2019年10月6日日曜日

日本語教育を構想することについて

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年1月号に羅針盤として掲載されたものです。

日本語教育を構想することについて

 あけましておめでとうございます。昨年は、就労外国人の受入れ施策のことで、世間は大騒ぎ。そして、今年は、新しい元号の元年とともに、日本開国元年となります。昨年の11月や12月は、就労外国人関係の日本語教育界の動きにたくさん言いたいことがあって、ブログ(https://koichimikaryo.blogspot.com)であれこれ発言してきました。で、そういう発言に疲れたので、今回はまったく違うテーマでとても自由に書きたいと思います。日本語教育の構想の仕方についてです。
 小中高の教科の学習というのは、現状では知識の習得が中心(←それがいいかどうかの議論は当面置いておいて)なので、教育の企画も、教育の実践も、そして評価も、わりあいしやすいです。一般的に言って、教育内容を「即物的に」設定すると企画も実践も評価もしやすいです。日本語教育ではしばしば「文型・文法か、コミュニケーションか」という議論が行われます。前者では教育内容として文型・文法や語彙などの言語事項を並べるわけですから、「即物的」で、企画も実践も評価もしやすいものとなります。しかし、「日本語の上達」という教育成果が得られるかどうかは「?」です。では、後者はどうでしょう。
 学習活動をコミュニケーションの形で行うということであれば、それは「即物的ではない」ということになります。しかし、コミュニケーション中心で教育を企画する場合に、何が行われているのでしょう? それは、悪名高き!(←と思っているのはわたしだけ?)ニーズ分析とコースデザインです。ニーズ分析では、目標場面target situation(できるようになるべき言語活動)を明らかにして、さらにそこでの話し方である目標言語target languageが調査されるわけです。次に、そうした調査の結果に基づいてコースがデザインされ、教材が制作されます。そして、そのようにして制作された教材の主要部は、端的にいうと、場面別やり取り集となります。つまり、「文型・文法か、コミュニケーションか」の後者のコミュニケーションを選んだとしても、結局は新たな「即物的な」言語事項が主な教育内容になってしまうわけです。ただし、これは基礎的な段階の教育を考えた場合のことで、一定程度の基礎力をすでに身につけている学習者に対して課題解決型のモジュールからなるプログラムを策定した場合はかなり「即物的」ということから免れるでしょう。文化庁の報告書(1月15日まではまだパブコメ中)を見ると、就労外国人のための日本語教育では、こうしたニーズ分析とコースデザインというパラダイムで教育を企画することが推奨されているようです。しかし、それはおそらく基礎段階の教育になるでしょうから、新たな「即物的な」教育となるでしょう。
 さて、ここまでは前口上で、ここからが本論です。
 では! 「即物的な」ものは習得しなくていいのでしょうか。つまり、言語事項は習得しなくていいのでしょうか。それは、そんなはずはありません。日本語ができるようになるというのは、日本語を使いながら能動的に言語活動に従事したり、相手の話を日本語を手がかりとしながら理解して応答したりできるようになることですから、日本語ができるようになることには、どのような形であれ言語事項の習得ということが伴います。日本語が上達するというのは、多かれ少なかれ言語事項の習得を伴いながら、より広い言語活動やより高度な言語活動に、より有効に従事できるようになることです。
 そのような日本語上達の経路に合致する日本語教育の構想はどのようなものでしょう。つまり、日本語教育の実践が「即物的に」言語事項を教えることから免れて、しかし結果として言語事項の習得も含めた言語活動従事技量の上達を促進できるように日本語教育を構想するにはどうすればいいのでしょうか。その問いに対するわたしの答えは、言語事項の習得を伴う言語促進的な言語活動がユニットの教育指導として実践できるような形で一連のユニットを企画する、というものです。これは、第二言語習得の原理の問題ではなくて、単に論理的な帰結です。ただし、その一方で、何をもって言語事項とするかは、クリティカルに検討されなければなりません。そこで言語事項とされるのは、従来のような文型・文法や語彙などではないでしょう。これは、言語哲学的な問題です。
 さて、クリティカルに検討するべき点がもう一つあります。それは、日本語プログラムの構成に関わることです。まずは、最終的な目標が日本語での言語活動に実際に従事できるようになることだとして、どのような方面の言語活動に従事できるようになることが期待されるのかをクリティカルに検討することです。その際には、当該の日本語プログラムの教育的な文脈や制度的な文脈などを含むさまざまな文脈も考慮されなければなりません。さらに、ある方面の言語活動に従事できるようになることが最終目標として設定されたとして、その水準に至るための前段階の基礎的な教育が必要ではないかをクリティカルに検討し、必要ならば基礎教育としてそれを企画することです。基礎的な日本語力を養成しないで、いきなり実際のコミュニケーション場面を設定した練習ばかりするのは、何ともナイーブだと言わなければなりません。これはすぐれて日本語教育学的なテーマだと思います。
 このように有効となり得る日本語教育を構想するためには、時には論理的に考え、時には言語哲学と向き合い、そして、最終的には日本語教育者としての高度な専門的知識と深い洞察を動員してさまざまな判断が下されなければなりません。「文型・文法か、コミュニケーションか」という二者択一で考えたり、教育企画と言うと即座に「ニーズ分析の出番だ!」としていては、いつまで経っても、「『即物的な』教育企画ではないが即物的な言語事項の習得も伴わせる巧妙な日本語教育の構想」はできないでしょう。「ニーズ分析!」、「コースデザイン!」と叫ぶのは、すでに古色蒼然の観があります。また、基礎教育を、従来の初級日本語教育で間に合わせてそのままにしているのもどうなのでしょう。わたしたちは、巧妙な日本語教育の構想の下に、創造的で調和的な日本語教育の実践を今後も展開していきたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿