2019年10月6日日曜日

沈没しそうなオンボロ船から最新鋭の新造船に乗り換える!

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2018年12月号に羅針盤として掲載されたものです。

沈没しそうなオンボロ船から最新鋭の新造船に乗り換える! 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。
 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。
 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!)
 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない? 
 うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く! 
 日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。
 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! 

「あいつ、年下のくせに、なまいきだね」は日本語ネイティブにはわかる!?

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年3月号にコラムとして掲載された者です。

「あいつ、年下のくせに、なまいきだね」は日本語ネイティブにはわかる!?

 わたしはFM京都αステーションのファンで、車に乗ったときはいつも聞いています。そして、朝の番組は素敵な低音の素晴らしく落ち着いた話しぶりの佐藤弘樹さんがDJをしています。佐藤さんは英語が素晴らしくできるようで、京都外国語大学の講師もしていらっしゃって、同番組でワンポイント・イングリッシュというコーナーをいつもやっていらっしゃいます。「こんなの英語で何と言うのだろう?」というような話です。ワンポイント・イングリッシュで取り上げられる表現はいずれも英語で表現するのはむずかしいです。そして、自分たちの(1)生活習慣に基づいた上で、(2)日本語で考えて、そして(3)日本語にした上でそれを英語にしようとする、(悪い!)習慣がある「英語が苦手な」英語学習者たちには「なるほど、だからそれを英語で言うのがむずかしいのかあ」と手を打って思わせるものばかりです。しかし!! これってどうなの? そういう「悪い習慣」をもっている人の「悪い習慣」に基づく「ご質問」に答えて(応えて?)いていいのでしょうか、英語の習得を支援しようとする者として。佐藤さんの番組は佐藤さんのトークもそこで流される音楽も大好きなのですが、このワンポイント・イングリッシュだけはいつも「引っかかり」ます。
 そのワンポイント・イングリッシュで先日(実は2月10日)「『あいつ、年下のくせに、生意気だね』は英語でどういうんでしょうね?」というのが出てきました。佐藤さん曰く「 うーん。これは、英語にならないでしょうね。これは、日本語ネイティブならわかりますが、英語話者の人には何を言ってんだかさっぱりわからないでしょうね」。ワンポイント・イングリッシュにはそもそも「引っかかって」いるのですが、この「日本語ネイティブならわかりますが」には大いに引っかかりました。日本語ネイティブと言われるには、この水準までどっぷり『日本』に浸かっていないといけないの? そもそも「あいつ、年下のくせに…」というのはほとんど差別発言です。「あいつ、女のくせに…」とか「あいつ、男のくせに…」というふうにすれば差別発言であることがすぐにわかります。差別発言は、差別発言だからだめ、というものではありません。そのように言われた当事者が不快になることと、そのような不当な「線引き」を維持し助長するから、いけないのです。その根本は、人に対するやさしさや人を一人の人として尊重する態度です。そのようなことを考えると、「あいつ、〜なのに…」という発言は、そもそも人へのやさしさや尊重する態度のない発言となります。それを「これって、英語でどう言うんだろう?」というネタにするというのはどうなんでしょう? そして、実はワンポイント・イングリッシュで取り上げられているネタの多くは、ここまでひどくはないにしても、「土着的な」生活習慣に基づいた発想の日本語がとても多いです。
 「外国語を学ぶときは、その言語が話されているところ/人々の文化や習慣も理解しなければならない」とよく言われます。それは、一応その通りではありますが、その基本は、(a)人へのやさしさと尊重する態度と、(b)自身が身につけていることの中で自文化に特殊的な部分を認識し意識化すること、です。(a)のほうは、言語や文化を超えた普遍性のあるものです。そして、(b)の「自身が身につけているもの」には、自文化に特殊な部分と(a)に通じる部分の両方が含まれています。そんなふうに考えると、外国語学習を通してめざすべきは、他者を尊重しよりやさしい度量の広い人間になることであって、相手の文化の特殊性を知っておもしろがることではありません。そして、そうして身につけた態度や度量は、自身の第一言語で外国出身の人と話す場合においても発揮されるものです。
 こんなふうに考えると外国語の学習は人格の陶冶ということに大いに資するものなのだと思われます。外国語を勉強しているのにあいかわらず「あいつ、〜なのに…」というような考えをもっている人は、一体、何をその外国語で話し、どのようにその言語の話者と交わろうとしているのでしょうか? 何だか、そんな人は、そもそもの外国語学習の入口にも立っていないのではないかという気がします。
 ああ、ちなみに、佐藤弘樹さんのために「弁護」をすると、佐藤さん自身は英語教育の人でもあるわけですが、このワンポイント・イングリッシュについては、教育的な観点ではなく、娯楽的な観点でやっていらっしゃるということだと思います。そして、いわゆる英会話を勉強しているという人のかなりの部分は、真剣に英語ができるようになって何かをしたいということなのではなく、英会話の勉強そのものがそもそも娯楽なのではないかとしばしば思ってしまいます。もちろん、そういうのも「あり」ですが。

2019年10月1日火曜日

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし なりのこたえ

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし
なりのこたえ
                                  西口 光一

先日、神戸のコミュニカ学院で研修を担当させていただきました。その時に、わたしの
考えを十二分に理解してくださった上で院長の奥田先生から「そういう話の上で、結
局、西口先生は何のために日本語を教えるの? 学生たちは何のために日本語を学ぶ
の?」と尋ねられました。5月以来何回か、NEJやNIJの日本語教師対象のセミナーとい
うことで表現活動中心の日本語教育(自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現
活動中心の中級日本語教育を合わせたもの)について話す機会がありましたが、そこで
はどちらかというと「学習者における日本語の上達」に関心を置くオーディエンスの関
心に応える形で、「従来の日本語教育の企画(言語事項中心のアプローチや実用的なコ
ミュニケーション中心のアプローチ)では日本語を上達させることはできません。日本
語を上達させることができる教育企画は表現活動中心の日本語教育です!」という指摘
をして、同教育企画の内容をお話しし、さらにユニットの一連の授業の流れを説明し
て、その一部について具体的に模擬授業を実施する、ということをしました。そんなこ
とでこのところひどく「実際の教育実践対応」をしてきたわたしには、奥田先生のご指
摘は改めて表現活動中心の日本語教育の原点に回帰させてくれるものでした。

表現活動中心の日本語教育におけるそもそもの「関心」は二つです。一つは、上で言及
したように、本当に日本語を上達させることができる日本語教育を構想しその実践を実
現することです。そして、その先にあるもう一つのより上位の関心は、新たな言語を習
得してこれまで交わることのできなかったもっとたくさんの人と交流してほしいという
ことです。そして、より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かに
してほしいということです。この後者は、CEFRの複言語主義と重なる関心かと思いま
す。

仮に、前者を「つながる日本語」という関心と呼び、後者を「つながり」という関心と
呼ぶことにします。あえて、これらに形容詞をつけると、「つながる日本語」は教育的
な関心、「つながり」は価値判断的な関心ということになるでしょうか。

両者の関係は、一見すると、「つながる日本語」の習得が先で「つながり」はその後に
実現できることというように見えるかもしれません。そして、この見方では後者が目的
で前者が手段という具合になってしまいます。しかし、これでは、またまた「道具主義
的な教育」の「復活」となります。表現活動中心の日本語教育では、この2者をそのよ
うな関係としては考えていません。「そのような関係としては考えていない」というこ
とには二つの面があります。

一つは、「つながる日本語」の学習と習得支援(教育)を、さまざまなところから来た
さまざまな背景を持つ他の学生とつながり交流しながら行っているということです。つ
まり、言葉を行使するというのは人とつながることなんだという見解を口で言うのでは
なく、具体的な学習と習得支援の実践として伝えているわけで、そのような実践を通し
て「より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かにしてほしい」と
いうメッセージ/願いを伝えるようにしているわけです。このように表現活動中心の日本
語教育では両者は目的と手段というような関係ではなく、重なり合っています。

今一つは、一つ目と明らかに関連していますが、表現活動中心の日本語教育を実践する
教師は授業であるいは授業外で学生と接するときの態度でも、上のようなメッセージ/願
いを伝えています。同教育を「正統に」実践する教師は、「日本語を教えている」、
「日本語をしっかりと身につけてください」という態度で学生と接することはありませ
ん。むしろ、「日本語で自身のことを話せるように/インターアクションできるようにな
っていろんな人とつながってね。そしたら、楽しいよ。人生がもっと豊かになるよ」と
いうような部分に関心を持っているという態度で学生と接しています。上のエッセイで
岡崎さんが言っているように、表現活動中心の日本語教育の教師は、「つながる日本
語」として学習者一人ひとりが自分の自己というものを紡ぎ出せるようになることに、
そして相互の紡ぎ出し合いによるつながりと対話に関心を置いています。日本語の習得
というのはそれに付帯する事柄として副次的にのみ関心が寄せられます。

このように、表現活動中心の日本語教育は、「つながる日本語」という教育的な関心と
「つながり」という価値判断的な関心を契機として、その両者が渾然となって実際の教
育が実践されるようにと企図して構想されたものです。そして、一教育実践者であるわ
たし自身は言うまでもなく、「正統派」の教師たちも、そのような企図を具現する形で
教育を実践しています。

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

この時期は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものです。

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

 今回は、現象学とは何かをできるだけ簡明に説明し、さらに現象学と現象学的心理学を架橋する議論を紹介したいと思います。
 メルロ=ポンティは、自然的態度、エポケー、現象学的還元について以下のようにうまく説明しています。(木田からの孫引きで、原著はまだ確認していません。) すなわち、自然的態度に生きるかぎりでのわたしたちは、環境や外的諸条件によってさまざまに条件づけられています。メルロ=ポンティはこれを「負わされた条件」と呼んでいます。そして、現象学的還元は、この「負わされた条件」を、エポケー(判断留保)という操作をすることによって、「意識された条件」あるいは「自覚された条件」に変えようとすることです。決して条件づけられていることを否定しようと試みることではありません。(第4回の末尾のメルロ=ポンティの引用ももう一度見てください。)

1.『イデーン1』における志向性の再考
 初期の『論理学研究』で、フッサールは、意識の志向性という視点を中心に据えて主として心理学主義を批判しました。そして、中期の『イデーン1』においてはより包括的に自然主義批判を行います。そのために、志向性の問題も考え直されることとなります。『論理学研究』で問題になっていたのは広い意味での心理というイデア的対象の構成に関心が置かれていました。しかし、『イデーン1』においては、イデア的か実在かを問わずすべての対象の構成が関心の対象となりました。すなわち、すべての志向的対象の存在が、それを構成する意識の志向作用に遡って明らかにされなければないこととなりました。そして、一般的に、存在と意識とは厳密な相関関係をなしているのであって、いかなる存在もそれが意味をもつかぎりは必ずそれに対応する意識の構成作業があり、その作業においてそれがそのような意味をもつものとして所与となるのです。
 ここで間奏として、『イデーン1』におけるフッサールのねらいを見ておきたいと思います。上のように、世界の存在とその意味に関するあらゆる仮定や先入見が還元によって排除(一旦、判断保留)され、世界や世界の内部で経験され得るすべての存在者(存在者というのは、実際には「者」ではなく、対象として存在する「もの」、筆者注)の本質的な区別と構造は、それら存在者が与えられるさまざまな意識の作業にまで遡って問い直されることになります。例えば、自然科学や精神科学の用いる基本的な概念やカテゴリーは、たいていの場合素朴な世界革新の上に立つわたしたちの日常的経験から汲み取られたものです。それが、それらの諸科学が究極の根拠づけをもち得ない理由です。ですから、それら科学の基本的概念やカテゴリーは、現象学によって根本的に検討し直さなければならないのです。そして、フッサールによると、超越論的現象学こそ、かつてのデカルトの試みと同様に、自己と世界とを意識している者としてのわたしたち自身の確実性に立ち返っていっさいの諸科学を基礎づけなおすべき基礎学だとなります。

2.ノエシスとノエマ
 さて、議論をわたしたちの関心に近づけていきたいと思います。
 端的に、上に言う存在者がノエマで、それに与えられる意識あるいは志向作用がノエシスとなります。ラングドリッジはこれをわかりやすく、ノエマ=経験されることノエシス=経験される仕方、と説明しています。つまり、意識あるいは経験の一般的構造は、志向作用であるノエシス的契機と、そこで志向される対象であるノエマ的契機との相関関係として捉えられるわけです。
 ラングドリッジは、それ以前の意識についての考え方の「自己中心的袋小路」問題について論じ、現象学から現象学的心理学への橋渡しをしています。

 過去200〜300年にわたって哲学では、とりわけ17世紀のデカルトの哲学に従って、私たちは自己自身と自分の考えや感情に気づくのであって、そのようなものとして意識は、そうした考えや感情を導く外部の事象に向かうというより、内部に向かうというように、きわめて特別なしかたで理解されてきたのだった。この、意識についてのデカルト主義的な考え方では、私たちの意識は「何かについての」意識ではなくなってしまう。代わりに、哲学者たちが「自己中心的袋小路」(egocentric predicament)と称したものにとらえられてしまう。神経科学の研究成果は、一見したところ、意識についてのそのような見解を支持しているように思われる。…もし気づきが内面に向かっているのであれば、私たちはどのようにして外部世界に触れることができるのか、という難問(自己中心的袋小路)に直面することになる。さらなる問題として、私たちは、どのようにして、同じように自分自身の主観性の囚われとなっている他人の世界を知ることができるのであろうか。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 ラングドリッジは、明快に指摘します。

 志向性はここでは、…何かをしようと意図する(intention)という普通の意味で使われているのではない。そうではなくて、私たちが意識している(conscious)時は ─ 気づいているときは、と言ってもよいが ─ いつでも何かを意識している(または何かに気づいている)、という事実のことを言うのである。…現象学者にとっては、…意識が世界に向かうそのしかたが、焦点となる。なぜなら意識は、志向的に世界のなかの諸対象に関わるからである。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 そして、現象学的心理学の研究対象を以下のように規定します。
 
 現象学的心理学の研究対象となるのは、世界についてのこの意識であり、具体的に言えば、人間の意識と世界との関係である。それは経験の公共的な(public、筆者注)領域である。…(現象学的心理学では、筆者捕捉)志向的な相関関係において事象が現れるがままの経験とそれが私たちに現れるしかたに取り組むことになる。…これによって心理学という企ては、脳の中の思考のパターンを探究するというよりは、ある人物とその住まっている世界に起こっていることを基にしたものになる。このような構想の結果として、現象学的心理学にとって、経験を理解すること、そしてその人がその住まっている世界をどのように知覚しているかが、中心的な関心事となる。(Langdridge, 2007, pp.13-14、邦訳pp.16-17、一部改訳)

 ここに言う志向的な相関関係が、ノエシス的契機(事象が現れるままの経験)とノエマ的契機(それが私たちに現れる仕方)の相関関係であることは言うまでもありません。

3.環境と世界と、体験と経験
 現象学では志向性が働く以前の生のままの世界のことをしばしば(世界の代わりに)環境と呼びます。つまり、わたしたち一人ひとりは、ある時空間にいて、そこで原初的に環境と接し交わるわけです。そして、わたしたちが覚醒しているかぎり、志向性が自ずと働いて、「何か」としてこの環境を知り、それと交わって生きることを営みます。その「何か」が世界やその中の対象(両者を合わせて存在者)となります。
 実は、日本語とドイツ語は便利で、前者の原初的な環境との交わりと後者の世界との交わりをそれぞれ別の言葉で言うことができます。前者が体験、ドイツ語ではErlebnisで、後者が経験、ドイツ語ではErfahrungとなります。つまり、経験として捉えられる以前の生のままの体験(Erlebnis)というものがあって、それがノエシス的な契機とノエマ的な契機の相関関係として止揚されて経験(Erfahrung)になるのです。
 そして、ここでいよいよ言葉、言語が登場することになります。それは次回に。

2019年9月18日水曜日

どんな日本語教育者になる? ー 勉強者? 発信もするスーパー勉強者?

 ある研究会の友人が研究会のメーリングリストで、知の探求者の分類表ということで、以下のような4象限の図を紹介してくれました。(この図は、『在野研究ビギナーズ』(荒木優太編著、アマゾン日本の思想でベストセラー第1位)を読んで、山本隆一さんがblog(https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/09/08/222032)で提示しているものです) そこでは「勉強者」というおもしろいカテゴリーが提案されています。また、ここに言う「スーパー研究者」というのは「複数の分野にまたがり得る優れた研究者で(たぶん哲学的な造詣もあって!)応用的なアイデアも豊富な人」というようなことかと思います。




で、これを参考にして考えたこと。

1.理系の場合はB(勉強者)の価値は高い
 まず、4象限を右上から時計回りに、SR:スーパー研究者(学者)、B:勉強者、M:マニア、R:研究者、としましょう。荒木優太さん(『在野研究ビギナーズ』の著者)も山本隆一さん(blogで図を発信した人)も基本理系の人ではないかと思います。そして、理系の場合は、あらゆる分野で、実験やシミュレーションなどに基づいた「実のある研究」が十分すぎるほど行われていると思います。つまり、現在「利用可能で(活用されることを待っている)そこにある知」が極めて豊富です。ですから、B(勉強者)の価値はとても高いと思います。

2.「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」というのは一応わかる
 しかし、日本語教育学を振り返ってみてください。日本語教育学には「利用可能でそこにある知」が一見たくさんあります。しかし、その知の大部分は、日本語について(日本語学)と、日本語の使われ方について(社会言語学、会話分析)です。(当面は、実践研究での知の蓄積の話はどけておきます。) そして、それらの知は、日本語教育の実践に「直接に応用が可能」でしょうか。この「直接に応用が可能か」という部分がぼくがずっと「警鐘を鳴らしている」ところです。
 端的に言って、現在利用可能な知は、直接に応用は可能ではありません。応用のためには、(1)まずは知の「出番」を見極めなければなりません、そして、(2)教育指導として適切な形に「仕立て直して」利用しなければなりません。
 現在「利用可能でそこにある知」を生産し続けている研究所の研究者や大学のセンセたちは、「どうぞどんどん使ってください!」「わたしたち(研究者)はいろんな(利用可能な)知を皆さん(日本語教育実践者)に提供してるでしょ!」というスタンスで、「自分たちが好きな」知をただ増やし続けています。そして、研究の方面に必ずしも強くない日本語教育実践者はいつもかれらが発信するディスコースの量と「ややこしさ」に圧倒されて煙に巻かれてそしてひれ伏すばかりです。そんな文脈があるので、「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」という立場は一見「悪くない」感じがします。

3.知性の充実こそ日本語教育学の現状を打破する
 しかし、現在の大勢の日本語教育学の知を生産しているR(研究者)たちとクリティカルに対話をしても、日本語教育学にとって本質的に必要な知は出てこないと思います。ぼくが「日本語教育学には知性が足りない!」(https://koichimikaryo.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlと言ったのはそういう問題意識の表明です。
 結局、問題は、現在の日本語教育学というのは、実際には個別の研究領域の単なる寄せ集めになっていて、そういう個別の学を統括する総括的な学がないということです。そして、そのことが、日本語教育学を迷走させています。実践研究を推進しているグループは、そのような現状を改善・打開するためのかれらとしての試みとして、実践研究というのを強力に推進しているのでしょう。それは、「前向きな」一つの姿勢だと思います。
 ただ、ぼく自身は、それよりも知性の充実こそが必須だと思っています。ただし、忘れてはいけないのは、「日本語教育実践への真摯な関心を維持しながら」です。知性の探究には大きな時間と努力が要ります。ですので、それをやり始めると、ややもすると当初の問題意識である実践への真摯な関心から離れたり、それを忘れたりしてしまいます。

4.新たな本質的に必要な知を生産して発信するB
 当面は、B(勉強者)としてやっていくのはいいと思います。ただし、「既存の知」のBではなく、「新たな本質的に必要な知」を探究するBです。
 でも、考えてみてください。この「新たな本質的に必要な知」をどこの誰が生産してくれるでしょう? 日本語教育学全体をながめても「ほぼいない!」です。そうすると、当面はBでも、近い将来には「新たな本質的に必要な知を生産して発信するB」にならないといけないのでは? それも業績のために発信するのではなく、日本語教育のギョーカイでの知性の拡充を促進するために発信することになります。どのようなメディア、モード、方法でそういう発信をするかは、検討しなければなりませんが。(もちろん業績にもなる形であるなら、それはそれでいい!) 

5.「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」というドライブ(推進力)
 実践への真摯な関心を維持しながらそういう本質的に必要な知を探究する場や「コミュニティ」がぜひとも必要です。そして、知の生産とシェアの場の「馬力」を高く維持するためには、ぜひ「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」という心意気を持つことが期待されます。それが「新たな知を探究する」強力なドライブ(推進力)になるからです。
 ちなみに言うと、日本語教育者&日本語教育学者は、日本語という対象が関わる諸分野だけでなく、言語と言語の習得と習得支援や言語と文化と現実の構成や言語と文化と自己などがテーマとなる分野についても探究する必要があると思います。そのような意味で、日本語教育者&日本語教育学者は避けがたく「オールラウンド・プレイヤー」であることを求められているように思います。ですから、基本はB(勉強者)なのでしょう。ぼく自身、そういう意識です。そして、その行きつく先は、個別分野のR(研究者)を凌駕する「スーパーB」です。そんなBやスーパーBが増えると、日本語教育(学)の分野は俄然おもしろくなると思います。

2019年9月11日水曜日

日々の教育実践での悩みやもがき ─ 「これって、本来じゃないよねえ!」という改革・革新の声

 従来の日本語教科書を主教材とする日本語コースで仕事をしている人は、常に「教科書のこの部分をやってください!」というノルマを課されます。例えば、『みんなの日本語』で言うと、「練習Aと練習Bをお願いします!」、「練習Cと問題をお願いします!」などです。そして、最近では、「練習Aと練習Bの授業を赫々然々の手順で実施してください!」と丁寧に(お節介に!!)指定してくる学校もあるようです。
 そんな中で、自身の授業ができるだけ学生の日本語習得や日本語の上達に資するようにと考える真摯な教師は、「練習Aと練習Bをカバーしながらどのように授業を組み立てれば有効な授業になるか?」、「練習Cと問題というノルマを果たした上で、他にどのような活動を計画し実施すれば学生における日本語の上達に資することができるか?」などと日々考えます。そして、その途上でしばしば、「この練習は 教師に授業実践として何を期待しているのだろう?」とか、「うーん、この練習はそもそも有効・有益なのかなあ?」とか、「そもそも『一つの課で一つ文型に集中』というデザインはそれでいいのだろうか?」などとあれこれ悩みながらも、とにかくあすの授業を何とか有効・有益なものにするべく、もがきます。
 多くの日本語学校や大学でフツーの(従来的な)コースを担当している日本語教師の悩みやもがきをこのように記述してみましたが、だいたい当たっているでしょうか?
 さて、この悩みやもがき、一体何なのでしょうか。また、この悩みやもがきはやがて解消されて、有効・有益な授業ができるようになる「途上」の悩みやもがきなのでしょうか。「途上」の悩みやもがきなのであれば、しっかり悩みもがいていただくのがいいと思います。しかし、ぼくにはそれは「途上」の悩みやもがきとは見えません。それは、そもそもの教育企画(と教材)が抱える問題や矛盾を現場教師に丸投げされているという根本的な悩みやもがきなのだと思います。そして、その悩みやもがきは根本的な悩みやもがきなので、悩んでももがいてもほとんど甲斐がなく現行の教育企画(と教材)が続く限り続く悩みやもがきであり、後輩たちにも引き継がれる悩みやもがきです。結論として言うと、現行の日本語教育企画(と教材)を続けている限り、この詮ない悩みやもがきは続きます

 この記事を「そうだそうだ!」と思いながら読んでくださっている方は、現行のフツーの日本語コースで日々悩みもがいている真摯な方であろうと思います。しかし、もう一歩!! 十分に悩みもがいた上で、「やはりこの現行の教育企画(と教材)では教育成果は得られない!」と思ったら、「この教育企画(と教材)はやめよう!」「もっと『有望な』教育企画(と教材)に置き換えよう!」という声を大にしてあげてください。そうでないとこの詮ない悩みともがきが続く、いい仕事ができない業界(現行の日本語教育とその実践)が続きます。

 いい仕事ができない教育業界というのは、そのために犠牲になる学生をずっと再生産しているんですよ! あなたは真摯な人なのかもしれませんが、「まじめ」(きまじめ?)な人でもあるのかもしれません。そして、「まじめ」(きまじめ?)な人はしばしば「先輩」や「伝統」に反旗を翻すことを躊躇します。
 改革・革新の気運というのは、民衆の中からじわじわと発生し広がり膨らんでいくものです。現行の体制が続いている間はその中で何とか創意工夫して実践を続けるとしても、一方で、「これって、本来じゃないよねえ!」という声を(ひそかに? 燎原の火のように!)上げ、改革・革新の気運を醸成していってください。そうでないと、学生の犠牲が続きます。

2019年9月8日日曜日

日本語教育者=日本語教育という仕事を理知的に捉え、理知的に考え場合によっては探究もし、実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする人

 昨日、土曜の会(@関学梅田キャンパス、doyounokai@gmail.com)がありました。いつものようにすばらしく教養深く、理知的で、真摯な議論が展開されました。そんな中で、わたし及びこの仲間たちは「何者になる」ことを目指し、「何者が増える」ことを切望しているのだろうかと考えました。
 
 従来からぼくは、「日本語教師」という言葉は避けて、「日本語教育者」という言葉を使っています。例えば、ぼく自身のことは「日本語教師」と言うと「収まっていない」感じで、「日本語教育研究者」と言い方をすると日本語教育の実践を傍観している感じになって日本語教育の実践に常に関与しているぼく自身のスタンスを反映しません。そうなると、ぼく自身の、日本語教育の実践とのスタンスと研究的な姿勢と研究の取り組みを包含する呼び方はやはり「日本語教育者」かなあと…。
 で、土曜の会に参加している人たちはけっこうぼくと同じオリエンテーションがある人たちだという気がしています。つまり、日本語教育者であったり、そうなることをめざしている感じがします。じゃあ、日本語教育者というのはどんな人か?
 日本語教育者は、
(1)日本語教育という仕事を理知的に捉え、
(2)理知的に考え場合によっては探究もし、
(3)実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする
人、でしょうか。 で、ご覧のように「理知的」というのがどうもキーのようです。「理知的」というのがキーワードになるのは、業界全体としては「理知的」が不足しているという認識なのでしょう。
 そして、このオリエンテーションの基盤にある根本の姿勢は、「いい仕事、誇れる仕事をしたい」ということです。そのためには、当面は?「理知的」を厚くしなければならないという問題意識なのでしょう。
 ただし、…。「知性的」と「理知的」はどう違うか?
 ぼく自身は、 理知的=知性が豊かで明敏×感性が豊かで鋭い と考えています。言語教育に適正に従事するためには、知性だけではなく、人間や言葉や人間文化や人と人の言葉を仲介とした接触・交流や言語の習得などについての感性も大いに必要だと思います。(感性を磨きあげて言葉にしたものが「野生の知性」?←これ、ぼくの好きな言葉!)

 ということで、日本語教育者をめざそう! ということでどうでしょう!?