2020年5月12日火曜日

ビギナーを対象とした対話による日本語習得支援はありうるか?

CLE「開かれた例会と話題提供の意味について — オンライン開催、その後のやりとりから」(ルビュ言語文化教育第743号(2020年3月27日発刊)の「研究所より」を読んで

 ALCE第65回例会及びその後関係でいくつかのテーマについて考えたことをシェアしたいと思います。
まずは、経緯。
1.去る3月15日にALCEの第65回例会「ゼロビギナーと対話するとは — ことばを教えることが目的ではないなら、何が教室活動の目的なのか」がオンラインで開催された。
2.その報告がルビュの第742号の「研究所より」に掲載された。そこには、企画者の稲垣さんの自身のfacebook上でのまとめ(同日)の転載と、例会当日の配付資料のリンクもある。
3.2の裏で、稲垣さんのfacebook上のまとめに対して、参加者と企画者・主催者との間でやり取りがあった。
4.ルビュの第743号の「研究所より」に標記記事が掲載された。そこでは、稲垣さんのfacebook上でのやり取りの一部が掲載され、話題提供の意味(言語教育の「意味」と「価値」を問題にして、最終的にどのような人間の育成を言語教育はめざすべきなのか、ということを念頭においた言語教育実践についての話題提供)などが論じられた。

 この例会での議論の素材になったのは、2016年の9月から12月の3か月にわたってヴェネツィア・カフォスカリ大学で行われた対話プロジェクト「Action Research Zero Workshop」の最初の1週間の様子です。このプロジェクトについては、企画段階から本ルビュで公表されていたので知っていましたが、企画段階から参加者(日本語学習経験のない? カフォスカリ大学の学生?)のことを「ゼロビギナー」と呼んでいたので、このプロジェクトについては関心を喪失していました。(人のことを「ゼロ(ビギナー)」というふうに平気で「ゼロ」と呼ぶデリカシーのない人がすることにはどうも関心がもてません。また、残念ながらそんな人と対話する気にもなれません。「ゼロビギナー」という言い方は、日本語教育界全体で平気で使われていますが、それは日本語教育界全体のデリカシーのなさを示していると思います。「多文化共生」とか立派なことを言っている人が、よく「ゼロビギナー」なんていえるなあという感じ) 「ゼロビギナー」ではなく、「初習者」が適当だと思います。

 さて、「ご託」はこのへんにして…、と言うか、そもそもこの「ゼロビギナー」という言い方に初習の学習者に向ける誤った視線があります。かれらは決して「ゼロ」ではありません。 そう言うと、「いや日本語知識はゼロでしょう!」という声が聞こえてきそうです。
 わかりやすい「モデル」として、カミンズの二言語相互依存説を思い出してください。二言語相互依存説は、言語能力一般(わかりやすく言うと、BICSとCALPの両方)について言われていることではなく、CALPについて言われていることです。この点が重要です。
 BICSとCALPの重要な(決定的な?)違いは何でしょう。BICSは、ヴィゴツキーの言う生活的概念あるいはバフチンの言う日常生活のイデオロギーが関与する言語活動に関わる言語能力です。そして、それは、いわゆるリテラシー獲得以前の言語能力であり、ヴィゴツキー的に言うと直観的な言語的思考及びそれに相応する言語活動従事のみを可能にする言語能力です。つまり、BICS段階にある言語ユーザーは、言語活動に従事している自身のことばを自覚していないし、まだ真の概念を発達させていません。(この段階の子どもは一般的には「就学以前の子ども」ですが、今の子どもは就学前でもかなりのリテラシーがある、あるいはその準備が大いにできています。) それに対しCALPを十分に発達させている大人や小学校高学年以上の子どもなどは、思考と言語の発達の特定水準の意味としてリテラシーがあるということになります。そういう人は、真の概念を(子どもの場合は「一定程度」)発達させていて、cognitiveでacademicな知識を豊富に内具していて、概念的な言語的思考ができます。また、その言語活動の運営の仕方も多かれ少なかれ自覚的で随意的です(多かれ少なかれ意図的に話しているし、自分が何についてどのように話しているか自覚している)。ざっくり言語活動の特性として言うと、BICS段階の言語ユーザーは短い発話で「やんちゃに」しか話せない、CALP段階に至っている人は(「やんちゃに」も話せますが)拡張的なディスコースで穏やかに知性的に話をすることができる、ということになるでしょうか。そして、二重言語「相互依存」を可能にしているのは、豊富に内具されたcognitiveでacademicな知識です。その知識は元々はディスコースの形態をとっており、その元々の形態に容易に復元することができるのですが、定常の状態としては、言葉としての具現の側面がほとんど「蒸発」した言語的思考の「雲」となっています。この「雲」が二言語「相互依存」の重なり部分なのです。このように、言語的思考ということを考えると、基礎教育(義務教育程度、あるいは小学校だけでも)修了以上の人の場合の第二言語学習のスタート条件は決して「ゼロ」ではなく、第二言語での言語技量を発達させるために「重要な部分である8割方のところはあらかじめ用意されていると見るべきでしょう。(基礎教育を受けていない人の場合でも、やはり「ゼロ」ではありません。しかし、教室という空間での「仮想的な圏域」でのやり取り、つまりざっくり言うとその時の目の前にあるモノや状況に依存しない話、はひじょうに困難になります。) ただし、ここに言う真の概念を発達させているというのは、抽象的なものも含めて語義を知っているということではありません。もちろん、意識を単語に集中すれば語義をつかむことができるということはありますが、それよりもむしろ上に言ったようなcognitiveでacademicな知識を豊富に蓄えているという側面に注目するべきでしょう。
 言語の知識ではなく、言語的思考あるいは概念的思考ができることや、そうした思考を基盤として語りや他者との対話ができるという部分に注目すると、第二言語教育の企画や実践を考える目線も大きく変わってくるだろうと思います。

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