土台としての理論と本質探究のための理論的議論
「わたしは理論が弱い」と告白する院生が多いです。確かに、データに基づく研究をするにしても、理論は必要ですね。そんな告白を聞くと「ふむふむ」と思うのですが、いつもやがて「うん??」となります。最近、その「うん??」の正体がようやくわかりました。
昨日「子どもの変容に対するフリースクールの役割」という修士論文の発表を聞きました。例のごとく、フリースクールの常勤スタッフ2人に半構造化インタビューをしてという研究でした。そして、ハーシ(1969/2010)のボンド理論を基礎として分析するということでした。ボンド理論というのは、「『人はなぜ社会のルールに従っているのか?』という視点から、逸脱は社会的絆(social bond)が弱体化することから起こる」という理論だそうで、森田次朗(1991)が不登校現象にそれを応用しているということで、森田がまとめている4領域のボンドに基づいて分析したとのことでした。この発表のようにうまい理論を持ってくると分析は相応にすっきりいきますし、その上で、上手に考察の議論を行えば、わりと立派な研究に仕立て上げることができます。
このボンド理論適用の例は、実証研究をする土台としての理論の話となります。つまり、持ってきた理論は分析のための土台です。このような場合は、当該の現象を説明するために適当である可能性のあるいくつかの理論をまずは持ってきて、その中のどれが最も適当かの吟味をした上で、一つの理論を適用しなければなりません。また、そのように持ってきた理論はデータ分析のためのいわば「当面の方便」のようなものなので、方便であることをしっかりと認識して、いわゆる考察を行った上で、さらに、理論そのものの適切性や妥当性を検討する議論も展開しなければなりません。
さて、ぼくが言いたいことは、上のような土台としての理論の利用方法ではありません。院生たちがほしがっている理論はそのような土台としての理論なのかもしれません。しかし、ぼくが興味と関心をもって取り組んでいるのはどうもそういう理論ではないようです。ぼくが取り組んでいるのは、言語や認知や文化(社会)や現実や自己など、及び言語の習得と習得支援の全般にわたる基幹の部分を一貫した形で説明できるような理論のようです。そのような理論がないと、第二言語の習得と習得支援に関していかなる実質のある研究もできないのではないかとぼくは思っているようです。そして、ぼくがやってきた&やっている研究(?)はそういう理論の構築に向けての研究のようです。(実は、あと一歩で「いける!」気がしています。乞うご期待!)
院生の皆さんは、当面自身の研究の「背骨」となる土台としての理論を見つけ出す必要があるだろうと思いますが、一方で、第二言語教育学の本質探究に関わる理論にもぜひ関心をもってほしいと思います。研究の深化のためにも、教育実践(企画・教材制作・授業実践)のためにも。
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