2020年4月1日水曜日

現象学から人間科学へ⑫ — 地平と自己

 「現象学から人間科学へ」と題した連続エッセイも今回で最後となります。最後の「結び」で、現象学的に人間科学を遂行する際の留意事項が論じられることになります。

地平的図式あるいは地平
 世界内存在の存在様態等について『存在と時間』の第1部第1編で論じたハイデガーは、第2編の第4章で、同書の要所となる現存在の実存と時間性との関わりを投企とも関連させながら論じています。このあたりは前節で焦点化して論じた第1部第1編の第5章を再論しているような様子です。
 同部分でハイデガーは、時間性と現存在の実存について以下のように総括しています。

 現存在は、おのれ自身の存在可能を主旨として実存している。現存在は実存しつつ投げられており、投げられているゆえにもろもろの存在者へ引き渡されている。すなわち、現存在は現存在として ─ おのれ自身を主旨として ─ 存在することができるためには、かような存在者を必要とするのである。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 趣旨は3-1の最初の引用と同様で、現存在は世界内存在として「そこ」に存在するという様態で「そこ」に投げ入れられ引き渡されていると言っています。しかし、3-1の引用との違いは、「もろもろの存在者」や「かような存在者(を必要とする)」ということに言及している点です。では、この「もろもろの存在者」とは何なのでしょう。続きを見てみましょう。

 現存在は事実的に実存しているかぎり、おのれ自身が《主旨とするもの》と、そのつどの《……するためにあるもの》とのこのような連結においておのれを了解しているのである。実存する現存在のこのような自己了解がおこなわれる場面は、現存在の事実的実存とともに《現に》存在している。第一義的な自己了解がそこでおこなわれる場面は、現存在とおなじ存在様相をもっている。現存在は実存しつつおのれの世界を存在しているのである。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 先の引用での「もろもろの存在者」とは、上記引用の中の「おのれ自身が《主旨とするもの》と、そのつどの《……するためにあるもの》とのこのような連結」らしい。そして、それは、現存在が自己了解を行う「場面」であり、それは「現存在の事実的実存とともに《現に》存在している」と言います。そのような事態をハイデガーは「現存在は実存しつつおのれの世界を存在している」と表現しています。現存在は実存しつつ、自らが存在する世界を在らしめそこに存在しているということです。そして、その次のパラグラフで以下のような論述に行きつきます。

 現の開示態のうちには、世界も、あわせて開示されている。してみれば、有意義性の統一態、すなわち世界の実存論的構成も、やはり時間性にもとづいているはずである。世界の実存的=時間的可能条件は、時間性が脱自的統一態として、ある地平のようなものを備えていることにある。このような脱自態の行く手を、われわれは地平的図式となづけておく。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 ここでは、第1文で、現存在が投げ入れられる「そこ」あるいは「それ」の開示においては世界も開示されていると言っています。そして、ハイデガーの論においては時間性が存在の起源としてあるわけですが、その時間性が脱自態的統一態として「ある地平のようなものを備えている」と論じています。そして、時間性に基づく脱自態的な産物を地平的図式と呼んでいるのです。

地平的図式と現存在
 地平的図式あるいは地平という視点はハイデガーの議論を理解するための梃子になるでしょう。すなわち、世界内存在として実存する現存在は、世界内存在として存在するために自らが実存するための地平を自ら開示します。そして同時に、その開示した地平の要の部分に自らも投げ入れられ引き渡されるということです。
 つまり、世界内存在として存在する現存在は、自ら地平という領野を開示して、そして自らもその地平に属するという形で実存するということです。
  
まとめ 
 本連続エッセイでの考察をまとめると以下のようになります。

1.   一般に自己(self)として扱われ論じられているものを原点に差し戻してハイデガーは現存在と呼ぶ。
2.   現存在は、世界内存在という形で存在する。つまり、世界内存在として存在する現存在は、自ら地平という領野を開示して、自らもその地平に属するという形で実存する。
3.   気持ちの中で現存在はいつもすでに気分的に開示されている。つまり、その都度に地平という領野を開示して、その地平に属するという形で実存している。
4.   世界内存在の了解可能性は、自らをディスコースとして語り明かす。あるいは、思考は現存在の存在への関わりを仕上げ、存在は思考の内にディスコースとなって現れる。現存在の実存は、思考の内にディスコースとして印される。そして、人間はそのようなディスコースという棲み処に住みついている。
5.   そうしたディスコースには、現存在の持続的な存在と当該の契機での存在の総体が示されている。つまり、そうしたディスコースは広く深く存在に立脚している。

 さらに、実践や労働の概念をも織り込んで本稿での議論と考察を敷衍すると以下のような点を指摘することができるでしょう。

6.    地平とは、生きることの各々の契機で現存在がその中に自らを見出す世界の景観である。したがって、地平には、広範な地平と局域的な地平、時間的な広がりをもつ歴史的な地平と空間的な広がりの地理的な地平、身体的活動の地平と知的活動の地平、公的な地平と私的な地平など多種多様な地平があり、その多様性は列挙し尽くせない。
7.    世界内存在という現存在の実存は社会文化史的な現象である。そして、現存在の実存の場として立ち現れる地平は文化特殊的なものとなる。
8.    文明の発展と地平の歴史的更新との関係は、それまでの生産・生活様式を基盤とした地平の上に、新たに築き上げられた生産・生活様式を基盤とした新しい地平を重ね上げるという関係になる。

結び 
 単にインタビューデータに基づいて研究するということではなく、現象学的に人間科学を遂行するということを考えると、以下のような諸点への留意が必要でしょう。

 1.そもそも地平は社会文化史的な産物、つまりは人工の産物であり、その地平において実存するわれわれも人工の産物である。
 2.現代の高度で複雑な技術文明社会に生きるわれわれは、行動を高次にシンボル的に統合し組織化した地平に生きる「現代的な世界内存在」として実存している。そして、われわれは、個人として実存しており、そのように実存していることと、自己が多地平的に実存していることを多かれ少なかれ自覚している。
 3.質的研究においてしばしばインタビュアーの要因ということが指摘されるが、それは取りも直さず、調査協力者がインタビュアーとのインタビューという実際の相互行為で「わたし」が内属するどのような地平を開示するかという問題である。
 4.インタビュアーの要因だけでなくその他のさまざまな要因も働いて、そこで語られるナラティブは開示される特定の地平によって、「腹を割らない」建前的な話、「腹を割った」打ち明け話、自己を「英雄」に仕立てるサクセスストーリー、自己を「悲劇のヒーロー」に仕立てる被害者ストーリー、楽観的な話、悲観的な話などになることがある。
 5.観察者/研究者はいずれが真実であるかはわからない。

 以上のようなことを考えると、観察者/研究者はむしろ、特定の地平に立った単純な特定のストーリーを追い求めるのではなく、調査協力者の複合的な心理の機微を描き出すことにこそ質的研究の意義があるのだと思います。もちろん、インタビュー時点において、調査協力者が自身についての特定の単純なストーリーに「傾倒している」場合は、それをその人のストーリーとして受け取るほかありませんが。
 地平こそが「わたし」のストーリーを規定します。そして、地平は多くの場合実際には複合的で、また変わりやすいものです。地平がそのようなものなので、そもそもの「わたし」(自己)の真実というものがあるのかどうかも本源的には疑わしくなります。そうしたことも十分に自覚した上で、人間についての質的な研究は行われなければなりません。

2020年3月15日日曜日

『これからの大学』(松村圭一郎)を読んで

 2020年3月15日の毎日新聞書評で、松村氏の『これからの大学』を紹介する記事(https://mainichi.jp/articles/20200315/ddm/015/070/043000c)を読
みました。
 松村氏は人類学者でご自身大学の教員です。松村さんの主張のポイントは以下。
1.大学とは、「社会の論理から距離をおいて物事を考える場」
2.知識と知恵を区別する。「知識は誰かの答えであり、答えに至る道のりを追体験して自分なりの考えを導く力が知恵。」
3.後者のプロセスが学び。
4.ゆえに、「考える人」である研究者が教壇に立つことの意義は、常に問いを立てて探究する姿勢・姿を伝えること
 さっと読んだところでは、特に最後の「探究する姿を伝えること」の部分などを含めて「うん、そうだそうだ、探究する姿を見せることが大事なんだ!」とうなづき、「ぼくもそうしてる!」と我が意を得たりと思った。しかし…、少し時間が経ってみると、「ん? ぼくは他のことも見せてるなあ」と。そして、もう一度見てみると、松村さんは自身を、あるいは大学教員を、「研究者」と規定している。ここのところは、ぼくと違う!
 大学教員は基本は、研究者であり、知の求道者です。そして、そんな「ハードコアな」研究者はぜひいてほしい。しかし、そういうハードコア派だけでなく、研究者的な土台を引き続き探究しながらもその土台のもとに、何らかのモノを開発する人や社会的な実践をする人もいてもいいと思うし、そういう人のそういう姿を見せるのもいいと思う。そういう人は、純粋な研究者や知の求道者ではなく、研究者・知の求道者としては、マイルドで、やや「気まぐれ」つまり領域越境的です。
 ハードコアのほうの大学教員は、現代の社会、教育の制度や教育課程や教育の方法等々について「根本的な課題」を指摘することができるでしょう。そして、それを発信したり、学生たちとともにそのあたりについて議論し合うことができるでしょう。しかし、「根本的な課題」を特定したとして、…、じゃあ、その課題を克服するために動くのは誰だ?! 研究者さんは、それは皆さん(大学を卒業後「社会」に出て実際に仕事をする人=現在の学生)です!と言うのでしょう。うーん、このあたり、それでいいんだとも言えるし、それじゃあ、だめでしょうとも言える。
 ここで出すのがふさわしいのかどうかわかりませんが、橋下徹さんは、評論家をやめて、政治家に転身しました。そのときに彼が言ったのは「ああだこうだ評論ばかりしていてもだめ。これがいい!こうであるべきだ!と思うんなら、能書きばかり言っていないで、行動を起こすべきだ!」でした。彼の政治姿勢や思想についてはいろいろな見方がありますが、ぼく自身は彼のこの転身を「えらい!!」と拍手喝采しました。
 ぼく自身は大学の教員という仕事をしていますが、自身をハードコアな研究者とは規定していません。(気まぐれな?)研究者や知の求道者という面はまあありながらも、むしろ、そういう面と行ったり来たりしながらの教育開発者、教育実践者、教育実践創造者というような感じです。日本語教育学のように、実践の分野に関わる研究領域の場合は、そういう大学教員の姿がふさわしいのではないかと思っています。(というか、それがぼくのスタイル!?)そして、そういう研究者×教育者という「総合的な姿」を学生たちに見てほしいと思っています。穏やかに「戦う」姿勢も!

2020年3月6日金曜日

教育の企画と教材の制作におけるクリエイティビティ

 アニメ・マンガの『鬼滅の刃』が老若男女で人気を博しているそうです。(https://kimetsu.com/anime/)アニメ・マンガ、恐るべし、ですね。こういう作品が出てきて、多くの人々に受け容れられるのを見るにつけ、日本語教育フリークのぼくは、すぐに日本語教育「業界」のことを考えてしまいます。…
 これはずっと前から(たぶん日本語教育の仕事を始めた40年前から)思っていたことだが、ことばの真性性(authenticity)を考えると、教材の主要部で提示されるディスコースは一つの作品でなければならないのではないか。まあ、言ってみれば文学作品です。(literary work、英語の“literature”の意味で。ご存じのように英語の“literature”のほうが日本語の「文学」よりも意味が広い!)
 そんな感覚の者から言うと、テーマや学習する言語事項を各ユニットや課で区切った教育の企画や教材の制作は、もうそのことだけで「×」となります。上のような感覚で言うと、「よーそんなことしてて、平気でいるなー!」です!
 アニメやマンガはいわば大衆文化!?の代表選手であるわけですが、『ワンピース』にしても、以前に人気を博した『進撃の巨人』にしても、今回の『鬼滅の刃』にしても、根本の発想やモチーフがとても優れており、一貫したテーマがあり、おもしろい設定の下に登場人物が登場して「活動」と「相互行為」を展開してモチーフやテーマを具現化しています。発想やモチーフやテーマを構想し、それを各編を通して一貫して展開する制作者の「クリエイティブで超集中的なエネルギー」はたいへんなものです。こうした傑作を創り出す制作者には「頭が下がる」ばかりです。
 で、こちら側、つまり日本語教育の側を振り返ってみて、それほどの「クリエイティブで超集中的なエネルギー」を注いで、教育の企画や教材の制作をしているでしょうか。と言うか、上で言ったように、そもそも「教材は一つの(文学的)作品でなければならない」と考えている人はどうも見当たりません。
 実は、「直感的に&潜在意識として」そのように感じている人はいるだろうと思いますが、それを堅固な意識としてもって、さらに、そのような感覚で教育の企画や教材の制作に取り組もうとしている人はいないような…。クリエイティブな作品を作ることに大きな困難を感じて、「直感&潜在意識」の段階でたじろいで作品制作に踏み出せないのだと思います。
 「手前味噌」、「我田引水」、「自画自賛」、「我田引水」、「唯我独尊」、「武士の矜持」、「快刀乱麻」…???になりますが、表現活動中心の日本語教育の教育企画と教材(NEJ、NIJ)制作を始めるときに、ぼく自身も「たじろぎ」ましたが、「これは、いつか、誰かが、絶対やらなければならない」と自分を鼓舞して、「クリエイティブな作品でありながら、体系的な語学コースの開発」に踏み出しました。アニメやマンガの作家さんに「負けてはいられない」! 映画の作品などを見ても、作品に感動しつつ、そんな負けず嫌い精神!?がやはり出てきます。さらに言うと、論文や本を書くときも、「作家さんに負けてはいられない!」という気持ちがいつもどこかにあります。
 言語教育においては「記憶」が重要なわけですが、「どうしたら断片記憶主義に陥らないか」が重要です。「教材を作品として(も)仕立て上げる!」というのは、そのための方略? ぼくの基本的な「志向性」でもあるのだろうと思いますが。
 そんな感じで、NEJやNIJや、その教育構想を見ていただけるとうれしいです。ぼくのバフチンなどの本も。(変なヤツですね。)

2020年3月2日月曜日

現象学から人間科学へ⑪ ─ 世界内存在と話

現象学から人間科学へ⑪ ─ 世界内存在と話
 
第9回からここまで、フッサール現象学の根本のモチーフ、メルロ=ポンティの構造の哲学、そしてハイデガーの世界内存在と、フッサールからハイデガーに至る経緯をたどってきました。今回は、ようやく、世界内存在と言葉(言語)の話になります。
心境Befindlichkeit
 ハイデガーは、現存在の実存論的構成の議論の中で、基本的な実存範疇の第一として心境(Befindlichkeit)を挙げています。実存範疇としての心境は気分や気持ちとも呼び替えられます。ハイデガーは、心境に基づいて世界の事実が開示されて同時にその事実の中に投げ入れられるものとして現存在の実存の様態を描いています。以下の引用の通りです。
  気持ちのなかで現存在はいつもすでに気分的に開示されている。それは、現存在がおのれの存在においてそれへと引き渡されているところの存在者として開示されている。そしてこのことは、とりもなおさず、現存在が実存しつつみずからそれであるべき存在へ引き渡されているということなのである。…この≪とにかくある≫という事実を、われわれはこの存在者の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける。すなわち、現存在は、みずから世界==存在としておのれの現を存在するというありさまで、おのれの現のなかへ投げられているのである。…心境のなかで開示された「事実」(Dass)は、世界==存在というありさまで存在する存在者の実存論的性格として捉えられなければならない。…現存在という性格をそなえた存在者がおのれの現を存在するのは、それが  あからさまであるにせよ、ないにせよ  被投性の心境においておのれを見いだすというありさまにおいてである。心境において、現存在はいつもすでにおのれ自身の前へ連れだされている。(ハイデガー、『存在と時間』上、pp.293-295 
 つまり、自身をその発現源として世界を投企する現存在は、翻ってそうした世界内存在として「そこ」に存在するという様態で「そこ」に投げ入れられるということです
 では、こうした現存在と言語はどのように関わっているのでしょうか。ハイデガーは、心境了解Verstehen)を世界内存在の開示態を構成している基礎的な実存範疇と位置づけ、さらに了解の中には解意Auslegung)、つまりその意を解する可能性、ハイデガーの言葉では領得する可能性が含意されていると言っています。そして、言語を主題として採り上げる議論を以下のように始めています。
  われわれは言明によって、解意の究極的な派生態をあきらかにした。ここではじめて言語を主題として取りあげるのは、この現象がその根を現存在の開示態という実存論的構成のうちにもつものであることを示唆しようとするためである。言語の実存論的=存在論的基礎は話である。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345
  こうした文脈で話(ドイツ語でRede、日本語では話や話すこと)が登場します。ハイデガーは以下のように続けています。
  話(Rede)は、心境および了解と、実存論的には同根源的である。了解可能性は、それを領得する解意がおこなわれる以前にも、いつもすでに分節されている。話は了解可能性の分節である。したがって、それはすでに解意や言明の基礎になっているわけである。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345
 そして、話をめぐるそのような事情をさらに以下のように説明しています。
  話が  現の了解可能性の分節が  開示態の根源的実存範疇であって、この開示態が第一義的には世界==存在によって構成されるのだとすると、話もまた本質上、特有の世界的な存在様相をもっているはずである。すなわち、世界==存在の心境的な了解可能性は、おのれを話として語り明かす。了解可能性の意義全体は、発言して言葉(Wort)となる。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.346
  こうした存在と話や言葉と思考の関係は第二次大戦後に刊行され、ハイデガーのもう一つの重要著作として注目された『「ヒューマニズム」について』の冒頭部で改めて定式化されることとなります。ここでは、出版されている翻訳ではなく、より意を汲んで訳出していると見られる木田の訳を紹介します。英語訳も参照しました。
 すべてに先だってまず<ある>のは、存在である。思考は、人間の本質へのこの存在の関わりを仕上げるのである。思考がこの関わりをつくりだしたり惹き起こしたりするわけではない。思考はこの関わりを、存在からゆだねられたものとして、存在に捧げるだけのことである。この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉となって現れるということにほかならない。言葉こそ存在の住居である。言葉というこの宿りに住みつくのが人間なのである。(『「ヒューマニズム」について』の冒頭部、邦訳ではpp.17-18、ただしここでは木田(1993)のp.202の訳を使用、太字強調は筆者で以下同様)
 こうしてハイデガーにおける存在と思考と言葉の関係が明らかになります。「言葉」の部分は、ドイツ語では“Sprache”、英訳では“language”となっているが、“Rede”をも合わせて、ディスコースという用語を用いるのがより適切だろうと思います。思考は現存在の存在への関わりを存在から委ねられたものとして仕上げます。そして、存在は思考の内でディスコースとなって現れます。つまり、現存在の実存はディスコースとして印されるのです。そして、人間はそのようなディスコースという棲み処に住みついている、ということです。ここに言うディスコースには、外に出された発話やディスコースとともに、外には出されていない内的な発話も含まれていることは容易に理解できるでしょう。
 世界内存在の受動性
 木田は、世界内存在のもう一方の特性として受動性を指摘しています。世界内存在の受動性を木田は2つの観点で捉えていますが、ここではその内の一つを採り上げます。
 木田によると、ハイデガーの論では、存在という意味での世界は、さしあたっては各自の世界として与えられるものとなります。しかし、そこに含蓄されている意味を遡っていくと、その世界は決して各自の世界に尽きるものではなく、常にその当事者が世界の内で共存している他人への指示を含んでいると言います。以下、木田の文を直接に引用します。
  たとえばすべての文化的対象は、その製作者を指示しているし、言語といったシンボルの体系は、それによって意志を伝達し合う他人を予想する。というよりも、道具連関にせよ社会構造にせよ言語体系にせよ、すべてある程度までは既成のシンボルの体系としてわれわれに与えられるわけであり、それを構成した他の主観への指示を含んでいる。したがって、世界は、われわれに<成りきたった共同的な世界>として与えられているわけであり、われわれはそこに入りこんで、その共同的な経験を摂取し、それについて自分なりの新しい経験を重ねていくほかない。まずはこういった意味で、世界はつねにすでにそこにあるものとして受動的に与えられる。(木田, 1991, pp.86-87
  ここで言われている「〜を指示している」や「〜への指示を含んでいる」というのは、「〜の存在を含意している」という意味です。そして、上の一節で言われていることは、世界内存在という現存在の実存というのは、取りも直さず社会文化史的な現象だということです。
 次回の第12回がいよいよ最後となります。フッサール現象学の系譜に位置づけられるハイデガー哲学の帰結と、同哲学からの 人間科学への示唆について論じる予定です。

2020年2月1日土曜日

現象学から人間科学へ⑩ ─ 人間的秩序と世界内存在

 前回のところまでで、カッシーラーの「シンボルを操る動物」というところまで来ました。今回は、2つの議論をします。一つは、人間的秩序である行動のシンボル形態について。もう一つは、いよいよハイデガーに突入で、かれの実存哲学の中核的視点である世界内存在(In-der-Welt-sein)について説明します。

人間的秩序 ─ 行動のシンボル的形態
 人間的な意味の世界をめぐって、カッシーラーはシグナルとシンボルについて以下のように論じています。 
 シグナルとシンボルは理論上、2つの異なった世界に属するのである。すなわちシグナルは物質的な「存在」の世界の一部であり、シンボルは人間的な「意味」の世界の一部である。シグナルは、オペレーター(操作者)であり、シンボルはデジグネーター(指示者)である。シグナルは、たとえシグナルとして了解され、用いられたとしても、一種の物理的または実体的存在である。シンボルはただ機能的価値のみもっているのである。…要するに、動物は実際的想像及び知性をもっているのに対し、人間のみが新しい形式のもの ─ シンボル的想像およびシンボル的知性 ─ を発展させたということができる。(カッシーラー、『人間』、pp.76-78) 
 メルロ=ポンティは、心理学研究の古典とされるケーラーの『類人猿の知恵試験』で紹介されている実験例を手がかりとしてチンパンジーの行動の構造を探究しています。これも木田(1991)が要領よく説明してくれているので、『行動の構造』の当該部分も参照しつつ、木田に依拠して要約します。ケーラーのチンパンジーは、竹竿をつなぎ合わせて遠くにあるエサを引き寄せたり、箱を積み重ねて高いところにあるエサを取ったりすることができました。しかし、実際には、チンパンジーが棒を道具として使用するのはあらかじめ棒がエサの手前の適当なところに置かれているか、少なくとも棒とエサとが一目で見渡せる場合に限られていました。また、箱を踏み台にしてエサを取る操作を習得したはずのチンパンジーも、その箱に他のチンパンジーが座っているとそれを踏み台にして利用しようとはしませんでした。つまり、チンパンジーにとって、エサの手前にある棒と離れたところにある棒や、踏み台としての箱と腰掛けとしての箱は、それぞれ違った意味をもった2種類の対象なのであって、同一の事物の二面、つまり同一の対象の異なる現れ方ではないのです。すなわち、チンパンジーは一定の意味を捉えているとは言えますが、その意味は、その時々の場の実際的な構成によって与えられる機能値にすぎないということです。対象を単なる機能値から解放して常に道具として使うことができるためには、現に与えられている状況の構造とそこから浮かび上がる可能的な状況の構造を関係づけるような高次の構造化の能力が必要なのです。
 人間はそうした高次の構造化ができます。そして、人間にあってはそうした高次の構造化ができるだけでなく、それを歴史的に幾重にも積み重ね上げて重層的にシンボル的知性の世界を構築することができるのです。メルロ=ポンティはそのような人間の行動形態を行動のシンボル形態と呼んでいます。
 メルロ=ポンティは、物理的・生物的自然を変容し、そこに新たな構造を実現するこの人間活動を、ヘーゲルにならって「労働」と呼んでいます。労働という見方は、直接的環境の「向こう側」に多くの局面から見ることができる「対象の世界」を認める見方で、マルクスの実践に直截に通じる視点です。
 メルロ=ポンティの構造の哲学から始まった人間の行動形態についての議論を木田は以下のように結んでいます。哲学・思想でしばしば用いられ、以下の引用中にもある「存在者」というのは、「存在していると認められるものやこと」です。 
 シンボル的行動によって、人間は直接的自然的環境を越え、いわば、<世界>に開かれることになる。人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつといわれるのも、実はこの意味にほかならない。したがって、ここで言われる<世界>とは、決して存在者の全体を指すのではない。それは、物理的・生物的自然の構造を超出して、そこに創出された人間的な<構造>であり、しかも、この構造が人間によってつくり出されたシンボルの体系である以上、それはむしろ人間そのものの存在構造だと言ってもよいであろう。(木田, 1991, pp.68-69) 
 このような人間の存在についての世界内存在という見方は、本節の冒頭で紹介したカッシーラーのシンボルについての見解と照応しています。

ハイデガーの『存在と時間』
 ハイデガーの実存論に入る前に、ハイデガーの実存哲学の位置について述べておきたいと思います。周知のように、ハイデガーの『存在と時間』は当初は上巻と下巻の2巻の予定でした。1927年に刊行された『存在と時間』の上巻は、発表されるやいなや圧倒的な評価を受け、ハイデガーはそれ一冊で哲学界における地位を確立しました。そして、瞬く間にドイツ思想界の形勢を変えたと言われています(木田, 1970, p.87)。一方で、下巻の刊行は長い間引き延ばされたあげく、結局1953年に断念されました(同前、p.89)。
 木田よると、ハイデガーは『存在と時間』の2巻でソクラテス以前の古代ギリシア哲学者にまで遡って存在そのものの意味を探究することを目論んでいましたが、結局その入口として発表された人間存在の実存の分析を扱った上巻だけが一人歩きしました。その結果、上巻だけの『存在と時間』はハイデガーのもともとの目論見に反して、実存哲学の書として広く一般に受け入れられることとなったのです。本稿でも、ハイデガーの本来の関心や目論見は顧慮することなく、現存の『存在と時間』で展開されている世界内存在の議論に注目することとします。ちなみに、本稿内で、『存在と時間』の「上」や「下」として出されているのは、この上巻の邦訳の「上」と「下」です。

世界内存在(In-der-Welt-sein)
 先にも言ったように、存在者とは「存在していると認められるものやこと」であり、ごくわかりやすく言うとわたしたちが認めている世界や現実です。存在者とは何か、そもそも存在するとはどういうことかに根本的な関心を置くハイデガーは、人間存在を手がかりとして存在の分析を始めます。人間だけが自己以外の存在者と関わっているだけでなく、自身の存在を存在しなくてはならないという形で自己自身の存在と関わりあいながら、同時に存在とは何かと問うこともできる特殊な存在だからです。そのような人間存在をハイデガーは一旦“Dasein”と呼びます。ドイツ語の“Dasein”はもともとは“da”(そこに)“sein”(ある)という意味で、ハイデガーは「存在が立ち現れる現場」というような意味で“Dasein”を使っています。通常は現存在と訳されています。現存在という見方には、いっさいの存在者の存在を意識の志向性に立ち返って問おうとしたフッサールの発想が受け継がれていると見ていいのですが、ハイデガーは意識という概念を注意深く避けていることになります。
 ハイデガーは、まずわたしたちが何気なくそこで生きている日常性(Alltäglichkeit)の分析から存在の探究を始めます。日常性とは、フッサールの言う自然的態度(die natürliche Einstellung)に基づく生き方です。そして、自然的態度に基づくフッサールの言う世界定立(Weltthesis)ということを世界内存在(In-der-Welt-sein)として捉え直したのです。
 フッサールにおける自然的態度でもわたしたちは世界を定立しつつ逃れがたくその事実的世界に繋がれているという事態が含まれていますが、ハイデガーにおいてもそれは投企(Entwurf)と被投性(Geworfenheit)が分かちがたく結びついているという事態として捉えられています。わたしたちは世界の内に否応なく投げ出されているのですが、そうした世界内存在をどのように生きて自己をどのように存在させるかを委ねられ、そして自身の責任において存在の投げ企てを絶えることなく続けなければならないのです。
ひと(das Man)と本来的実存
 本エッセイの関心は世界内存在とことばの関係ですが、ここでひと(das Man)と本来的実存についてのハイデガーの議論を見ておかなければなりません。この部分では、ハイデガーの議論は幾分道徳的な議論に傾きます。 
 現存在は日常的相互存在としては、ほかの人びとの司令下にあるということを意味する。現存在がみずから存在しているのではなく、ほかの人びとが彼から存在を取りあげてしまったのである。ほかの人びとの思惑が、現存在のさまざまな日常的存在様式を操っている。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.276) 
 これがハイデガーの言う、非本来的な生き方であるひとです。木田によると、そこでハイデガーは存在の真の意味を捉えるためには存在の開示の場である現存在そのものが本来性(Eigentlichkeit)を取り戻さなければならないと考えて、フッサールの現象学的還元の操作を援用します。そして、そこに「死」ということを導入します。つまり、日常性に生きているひとは、死の不安に襲われることによって、自然的態度によって装われた自己充足性を打ち破られ、かけがえのない自己に目覚め、自身の存在を自身の存在として引き受けるようになります。その結果、主体的に投企しようという本来的実存を回復するというわけです(木田, 1991, pp.80-81)。こうしたハイデガーの道徳的とも言える議論を木田は以下のようにまとめています。 
 もともと実存Eksistenzとは外に抜け出、超え出ることであった。つまり、本来的実存、真の人間存在の在り方とは、日常的に物との交渉に明け暮れしている<ひと>として自己を超え出る、その自己超越の運動なのだと考えてよいだろう。…われわれはこの自己超越の運動のなかで、むしろ世界へと超出し、われわれの事実的な被投性、われわれの有限性をますます深く自覚し、それを意識的に引き受けることになるのである。(木田, 1991, p.81
 現存在の実存の在り方にこうした視点を採り入れることによって、ハイデガーは現存在の実存を時間性(Zeitlichkeit)として捉えていく『存在と時間』の第2編の議論を展開していくのです。
 次回は、こうした世界内存在と言語の話になります。

2020年1月5日日曜日

現象学から人間科学へ⑨ ─ 世界内存在とメルロ=ポンティの構造の哲学

NJ研究会フォーラム・マンスリー(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に羅針盤として以下のような記事を書きました。

 冒頭で前回の内容を少し再論したり敷衍したりしながら、いよいよ世界内存在の話を始めます。今回の中心はメルロ=ポンティの構造の哲学です。

根源的な生活世界に立ち返る
 現象学を提唱し展開したのは言うまでもなくフッサールです。後期の著書からの引用となりますが、現象学の根本の問題意識をフッサールは以下のように表明しています。

「数学的と数学的自然科学」という理念の衣 ─ あるいはその代わりに、記号の衣、記号的、数学的理論の衣と言ってもよいが ─ は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をし、それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。(フッサール、『危機』、p.94

  17世紀のデカルトによって主体(subject)が見出されカントによって主体が規定することができる認識のカテゴリーの提案がなされました。そうした流れで、自立的な主体とその主体の外にある客体あるいは客観的世界という近代の二元論が成立しました。こうして神の桎梏から解放された人間主体は客体となった世界を解明することに邁進することになります。
 産業革命とも連携しながら急速に発展した近代科学は当初は自然を対象にして物理学や化学を発展させましたが、19世紀になると社会や心理などの人間的な現象も自然科学と同様のスタンスで研究されるようになりました。それが後に実証主義として批判されることになるヴントの心理学やデュルケームの社会学です。しかしながら、こうした「科学的」な物の見方は19世紀後半の一般的な知的傾向で、そうした世界への視線とそれに基づく科学的認識は科学者にとどまらず教養人一般にも広まり、客観的な世界というものがあらかじめそこにあるかのように見られるようになりました。フッサールが「理念の衣」と呼んで問題にしているのは、そのような認識のことです。そして、現象学は、そのような「理念の衣」を取り払ってわれわれの経験に立ち返って、本源の生きられてた世界からわれわれの存在や認識を見直そうという運動なのです。
 そうしたフッサールの現象学を正統的に引き継ぐメルロ=ポンティは「知覚とは端緒における科学とは言わないで、逆に、古典的科学は、己れの起源を忘れてみずからを完結したものと思い込んでいる知覚のことだ」(メルロ=ポンティ, 1967, p.110)と言って、この理念の衣を拭い去ってその手前にある生きられた世界に立ち返ってその哲学的探究を始めています。以下の一節の最後の文では、次項で論じるかれの哲学的探究の中心的なモチーフが示されています。 

 したがって、最初の哲学的行為とは、客観的世界の手前にある生きられた世界にまでたち戻ることだ、ということになるだろう。それというのも、この生きられた世界においてこそ、われわれは客観的世界の権利もその諸限界も、了解することができるであろうからだ。また、最初の哲学的行為は、事物にはその具体的表情を、有機体には世界に対処するその固有の仕方を、主観性にはその歴史的内属を返すことだ、ということになるだろう。(メルロ=ポンティ、『知覚の現象学1』、p.110

 一方で、マルクスは、ヘーゲルの労働というモチーフを人間的で感性的な活動である実践(Übe)として捉え直して、具体的な人間に立ち返って唯物論と観念論のいずれをも超克した人間論と存在論を試みています。以下の引用は、そうしたマルクスの企ての方向性を示すものです。 

 従来のあらゆる唯物論 ─ フォイエルバッハのそれも含めて ─ の主要な欠陥は、対象が、つまり現実、感性が、ただ客体ないし直感の形式のみで捉えられ、人間的・感性的な活動、実践として、主体的に捉えられないことである。それゆえ、活動的側面は唯物論とは反対に観念論によって展開される ─ とはいえ、観念論はもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らないので、ただ抽象的に展開されたにすぎないが ─ ということになった。(マルクス、「フォイエルバッハ」、p.231、傍点強調は原著、以下同様) 

 近代から現代への移行の中で、この世界が即自的な(それ自体で完結した)事物の総体、つまりわたしたちの前に繰り広げられた対象的な物理的世界でないことが明らかになってきました。世界は、わたしたちによって知覚され、働きかけられ、生きられている場面であり、物理的過程には還元することができないその都度張り巡らされ更新される世界です。わたしたちが生きる世界つまり生活世界Lebenswelt)は、マルクスの言うように、「ただ客体ないし直感の形式でのみ」捉えられる世界ではなく、「人間的・感性的な活動、実践」の場面として「主体的に」捉えられている世界です。そして、主体とは、これもマルクスの言うように、「現実的・感性的活動」に従事する主体であって、その身体によって世界の内に深く挿し込まれ、投げ込まれた存在となります。ここにわたしたちは、世界と人間の特有の絡み合いを見ることができます。このような物でもなく、純粋な意識でもない人間の在り方をハイデガーは世界内存在In-der-Welt-sein)と呼んでいます。

 メルロ=ポンティの構造の哲学
 木田も同様に引き合いに出しているところですが、世界内存在という人間特有の在り方を理解するための入口として、メルロ=ポンティの構造の哲学のアイデアを知るのが有効でしょう。
 『行動の構造』の第3章で、メルロ=ポンティは、物質、生命、精神のそれぞれをそれぞれにおける独自の秩序として捉えています。そして、それを、物理的秩序、生命的秩序、人間的秩序と呼んでいます。物質、生命、精神を異なる3つの実体として捉えるのではなく、それらを構造の統合度の異なる3つの段階として捉えているのです。つまり、それぞれが先行の秩序を捉え直し、それをより高次の全体に組み込むことによって一層統合度の高い新しい秩序を実現していく3つの階梯をなしていると見ます。ここで詳しく論じることはできませんが、メルロ=ポンティは、存在論と認識論の両者にまたがる議論として構造の哲学を展開しています。
 木田(1991)の解説に依拠しつつ『行動と構造』も参照しながらこの3つの秩序を説明すると以下のようになります。まず、物質的秩序について言うと、物理的構造は、ある与えられた外的諸条件との関係において得られた一つの平衡状態と考えることができます。外部から課された作用は、それによる緊張状態を減少して系を静止させるというふうに働きます。つまり、物理的構造とは、現存する現実的諸条件に関して得られた平衡状態だということになります。これに対して、生命的秩序、つまり有機的構造である生命においては、その平衡状態が単に現存の諸条件との関係においてだけでなく、その有機体それ自身によって現実化される可能的諸条件との関係においても実現されることになります。つまり、有機的構造の場合には、構造が外力の強制に屈してただ自らをたわめるというのではなく、自己本来の境界を越えて外に働きかけ、自分の固有の環境を自分で作り上げるのです。したがって、生物の行動は、与えられた外的条件の関数ではありません。むしろ、生物が反応する環境のほうがその生物の活動のある内的規範、例えば知覚の閾や基本的活動の形態などによって区画されていくのです。例えば、ミミズの運動は決して物理的な平衡状態を達成する運動ではなく、一つの有機的な生命体として環境に差し向けられた動作として見なければ正当に理解することはできません。つまり、有機的構造の運動や行動は、食べるものを摂取する、目標に向かって移動する、生命の危険を回避するなどの意味をもった運動や行動なのです。したがって、有機体と環境との関係は、物理的系とその場との関係とは比較できないような、ある生命的な意味を媒介とする弁証法的関係と見なければなりません。

 次は、下等な動物から人間のような高等な動物への秩序の再編成の話です。下等な動物にあっては、自然的状況の内に見出される特定の刺激の複合体にのみ結びつく、本能的と呼ばれる行動の形態が支配的です。ところが、高等な動物になると、環境の変化によって課せられる新しい問題にも対処しうるように行動の構造を組み替えることができるようになります。つまり、学習が可能になります。このレベルにあっては、環境の変化とともに、本来無関係ないくつかの刺激が隣接して与えられると、先行の刺激が条件刺激となり、続いて現れる無条件刺激の信号(シグナル)の役を果たします。ただし、そこで信号となるのは、条件刺激そのものではなく、条件刺激を一つの契機としてもち、それに意味を与えている場の全体の構造です。パブロフの犬で言うと、反応が唾液を出すことで、無条件刺激がエサで、条件刺激がエサを与える前に鳴らされるメトロノームの音となります。チンパンジーの行動は、このレベルでの統合(秩序)の最も進んだ段階に位置します。そして、そうした秩序を超えて行動を統合しているのが「シンボルを操る動物」である人間なのです(カッシーラー、『人間』、p.66)。

2020年1月2日木曜日

優れた日本語教育を創造するために

 こういうことが日本語教育者の間で共有されていれば…。(中級くらいまでの話です。)
Ⅰ. 日本語教育とは何か
1.日本語教育を「日本語」を「教えること」と思っている人が多すぎる。(←ハズキルーペのCMのように!)
2.日本語教育は、「学習者における日本語の上達」を「支援する」計画的で組織的な営みである。
3.「計画的」というのは、「企画(planning)」の部分と「実施・実践」の部分があるということ。
4.「組織的」というのは、教材を中心としたさまざまなリソースを有機的に組み合わせて、学習者(たち)と教師(たち)が協働してで、「学習者における日本語の上達」という目標を達成する営みを行うということ。
5.有効な企画とそれとかみ合った優れた実施・実践という形になっていない状況で、優れた教育実践を創造することは決してできない。
Ⅱ. 計画あるいは企画について
1.企画においては、どのような言語活動領域に関心を置くかの判断が根本的に重要。
2.どのような言語活動領域に関心を置くかは、「なぜ日本語教育をするのか」という根幹的な問いに基づく。
3.「なぜ日本語教育をするのか」と問われたら、わたし自身は「学習者一人ひとりが自身の声を獲得して、しっかりと自己(self)を表現できるようになってほしいから」と応える。
4.ゆえに、わたしが関心を置く言語活動領域は、「正しく適切に日本語が話せるようになる」や「実用的なコミュニケーションが効果的にできるようになる」というような言語活動領域ではなく、(自己)表現活動という言語活動領域となる。
5.文型・文法事項であれ、実用的なコミュニケーション表現であれ、言語事項を内容として教育を企画すると、その教育実践は避けがたく、「日本語」(言語事項)を「教える」実践となる。(これが、Ⅰの1で言ったこと。)
6.言語活動領域が決まったら、次は、学習者における日本語上達の経路を想定した具体的な教育企画を立案する。
7.(自己)表現活動中心の教育では、それは、やさしいものからむずかしいものに徐々に進んでいく、テーマの言語活動の一連のユニットとなる。
Ⅲ. 企画の一部としての基本教材
1.ユニットとしてテーマだけ提示されても、教師はどのようなことをどこまで指導すればいいのかわからない。
2.ゆえに、(1)当該のテーマについて何をどのくらい話す(書く、理解する)ことが求められているのかを示すために、また、(2)テーマをめぐる各種の言葉遣いを盗み取るために、モデル・ディスコースを用意するのが適当である。
 以上のような教育企画(と教材)は、日本語上達の経路に沿って、学習者自身が自分の力でかなりの程度学習を進めることができて、教師のコーディネーションとサポートがあれば一層有効に上達が進む教育企画となっている。
Ⅳ. 実施・実践
1.上のような企画と教材を提供されたところから、学習者の仕事と教師の仕事は始まる。
2.学習者と教師は、各ユニットで、モデル・ディスコースとして例示されているような言語パフォーマンスができるように学習と指導を展開する。その目標を達成するために学習者(たち)と教師(たち)は有効に協働しなければならない。
3.教師は、ユニットのテーマを超えた総集的な日本語の上達を促進する習得援助もしなければならない。
4.第二言語の習得においては、学習者の能動的な学習と、教師の強力な支援が求められる。
Ⅴ.第二言語習得の原理
1.成人の第二言語学習者は、習得と学習という2種類の方法で第二言語を伸ばすことができる。
2.学習された知識は習得を支える知識となり得る。
3.第二言語の学習はスキルの学習ではない。
4.“Speaking is a result of acquisition and not its cause.”(話すことは習得の結果であって、習得の原因ではない。Krashen)。つまり、「学習者にできるだけ話させる(と、日本語が上達する)!」との考えは間違いである。
5.しかし、ユニットなどの一定の区切りで「話せる(書ける)ようになっていること」を確かめることは、学習者のモチベーションを高く維持するために重要な方略である。(自己効力感)
 つまり、優れた日本語教育を創造するためには、(1)適切な言語活動領域の選択、(2)有効な企画と適切な基本教材、(3)優れた実践、(4)優れた実践を支える習得の原理、という4本の柱が必要ということです。