こんなblog(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/)、だれかさんのfacebook関係で知りました。(ありがと!) ライターさんの情報収集力、恐るべしです。で、この記事の中にも「データ」云々のことが書いてありますが、以下、就労外国人に関わる日本語教育の施策と「日本語教育のデータ」ということについて考えました。(「だれかさん」にも送った記事からの抜粋です。)
1.「データ」云々について
これはとても厄介。(1)施策にはお金がかかる、(2)お金をかけるのだから「何に」いくらかけたら「どんな成果が」得られるかが明確になっていないと、お金を出せないし、いくら出せばいいかもわからない(accountability<説明責任>の問題)という論理ですねえ。
2.「何に」と「どんな成果が」について
現在の日本語教育学は「何に」について十分に語ることができるでしょうか。現在できることは、(1)(多かれ少なかれ)日本語学に基づいた「何に」、と、(2)ニーズ分析に基づいた「何に」、だけではないでしょうか。
そして、そのような発想では「何に」は「どんな成果が」と直接に関連するわけで、(1)の場合は「抽象的な言語事項の知識」において「ここまで!」という「成果」となり、(2)の場合は、リストアップされた言語活動の一覧表で「ここまで!(この言語活動まで!)とならざるを得ません。いずれも言語的な観点からの即物的な議論になっています。
3.もう一段広い視野で
(細川さんではありませんが!)「何に」の背後に「何のために」を置く必要があるのだろうと思います。そして、この「何のために」は、移民政策の一環なのであれば、「さまざまな背景をもつ市民の社会統合のため」となります。が、今回は移民政策ではない(らしい!)ので「社会統合」はダメです。そうなると、「何のために」一体は何でしょうか?
すぐに思いつくのは、(a)就労外国人でありながらも日本生活経験者としての(副次的な?)メリットとしての日本語力、(b)一人ひとりの生活の「人間的な豊かさ」を向上させ、安寧な社会を維持するための日本語、です。(a)は、就労外国人その人にとってのメリットであり、また日本の会社が海外で展開する場合の「サポーター」作りになるという面もあるかと思います。(b)は、就労外国人本人の利益(福利)にもなりますが、大きくは日本人側の利益になるでしょう。
そして、おもしろいのは、この「何のために」を見据え始めると、「何に」のほうの発想も変わってくるように思います。これまでは、「生活のために必要な日本語」や「就労のための日本語」ばかりが議論されてきました。それらを上の(a)や(b)と照らし合わせると違っている!(的が外れている!)ことがわかります。詳細な議論は省略して論を進めると、(a)や(b)に対応するのは、「生活日本語」や「就労日本語」よりももっと一般的な日本語能力だと思います。
4.現実
これはぼくがこれまでの論考などで度々主張していることですが、日本語教育は「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という二元論の間で彷徨っていて、日本語教育の内容として確固たるものを提案できないでずっとここまで来ています。そんな事情ですので、確固たる内容に基づいた教育実践はありませんし、そうした教育実践についてのデータもありません。
5.現実への対応
このような状況(ちょっと「悲しい状況」?)ですので、日本語教育(学)関係者そのものとしてのアジェンダ(重要課題)の第一は「確固たる日本語教育」を確立して、世間にも見せる/見えるようにすることです。これは、日本語教育(学)関係者であるわれわれ自身の問題・課題です。
そして、そのようなアジェンダを「右手に」しながら、その問題・課題への対応・貢献を視野に入れながら、「左手で」現在目の前に置かれているさまざまな具体的な問題・仕事に上手に対応することです。これはなかなか「高等戦術」です。
2.「何に」と「どんな成果が」について
現在の日本語教育学は「何に」について十分に語ることができるでしょうか。現在できることは、(1)(多かれ少なかれ)日本語学に基づいた「何に」、と、(2)ニーズ分析に基づいた「何に」、だけではないでしょうか。
そして、そのような発想では「何に」は「どんな成果が」と直接に関連するわけで、(1)の場合は「抽象的な言語事項の知識」において「ここまで!」という「成果」となり、(2)の場合は、リストアップされた言語活動の一覧表で「ここまで!(この言語活動まで!)とならざるを得ません。いずれも言語的な観点からの即物的な議論になっています。
3.もう一段広い視野で
(細川さんではありませんが!)「何に」の背後に「何のために」を置く必要があるのだろうと思います。そして、この「何のために」は、移民政策の一環なのであれば、「さまざまな背景をもつ市民の社会統合のため」となります。が、今回は移民政策ではない(らしい!)ので「社会統合」はダメです。そうなると、「何のために」一体は何でしょうか?
すぐに思いつくのは、(a)就労外国人でありながらも日本生活経験者としての(副次的な?)メリットとしての日本語力、(b)一人ひとりの生活の「人間的な豊かさ」を向上させ、安寧な社会を維持するための日本語、です。(a)は、就労外国人その人にとってのメリットであり、また日本の会社が海外で展開する場合の「サポーター」作りになるという面もあるかと思います。(b)は、就労外国人本人の利益(福利)にもなりますが、大きくは日本人側の利益になるでしょう。
そして、おもしろいのは、この「何のために」を見据え始めると、「何に」のほうの発想も変わってくるように思います。これまでは、「生活のために必要な日本語」や「就労のための日本語」ばかりが議論されてきました。それらを上の(a)や(b)と照らし合わせると違っている!(的が外れている!)ことがわかります。詳細な議論は省略して論を進めると、(a)や(b)に対応するのは、「生活日本語」や「就労日本語」よりももっと一般的な日本語能力だと思います。
4.現実
これはぼくがこれまでの論考などで度々主張していることですが、日本語教育は「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という二元論の間で彷徨っていて、日本語教育の内容として確固たるものを提案できないでずっとここまで来ています。そんな事情ですので、確固たる内容に基づいた教育実践はありませんし、そうした教育実践についてのデータもありません。
5.現実への対応
このような状況(ちょっと「悲しい状況」?)ですので、日本語教育(学)関係者そのものとしてのアジェンダ(重要課題)の第一は「確固たる日本語教育」を確立して、世間にも見せる/見えるようにすることです。これは、日本語教育(学)関係者であるわれわれ自身の問題・課題です。
そして、そのようなアジェンダを「右手に」しながら、その問題・課題への対応・貢献を視野に入れながら、「左手で」現在目の前に置かれているさまざまな具体的な問題・仕事に上手に対応することです。これはなかなか「高等戦術」です。
政策・施策の「矢面」に立っている人にとっては、このような議論は「お気楽」かもしれませんが、「今求められている仕事・役割がひじょうに困難なものであることはわかってるよ! ぼちぼち、うまくやってね!」というエールとして!
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