2020年4月1日水曜日

現象学から人間科学へ⑫ — 地平と自己

 「現象学から人間科学へ」と題した連続エッセイも今回で最後となります。最後の「結び」で、現象学的に人間科学を遂行する際の留意事項が論じられることになります。

地平的図式あるいは地平
 世界内存在の存在様態等について『存在と時間』の第1部第1編で論じたハイデガーは、第2編の第4章で、同書の要所となる現存在の実存と時間性との関わりを投企とも関連させながら論じています。このあたりは前節で焦点化して論じた第1部第1編の第5章を再論しているような様子です。
 同部分でハイデガーは、時間性と現存在の実存について以下のように総括しています。

 現存在は、おのれ自身の存在可能を主旨として実存している。現存在は実存しつつ投げられており、投げられているゆえにもろもろの存在者へ引き渡されている。すなわち、現存在は現存在として ─ おのれ自身を主旨として ─ 存在することができるためには、かような存在者を必要とするのである。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 趣旨は3-1の最初の引用と同様で、現存在は世界内存在として「そこ」に存在するという様態で「そこ」に投げ入れられ引き渡されていると言っています。しかし、3-1の引用との違いは、「もろもろの存在者」や「かような存在者(を必要とする)」ということに言及している点です。では、この「もろもろの存在者」とは何なのでしょう。続きを見てみましょう。

 現存在は事実的に実存しているかぎり、おのれ自身が《主旨とするもの》と、そのつどの《……するためにあるもの》とのこのような連結においておのれを了解しているのである。実存する現存在のこのような自己了解がおこなわれる場面は、現存在の事実的実存とともに《現に》存在している。第一義的な自己了解がそこでおこなわれる場面は、現存在とおなじ存在様相をもっている。現存在は実存しつつおのれの世界を存在しているのである。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 先の引用での「もろもろの存在者」とは、上記引用の中の「おのれ自身が《主旨とするもの》と、そのつどの《……するためにあるもの》とのこのような連結」らしい。そして、それは、現存在が自己了解を行う「場面」であり、それは「現存在の事実的実存とともに《現に》存在している」と言います。そのような事態をハイデガーは「現存在は実存しつつおのれの世界を存在している」と表現しています。現存在は実存しつつ、自らが存在する世界を在らしめそこに存在しているということです。そして、その次のパラグラフで以下のような論述に行きつきます。

 現の開示態のうちには、世界も、あわせて開示されている。してみれば、有意義性の統一態、すなわち世界の実存論的構成も、やはり時間性にもとづいているはずである。世界の実存的=時間的可能条件は、時間性が脱自的統一態として、ある地平のようなものを備えていることにある。このような脱自態の行く手を、われわれは地平的図式となづけておく。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 ここでは、第1文で、現存在が投げ入れられる「そこ」あるいは「それ」の開示においては世界も開示されていると言っています。そして、ハイデガーの論においては時間性が存在の起源としてあるわけですが、その時間性が脱自態的統一態として「ある地平のようなものを備えている」と論じています。そして、時間性に基づく脱自態的な産物を地平的図式と呼んでいるのです。

地平的図式と現存在
 地平的図式あるいは地平という視点はハイデガーの議論を理解するための梃子になるでしょう。すなわち、世界内存在として実存する現存在は、世界内存在として存在するために自らが実存するための地平を自ら開示します。そして同時に、その開示した地平の要の部分に自らも投げ入れられ引き渡されるということです。
 つまり、世界内存在として存在する現存在は、自ら地平という領野を開示して、そして自らもその地平に属するという形で実存するということです。
  
まとめ 
 本連続エッセイでの考察をまとめると以下のようになります。

1.   一般に自己(self)として扱われ論じられているものを原点に差し戻してハイデガーは現存在と呼ぶ。
2.   現存在は、世界内存在という形で存在する。つまり、世界内存在として存在する現存在は、自ら地平という領野を開示して、自らもその地平に属するという形で実存する。
3.   気持ちの中で現存在はいつもすでに気分的に開示されている。つまり、その都度に地平という領野を開示して、その地平に属するという形で実存している。
4.   世界内存在の了解可能性は、自らをディスコースとして語り明かす。あるいは、思考は現存在の存在への関わりを仕上げ、存在は思考の内にディスコースとなって現れる。現存在の実存は、思考の内にディスコースとして印される。そして、人間はそのようなディスコースという棲み処に住みついている。
5.   そうしたディスコースには、現存在の持続的な存在と当該の契機での存在の総体が示されている。つまり、そうしたディスコースは広く深く存在に立脚している。

 さらに、実践や労働の概念をも織り込んで本稿での議論と考察を敷衍すると以下のような点を指摘することができるでしょう。

6.    地平とは、生きることの各々の契機で現存在がその中に自らを見出す世界の景観である。したがって、地平には、広範な地平と局域的な地平、時間的な広がりをもつ歴史的な地平と空間的な広がりの地理的な地平、身体的活動の地平と知的活動の地平、公的な地平と私的な地平など多種多様な地平があり、その多様性は列挙し尽くせない。
7.    世界内存在という現存在の実存は社会文化史的な現象である。そして、現存在の実存の場として立ち現れる地平は文化特殊的なものとなる。
8.    文明の発展と地平の歴史的更新との関係は、それまでの生産・生活様式を基盤とした地平の上に、新たに築き上げられた生産・生活様式を基盤とした新しい地平を重ね上げるという関係になる。

結び 
 単にインタビューデータに基づいて研究するということではなく、現象学的に人間科学を遂行するということを考えると、以下のような諸点への留意が必要でしょう。

 1.そもそも地平は社会文化史的な産物、つまりは人工の産物であり、その地平において実存するわれわれも人工の産物である。
 2.現代の高度で複雑な技術文明社会に生きるわれわれは、行動を高次にシンボル的に統合し組織化した地平に生きる「現代的な世界内存在」として実存している。そして、われわれは、個人として実存しており、そのように実存していることと、自己が多地平的に実存していることを多かれ少なかれ自覚している。
 3.質的研究においてしばしばインタビュアーの要因ということが指摘されるが、それは取りも直さず、調査協力者がインタビュアーとのインタビューという実際の相互行為で「わたし」が内属するどのような地平を開示するかという問題である。
 4.インタビュアーの要因だけでなくその他のさまざまな要因も働いて、そこで語られるナラティブは開示される特定の地平によって、「腹を割らない」建前的な話、「腹を割った」打ち明け話、自己を「英雄」に仕立てるサクセスストーリー、自己を「悲劇のヒーロー」に仕立てる被害者ストーリー、楽観的な話、悲観的な話などになることがある。
 5.観察者/研究者はいずれが真実であるかはわからない。

 以上のようなことを考えると、観察者/研究者はむしろ、特定の地平に立った単純な特定のストーリーを追い求めるのではなく、調査協力者の複合的な心理の機微を描き出すことにこそ質的研究の意義があるのだと思います。もちろん、インタビュー時点において、調査協力者が自身についての特定の単純なストーリーに「傾倒している」場合は、それをその人のストーリーとして受け取るほかありませんが。
 地平こそが「わたし」のストーリーを規定します。そして、地平は多くの場合実際には複合的で、また変わりやすいものです。地平がそのようなものなので、そもそもの「わたし」(自己)の真実というものがあるのかどうかも本源的には疑わしくなります。そうしたことも十分に自覚した上で、人間についての質的な研究は行われなければなりません。

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