2019年9月18日水曜日

どんな日本語教育者になる? ー 勉強者? 発信もするスーパー勉強者?

 ある研究会の友人が研究会のメーリングリストで、知の探求者の分類表ということで、以下のような4象限の図を紹介してくれました。(この図は、『在野研究ビギナーズ』(荒木優太編著、アマゾン日本の思想でベストセラー第1位)を読んで、山本隆一さんがblog(https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/09/08/222032)で提示しているものです) そこでは「勉強者」というおもしろいカテゴリーが提案されています。また、ここに言う「スーパー研究者」というのは「複数の分野にまたがり得る優れた研究者で(たぶん哲学的な造詣もあって!)応用的なアイデアも豊富な人」というようなことかと思います。




で、これを参考にして考えたこと。

1.理系の場合はB(勉強者)の価値は高い
 まず、4象限を右上から時計回りに、SR:スーパー研究者(学者)、B:勉強者、M:マニア、R:研究者、としましょう。荒木優太さん(『在野研究ビギナーズ』の著者)も山本隆一さん(blogで図を発信した人)も基本理系の人ではないかと思います。そして、理系の場合は、あらゆる分野で、実験やシミュレーションなどに基づいた「実のある研究」が十分すぎるほど行われていると思います。つまり、現在「利用可能で(活用されることを待っている)そこにある知」が極めて豊富です。ですから、B(勉強者)の価値はとても高いと思います。

2.「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」というのは一応わかる
 しかし、日本語教育学を振り返ってみてください。日本語教育学には「利用可能でそこにある知」が一見たくさんあります。しかし、その知の大部分は、日本語について(日本語学)と、日本語の使われ方について(社会言語学、会話分析)です。(当面は、実践研究での知の蓄積の話はどけておきます。) そして、それらの知は、日本語教育の実践に「直接に応用が可能」でしょうか。この「直接に応用が可能か」という部分がぼくがずっと「警鐘を鳴らしている」ところです。
 端的に言って、現在利用可能な知は、直接に応用は可能ではありません。応用のためには、(1)まずは知の「出番」を見極めなければなりません、そして、(2)教育指導として適切な形に「仕立て直して」利用しなければなりません。
 現在「利用可能でそこにある知」を生産し続けている研究所の研究者や大学のセンセたちは、「どうぞどんどん使ってください!」「わたしたち(研究者)はいろんな(利用可能な)知を皆さん(日本語教育実践者)に提供してるでしょ!」というスタンスで、「自分たちが好きな」知をただ増やし続けています。そして、研究の方面に必ずしも強くない日本語教育実践者はいつもかれらが発信するディスコースの量と「ややこしさ」に圧倒されて煙に巻かれてそしてひれ伏すばかりです。そんな文脈があるので、「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」という立場は一見「悪くない」感じがします。

3.知性の充実こそ日本語教育学の現状を打破する
 しかし、現在の大勢の日本語教育学の知を生産しているR(研究者)たちとクリティカルに対話をしても、日本語教育学にとって本質的に必要な知は出てこないと思います。ぼくが「日本語教育学には知性が足りない!」(https://koichimikaryo.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlと言ったのはそういう問題意識の表明です。
 結局、問題は、現在の日本語教育学というのは、実際には個別の研究領域の単なる寄せ集めになっていて、そういう個別の学を統括する総括的な学がないということです。そして、そのことが、日本語教育学を迷走させています。実践研究を推進しているグループは、そのような現状を改善・打開するためのかれらとしての試みとして、実践研究というのを強力に推進しているのでしょう。それは、「前向きな」一つの姿勢だと思います。
 ただ、ぼく自身は、それよりも知性の充実こそが必須だと思っています。ただし、忘れてはいけないのは、「日本語教育実践への真摯な関心を維持しながら」です。知性の探究には大きな時間と努力が要ります。ですので、それをやり始めると、ややもすると当初の問題意識である実践への真摯な関心から離れたり、それを忘れたりしてしまいます。

4.新たな本質的に必要な知を生産して発信するB
 当面は、B(勉強者)としてやっていくのはいいと思います。ただし、「既存の知」のBではなく、「新たな本質的に必要な知」を探究するBです。
 でも、考えてみてください。この「新たな本質的に必要な知」をどこの誰が生産してくれるでしょう? 日本語教育学全体をながめても「ほぼいない!」です。そうすると、当面はBでも、近い将来には「新たな本質的に必要な知を生産して発信するB」にならないといけないのでは? それも業績のために発信するのではなく、日本語教育のギョーカイでの知性の拡充を促進するために発信することになります。どのようなメディア、モード、方法でそういう発信をするかは、検討しなければなりませんが。(もちろん業績にもなる形であるなら、それはそれでいい!) 

5.「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」というドライブ(推進力)
 実践への真摯な関心を維持しながらそういう本質的に必要な知を探究する場や「コミュニティ」がぜひとも必要です。そして、知の生産とシェアの場の「馬力」を高く維持するためには、ぜひ「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」という心意気を持つことが期待されます。それが「新たな知を探究する」強力なドライブ(推進力)になるからです。
 ちなみに言うと、日本語教育者&日本語教育学者は、日本語という対象が関わる諸分野だけでなく、言語と言語の習得と習得支援や言語と文化と現実の構成や言語と文化と自己などがテーマとなる分野についても探究する必要があると思います。そのような意味で、日本語教育者&日本語教育学者は避けがたく「オールラウンド・プレイヤー」であることを求められているように思います。ですから、基本はB(勉強者)なのでしょう。ぼく自身、そういう意識です。そして、その行きつく先は、個別分野のR(研究者)を凌駕する「スーパーB」です。そんなBやスーパーBが増えると、日本語教育(学)の分野は俄然おもしろくなると思います。

2019年9月11日水曜日

日々の教育実践での悩みやもがき ─ 「これって、本来じゃないよねえ!」という改革・革新の声

 従来の日本語教科書を主教材とする日本語コースで仕事をしている人は、常に「教科書のこの部分をやってください!」というノルマを課されます。例えば、『みんなの日本語』で言うと、「練習Aと練習Bをお願いします!」、「練習Cと問題をお願いします!」などです。そして、最近では、「練習Aと練習Bの授業を赫々然々の手順で実施してください!」と丁寧に(お節介に!!)指定してくる学校もあるようです。
 そんな中で、自身の授業ができるだけ学生の日本語習得や日本語の上達に資するようにと考える真摯な教師は、「練習Aと練習Bをカバーしながらどのように授業を組み立てれば有効な授業になるか?」、「練習Cと問題というノルマを果たした上で、他にどのような活動を計画し実施すれば学生における日本語の上達に資することができるか?」などと日々考えます。そして、その途上でしばしば、「この練習は 教師に授業実践として何を期待しているのだろう?」とか、「うーん、この練習はそもそも有効・有益なのかなあ?」とか、「そもそも『一つの課で一つ文型に集中』というデザインはそれでいいのだろうか?」などとあれこれ悩みながらも、とにかくあすの授業を何とか有効・有益なものにするべく、もがきます。
 多くの日本語学校や大学でフツーの(従来的な)コースを担当している日本語教師の悩みやもがきをこのように記述してみましたが、だいたい当たっているでしょうか?
 さて、この悩みやもがき、一体何なのでしょうか。また、この悩みやもがきはやがて解消されて、有効・有益な授業ができるようになる「途上」の悩みやもがきなのでしょうか。「途上」の悩みやもがきなのであれば、しっかり悩みもがいていただくのがいいと思います。しかし、ぼくにはそれは「途上」の悩みやもがきとは見えません。それは、そもそもの教育企画(と教材)が抱える問題や矛盾を現場教師に丸投げされているという根本的な悩みやもがきなのだと思います。そして、その悩みやもがきは根本的な悩みやもがきなので、悩んでももがいてもほとんど甲斐がなく現行の教育企画(と教材)が続く限り続く悩みやもがきであり、後輩たちにも引き継がれる悩みやもがきです。結論として言うと、現行の日本語教育企画(と教材)を続けている限り、この詮ない悩みやもがきは続きます

 この記事を「そうだそうだ!」と思いながら読んでくださっている方は、現行のフツーの日本語コースで日々悩みもがいている真摯な方であろうと思います。しかし、もう一歩!! 十分に悩みもがいた上で、「やはりこの現行の教育企画(と教材)では教育成果は得られない!」と思ったら、「この教育企画(と教材)はやめよう!」「もっと『有望な』教育企画(と教材)に置き換えよう!」という声を大にしてあげてください。そうでないとこの詮ない悩みともがきが続く、いい仕事ができない業界(現行の日本語教育とその実践)が続きます。

 いい仕事ができない教育業界というのは、そのために犠牲になる学生をずっと再生産しているんですよ! あなたは真摯な人なのかもしれませんが、「まじめ」(きまじめ?)な人でもあるのかもしれません。そして、「まじめ」(きまじめ?)な人はしばしば「先輩」や「伝統」に反旗を翻すことを躊躇します。
 改革・革新の気運というのは、民衆の中からじわじわと発生し広がり膨らんでいくものです。現行の体制が続いている間はその中で何とか創意工夫して実践を続けるとしても、一方で、「これって、本来じゃないよねえ!」という声を(ひそかに? 燎原の火のように!)上げ、改革・革新の気運を醸成していってください。そうでないと、学生の犠牲が続きます。

2019年9月8日日曜日

日本語教育者=日本語教育という仕事を理知的に捉え、理知的に考え場合によっては探究もし、実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする人

 昨日、土曜の会(@関学梅田キャンパス、doyounokai@gmail.com)がありました。いつものようにすばらしく教養深く、理知的で、真摯な議論が展開されました。そんな中で、わたし及びこの仲間たちは「何者になる」ことを目指し、「何者が増える」ことを切望しているのだろうかと考えました。
 
 従来からぼくは、「日本語教師」という言葉は避けて、「日本語教育者」という言葉を使っています。例えば、ぼく自身のことは「日本語教師」と言うと「収まっていない」感じで、「日本語教育研究者」と言い方をすると日本語教育の実践を傍観している感じになって日本語教育の実践に常に関与しているぼく自身のスタンスを反映しません。そうなると、ぼく自身の、日本語教育の実践とのスタンスと研究的な姿勢と研究の取り組みを包含する呼び方はやはり「日本語教育者」かなあと…。
 で、土曜の会に参加している人たちはけっこうぼくと同じオリエンテーションがある人たちだという気がしています。つまり、日本語教育者であったり、そうなることをめざしている感じがします。じゃあ、日本語教育者というのはどんな人か?
 日本語教育者は、
(1)日本語教育という仕事を理知的に捉え、
(2)理知的に考え場合によっては探究もし、
(3)実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする
人、でしょうか。 で、ご覧のように「理知的」というのがどうもキーのようです。「理知的」というのがキーワードになるのは、業界全体としては「理知的」が不足しているという認識なのでしょう。
 そして、このオリエンテーションの基盤にある根本の姿勢は、「いい仕事、誇れる仕事をしたい」ということです。そのためには、当面は?「理知的」を厚くしなければならないという問題意識なのでしょう。
 ただし、…。「知性的」と「理知的」はどう違うか?
 ぼく自身は、 理知的=知性が豊かで明敏×感性が豊かで鋭い と考えています。言語教育に適正に従事するためには、知性だけではなく、人間や言葉や人間文化や人と人の言葉を仲介とした接触・交流や言語の習得などについての感性も大いに必要だと思います。(感性を磨きあげて言葉にしたものが「野生の知性」?←これ、ぼくの好きな言葉!)

 ということで、日本語教育者をめざそう! ということでどうでしょう!?

大学のセンセと地域日本語

地域の日本語教室に対する関心は引き続き高く/ますます高まっています。そして、日本語教育の専門家(大学のセンセ? 日本語学校等のベテラン教師?)の多くも関心を持っています。しかし、日本語教育の専門家としては、まずは「お膝元」の日本語学校や大学での日本語教育をまず「改革」したら! 続きは、https://twitter.com/koichishinmachi/status/1170517886860836864へ。

2019年9月7日土曜日

研究と実践研究について(ガーゲン&ガーゲン, 2018の第4章を読んで)

研究と実践研究について

1.研究
・ 研究のコミュニティ(パラダイム) ─ 研究対象 ─ 研究方法 ─ 研究成果
  研究対象についての「真理」の探究

2.実践研究(日本語教育の実践研究)
2-1 日本語教育
・学習者における「日本語の上達」を計画的・組織的に支援する営み。

2-2 教育の企画
・一般目的のための日本語教育の企画の第一歩
 日本語力の基幹となる言語活動的なまとまりを伐り出す 
 ⇔ 日本語の上達を「線」としてではなく、「固まり」として措定する。
 
<従来の日本語教育の企画>
 企画A:「文型・文法ときどき語彙(漢字、発音)、ところによって技能」
⇒ 日本語力の基幹を知識と技能と措定している。
 企画B:実用的な言語コミュニケーションの「カタログ」
⇒ 日本語力の基幹を育成するという意図がない。

・そのまとまり(固まり)を育成するために習得の経路を直線的に描く⇒日本語上達の階段
・各ユニットは、日本語の習得と習得支援のフィールド

2-3 教材の制作

2-3 具体的な学習と教授の実践
・学習者と教師としては、基本は、各ユニットの目標を達成すればよい。

3.実践研究
3-1 実践領域に関わる研究
(1)実践をめぐる物の見方や考え方や発想やアイデアと、具体的な学習活動や習得方法、教育企画、教材の制作・作成、授業計画、実際の教授実践などに直接・間接に関わる諸テーマについての、
(2)研究というものを知っている実践を担う者(→研究的実践者?)に向けた
(3)実践のあり方やその改善に真摯な関心を持つ者(→実践的研究者?)による「発信」
・それが「研究」と呼びうるためには、一定程度の論理主義と証拠主義が必要。また、理論的研究としては、堅実な発掘と遡及が必要。
☆つまり、実践研究とは、純粋に「真理」を探究しようという企てではなく、学術研究的な方法を一定程度踏襲しながらの、実践に直接・間接に関わる諸テーマについての探究と報告の対話的実践である。
あくなき実践のあり方やその改善への関心がその対話のナヴィゲーターとなる。

3-2 「日本語の上達」という成果
・「日本語の上達」という成果についてはおおむね合意が得られるであろう。
・しかし、「日本語の上達」をどのように見るかは、人によって見方が異なるである。
・研究においては、研究者が何をもって「日本語の上達」と考えるかをしっかりと定義しておけばよい。
・そして、実践はその「日本語の上達」との対応で解釈すればよい。 




2019年9月1日日曜日

現象学から人間科学へ⑤

以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年9月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものです。

2019年9月号羅針盤 現象学から人間科学へ⑤

 前回は、「志向性、ノエシスとノエマなどの概念もからめながら現象学というものが何なのかを改めて考えたいと思います」と言って終えました。今回は、多くの人を惑わしている現象学のその後の展開の概略図を示したいと思います。この話は、このような形で語られたことはたぶん今まで一度もなかったと思います。

1.現象学の実存主義的展開
 現象学の展開は、ヨーロッパにおける実存主義的な展開と、北米に移って発展した社会学理論への展開という2つに分けて見なければなりません。まずは、ヨーロッパにおける展開の話をします。
 ヨーロッパにおいて、フッサール(1859−1938)の現象学は、弟子であったハイデガー(1889−1976)によって実存主義的な展開を見せます。そして、その実存主義的展開は、隣国フランスでサルトルやボーヴォワールによって実存主義運動として花開きます。だいたい1940年代の後半から70年代です。『存在と無 ─ 現象学的存在論の試み』(1943年)以降、実存主義の旗手で当代一の知識人としてサルトルの名声は不動のものとなります。(ちなみに、ハイデガーは、その後の哲学・思想に強く広範な影響を及ぼした20世紀最大の哲学書と言われる『存在と時間』で一般に実存主義の哲学者と言われていますが、ハイデガー自身は実存主義の哲学者と見られることをきっぱりと拒否していました。ハイデガーが実存主義の哲学者と見られるのは、一般に流通している『存在と時間』が実はハイデガーが構想していた上下2巻の本の上巻だけであり、そして、それは上下2巻の本でハイデガーが意図していた「存在一般の意味の追究」の準備作業としての人間存在の分析でしかなかったのですが、その後下巻が出ることなく、上巻のみが『存在と時間』として一人歩きしたという事情によります。その上巻のみの『存在と時間』が出るや否やドイツの思想界に巨大な衝撃を与え一挙に思想界の形成を変えたために、同書で展開された人間存在の分析によってハイデガーは実存主義の哲学者と見られるようになった、というような次第です。しかし、ハイデガーの思想的営為の全体の中に『存在と時間』を位置づけようとする諸研究を見れば、かれの仕事の中心は実存主義の部分にはないことが分かります。)
 フッサールの現象学的な観点を継承したハイデガーの思想は、ヨーロッパにおいてもう一つの展開を見せます。解釈学への展開です。主な担い手はガダマーです。こちらの展開については次回や次々回でもう一度論じます。
 哲学的な背景を踏まえて現象学的な心理学について論じているラングドリッジは、現象学におけるこれら2つの実存主義的な展開を、実存的転回解釈学的転回と呼んでいます。

2.現象学の社会学理論への展開
 第一次大戦前のオーストリアのウィーン生まれのアルフレッド・シュッツ(1899−1959)は、ウィーン大学卒業後、銀行の法律業務に従事する傍ら研究を続け、1932年にはウェーバーの理解社会学とフッサールの現象学を融合した『社会的世界の意味構成』を出版し、同書をフッサールに捧げました。それ以来フッサールとの交流が始まり、それは1938年のフッサールの死去まで続きました。やがて、ナチスの台頭によりユダヤ系であるシュッツは母国を出ざるを得ない状況となり、1939年にはアメリカに亡命しました。そして、アメリカに移ってからも銀行での仕事と研究を並行して行い、社会学理論の発展に大きな功績を残しました。著名な社会学者であるピーター・バーガーやトーマス・ルックマンはシュッツの弟子です。
 シュッツの研究は現象学的社会学と呼ばれています。現象学の物の見方に基づいて社会というものの正体を究明しようとする研究です。

3.実存主義と現象学的社会学が現象学的である点
 ハイデガーの実存主義と現象学的社会学の重要な現象学的な重複点は、いずれも「そもそも○○とは何か」を追究している点です。ハイデガーは『存在と時間』で現存在という独自の用語を軸として「そもそも人間という存在とは何か」を追究しています。現存在=Daseinというのは、「da」(そこ)と「sein」(ある/いる)の組み合わせで、人間という存在を前提なしのデフォルトで捉えて追究するためにハイデガーが作った造語です。そして、『存在と時間』以後のハイデガーは、人間という存在と世界という存在の両者を含めて「そもそも存在するとは何か」を追究しています。
 一方、社会学に関心を置くシュッツは、現象学の視点に基づいて「そもそも社会とは何か」を追究しました。銀行家と研究者という「二足のわらじ」のシュッツは、少数の著作しか残していませんが、いずれもひじょうに重厚なものです。そして、晩年のシュッツの遺稿はルックマンによって『生活世界の構造』としてまとめ上げられ、バーガーとルックマンの共著になる『現実の社会的構成』は社会学理論の名著として現在も読み継がれています。バーガーは、『現実の社会的構成』の一年後に宗教を社会学的に分析しようという試みの『聖なる天蓋』を上梓し、その第1章で自身の社会学の立場をコンパクトながら明瞭に提示しています。これらはいずれも、日常的世界に生きるわたしたちにとって、また社会学の対象として、「そもそも社会とは何か」を考究したものです。
 実存主義と現象学的社会学がいずれも現象学的である重要点は、人間的実存を志向的であるというふうに捉えている点です。そして、それだけでなく、両者ではいずれにおいても、実存の重要な立脚点として言語を置いています。この点が、現象学的心理学においても、またわたしたちの関心である第二言語の習得と習得支援を考える第二言語教育理論においても重要な視点となります。

4.むすび
 このあたりが区切りになりますので、これで今回は終わりたいと思います。後期ハイデガーの重要書である『「ヒューマニズム」について』からの有名な「言葉は、存在の家である」の一節を紹介して次節への繋ぎとしたいと思います。

 行為することの本質は、実らせ達成することなのである。…本来的にはただ、すでに存在しているもののみが、実らせ達成されうるものなのである。ところで、あらゆるものに先だって「存在している」ものは、存在である。思索というものは、その存在の、人間の本質に対する関わりを、実らせ達成するのである。…思索は、この関わりを、ただ、存在から思索自身へと委ねられた事柄として、存在に対して、捧げ提供するだけなのである。この差し出し提供する働きの大切な点は、思索において、存在が言葉となってくる、ということのうちに存している。言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。(『「ヒューマニズム」について』pp.17−18)