2019年12月2日月曜日

現象学から人間科学へ⑧ ─ 「世界内存在」の端緒

このエッセイは、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年12月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に羅針盤として掲載されたものです。 

現象学から人間科学へ⑧ ─ 「世界内存在」の端緒

 これまでの7回で、現象学とは何かを概観しました。今回から、3回ほどは、現象学の中の世界内存在という視点について話し、そのあとの人間科学への話につなげたいと思います。
 今回は、現象学そのものとともに、世界内存在という物の見方がどのような経緯で浮上してきたかを見ていきたいと思います。
 
1.近代哲学から現代哲学へ
 世界内存在という視点が浮上してきた経緯を見るためには、近代哲学から現代哲学への移行の経緯とその内容を見なければなりません。木田の引用から始めます。

 かれ(デカルト、筆者注)の「思う我れ」は、世界のうちに何が存在し何が存在しないかを決定するものであり、そのかぎりそれ自身(デカルトの「我れ」、筆者注)は<世界のうちに存在する>とは言えない、つまり<超越論的>transzendentalな主観なのであり、他方、世界とはこの理性的主観によって認識されるかぎりで存在する、したがって合理的な構造をそなえた、存在者の全体なのである。…ニュートン物理学を基盤にして発展した近代科学は、たしかに方法の上では17世紀の形而上学(デカルトのこと、筆者注)とかなり違った立場になっていたが、やはりこの近代科学にとっても<世界、つまり存在するものの全体は、絶対的な空間・時間のなかで、それ自体において明確に規定された構造をもって存在する>ということは自明の前提であった。こうした前提に立てば、科学的認識とは、この客観的世界のそれ自体における規定性、つまり自然法則を、漸進的にではあれ明確に記述してゆくことにほかならず、しかもその可能性は当然保障されている、と考えられることになる。近代の科学や技術の発達は、こうした絶対に真なる世界、つまり自然の理性的秩序への素朴な信頼に支えられていたわけであり、その意味で近代理性主義(デカルト以降の近代の思想、筆者注)の嫡子と見ることができるわけである。(木田『現代の哲学』、pp.17-18)

 以下も木田からですが、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて、ヨーロッパ文化はその諸領域において深刻な危機ないし変革を経験しました。それがやがて近代的な世界観の転回を引き起こすことになるのですが、それがもっとも明確な形で現れたのが、自然科学の領域、それも最も基礎的な部門である数学と物理学の領域でした。それは、一般に「数学の危機」とか「物理学の危機」と呼ばれています。その概要は、木田の『現代の哲学』のpp.24-29を参照してください。そして、こうした「数学の危機」と「物理学の危機」の結果、「世界」というものについての見方が大きく変わりました。

 実験によって自然の存在として測定される内容は実験装置と相関的であり、さらに実験装置は観察者としての人間の身体の構造や大きさと無関係ではありえぬ以上、自然の存在は人間の存在を参照せずには語られえないわけである。かくて、物理学的に測定された結果を、自然それ自体の規定として絶対化しえないだけでなはなく、そうした即自的自然の存在そのものが疑わしくなるのである。このような数学や物理学における変革が、科学的認識の真理性、つまりは理性の権威や、それを支え、それによって精密化されてきた<客観的世界> ─ の想定にどれほど厳しい打撃を与えたかは、想像に難くないところであろう。(木田『現代の哲学』、p.29)

 木田よると、20世紀の初頭にはすでに、科学の理論体系もその概念もすべて主観的な性質のものであり、それらは「真でもなければ偽でもなく」、経験を整理するのに便利な道具に過ぎないという科学の相対主義的・実用主義的な見方が提唱されました。例えば、ポアンカレ、デュエム、ル・ロアなどです。

 客観的な即自的世界を否認する同じような変革は、科学の他の領域においても並行して進み、たとえば生物学においてはユクスキュル(1864-1944)の環世界論Umweltenlehreが、すべての有機体にはそれぞれ特有の空間性や時間性、内容的性質をそなえた環境構造があって、それ自体において規定されている客観的世界を論じることの無意味であることを教え、また心理学の領域においてもゲシタルト学説が、それまでの要素主義的心理学の恒常仮説 ─ 物理的刺激と感覚との一対一の対応関係の想定 ─ を批判して、われわれの経験に与えられているものが、いわゆる客観的世界ではないことを明らかにした。こうして絶対的な真理の領域としての理性や、その具象化としてのニュートン物理学的世界像への信頼が根底からゆるがされるような事態が、まず科学(哲学に対する科学、筆者注)そのものの内部で現れてきたのである。(木田『現代の哲学』、p.30)

 やはり木田によることになりますが、19世紀中には、一方で、科学の進歩によっていつかは客観的世界の完全な認識が達成されるだろうという19世紀の楽観的な科学的道理主義が生まれ、他方では、人間理性がいっさいの制約から解き放たれて、もはや認識主観であるにとどまらず、その実践的性格を強め、歴史や社会を合理的に形成していくヘーゲル流の絶対精神にまで高まっていきました(ヘーゲルの『精神現象学』は1807年)。しかし、このように近代の理性主義が完成されようとしたそのときに、一方で、上で論じたように、科学そのものの内部でその基本的前提となっていた客観的世界の想定が打ち破られることになりました。そして、他方では、マルクス(初期マルクス)やキルケゴールなどによって、絶対的理性主義が否定される考え方が提示されました。マルクスもキルケゴールもともに、ヘーゲル流の抽象的な理性主義に対して具体的な人間存在を回復しようとする試みでした。

2.生活世界と世界内存在
 世界内存在に接近するために、マルクスが提示した新しい人間把握の方向を見てみましょう。1845年頃のいわば覚え書です。

 従来のあらゆる唯物論 ─ フォイエルバッハのそれも含めて ─ の主要な欠陥は、対象が、つまり現実、感性が、ただ客体ないし直感の形式のみで捉えられ、人間的・感性的な活動、実践として、主体的に捉えられないことである。それゆえ、活動的側面は唯物論とは反対に観念論によって展開される ─ とはいえ、観念論はもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らないので、ただ抽象的に展開されたにすぎないが ─ ということになった。
(「フォイエルバッハに関するテーゼ」廣松訳、2002年、p.231)

 その1年後の『経済学・哲学草稿』のヘーゲル哲学批判の部分で議論の中間総括として、マルクスは「ここに見てとれるのは、考えぬかれた自然主義ないし人間主義が、観念論とも唯物論とも異なるものであること、同時に、その両者を統一する真理だということだ。とともに、世界史の行為を把握できるのは自然主義だけだ、ということも見てとれる。(マルクス『経済学・哲学草稿』、長谷川訳、p.185)

 詳細な議論は割愛しますが、マルクスは従来の主観か客観か、精神か物質かという二者択一を越えたところで人間を捉えようとしていることがわかります。
 1で論じたように、近代から現代への移行の中で、この世界が即自的な(それ自体で完結した)事物の総体、つまりわたしたちの前に繰り広げられた対象的な物理的世界でないことが明らかになってきました。それに代わって出てきたのが、世界内存在(In-der-Welt-sein)という人間(と世界)の在り方についての見方です。
 わたしたちが生きる世界、つまり生活世界は、「ただ客体ないし直感の形式でのみ」捉えられる世界ではなく、「人間的・感性的な活動、実践」の場面として「主体的に」捉えられている世界です。そして、主体とは、これもマルクスの言うように、「現実的・感性的活動」に従事する主体であって、その身体によって世界の内に深く挿し込まれ、投げ込まれた存在となります。ここにわたしたちは、世界と人間の特有の絡み合いを見ることができます。このような物でもないし、純粋意識でもない人間の在り方を現象学では、そして具体的にはハイデガーは、世界内存在と呼んでいます。ちなみに、現象学そのものも、同じような時代背景と問題意識を端緒として提唱されたものです。

2019年11月3日日曜日

現象学から人間科学へ⑦ ─ 『イデーン2』におけるフッサール

以下の記事は、NJフォーラム・マンスリーの2019年11月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載された記事の再掲です。  

 前回最後に予告した、言葉や言語の登場は少し先延ばしにしたいと思います。すみません。
 前々回は、間奏的に、現象学のその後の展開の概略図として、実存主義と解釈学と現象学的社会学への展開を概観しました。今回は、現象学に立ち返って話をします。『イデーン2』におけるフッサールの話をします。焦点は、自然的態度と自然主義的態度の対比と生活世界です。(『イデーン』は『純粋現象学と現象学的哲学の諸構想(イデーン)』の略称)

 一般に中期フッサールと言われる『イデーン1』を中心とした第4回の内容は、「厳密学としての哲学」あるいは「すべての科学の基礎学」としての現象学の構想の展開でした。これに対し、『イデーン2』はフッサールの後期思想の萌芽に位置づけられています。

1.自然的態度と自然主義的態度と生活世界
 『イデーン2』で、フッサールは、『イデーン1』で重要概念として論じられていた自然的態度を再考します。そして、それを改めて、自然的態度自然主義的態度に区別しました。そして、還元によって超えられるべきであったのは、自然科学のように自然を客体化して見る自然主義的態度だったのだと考えるようになります。こうなると、現象学的還元は、客体的なものの意味の生成を主体の構成作用に遡って明らかにするという一般的な認識論的操作ではなく、むしろいっさいの事象を主体-客体の相関関係において見ようとする客体化的な意識の態度(自然主義的態度が滲みついた態度)を排除するものと考えられるようになります。そして、この還元によって、本来の自然的態度が根源的なものとして姿を現してくるようになるわけです。フッサールの用語では、「態度」は習慣によって生じるある特定の世界定立作用の連関ですが、(本来の)自然的態度はその意味では他の態度と並ぶ一つの態度ではありません。むしろ、自然科学の基礎となる自然主義的態度や精神科学の基礎となる人格主義的態度などの他の態度に先立って、基底としてそれらを可能にするものとなります。
 このように現象学的還元によって客体化された自然主義的世界が排除されます。しかし、だからと言って、わたしたちは動物的な自然の世界に生きるのでもなく、主観性だけが作用する領海に生きるわけでもありません。むしろ、自然主義的な客体化に先立つ本来の自然な世界経験が回復されるのです。そして、その自然な世界経験もやはり世界内存在としての世界経験となります。フッサールはこうした自然な日常的経験において生きられる世界を生活世界(Lebenswelt)と呼んでいます。

 木田は、ここでフッサールの考え方は大きな転回を示していると見ています。すなわち、それ以前は哲学的反省(超越論的還元)とは無世界的な純粋意識つまりすべての意味を根源的に産出する超越論的主観性の立場に身を置くことだったのですが、今や、哲学的反省(哲学の課題)は、わたしたちの素朴な日常的経験、つまり普段は反省されることのない自然的態度を振り返り生活世界を回復することになったのです。そして、メルロ=ポンティがこのようなフッサールの志向性を継承しています。以下は、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』からの一節です。

 したがって、最初の哲学的行為は、客観的世界(上に言う客体化された自然主義的世界、筆者注)の手前にある生きられる世界にまで立ちもどることだということになるだろう。それというのも、この生きられる世界においてこそ、われわれは客観的世界の権利もその諸限界も、了解しうるようになるだろうからだ。また、最初の哲学的行為は、事物にはその具体的表情を、有機体には世界に対処するその固有の仕方を、主観性にはその歴史への内属性を返してやることだ、ということになるだろう。(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、pp.110-111)

2.フッサールのクリティカルなモチーフ
 以下、少し大仰な話をします。
 プラトン以来ヨーロッパ的学問の真の理想は、それ以上遡り得ない絶対的な洞察、それ以上ということがもはや無意味であるような第一原理によってすべての認識を理性的に根拠づけ諸学問の普遍的な統一体を実現するところにありました。この理想は近代初頭にデカルトの普遍学の構想によって復活されました。ところが、デカルト以後の近代科学は、こうした根拠づけよりも実用的な効果を追いました。その結果、確かに現実の実用的支配の目的は達成され、わたしたちにとって現実は「より有益」になりましたが、現実がよりよく理解されるようになったかと言うと、そうなったわけではありません。
 ところで、学の理想に含まれていた理性的な根拠づけの努力は、決して理論的認識にのみ関わるものではなく、同時に生きることの実践や価値評価にも関わるものでした。古代ギリシャ以来の形而上学(哲学と同義、筆者注)という理性の追究の企てにはそのような趣旨が含まれており、デカルトによる普遍学の構想にも当然含まれていました。しかし、近代にめざましい発展を遂げた実証主義は、形而上学を独断的で非学問的だとして切り捨ててしまいました。そして、このように近代の実証主義が理性の問題を切り捨てそこから逃避したということは、人間が理性への信頼を失ったということであり、それはまた、理性的存在者であることを自らの本質としてきたヨーロッパ的人間が自己への信頼を失ったことを意味します。このような脈絡で、フッサールは、当時の学問の危機を、ヨーロッパ的人間の根本的な生活の危機、その全実存の危機の表現と見ます。そして、自身の超越論的現象学こそがこの危機を克服する手段だと考えたのです。これがフッサール最晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936年)で展開された議論です。

3.根源的な生活世界への回帰
 フッサールによると、わたしたちが通常、それ自体で存在し、真であり、客体的であると信じている世界は、実はすでに歴史的に沈殿した客体化的認識作業による理念化の成果であり、わたしたちの生活世界の上に構築された主観的形象です。つまり、日常的な常識の枠内においても存在者の全体は、すべてすでに「合理性によって支配されている」という理念の下に捉えられている、とフッサールは主張します。このように近代科学の成果に基づいて着せられた「理念の衣」によって、わたしたちの直接的経験の世界である生活世界が蔽われ見失われることになりました。科学による客体的世界の発見が、そのまま生活世界の隠ぺいになってしまったということです。
 フッサールによると、この「理念の衣」こそが近代的意識にとって最も根深い先入見です。そして、超越論的現象学は、この先入見を還元によって一旦保留することによって根源的な生活世界に立ち還り、そこから逆にこの理念の生成を解明し諸学問の全体を根拠づけようとする企てなのです。これがいわば、フッサール現象学の「野望」です。

2019年10月17日木曜日

入門初期のオーラル日本語と書記日本語の有効な共形成について(続き)

1.欧米語のの場合は、文字としてアルファベットという記号を使い、それの組み合わせとして口頭言語をtranscribeしている。なので、26のアルファベットで文字指導は終了で、あとはスペリングの正確さを問わなければ、口頭日本語と書記言語の両方を使って言語習得を進めてもよい。スペリングの正確さを問わない書き方は、まあいわば「メモ」です。
2.しかし、日本語の場合は、文字そのものとして、ひらがな50、かたかな50、そして、漢字(基礎で)300、ある。
3.ひらがなとカタカナは、表音文字として学習・指導してよい。その場合には、2つの側面からの学習・指導が必要。(1)各文字の書き方・認識を学習・指導する、(2)知っている日本語の語やフレーズをそれに対応するひらがなの組み合わせやカタカナの組み合わせと照合して認識・再生できるように学習・指導する。そして、この(1)と(2)はうまく「行ったり来たり」しながら共強化しなければならない。
4.漢字の学習・指導の原理も、当面は上の3のひらがなとカタカナの学習・指導の場合と同じ。
5.ただし、ひらがな・カタカナと比べて、漢字はしばしば字形が複雑で構成的になる。それは、まあ象形は別途として、指示、会意、形成などの原理で一つの漢字ができているから。
6.なので、漢字の指導の場合は、3の原理を踏まえながらも、象形も含めた5の漢字の特性にも留意して指導するのが、「息抜き」にもなるし、漢字という文字の様子を知り、漢字同士の関係づけにも役立つということで、効果があるでしょう。
7.結論として、上の1−6を認識しつつ、3・4と6の原理に基づいてしっかり指導する必要があります。そして、3の(2)の「(2)知っている日本語の語やフレーズをそれに対応する(ひらがなの組み合わせやカタカナの組み合わせや漢字の組み合わせや漢字とひらがなの組み合わせと照合して認識・再生できるように学習・指導する)」という原理を実現するためには、口頭日本語で!知っている日本語の語やフレーズを増やすことが、書記日本語の技量を総体的に伸ばすための基盤になるということです。つまり、少なくとも基礎段階では書記日本語は二次的、派生的な日本語力だということです。8.この「書記日本語は二次的、派生的な日本語力だ」という認識が希薄になる傾向がしばしばある、ということです。
9.そして、日本語の指導の総体として重要なことは、音声(オーラル)日本語と書記日本語の有効な共形成です。
10.形成のためには「無理のない」じわじわの学習・学習指導が必要です。

2019年10月8日火曜日

入門初期のオーラル日本語と書記日本語の有効な共形成について

 以下、2019年秋学期(10月スタート)の日本語集中コースの開始にあたり、コーディネータの立場から先生方に発信したメッセージです。集中コースとは、大学院進学予備教育で、週に毎日で、15コマ(各90分)×15週間というほんとうに「集中」コース(計337.5時間)です。このコースでは、学習と習得支援(教授)を支援するリソースとしてNEJを使用しています。
 以下、貼り付け。


○ ぼくの「気がかり」
 以前から、
(1)日本語の文字は「超厄介者!」。こんなヤツがなかったら、日本語の習得と習得支援はもっと楽々に行くのに!
(2)しかし、現にこの超厄介者があるのだから、コイツも含めて、何とかオーラル日本語と書記日本語の両方が順調に上達するようにプログラムを工夫するしかない。
(3)これまでの(IJでの)やり方はまだ十分に工夫されていない。
というのが「気がかり」でした。で、今学期。

○今学期の「指針」
1.ユニット4までは、オーラル日本語の習得を優先する。つまり、正書的に書かれた日本語を読ませるということはしない。ローマ字表記のテクストは「それ」を思い出すための「手がかり」として活用する。ローマ字表記のテクストも決して「読む」のではない。
⇒「Deciphering and mimicking Nihonngo」で、decipherging(解読)というのはローマ字テクストでの日本語の解読です。音声形態で優先して日本語を習得するための工夫です。決して、正書法の日本語テクストをdecipherさせないでください。
2.一方で、(1)(音声形態でおおむね習得した)語や句とその書記体との照合を通して音声形態の語や句の書記形態での姿を「見知る」こと、(2)「見知って」それをなぞること、などにより、(音声形態で知っている)語や句の書記形態での姿に馴染む練習は、適切なタイミングで「無理なく」豊富に行う。
3.さらに一方で、文字の書き方の指導は、基本としては語や句をベースにしながら、有効&巧妙に行う。
4.ユニット5以降も、「オーラル日本語習得の優先」を基本としてください。オーラルがまだ身についていないのに(正書法の)日本語を読ませるというのはしないでください。
5.書記形態での日本語を「後追い」の形で強化するために、ウィーク4以降に「Oral review and Reading and writing enhancement」というのを入れています。ここで、読み&書きの強化をします。
6.その他にも、(a)オーラル日本語優先、(b)オーラル日本語と書記日本語がうまく連係した日本語上達の工夫、がスケジュールに反映されています。

というようなことで、これまでの学期にも増してamazingな結果が出せるように、有効&滋養たっぷりの指導を、よろしくお願いします。

ご意見などありましたら、先生間で、また、わたしのほうにも!

西口

2019年10月6日日曜日

土台としての理論と本質探究のための理論的議論

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年3月号に羅針盤として掲載されたものです。

土台としての理論と本質探究のための理論的議論

 「わたしは理論が弱い」と告白する院生が多いです。確かに、データに基づく研究をするにしても、理論は必要ですね。そんな告白を聞くと「ふむふむ」と思うのですが、いつもやがて「うん??」となります。最近、その「うん??」の正体がようやくわかりました。
 昨日「子どもの変容に対するフリースクールの役割」という修士論文の発表を聞きました。例のごとく、フリースクールの常勤スタッフ2人に半構造化インタビューをしてという研究でした。そして、ハーシ(1969/2010)のボンド理論を基礎として分析するということでした。ボンド理論というのは、「『人はなぜ社会のルールに従っているのか?』という視点から、逸脱は社会的絆(social bond)が弱体化することから起こる」という理論だそうで、森田次朗(1991)が不登校現象にそれを応用しているということで、森田がまとめている4領域のボンドに基づいて分析したとのことでした。この発表のようにうまい理論を持ってくると分析は相応にすっきりいきますし、その上で、上手に考察の議論を行えば、わりと立派な研究に仕立て上げることができます。
 このボンド理論適用の例は、実証研究をする土台としての理論の話となります。つまり、持ってきた理論は分析のための土台です。このような場合は、当該の現象を説明するために適当である可能性のあるいくつかの理論をまずは持ってきて、その中のどれが最も適当かの吟味をした上で、一つの理論を適用しなければなりません。また、そのように持ってきた理論はデータ分析のためのいわば「当面の方便」のようなものなので、方便であることをしっかりと認識して、いわゆる考察を行った上で、さらに、理論そのものの適切性や妥当性を検討する議論も展開しなければなりません。
 さて、ぼくが言いたいことは、上のような土台としての理論の利用方法ではありません。院生たちがほしがっている理論はそのような土台としての理論なのかもしれません。しかし、ぼくが興味と関心をもって取り組んでいるのはどうもそういう理論ではないようです。ぼくが取り組んでいるのは、言語や認知や文化(社会)や現実や自己など、及び言語の習得と習得支援の全般にわたる基幹の部分を一貫した形で説明できるような理論のようです。そのような理論がないと、第二言語の習得と習得支援に関していかなる実質のある研究もできないのではないかとぼくは思っているようです。そして、ぼくがやってきた&やっている研究(?)はそういう理論の構築に向けての研究のようです。(実は、あと一歩で「いける!」気がしています。乞うご期待!)
 院生の皆さんは、当面自身の研究の「背骨」となる土台としての理論を見つけ出す必要があるだろうと思いますが、一方で、第二言語教育学の本質探究に関わる理論にもぜひ関心をもってほしいと思います。研究の深化のためにも、教育実践(企画・教材制作・授業実践)のためにも。

母語話者並に? ─ 日本は多言語多文化社会になっているか?

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年2月号に羅針盤として掲載されたものです。

母語話者並に? ─ 日本は多言語多文化社会になっているか?


 少し以前から第二言語教育関係の論考などでしばしば、「第二言語話者(非母語話者)は母語話者並に話す(書くも?)必要はない。第二言語話者は第二言語話者らしく、あるいは自分らしく話せば(書けば?)いい!」との意見が出されています。一方で、学習者の中には「母語話者と同じくらいに日本語ができるようになりたい」と言う人がいます。そして、さらに他方で、やたらに文法にうるさい先生がいます。この3つの意見、いずれに対しても違和感があります。
 ハワイに行ったときに、空港から宿までタクシーに乗りました。運転手さんは中国系の人でした。これから行く道の話から始まって、道中のあれこれの建物の話を機嫌よくしてくれるのですが、こっちは「予習不足」なので、地理も分からず、建物もよく聞き取れません。英語はbroken Englishと言っていいし、発音もかなり訛りがありました。話を聞くと、この5・6年の間にハワイに移住したらしいです。この運転手さんは明らかに「母語話者並に」は話していないし、母語話者並みの英語力を身につけているとはいえません。でも、この英語でタクシーの運転手の職を得て、ハワイで悠然と暮らしているわけです。たぶん、ハワイには中国人コミュニティなどもあって、英語が十分にできなくても十分に「居場所」があり、生活情報源もあって、快適に暮らせるのでしょう。この運転手さんにとっては、今の英語力で当面は十分で、今は十分にハッピーなのでしょう。一方で、タクシーの運転手さんの英語が十分に理解できなかったぼくのほうは「もっと英会話ができるようになりたい!」なんて全然思いませんでした。それどころか、無精をして「ああ、そう!」と日本語で生返事をしているくらいです。英会話のための英語力は今くらいで十分と思っているのです。それでいて、今英語で講義をしているのですが、こっちのほうは「もっとしっかりと伝え、学生を引きつけ楽しませる講義ができるようになりたい!」と強く思っています。ただ、こっちのほうも「ネイティブスピーカーの大学の先生のように!」というのは到底ムリです。日本語教育者であり、ユーモアが好きで、学生をリラックスさせるのが得意?なぼくは、そういうぼくらしく英語で講義をしたいと思っています。
 ハワイの中国系の運転手さんの例からは、多言語多文化になっている社会では、共通語になっている言語の能力はかなり限られていてもだいじょうぶということが言えます。ぼくの例からは、その人から見えている第二言語の言語活動領域というものがいろいろあって、領域によって「できるようになりたい」と「そこそこでいい」があることがよくわかります。ぼくの場合では、ぼくの専門分野の学術英語と講義の英語技量は「できるようになりたい」のほうで、英語での日常的な会話や旅行先での会話は「そこそこでいい」となります。
 結論です。多言語社会で暮らす複言語話者における第二言語や第三言語の能力について考える場合には、言語活動領域と「間に合っているかどうか」が主要な視点となります。簡単に言うと、必要なあるいは従事できるようになりたいと思う言語活動領域で「間に合う」ことがその人にとっての言語能力のゴールです。そして、それは当該の言語活動領域に限定してもたいていは母語話者並みではありません。ちなみに「間に合う」と言う場合に実際に話している言語の質は、言語活動領域と「間に合う」の中身によって全然違います。いつぞやサンフランシスコで乗ったタクシーのプエルトリコ系の運転手さんはほとんど世間話もできませんでした。行き先も何度も言い、説明しなければなりませんでした。こちらとしては「間に合ってないでしょう!」と思いましたが、ご本人としては「タクシーの運転手として『認められて』職を得て、その仕事を曲がりなりにもしているのだから、間に合っている」となるのでしょう。
 そもそも習得者の種類やその人が置かれている状況と無関係に一様・一律に言語能力というものを措定するというのは、最初から違っています。そして、そのような一様・一律の言語能力を措定した上で、第二言語話者の場合はそれを割り引いて「不完全でいいんだ!」と言うのは、値段をつり上げておいて「ああ、じゃあ5割引にしておくよ!」と言っているようなものです。人によって必要なあるいはできるようになりたい言語活動領域と「間に合う」が違うわけで、それに寄り添うのが本来の第二言語習得支援なのだろうと思います。
 ただし、日本で暮らすとか日本で仕事をするという事情になった場合は、どうもそんなに簡単には「間に合わない」ように思います。あのプエルトリコ系の運転手さんレベルの日本語力では決してタクシー会社に雇ってもらえないでしょう。あのハワイの中国系の運転手さんでもダメでしょう。日本語力が実用能力としてかなりの水準に達していないと、人とのコミュニケーションを伴う仕事はさせてもらえません。日本はまだまだ「日本語力がいろいろな人たちがハッピーに暮らせる」という意味での多言語多文化社会になっていないのだと思います。

日本語教育を構想することについて

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年1月号に羅針盤として掲載されたものです。

日本語教育を構想することについて

 あけましておめでとうございます。昨年は、就労外国人の受入れ施策のことで、世間は大騒ぎ。そして、今年は、新しい元号の元年とともに、日本開国元年となります。昨年の11月や12月は、就労外国人関係の日本語教育界の動きにたくさん言いたいことがあって、ブログ(https://koichimikaryo.blogspot.com)であれこれ発言してきました。で、そういう発言に疲れたので、今回はまったく違うテーマでとても自由に書きたいと思います。日本語教育の構想の仕方についてです。
 小中高の教科の学習というのは、現状では知識の習得が中心(←それがいいかどうかの議論は当面置いておいて)なので、教育の企画も、教育の実践も、そして評価も、わりあいしやすいです。一般的に言って、教育内容を「即物的に」設定すると企画も実践も評価もしやすいです。日本語教育ではしばしば「文型・文法か、コミュニケーションか」という議論が行われます。前者では教育内容として文型・文法や語彙などの言語事項を並べるわけですから、「即物的」で、企画も実践も評価もしやすいものとなります。しかし、「日本語の上達」という教育成果が得られるかどうかは「?」です。では、後者はどうでしょう。
 学習活動をコミュニケーションの形で行うということであれば、それは「即物的ではない」ということになります。しかし、コミュニケーション中心で教育を企画する場合に、何が行われているのでしょう? それは、悪名高き!(←と思っているのはわたしだけ?)ニーズ分析とコースデザインです。ニーズ分析では、目標場面target situation(できるようになるべき言語活動)を明らかにして、さらにそこでの話し方である目標言語target languageが調査されるわけです。次に、そうした調査の結果に基づいてコースがデザインされ、教材が制作されます。そして、そのようにして制作された教材の主要部は、端的にいうと、場面別やり取り集となります。つまり、「文型・文法か、コミュニケーションか」の後者のコミュニケーションを選んだとしても、結局は新たな「即物的な」言語事項が主な教育内容になってしまうわけです。ただし、これは基礎的な段階の教育を考えた場合のことで、一定程度の基礎力をすでに身につけている学習者に対して課題解決型のモジュールからなるプログラムを策定した場合はかなり「即物的」ということから免れるでしょう。文化庁の報告書(1月15日まではまだパブコメ中)を見ると、就労外国人のための日本語教育では、こうしたニーズ分析とコースデザインというパラダイムで教育を企画することが推奨されているようです。しかし、それはおそらく基礎段階の教育になるでしょうから、新たな「即物的な」教育となるでしょう。
 さて、ここまでは前口上で、ここからが本論です。
 では! 「即物的な」ものは習得しなくていいのでしょうか。つまり、言語事項は習得しなくていいのでしょうか。それは、そんなはずはありません。日本語ができるようになるというのは、日本語を使いながら能動的に言語活動に従事したり、相手の話を日本語を手がかりとしながら理解して応答したりできるようになることですから、日本語ができるようになることには、どのような形であれ言語事項の習得ということが伴います。日本語が上達するというのは、多かれ少なかれ言語事項の習得を伴いながら、より広い言語活動やより高度な言語活動に、より有効に従事できるようになることです。
 そのような日本語上達の経路に合致する日本語教育の構想はどのようなものでしょう。つまり、日本語教育の実践が「即物的に」言語事項を教えることから免れて、しかし結果として言語事項の習得も含めた言語活動従事技量の上達を促進できるように日本語教育を構想するにはどうすればいいのでしょうか。その問いに対するわたしの答えは、言語事項の習得を伴う言語促進的な言語活動がユニットの教育指導として実践できるような形で一連のユニットを企画する、というものです。これは、第二言語習得の原理の問題ではなくて、単に論理的な帰結です。ただし、その一方で、何をもって言語事項とするかは、クリティカルに検討されなければなりません。そこで言語事項とされるのは、従来のような文型・文法や語彙などではないでしょう。これは、言語哲学的な問題です。
 さて、クリティカルに検討するべき点がもう一つあります。それは、日本語プログラムの構成に関わることです。まずは、最終的な目標が日本語での言語活動に実際に従事できるようになることだとして、どのような方面の言語活動に従事できるようになることが期待されるのかをクリティカルに検討することです。その際には、当該の日本語プログラムの教育的な文脈や制度的な文脈などを含むさまざまな文脈も考慮されなければなりません。さらに、ある方面の言語活動に従事できるようになることが最終目標として設定されたとして、その水準に至るための前段階の基礎的な教育が必要ではないかをクリティカルに検討し、必要ならば基礎教育としてそれを企画することです。基礎的な日本語力を養成しないで、いきなり実際のコミュニケーション場面を設定した練習ばかりするのは、何ともナイーブだと言わなければなりません。これはすぐれて日本語教育学的なテーマだと思います。
 このように有効となり得る日本語教育を構想するためには、時には論理的に考え、時には言語哲学と向き合い、そして、最終的には日本語教育者としての高度な専門的知識と深い洞察を動員してさまざまな判断が下されなければなりません。「文型・文法か、コミュニケーションか」という二者択一で考えたり、教育企画と言うと即座に「ニーズ分析の出番だ!」としていては、いつまで経っても、「『即物的な』教育企画ではないが即物的な言語事項の習得も伴わせる巧妙な日本語教育の構想」はできないでしょう。「ニーズ分析!」、「コースデザイン!」と叫ぶのは、すでに古色蒼然の観があります。また、基礎教育を、従来の初級日本語教育で間に合わせてそのままにしているのもどうなのでしょう。わたしたちは、巧妙な日本語教育の構想の下に、創造的で調和的な日本語教育の実践を今後も展開していきたいと思います。