2019年1月8日火曜日

日本語教育をプロデュースしているのは誰/何で、監督をしているのは誰/何だ? ─ 「遠吠え」ばかりしている?

 webjapanese(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/
)の「Who cares? ─ 誰が日本語学習者を守るのか」の記事を読んだ上での先の記事の後に以下のようなことを考えました。まあ、この記事も、あまり「明るい」記事ではありません。

前口上
 わたしはなぜあれこれ専門の本を読んだり論文を読んだりしているのでしょうか? それは、何かについて発言しよう(書こう)と思ったら、その何かについてすでに発言している人の見解を知っておかないといけないからです。これは、研究や学問をする人間の基本的なマナーです。
 一般的にはこれは先行研究のレビューということになります。では、わたしは先行研究のレビューということをしているのでしょうか。どうも違うようです。先行研究のレビューというのは、一定の研究領域(例えば、第二言語習得研究)と一定の研究テーマ(例えば、文法形態素や文法構造の習得の研究や語用論転移の研究ど)があって、それまでに行われている理論的研究や実証的研究を踏まえてその上にさらに研究的知見を積み重ねようという趣旨で先行研究のレビューをします。その営みは、当該の研究分野をさらに伸展させることです。
 「わたしの場合は違う」というのは、(1)わたしの学問的営みは特定の研究領域に焦点化していない、そしてこの(1)とも関係ますが、わたしの研究は、(2)いろいろな研究領域の研究成果を第二言語教育学の関心から「批判的に」(関係があるか無関係か、関係がある場合はどのように関係があるか、に焦点化して)まとめあげることと、(3)教育学的に日本語教育学を確立すること、です(教育実践に関わる仕事は別物ととして)。わたしがやっていることは、フツーの意味での学術研究ではないのだろうと思います。しかし、(たぶん!)、日本語教育や第二言語教育の実践のために「必要で」「求められている(?)」学問的な営みであろうと思って(願って)います。
 そんな事情のため、日本語教育(学?)関係の論文や海外の応用言語学関係の本や論文もけっこう読んでいます。そして、今、日本の日本語教育界は、就労外国人の受入れに向けた日本語教育の整備で「てんやわんや」になっていて、そんな文脈で教員教育や教師養成の改革というテーマが頻繁に論じられています。そんなのも、読んでいます。
 そんなことをしていて、しばしば感じるのが、表題のようなことです。検討してみましょう。

本文
 取りあえず、用語。映画のプロデューサーや、ドキュメンタリーや特集番組のプロデューサーと言うように、プロデューサーというのは、基本のところで何をどのように制作するかを決める人です。そして、監督というのは、プロデューサーと連携しながら具体的に制作を進める人です。多くのジブリ作品では、高畑勲さんがプロデューサーで、宮崎駿さんが監督です。

Q1 日本語教育をプロデュースしているのは誰/何だ?
A1 日本語の教科書です。基礎(初級)段階や中級前半は、各々基礎(初級)教科書、中級教科書に依存しています。そして、中級後半や上級段階でも適当な教科書を選んで授業をしたり、いろいろな教科書から抜粋して寄せ集めて授業をしています。自身でコースを企画しデザインして、教材なども準備して教育実践をしているのは、ごく一部の先生だけです。それも、中級以上の学習段階に限られるでしょう。結局、日本語教育をプロデュースしているのは教科書です。そして、厄介なことに、たいていの教科書の著者は一人ではありません。ですから、日本語教育をプロデュースしているのは誰だと聞かれて、「この人(A教科書の著者)と、この人
B教科書の著者)」というふうに言うことができません。日本語教育は、責任を負っているのが誰だかわからない教科書によってプロデュースされているのです。そして、この状況は今後も変わらないだろうと思います。
 そして、フツーの教師が教科書を頼りにするのはむしろ「フツー」のことです。ですから、日本語教育の専門家という人が、優れた教育の企画とそれを支える「頼りになる教科書」を制作するべきなのだろうと思います。

Q2 日本語教育を監督しているのは誰/何だ?
A2 日本語教育を監督するのは本来は、各々の教育現場を担当しているコーディネータであるはずです。しかし、実際にはコーディネータは、学生や先生たちの「ご不満」をうけたまわってそれに対応して若干の「調整」をしている程度ではないでしょうか。既存の教科書を使っている限りは、コーディネータが授業担当教師と相談してダイナミックに学習活動や教育活動を展開するということはないように思います。(コースの流れに乗っていない唐突なスピーチコンテストや発表会などはありますが…) そんな状況ですので、授業担当の先生たちの方はそれぞれで、与えられたノルマをどのようにこなそうかということに汲々とするばかりです。そして、基礎(初級)段階では、各々の文型・文法の教え方を解説した教授法の本などに頼って、授業を計画し実施しています。このような事情ですので、この質問への答えは、監督は「不在」となります。

 さて、現在日本語教育の実践は、満足な状況でしょうか。これは、結果を客観的に測定して云々ということではなくて、実際に教育をしている教師の感覚として、そして教育を受けている学習者の感覚として、です。非漢字系の学習者について「毎日勉強していても、1年半勉強してN3に受かるかどうかだ!」という話をよく聞きます。うーん、これはどうもうまくいっていないと言わざるをえないのでは…。
 そんな状況を見て、大学のセンセたちは、たいていは、日本語教員の教育や教師養成を何とかしなければという方向で、あれやこれや「研究」して「提案」をします。そして、ますます「上等な」議論を繰り広げます。しかし! 今の日本語教育の状況を改善する方策として、教員教育や教師養成を改革するという行き方はどうなんでしょう? 有効でしょうか? 大学のセンセたちは、QA1やQA2などの状況をどのように考えているのでしょうか。どうもそのような現場や現状やそれに実際に関わっている人に直接関わることを避けて、「遠吠え」ばかりしているように見えてなりません。
 大学のセンセになった人は、「自分は日本語教育の研究者であって、日本語教育の(実践をする)専門家ではない」と自認しているのかもしれません。(それには一定の理解はできます。大学のセンセであるという「値打ち」を維持するためにも!) そして、その一方で、「日本語教師は…」「日本語教師にとって…」というように「日本語教師」ということをよく論じています。こういうセンセは、「日本語教師」を「卒業」されたようです。しかし! 大学のセンセが「日本語教師」を「卒業」した日本語教育の研究者で、現在日本語教育の現場に携わっている人が「未卒業」の日本語教師だとしたら、この世の中のどこに日本語教育の専門家がいるのでしょうか? どこに、日本語教育の専門家(その重要部分として、日本語教育のプロデューサーや監督がある)が「生まれる」のでしょうか。 
 これは、日本語教育と日本語教育学が抱える根本的な構造的問題です。この構造的問題を解決する処方箋はまだ誰も見出していません。厄介です。
 そして、その一方で、日本語教育の研究者と目されている人は、今、政治家や行政官から「関連するデータを出してくれ!」とせがまれて(?)います。普及可能なgood pracriceを生み出すことができておらず、そのために「関連するデータ」も集めることができていないわけで、これも実に厄介です。

 webjapaneseの記事をきっかけにあれこれ考えてしまいました。

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