2018年4月22日日曜日

羅針盤:コーディネータは厄介な稼業です!(201604)

4月から、日本語研修コース(大学院進学予備教育)の初習者クラスのコーディネータを務めることになりました。取りあえずは、NEJとい
う「強い味方」があるので、大きな心配はないのですが、コースのスケジュール作りにはやはり大いに気を遣います。バフチン本2のエピロー
グで次のように書きました。NEJという有力なリソースがあるのに教育の実践がうまくいかないのはどんな場合?という問題意識での文脈です。

教育プランが所期のように実現されない場合の第3の要因は、これはコーディネータの仕事となりますが、授業内容の調整、より具
体的に言うと授業スケジュールの調整です。コーディネータの基本的で最も重要な仕事は、各授業がその時点での学習者に有益に実施
されるように授業を調整することです。そのためにコーディネータは学期やコースの開始時に学習者の日本語力や期間中の学習環境
などを考慮してコースのスケジュールを作成するわけですが、コースが始まった後も…習得の進捗状況を把握して、以降のいずれの授
業も学習者の現在の日本語力の水準にちょうどいい活動となるように授業内容やスケジュールを調整しなければなりません。(バフ
チン本2のpp.151-152)

この前にある第1の要因は、企画された教育の背後にある言語観や言語習得・教育観と実際に授業をする教師のそれらに齟齬がある場合、第
2の要因は、カリキュラムとして提示されているねらいや教育内容が授業をする教師に然るべく理解されない場合となっています。要因の3→
2→1と遡って言うと、(1)コーディネータは緻密に授業スケジュールを作成しなければならない、しかし、(2)いかに綿密にスケジュールを作っ
てもそのスケジュールのねらいや「教育内容」が教師に「理解」してもらえなかったらだめ、で、(3)スケジュールを「理解」してもらうために
は根本の言語観と言語習得・教育観に「相応の重なり」がなければならない、となります。4月からの研修コースのスケジュールを作っていて、
改めてこの問題はむずかしいなあと感じました。

それがむずかしいのは、「教育内容」を意識的あるいは無意識的(半意識的?)を含めて学習者が習得する内容とするなら、「教育内容」はパシ
ッと「これ!」とは言えないからです。また、どの授業でも「教育内容」は一つではなく、主要なもののようなものがあるとしても常に錯綜して
います。つまり、「教育内容」は豆腐を切り分けるようには分割することはできません。そして、そういう曖昧で錯綜したものを「理解」しても
らおうとするわけですから、「理解」というのも当然ファジーなものとなります。「理解」してもらえているかどうかも雰囲気で知るしかありませ
ん。そして、「理解」してもらうためには「理解」の基盤として、カリキュラムの企画者やコーディネータと「同じような目線」の言語観と言語
習得・教育観が要るだろう、となります。ただし、最後のポイントは、言語観と言語習得・教育観の一致ではなく、「相応の重なり」や「同じよ
うな目線」で十分だと思います。(このあたり、文型・文法積上方式では「一致」を要求しているように思います。バフチニアン・アプローチで
はひじょうに大きなレベルでの「相応の重なり」や「同じような目線」だけが必要で、その上でのディテールの違いはあってよいように思います。)

授業に仮に配当した内容をながめて「こんな感じで学習者はどんな学習ができるかなあ」と想像して、また授業の配当・配分を考えるという
ことを繰り返します。厄介なのは、上のパラグラフの冒頭でも言ったように、配当・配分を「物理的に調整すればよい」というものではないこ
とです。言語の学習あるいは言語学習経験の蓄積というのは、意識レベルと無意識レベル(そしてその中間域)で、また注視された言語事項と
してや生きた言語活動の中の言葉遣いとしてなど、さまざまな種類の対象においてさまざまな心理・記憶水準で進行します。そして、比喩的に
言うと、無意識レベル(半意識レベル?)での言語活動の中の言葉遣いの経験の蓄積は言語能力の養分となります。これがないと「不健康な」
言語能力になってしまうでしょう。その一方で、言語事項に相応に注視した意識レベルの学習ということもなければ、具体的なブツとしての言
語事項の知識を仕入れることがむずかしいかと思います。

もう一つ厄介な問題は、これは明らかに意識レベルの学習になるのですが、言語のシステムの理解や知識がどれほど必要で、その必要な部分
をどのように習得させるかです。成人の学習者で特に理知的な人たちはシステムの理解や知識を要求する傾向があります。「そうしたニーズにき
ちんと応えるべきだ」と言う先生がいますが、そのお言葉には、(1)それはニーズじゃなくてウォンツ(wants)でしょう、(2)言語習得のために
何が重要かを最終的に判断するのは言語教育の専門家である教師であって「学習者が○○をほしがっているから、○○を与えましょう」では専
門家ではない、(3)しかしながら学習者のウォンツに対しては「一定の尊重」が必要である。そうしないと学習者は教師から「離れる」、と言いた
いです。NEJの試みは「日本語のシステムについての教室での指導は一旦ゼロにしてみましょう。そして、マスターテクスト・アプローチで学
習を進めて、教科書にある説明と学習者の類推力でどこまでいけるかやってみましょう。その上で、本当に必要なシステムについての指導内容
を検討して、適正な指導方法を企画して、実践しましょう」というものです。筆者自身はこれを今学期や来学期の「研究課題」の一つにしたい
と思っています。

他に音声言語の習得と文字及び書記言語の習得のうまい取り込みと調整も考えなければなりません。アルファベットで表記しないで、ひらが
な、カタカナ、漢字という3種類の超奇怪な文字を使う日本語は、漢字系でない学習者にとっては、とんでもない!言語です。このこと、一般
的に十分には意識と配慮と卓越した工夫がされていないと思います。

で、結論。カリキュラム・教材の企画・開発者やスケジュールを作るコーディネータがいくらがんばってもひじょうに限界がある。そして、
結局、教育実践をする仲間の先生方といっしょに考えながら実践を創造していくしかないということになります。ただし、「生ぬるく」いっしょ
に考えていては、厄介な仕事のたいへんさを舐め合うだけです。優れた実践を創造するためには、「ガチでクリティカルに」やらなければなりま
せん。そして、そのような協働的な教育実践を通してこそみんながより高度な専門的職業人として成長していけると思います。チームで教育実
践にあたるというのは、わたしたち一人ひとりが高度な専門的職業人であるがゆえに、「ガチのたたかいの場」にならざるを得ないのかもしれま
せん。でも、それこそが、専門家集団によるチームティーチングの醍醐味だと思います。
もちろん、(大阪らしく!?)友好的で笑いに包みながら。

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