前回の羅針盤でもお話ししたように、アラサー(around 30 years old)の完全ビギナーの 学生を対象に実践をしています。4月11日に授業が始まったのでちょうど1カ月です。5 月の連休を挟んでいますが。 昨日、ユニット7に入ったところでビジターセッションをしました。学生3人にビジター 1・2人で話をするという機会です。学生たちは片手に自ら書いたエッセイを持っていま したが、それを見ることもなく、フツーに自身のこと(どこから?専門は?など)や家族 のこと、そして好きなものや好きなこと(ユニット3)やわたしの一日(ユニット4)に ついて伸び伸びと話していました。ここまでの学生たちの伸びは、学生各自の着実な努力 と先生たちのプロフェッショナルな支援の甲斐あって、「すばらしい!」と思いました。た だ、その一方で、先生方からは「ナラティブが読めない。ナラティブのQ&Aができない。 自分が書いたエッセイが読めない。まだひらがなが読めない学生がいる。形容詞の過去形 が定着していない。」などの課題が提起されています。課題があれば、その課題をよく検討・ 研究して、必要であれば何らかの措置をしなければならないわけですが、そうした議論で 「あれ??」と思うことがときにorしばしばあります。 「教えることと育むこと」については、コースのスタート前の教師相互学習会で「滋養豊 富な活動をたくさんしてください」とわたしは話しました。ことばと思考の発達途上にあ る乳幼児や幼児と接する場合に、わたしたちは決して「教える」とは言いません。「ことば や思考や情緒を育むように接する・交わる」ということになります。それは子どもにおけ る発生(genesis、それまで「なかった」ものが生じる)に関わることです。育むとはそう いうことです。 さて、学生たちの日本語学習上の課題に対してどのような措置をしようかと先生方と議論 しているときに、わたしはときにorしばしば違和感を感じます。それは、それまでけっこ う「育む」でいっていた先生たちも、学習上の課題への措置となると、どうも発想が「教 える」系に行ってしまうようなのです。つまり、「分からないから、知識がないから、かれ らはできないのだ。だから、改めて分かるように指導する、知識を確認する、必要がある」 というふうになってしまうのです。これって、何だか(悪い)「先祖帰り」のような! 課題というのは「○○が課題だ!」というふうに認識されます。そのときに課題がどうし ても「○○」として対象として認識されます。ですので、その流れで「○○を指導する/練 習する必要がある」となってしまいます。これが落とし穴です。そのアプローチは、言っ てみれば西洋医学的なアプローチです。わたしの感覚は、東洋医学的、医食同源的、漢方 的です。何らかの症状があったとしてもそれに直接働きかけようとするのではなく、身体 や食事を整えてまた若干の漢方薬を服用して、身体を整えつつその症状も治すという方法 です。そんなふうに対応できたら、すてきだと思いませんか。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
羅針盤:教えることと育むこと(201606)
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