2020年5月12日火曜日

ビギナーを対象とした対話による日本語習得支援はありうるか?

CLE「開かれた例会と話題提供の意味について — オンライン開催、その後のやりとりから」(ルビュ言語文化教育第743号(2020年3月27日発刊)の「研究所より」を読んで

 ALCE第65回例会及びその後関係でいくつかのテーマについて考えたことをシェアしたいと思います。
まずは、経緯。
1.去る3月15日にALCEの第65回例会「ゼロビギナーと対話するとは — ことばを教えることが目的ではないなら、何が教室活動の目的なのか」がオンラインで開催された。
2.その報告がルビュの第742号の「研究所より」に掲載された。そこには、企画者の稲垣さんの自身のfacebook上でのまとめ(同日)の転載と、例会当日の配付資料のリンクもある。
3.2の裏で、稲垣さんのfacebook上のまとめに対して、参加者と企画者・主催者との間でやり取りがあった。
4.ルビュの第743号の「研究所より」に標記記事が掲載された。そこでは、稲垣さんのfacebook上でのやり取りの一部が掲載され、話題提供の意味(言語教育の「意味」と「価値」を問題にして、最終的にどのような人間の育成を言語教育はめざすべきなのか、ということを念頭においた言語教育実践についての話題提供)などが論じられた。

 この例会での議論の素材になったのは、2016年の9月から12月の3か月にわたってヴェネツィア・カフォスカリ大学で行われた対話プロジェクト「Action Research Zero Workshop」の最初の1週間の様子です。このプロジェクトについては、企画段階から本ルビュで公表されていたので知っていましたが、企画段階から参加者(日本語学習経験のない? カフォスカリ大学の学生?)のことを「ゼロビギナー」と呼んでいたので、このプロジェクトについては関心を喪失していました。(人のことを「ゼロ(ビギナー)」というふうに平気で「ゼロ」と呼ぶデリカシーのない人がすることにはどうも関心がもてません。また、残念ながらそんな人と対話する気にもなれません。「ゼロビギナー」という言い方は、日本語教育界全体で平気で使われていますが、それは日本語教育界全体のデリカシーのなさを示していると思います。「多文化共生」とか立派なことを言っている人が、よく「ゼロビギナー」なんていえるなあという感じ) 「ゼロビギナー」ではなく、「初習者」が適当だと思います。

 さて、「ご託」はこのへんにして…、と言うか、そもそもこの「ゼロビギナー」という言い方に初習の学習者に向ける誤った視線があります。かれらは決して「ゼロ」ではありません。 そう言うと、「いや日本語知識はゼロでしょう!」という声が聞こえてきそうです。
 わかりやすい「モデル」として、カミンズの二言語相互依存説を思い出してください。二言語相互依存説は、言語能力一般(わかりやすく言うと、BICSとCALPの両方)について言われていることではなく、CALPについて言われていることです。この点が重要です。
 BICSとCALPの重要な(決定的な?)違いは何でしょう。BICSは、ヴィゴツキーの言う生活的概念あるいはバフチンの言う日常生活のイデオロギーが関与する言語活動に関わる言語能力です。そして、それは、いわゆるリテラシー獲得以前の言語能力であり、ヴィゴツキー的に言うと直観的な言語的思考及びそれに相応する言語活動従事のみを可能にする言語能力です。つまり、BICS段階にある言語ユーザーは、言語活動に従事している自身のことばを自覚していないし、まだ真の概念を発達させていません。(この段階の子どもは一般的には「就学以前の子ども」ですが、今の子どもは就学前でもかなりのリテラシーがある、あるいはその準備が大いにできています。) それに対しCALPを十分に発達させている大人や小学校高学年以上の子どもなどは、思考と言語の発達の特定水準の意味としてリテラシーがあるということになります。そういう人は、真の概念を(子どもの場合は「一定程度」)発達させていて、cognitiveでacademicな知識を豊富に内具していて、概念的な言語的思考ができます。また、その言語活動の運営の仕方も多かれ少なかれ自覚的で随意的です(多かれ少なかれ意図的に話しているし、自分が何についてどのように話しているか自覚している)。ざっくり言語活動の特性として言うと、BICS段階の言語ユーザーは短い発話で「やんちゃに」しか話せない、CALP段階に至っている人は(「やんちゃに」も話せますが)拡張的なディスコースで穏やかに知性的に話をすることができる、ということになるでしょうか。そして、二重言語「相互依存」を可能にしているのは、豊富に内具されたcognitiveでacademicな知識です。その知識は元々はディスコースの形態をとっており、その元々の形態に容易に復元することができるのですが、定常の状態としては、言葉としての具現の側面がほとんど「蒸発」した言語的思考の「雲」となっています。この「雲」が二言語「相互依存」の重なり部分なのです。このように、言語的思考ということを考えると、基礎教育(義務教育程度、あるいは小学校だけでも)修了以上の人の場合の第二言語学習のスタート条件は決して「ゼロ」ではなく、第二言語での言語技量を発達させるために「重要な部分である8割方のところはあらかじめ用意されていると見るべきでしょう。(基礎教育を受けていない人の場合でも、やはり「ゼロ」ではありません。しかし、教室という空間での「仮想的な圏域」でのやり取り、つまりざっくり言うとその時の目の前にあるモノや状況に依存しない話、はひじょうに困難になります。) ただし、ここに言う真の概念を発達させているというのは、抽象的なものも含めて語義を知っているということではありません。もちろん、意識を単語に集中すれば語義をつかむことができるということはありますが、それよりもむしろ上に言ったようなcognitiveでacademicな知識を豊富に蓄えているという側面に注目するべきでしょう。
 言語の知識ではなく、言語的思考あるいは概念的思考ができることや、そうした思考を基盤として語りや他者との対話ができるという部分に注目すると、第二言語教育の企画や実践を考える目線も大きく変わってくるだろうと思います。

「書記言語バイアス」に基づく?日本語の授業

※ Zoomのことをよくご存じの方は、中程の「チャットの窓」からお読みください。

 コロナの影響で、リアル対面授業はできず、Zoom授業となっています。そして、今学期わたし担当の授業(の一つ)は、少人数の中国出身の学生だけです。こういう学生は英語では“students with kanji background”と呼びます。日本語では、漢字圏学習者や漢字系学習者となります。ぼくは、漢字系学習者のほうがいい呼び方だと思います。
 今、日本語の先生たちの間ではオンラインでいかに有効に授業を実施するかが突きつけられた大きな課題となっています。そして、この連休明けからいよいよ各大学でも日本語を含む語学の授業が始まっているようです。
 Zoomなどを使ったオンライン授業では、オンラインでいかにリアル対面の状況を再現するかという部分に関心が寄せられがちです。しかし、リアルとオンラインは、ざっくりと象徴的に言うと!「臨場感」において巨大な差があるわけで、Zoomくんにそれを期待するのは酷でしょう。(技術者さんはそういう「困難」を克服することを自らの「使命」としてらっしゃるわけですが、それはそれ。) それよりもむしろ、Zoomくんの特長(強み)のほうをよく知って、それを最大限に活用する授業を計画して実施するのがいいでしょう。そんな観点で、少人数の漢字系学生のみを対象としたZoomでの日本語授業を振り返ってみました。以下、その状況でのZoomの特長(強み)です。※以下は、Zoomのビデオ画面を開けて、実際にいじりながら読んでください。

1.オンラインの「楽さ」
 例えば1対3などだと、リアル対面だと学生はいつも先生に「包囲」されている感じでシンドイ(関西方言で、ひどく疲れる、きつい)。でも、オンラインだと「包囲」されていないので、楽。Zoom画面を通した授業を受講しながら、並行して「自分なりの勉強」ができる! ※ネガティブに言うと、「内職」ができるし、パソコンの別画面でゲームをしていても先生にはわからない。
2.ビデオ画面以外の画面① ─ 画面共有
 「画面共有」の緑枠の中で何でも見せることができる。インターネット上での検索作業と目標サイトをそのまま見せることができるだけでなく、YouTubeをも見せることができる。この共有画面は、上の緑の「画面を共有しています」という部分にカーソルをもっていくと、いくつかのアイコンが出てきて、そのうちの例えば「コメントを付ける」を選ぶと、共有された画面の上に上書きする形でホワイトボードと同じようにあれこれ書き込むことができます。
3.ビデオ画面以外の画面② ─ チャット
 ビデオ画面下の「チャット」ボタンを押すと、右にチャット画面が開きます。学生にも、ビデオ画面したに出てくる緑の「画面共有」ボタンの左にある「チャット」ボタンを押すように指示してください。
 チャット画面の一番下に「ここにメッセージを入力します」というのがあります。そこに入力をしてリターンキーを押すと、入力した文字がチャット画面に表示されます。学生も入力することができます。この要領で、学生とチャットができるわけです。「チャットの窓」は拡大縮小、自由です。
 また、「ここにメッセージを入力します」の上の「ファイル」というボタンを押すと簡単ファイルを送ることもできます。このファイルは「チャットの窓」に表示されて、向こうにいる学生も入手・ファイルオープンすることができます。もちろん、本来は、必要なファイルはあらかじめ送って学生にスタンバイさせておくべきですが。

 で、ぼくが注目するのは3の「チャットの窓」です。

 言うまでもありませんが、「チャットの窓」を利用すると、ビデオ画面でしゃべりながら、「チャットの窓」でもコミュニケーションができるわけです。要は、二元コミュニケーションができるということです。そして、これも言うまでもありませんが、漢字仮名交じりでも、漢字でも、ひらがな/カタカナでも、ローマ字でも、英語などでも、ワープロ入力できるものは何でも入力できます。もちろん、授業前にあらかじめ入力しておくこともできます。

 で、表題の「書記言語バイアス」に基づく?日本語の授業×少人数の漢字系学生のみの日本語授業で考えたこと。
 「書記言語バイアス」Written Language Bias”というのは、北欧のバフチン学はの中心人物の一人であるLinellの本のタイトルです。書記言語バイアスというのは、これまでの言語に関する研究があまりにも偏向(bias)的に書記言語を材料にした/書記言語と言語そのものとイメージした研究に片寄りすぎて、言語=ことばの本来の姿を研究者自身にもまた一般人にも「見失わせている!」と批判しての言葉です。もう少し言うと、ことばはもともと現実の生きる活動の現場で生まれ、その現場での活動を運営することに携わるという形で存在していたわけです。そして、今も。そして、それ以外のさまざまなことば=言語は間違いなくそうした様態のことばから「派生」してきたわけです。にもかかわらず、わたしたち(研究者も一般人も)はそれを忘れて、ことば=言語をその書かれた様態においてイメージすることにあまりにも慣れてしまって、書かれた様態のことば=言語がさも常態であるかのようにことば(=言語)を使っています。こんな話をすると、外国語教授法を勉強した人は「speech primacy(音声言語第一主義)」という言葉を思い出すでしょう。まあ、speech primacyと関わってはいますが、Linellの話はもっと「深いい話」です。
 で、ぼくは、少人数の漢字系学生のみの日本語授業にあたって、この書記言語バイアスを敢えて逆手に取りたいと思いました。つまり、漢字系学生の指導を考えると「書記言語こそ第二言語の促進基だ!」と主張します。そして、先の二元コミュニケーションで言うと、「チャットの窓」がその促進場所になります。

 はい、急いで結論に行きます。
※以下は、学生は「日本語ワープロを少しなりとも使ったことがある」との前提です。しかし、実際には「入力を日本語に切り替える」をしたら、以下のことができます。

結論
─ 「チャットの窓」を第一の窓と考える。
【貯え学習】─ 「チャットの窓」に語や句やディスコースをに入力する。そして、学生にも同じものを入力させる。そのときには、第二の窓であるビデオ画面から、指示をしたり、語や句やディスコースの音声提示をしたりする。
─ 「分からない」がおおむね生じない範囲でこれをするのがいいですが、「分からない」が生じたときは、さっさと媒介語で処理。あるいは、「自分で今調べて、チャットに報告して!」でいい!
─ そのような要領で、語や句やディスコースを学び、蓄積していく。第一の窓である「チャットの窓」と第二の窓であるビデオ画面は、前者がテクストの世界、後者が(画面がありながらも)音声の世界。この二人三脚で日本語を蓄積していくということ。
【形成的学習】
─ 次に、当該のテーマについての学生の話を第二の窓のやり取りで引き出しながら、第一の窓(チャットの窓)にキーワードを書き出してあげる。
─ 一通り話したら、チャットの窓に書きだしたキーワードを参考にしながら、もう一度整理して第二の窓(ビデオ画面)で話す。
─ この後は、それを作文にして提出など、適宜に。

 漢字系学生の場合は、漢字(テクスト、第一の窓)を見ればだいたい意味がわかる!しかし、それを適切に音声言語化(音声、第二の窓)できない、という点がキモです。ああ、この点がまさにWritten language biasですが。それを逆手に取る!!

 このアイデア、うまく伝わったでしょうか。そして、実は、このZoomの特長(強み)を活かしたアイデアは、非漢字系学習者の場合でも、実は大いに使えると思います。


 
 

 
 

 
 


2020年5月6日水曜日

公開webNJ研究会&交流会 on 2020年5月30日(土)午後1:00-5:00(日本時間)

公開webNJ研究会&交流会


 NJ研究会は、バフチンやヴィゴツキーらの言語観に基づく新しい第二言語教育の理論と実践を創造する、日本語教育者と第二言語教育実践者・研究者の対話と交流の場です。大阪大学国際教育交流センターを中心として活動をしています。
 今回のNJ研究会はweb上で開催することとなりました。それで、せっかくですので、公開としました。皆さん、国内各地、世界各地から気楽にご参加ください。
                             NJ研究会代表
                             西口 光一

□ 参加申し込み

以下のURLに行って申し込みをしてください。申し込みをいただいた方に、本zoom研究会&交流会参加の招待を送ります。

□ 日時

 2020年5月30日(土)
 午後1:00-5:00(日本時間)

□ 公開webNJ研究会 ─ 午後1:00-3:00

1.テーマ
ネット時代の日本語教育の内容と方法 ─ SAL​​​​​​​​​​​とSAL​​​​​​​​​​​​​​システムと学習・習得支援
※資料:「SAL​​​​​​​​​​​​​​への道」(序章から結びまで)https://koichimikaryo.blogspot.com/search/label/SAL%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8B%E2%80%8Bへの道
2.発題者
西口光一(大阪大学国際教育交流センター)
3.発題内容の箇条書き
─ 主タイトルの趣旨
─ NJとは何だったのか
─ NJからSAL​​​​​​​​​​​​​​へ
─ captive audienceからautonomous learner
─ SAL​​​​​​​​​​​​​​システムとsupported autonomous learning
─ 自律学習ということの中心は何か
─ 自律学習と学習支援
─ 学習支援と習得支援
4.実施方法
短い確認質問を受けながらの1時間ほどの話。その後は、テーマについてのディスカッション、及び、本テーマとからめつつ、現在ホットなテーマになっているオンライン授業についてディスカッション。
 NJ研究会としては「いつも通り(激しく!)」やります。NJ研究会のメンバー以外の方も参加していただくのは歓迎です。(が、できるかな?)

□ 休憩 ─ 午後3:00-3:15

zoomをオンにしたまま、各自飲み物などしながら、雑談。

□ 交流会 ─ 午後3:15-5:00

前半は、*自己紹介とご自身の日本語教育(学)に関する興味・関心と、*今ここで皆さんと話したいこと(あれば!)
※ *のいずれも、できればあらかじめテクストを作成しておいて、自分の順になったら、チャットに貼り付けてから話し始めてください。そのほうが、圧倒的にわかりやすい!
 後半は、「今ここで皆さんと話したいこと」(進行のほうでメモしておきます)と、本日のNJ研究会のテーマに関する議論。

□ 午後5:00終了予定


□ おまけ ─ 午後5時から

各自、好きな飲み物とつまみを持ってきて、web飲み会!?(もちろん、希望者のみ!)




web時代の打ち合わせの方法と進め方

 対面での打ち合わせが不可能となって、世の中「zoom打ち合わせ流行(ばやり)」です。そして、zoom授業と同じく、zoom打ち合わせも、これまでのやり方をこの際!大いに反省!することもなく、単にweb上に「窓」を開けて、ただこれまでと同じようにやっていらっしゃるような…。そして、多くの人が「web打ち合わせ疲れ」しているような…。
 で、「ぼく流」の打ち合わせの仕方。
※ここでは、何かの仕事を進めるために議論をしていろいろなことを「決める」打ち合わせをテーマとしています。報告と承認が中心の儀礼的な会議のことではありません。(今どき、儀礼的な会議はおおむね「滅んでいる」と思いますが。)
※まあ、実際には、1つの授業をいっしょに担当する先生間での打ち合わせをイメージして話します。

1.リアル対面打ち合わせとweb打ち合わせのコミュニケーション条件的な違い

(1) 話順の交代
 9人程度(3×3)のweb打ち合わせなら、相互の顔も見えるので何だかリアルの打ち合わせと変わらない印象があります。でも、違います。リアルにおいては、わたしたちは微妙な体や姿勢の動き、頭の動き、顔の表情、目の動き、そして息づかいなどを敏感にキャッチしてコミュニケーションをしています。その面で一番webの場合に「やりにくい」影響が出るのは、話順の交代や、話順取りです。リアルでは、息づかいにまで至るコミュニケーションを言葉のやり取りの背後でしているから、次に誰が話すかがその場のメンバーはみんな次の人が話し始める前にわかります。webでは、その「背後のコミュニケーション」(相互感応)が基本断ち切られます。9人を超える打ち合わせの場合は、この問題は一層深刻になります。
 対策としては、話順がほしいと思っているときは、指を1本出して、中くらいに手をあげる。そして、「ほしい」程度によって、その手の高さを調整する。つまり話順がとてもほしい!ときは、指を1本出した手を大きく上のほうにあげる。
(2) あいづち
 上の身体の要因や息づかいなどは、あいづちの伝達にも影響します。リアルではわたしたちは知らず知らずのうちに十分なあいづち(「それはどうかなあ!?」という聞いているが受け入れていない「あいづち」も含めて)を送っています。webでは、そこの部分のコミュニケーションもうまく行きません。
 対策としては(声を出すとうるさいので)、しっかり聞いているときは、低い手のまま常に指を1本出しておく。声が小さいとか通信不良で聞き取れなくなったときは、その指を左右に振る。聞いている意見に賛同のときは、極端なくらいに大きくうなずく。やや賛成の時はその半分でうなづく。賛同できないときは、これも極端なくらいに首をかしげる。

2.web打ち合わせの心得

(1) 準備段階
 進行役を必ず設定する。進行役は、そのコースのコーディネータがいれば、その人。コーディネータがいない場合は、毎回、進行役を決める。そのためには、一つの打ち合わせ終了時に、次の打ち合わせを設定しておく、そして、次回の進行役も決めておく。
 進行役は、今回の打ち合わせで何をどこまで決めなければならないかの見通しを立て、アジェンダ(議事次第、あるいはテーマ連関表など)を作成して、あらかじめ、打ち合わせ参加者に送付、あるいは少なくとも会議開始時にチャットにそれを提示して、当該打ち合わせのテーマや流れなどを共有する。
 必要な資料はあらかじめシェアしておき、打ち合わせ時にはもちろん画面シェアなどをしながら話を進める。資料の作成は、打ち合わせ参加の他の「ふさわしい人」に依頼することもある。
(2) 進め方
 1で行った対策を確認する。
 画面共有などさまざまなzoomの機能を上手に活用しながら打ち合わせを進める。
 当該の打ち合わせにおいては、進行役が「充実した打ち合わせになるように」しっかりとコーディネータシップ(coordinatorship)を発揮する。
(3) 話し方 ─ イラストレーター
 イラストレーターとは、手振りによる話の描写です。
 ─ 「こういう考え方(右の方で両手で丸いものを描く)と、こういう考え方(左の方で両手で丸いものを描く)、があります。
 ─ 「こっち(先ほどの丸いものを指して)の考え方の人は、こう(右手片手で5本指を上に立てる)と言って、こちら(先ほどの左の丸いものを右手で指差して)の考えの課題を指摘します。」
 ─ 「外国から日本に来る観光客はますます増えています」→自分でイラストレーターをやってみてください。
 画面を通して、表情と話しぶりを伴った言葉だけで伝えるのも場合によっては十分ですが、より明確に伝えたい場合はこのようなイラストレーターの使用が有効です。 

3.結論

上のことは、実はweb打ち合わせに限ったことではなく、通常時のリアル対面の打ち合わせの場合でも同じです。逆に言うと、リアル対面ができない今こそ、こういう打ち合わせの進め方を知り、身につけよう!とするのが、今後に向けても「前向き」だと思います。

 コロナをきっかけに、「前進」しないとね!! そして、教育方法もコロナをきっかけに、「前進」しないとね!!

2020年5月1日金曜日

言語についてのオートポイエーシスの視点① ─ オートポイエーシスの衝撃


この記事は、https://www.mag2.com/m/0001672602.htmlの2020年5月号に掲載されたものです。

言語についてのオートポイエーシスの視点─ オートポイエーシスの衝撃

 12回の連載にしたいと思います。タイトルは上のように、「言語についてのオートポイエーシスの視点」です。今回は、イントロダクションです。

 ハイデガーにおける言語の論考を3月に出すことができました。その原稿は12月には完成していました。これで、「西洋系」は取りあえず、終わりです。その後しばらく少し「休憩」していましたが、年が明けたら、また「始動」しました。そこで出会ったのが、更なる「巨人」、井筒俊彦とマトゥラーナ&バレーラです。井筒は「ジャパン」、マトゥラーナ&バレーラは「南米チリ」です。
 井筒は、イスラム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者などと呼ばれています。まあ、ぼくが勉強した範囲で言うと、洋の東西を問わず、あらゆる哲学、思想、宗教、そして関連の人文学に精通していて、あのデリダに「巨匠」と言わしめた巨大な知性です。井筒の思想的営為を簡単に言うことなどとてもとてもできないわけですが、ぼく(たち)の関心で言うと、(1)井筒は人間の存在や精神の探究において言語に大いに注目している、そして、(2)最後に到達した深層存在のことを「言語アラヤ識」と言っている、ということで、言語に抜き差しならない関心を向けています。ですから、今年度の連載は、井筒にしようかなあと考えていました。しかし、井筒に入るとそこはほとんど「魔宮」になってしまいますので、躊躇していました。そして、そんな井筒と並行して見ていたのはマトゥラーナ&バレーラです。※井筒のことは、『井筒俊彦 ─ 叡知の哲学』( https://www.amazon.co.jp/井筒俊彦―叡知の哲学-若松-英輔/dp/4766418115/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=カタカナ&dchild=1&keywords=井筒俊彦&qid=1587352567&s=books&sr=1-3)をご覧ください。この本はわかりやすく論旨明快。
 マトゥラーナ&バレーラは、聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、オートポイエーシス理論の提唱者です。マトゥラーナが「師匠」でバレーラは「弟子」だそうです。お二人とも生物学のバックグランドがあり、マトゥラーナのほうは医学も修めているそうです。
 マトゥラーナ&バレーラがオートポイエーシス理論で何をしたかというと、ごく端的に言うと、(a)生物の環境への適応は閉じられた環の中で起こる、そして、(b)言語的な活動を伴った人間の活動の総体も生物の場合と同じく閉じられた環の中で起こる環境への適応である、と見るということです。よく言われる「言語は行為である」とか「言語は記号(code)ではなく、象徴である」などの言説からはるかにぶっ飛んで、「言語活動は人間による環境への適応(活動)の一部である」ということになります。
 これまでやってきた、バフチンらと同じように、マトゥラーナ&バレーラもまた「難物」です。しかし、ぼくが受ける「興奮度」はバフチンと同等あるいはそれ以上です。でも、難易度もバフチンと同等あるいはそれ以上です。これから12回にわたって、マトゥラーナ&バレーラと対話してみたいと思います。対話する相手は主に『知恵の樹』(https://www.amazon.co.jp/知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか-ちくま学芸文庫-ウンベルト-マトゥラーナ/dp/4480083898/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&dchild=1&keywords=知恵の樹&qid=1587354663&s=books&sr=1-1。原著は、https://www.amazon.co.jp/Tree-Knowledge-Biological-Roots-Understanding/dp/0877736421/ref=sr_1_59?__mk_ja_JP=カタカナ&dchild=1&keywords=the+tree+of+knowledge&qid=1587354829&s=english-books&sr=1-59&swrs=E8EF52F0DDFC08C2F1C5087F5C1EBF7B)です。
 今回は、かれらがコラムで言語について述べている部分を紹介して、第1回の締めとしたいと思います。日本語訳と英語の両方を出します。日本語訳の[ ]内は訳者の補足です。

言語 ぼくらがおこなう言語的識別の対象物が、ぼくらの<言語域>の要素であることが観察者にわかるとき、ぼくらは言語の中で作動している。言語とは<言語すること>としてのみ存在する進行的プロセスであり、行動の孤立したひとつのアイテムなのではない[ひとつの行動、として数えさししめすことのできるものではない]。

Language  We operate in language when an observer sees that the objects of our linguistic distinctions are elements of our linguistic domain. Language is an ongoing process that only exists as languaging, not as isolated items of behavior.

 マトゥラーナ&バレーラのフレイバー(香り、雰囲気)が伝わったでしょうか。連載に付き合おうと思っている人は、ぜひ上記の『知恵の樹』を入手してください。文庫ですが、写真、イラスト、図なども豊富で何とも、「豪華な」本です。