ドイツ語ではErfahrungとなります。つまり、経験として捉えられる以前の生のままの体験(Erlebnis)というものがあって、それがノエシス的な契機とノエマ的な契機の相関関係として止揚されて経験(Erfahrung)になるのです。
 そして、ここでいよいよ言葉、言語が登場することになります。それは次回に。

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