就労外国人関係の議論で盛んに「日本語教師」という言葉が使われています。しかし、そもそも「日本語教師」って何? 2つの可能性。(1)調理師、美容師、看護師、介護士、司法書士、行政書士などと並んで「日本語教師」、(2)日本語教員の意味。
(1)については、日本語教育能力試験というのがあって、それに合格したら「日本語教師」? うーん、どうもそうでもないような…。現在の日本語教育能力試験が、日本語を「教える」ということに必要な資質、知識、技能を妥当に測っているとは言えないような…。仮に知識は測っているとしても、資質と技能は測っていないでしょうね。だから、「資格試験」という観点で言って、「日本語教師」というのが存在しているかというと、存在していないと思います。
では、(2)はどうでしょう。「小学校教員」と言うと、フツーは正規に雇用されている教諭をイメージします。社会保険などがもちろんありますし、給与は給与表というので定められていて年功的に上がっていきます。非常勤の場合は、わざわざ「小学校・非常勤教員」と言うでしょうね。日本語教育の場合に「日本語教員」というのがそもそもあるのでしょうか。日本語学校の専任の先生は「日本語教員」? 一応社会保険はあるかと思いますが、きちんとした給与表はないし、日本語学校の場合は教員の研修などのシステムもほとんどありません。だから、「日本語教員」とは言わないのでしょう。では、大学の日本語教育センターで日本語教育に携わっている人や、国際交流基金で(国内・国外で)日本語教育に携わっている人やなどは「日本語教員」? うーん、まあ待遇的には「日本語教員」と言ってもまあいけるでしょうね。ただし、基金の場合は、日本国内では形式的には「1年契約」で、いわゆる「終身雇用」ではありません。海外の場合は、赴任期間だけの雇用契約です。日本語教育センターなどは、一部「終身雇用の」専任教員(とはいえ、形式的には多くは「1年契約」)がいますが、たいていは契約教員や特任教員で任期ありです。一方で、大学の留学生センターや国際センターなどで日本語教育に携わっている人は、自分たちは「日本語教員」ではなく、「大学教員」だと言うでしょうね。どうも(2)の観点でも、まともに職業として成り立っている「日本語教師」は見つかりそうにありません。
「だからこそ、日本語教師の地位の向上をしなければいけないのだ!」という声が聞こえそうですが、それ変! 世の中に「日本語教師」や「日本語教師の地位」なんてないのに、それを向上するなんて論理矛盾。正確に言うなら「日本語を教えるということを立派な専門職として確立すること!」でしょう。そうなると、今のままの「わたしたち日本語教師」のままではダメということがしっかりとはっきりしてきます。俗にしばしば言われる「日本語教師の地位の向上」は、「わたしたち」が立派な専門職に変容できるかの問題なのだと思います。
取り急ぎ。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2019年1月26日土曜日
読書教養人はえらい人?
以下の記事は、相変わらず!! 日本語教育(学)の関心から書いています。
小説家、大学の先生、評論家、ジャーナリストなどはたいてい小さい頃から現在も引き続いて強烈に本を読んでいます。本を読むスピードやネットで情報にアクセスしてそれを読み解くスピードも強烈です。元ジャーナリストでその後一念発起してイギリスに留学して博士号をとって今ぼくの身近な同僚になっている人がいますが、かれは仕事をフツーにこなしながらも、小説、教養書、専門書などを日常的に読んでいて、たぶん1週間に数冊いっていると思います。たいへんな「読書馬力」です。『火花』で芥川賞をとった又吉くんの読書量も半端ではありません。
新聞やテレビなどにしばしば出てきて、ものを書いたり、いろいろな発言をしたりしているそういう種類の人たちを仮に言論人と呼ぶことにしましょう。言論人の多くは、最近では、自身のブログなどでも発信をしていらっしゃいます。
言論人はえらい人なのでしょうか? うーん、えらいのかなあ? 本を読むことが日常にある家庭出身でもなく、本を読むことが日常になっている人が身近にいない環境で育ったぼくには、今振り返ってみると、八百屋のおっちゃんや、豆腐屋・お好み焼き屋のおっちゃんとおばちゃんや、鶏肉・玉子屋や肉屋や酒屋のおっちゃんとおばちゃんなど、日々お仕事に励んで町の人たちの生活を支えている人たちがとても「えらいなー」と思えるのです。たぶん、町の人たちの生活に奉仕していてせっせと働くその姿がビビッドに「えらいなー」と思えるのでしょう。それと比べると、新聞やテレビで出てくる言論人は、どうかすると「能書きを垂れてお金を稼いでいる」ふうに見えてしまいます。「どうかすると」というのは、たぶん2種類あって、一つは「えらそうに」話す人。大阪人としては「えらそうなこと言うて、お前、なんぼのもんやねん!」と言いたくなります。もう一つは、議論がどんどん舞い上がってしまって、本来の重要なテーマを忘れてしまって、議論の相手とだけの議論・討論にはまってしまっているのに平気で「白熱して」議論を続けている場合です。これは「何、しょうもない能書きばっかり言うてるねん!」となります。
趣味の世界の中で「議論がどんそん舞い上がって…『白熱して』議論を続けている」というのは別にかまわないでしょう。それは、趣味の世界、広い意味で娯楽の世界なので、見ている人、読んでいる人も本気で議論しているのを聞く・読むのはそれはそれで圧巻でしょう。しかし、世の中の問題、社会のいろいろな問題について議論しているときに、「フツーの人の暮らし」を忘れて議論していらっしゃる(←これ、皮肉の敬語!)のは、どうもうさんくさいです。「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」と聞きたくなります。
ここまでは、どうも「まくら」です。では、収束、2つ。
言論人云々について言うと、言論人と読書教養人は異なるのだと思います。読書教養人は「表(舞台)」に出るかどうかにかかわらず読書を楽しみ教養を身につけますます人格を高めている人です。言論人は、その中の一部として「表(舞台)」に出ている人です。読書は本来は、言論や議論のためにすることではなく、私事としてひっそりとするものでしょう。もちろん友人同士の間で「この本はすばらしかった!」というような共有はあると思いますが。言論が「生業(なりわい)」になってしまうと、そのような「本来の読書」から離れていってしまうのかなあと思います。そして、人文系の大学の先生においてもどうもそういう「よろしくない傾向」に傾いている気がします。人文系の大学の先生は、本来的には高度な読書教養人(であるべき)なのだと思います。
もう一つの収束。日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、上のような意味での高度な読書教養人(であるべき)なのでしょうか? うーん、これはむずかしい質問です。日本語教育学や第二言語教育学を教育実践に資する学問と定義するなら、答えは「No!」となります。「教育実践に資する学問」と定義すると、教育実践のために教育実践者に向けて積極的に発言しなくてはならなくなるわけで、そうなると「本来の読書」から離れてしまいます。
それに対し、日本語教育学や第二言語教育学は日本語教育や第二言語教育への関心という部分で教育実践とつながりはあるが、それをきっかけとして人文学の一分野として自由に研究を展開していっていい、というふうに考えると、上の質問への答えは「Yes!」となります。そして、日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、日本語教育や第二言語教育への関心をスタートとしながらも自身の興味・関心にまかせてどんどん「本の世界」に入って行ってもいい、のめり込んでもいい、ということになります。しかし、ここで一つの「むずかしさ」が生じます。「本の世界」に深く入って行けば行くほど「微に入り細に入り」の議論になってしまって、そうした議論は教育実践者にとって、(a)疎遠でよそよそしい議論、(b)自身の目の前の関心から離れた議論、になってしまうという「むずかしさ」です。しかし、…。(a)と(b)について考えてみましょう。
(a)に関しては「微に入り細に入りでややこしくてゴメンね。でも、我慢して読んで! 聞いて!」と言うほかありません。そして、(b)に関しては、「目の前の関心」というのが本当にそれでいいのかを振り返るためにあれこれ言語やコミュニケーションや意識や社会文化的現実のことを深く探究して公表しているわけで、それを「わたしの目の前の関心はそれではない」と言って読んで・聞いてもらえないとなると大いに残念ですと言わざるを得ません。ただし! このように「残念です!」と言えるのは、研究者自身において自分の研究が教育実践と重要なつながりがあると確信できている場合だけです。そうでない場合は、「こんな研究をしているのですが、教育実践とのつながりはわたしもよくわかりません」と告白するのが誠実です。このあたり、厄介なのは、「重要なつながりがある」との確信が思い込みである可能性があることです。結局、「重要なつながりがあるか/ありそうか」は、話を聞いて/本を読んでくださる教育実践者のほうの「野生の直感」に委ねるしかありません。
結論として言いたいのは、実はこの「野生の直感」です。教育実践者の人たちがしっかりと「野生の直感」を磨いて、しっかりと、本当に教育実践のことを真摯に考えて研究活動をしている大学の先生とそうでない先生を見抜かなければなりません。これが、先の「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」という言論人への質問とつながるわけです。うさんくさい日本語教育学・第二言語教育学の大学の先生もたくさんいる? 変に教育実践とつながりがあるように発言するからうさんくさいのです。自身に「重要なつながりの確信」がないのなら、「つながりはわたしもわかりません」と正直に言えばいいのです。「えらい人」の不正直は罪が重い!!
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羞恥心
2019年1月13日日曜日
国語と日本語 ─ 移民のための日本語を考える
政治学者中西寛が、「無意識の壁を取り払う ─ 「国語」と「日本語」の間」という興味深い論説を2019年1月13日の毎日新聞に書いています。(https://mainichi.jp/articles/20190113/ddm/002/070/046000c、有料記事ですが)中西の論は、よく読むとちょっと論理の曲折があると思いますが、いくつかの重要な概念をわかりやすく提示していると思います。ここでは、中西が提示した概念を拝借?しながら、いくつかの議論をしたいと思います。
1.これからの日本社会が使う言語としての「日本語」(中西)
これまでわたしたちは特段何も考えずに、わたしたちの日本語である日本語、つまり「国語」を、何の躊躇も疑いもなく、わたしたちの間で使ってきました。外国出身の人がフツーに同僚になったり、近所の人になったりすると、それまでの「国語」ではうまく物事を運営できない状況が出てくるでしょう。「国語」というのは、濃密な共通基盤(という幻想?)の上に気づかれた築かれたエスニックな言語であり、これまでわたしたちはそういう濃密な共通基盤の上でエスニック言語である日本語、つまり国語で、人と交わり暮らしてきたからです。そして、外国出身の人たちは、さまざまな原因から、わたしたちとは異なる日本語の話し方をするからです。かれらが話す日本語に発音や文法などの面で「わかりにくさ」があるという水準だけでなく!です。
※「わたしたち」とか「わたしたちの日本語」と書いていて、日本人の中の多文化共生を日頃から主張しているわたしとしては、実は違和感を感じました。わたしは、日本人は一色で一枚岩ではないと思っていますし、「わたしたちの日本語」なんて一部の人の幻想だと思っています。しかし、外国出身の人たちが隣人になるようになるこれからこそ、外国出身の人にもわかりやすい話し方という意味での新しい日本語の話し方が要請されているのだと思います。
2.「日本語教育においては文法や語彙、発音が中心となるが、国語にあってはそれに止まらない用法、たとえば敬語、男女語の区別、書き言葉と話し言葉の区別などが重要となる。」(中西)
この件を読んだ日本語教育関係の人は、「日本語教育でも、敬語、男女間の区別、書き言葉と話し言葉の区別なども教えている」と「胸を張る」、かな? このポイントは、外国出身者が日本に居住して仕事をしたり生活をしたりする場合に、どのような機能までの日本語を本人が希望するか、これからの日本社会として要求するか、という問題になります。そして、それは、正式な形で移民として日本に来る/来た人の場合でも、国としていろいろな「水準設定」があるだろうと思います。同じく、期間を区切られた就労外国人の場合でもいろいろな考え方があるだろうと思います。それは、外国出身者が多数社会のメンバーを構成するようになったときの日本社会をどのようにデザインするのかという問題と直接に関わります。
3.2に続いて、「日本社会に溶けこむにあたって「日本語」と「国語」との差は、異なる言語と呼べるほどに大きいのである。」(中西)
「溶けこむ」をどのように考えるかを、よく考える必要があると思います。
外国出身者を多数受け入れた後のヨーロッパの諸国では、「社会統合」が問題になっています。さまざまな背景をもつ移民が多数入ってきて、かれらもそれぞれの国の国民になりました。その結果、それまでは「国民国家」として、「国民」たちがいっしょになって「わたしたちの国を造り発展させよう。暮らしやすいいい国にしよう」という気持ちでやってきたのですが、国の人口構成が具体的に多様になってきた結果、そういう「わたしたち」や「わたしたちの国」という意識が薄れてきました。そして、「これでは、国がこわれてしまう」という危機感から社会統合政策が行われるようになりました。(そして、実はさまざまな社会統合政策にもかかわらず、さまざまな痛ましい事件も起こっています。もちろん、社会統合政策が不十分だという面もあるでしょう。) その場合の「社会が使う言語」はフランス語であれドイツ語であれ、「国語」ではなく、多分社会の一員として機能的に十分に振る舞えるだけの言語としてのフランス語でありドイツ語だということになります。
中西は、外国出身者の場合は、「(新しい)日本社会が使う言語である「日本語」さえ習得すればいい」と論説の前半では主張していると読めます。にもかかわらず、この部分で「溶けこむ」と言っています。「溶けこむ」と言われると、さまざまな背景をもつ個々の外国出身者が、遍在しほぼ単一的な日本社会に、「溶けこむ」というイメージを引き起こします。そして、この論考の結論部は「(濃密に文化と歴史が浸み込んだ)『国語』を変革しなければ」となっています。
本記事の結論。詳細に論じると膨大になるので、結論のみを箇条書きにします。
(a)日本語の「国語」はエスニックな言語である。
(b)日本語は「日本語」と「国語」の二本立てで行く必要がある。「国語」は「国語」で大事。「日本語」も「日本語」で大事で必要。
(c)「国語」ができる人のかなりの部分は「日本語」もできるようになる必要がある。そして、そのことはすでに日本国内にある言語的な多様性やその他の多様性をを受け入れる姿勢を涵養することに資する。
(d)移民のための日本語を考えるときは、文法や語彙ではなく、その人たちが日本語に奉仕させようとしている用途・機能に注目しなければならない。
(e)移民の「社会統合」は、1世代ではなく、複数の世代を見通して考えなければならない。移民に対する言語政策・言語教育も複数の世代を見通して考えなければならない。
1.これからの日本社会が使う言語としての「日本語」(中西)
これまでわたしたちは特段何も考えずに、わたしたちの日本語である日本語、つまり「国語」を、何の躊躇も疑いもなく、わたしたちの間で使ってきました。外国出身の人がフツーに同僚になったり、近所の人になったりすると、それまでの「国語」ではうまく物事を運営できない状況が出てくるでしょう。「国語」というのは、濃密な共通基盤(という幻想?)の上に気づかれた築かれたエスニックな言語であり、これまでわたしたちはそういう濃密な共通基盤の上でエスニック言語である日本語、つまり国語で、人と交わり暮らしてきたからです。そして、外国出身の人たちは、さまざまな原因から、わたしたちとは異なる日本語の話し方をするからです。かれらが話す日本語に発音や文法などの面で「わかりにくさ」があるという水準だけでなく!です。
※「わたしたち」とか「わたしたちの日本語」と書いていて、日本人の中の多文化共生を日頃から主張しているわたしとしては、実は違和感を感じました。わたしは、日本人は一色で一枚岩ではないと思っていますし、「わたしたちの日本語」なんて一部の人の幻想だと思っています。しかし、外国出身の人たちが隣人になるようになるこれからこそ、外国出身の人にもわかりやすい話し方という意味での新しい日本語の話し方が要請されているのだと思います。
2.「日本語教育においては文法や語彙、発音が中心となるが、国語にあってはそれに止まらない用法、たとえば敬語、男女語の区別、書き言葉と話し言葉の区別などが重要となる。」(中西)
この件を読んだ日本語教育関係の人は、「日本語教育でも、敬語、男女間の区別、書き言葉と話し言葉の区別なども教えている」と「胸を張る」、かな? このポイントは、外国出身者が日本に居住して仕事をしたり生活をしたりする場合に、どのような機能までの日本語を本人が希望するか、これからの日本社会として要求するか、という問題になります。そして、それは、正式な形で移民として日本に来る/来た人の場合でも、国としていろいろな「水準設定」があるだろうと思います。同じく、期間を区切られた就労外国人の場合でもいろいろな考え方があるだろうと思います。それは、外国出身者が多数社会のメンバーを構成するようになったときの日本社会をどのようにデザインするのかという問題と直接に関わります。
3.2に続いて、「日本社会に溶けこむにあたって「日本語」と「国語」との差は、異なる言語と呼べるほどに大きいのである。」(中西)
「溶けこむ」をどのように考えるかを、よく考える必要があると思います。
外国出身者を多数受け入れた後のヨーロッパの諸国では、「社会統合」が問題になっています。さまざまな背景をもつ移民が多数入ってきて、かれらもそれぞれの国の国民になりました。その結果、それまでは「国民国家」として、「国民」たちがいっしょになって「わたしたちの国を造り発展させよう。暮らしやすいいい国にしよう」という気持ちでやってきたのですが、国の人口構成が具体的に多様になってきた結果、そういう「わたしたち」や「わたしたちの国」という意識が薄れてきました。そして、「これでは、国がこわれてしまう」という危機感から社会統合政策が行われるようになりました。(そして、実はさまざまな社会統合政策にもかかわらず、さまざまな痛ましい事件も起こっています。もちろん、社会統合政策が不十分だという面もあるでしょう。) その場合の「社会が使う言語」はフランス語であれドイツ語であれ、「国語」ではなく、多分社会の一員として機能的に十分に振る舞えるだけの言語としてのフランス語でありドイツ語だということになります。
中西は、外国出身者の場合は、「(新しい)日本社会が使う言語である「日本語」さえ習得すればいい」と論説の前半では主張していると読めます。にもかかわらず、この部分で「溶けこむ」と言っています。「溶けこむ」と言われると、さまざまな背景をもつ個々の外国出身者が、遍在しほぼ単一的な日本社会に、「溶けこむ」というイメージを引き起こします。そして、この論考の結論部は「(濃密に文化と歴史が浸み込んだ)『国語』を変革しなければ」となっています。
本記事の結論。詳細に論じると膨大になるので、結論のみを箇条書きにします。
(a)日本語の「国語」はエスニックな言語である。
(b)日本語は「日本語」と「国語」の二本立てで行く必要がある。「国語」は「国語」で大事。「日本語」も「日本語」で大事で必要。
(c)「国語」ができる人のかなりの部分は「日本語」もできるようになる必要がある。そして、そのことはすでに日本国内にある言語的な多様性やその他の多様性をを受け入れる姿勢を涵養することに資する。
(d)移民のための日本語を考えるときは、文法や語彙ではなく、その人たちが日本語に奉仕させようとしている用途・機能に注目しなければならない。
(e)移民の「社会統合」は、1世代ではなく、複数の世代を見通して考えなければならない。移民に対する言語政策・言語教育も複数の世代を見通して考えなければならない。
2019年1月9日水曜日
西口光一関係のLink
- メルマガ NJフォーラムマンスリー: https://www.mag2.com/m/0001672602.html
- 研究会 土曜の会@関学梅田キャンパス・月1:https://groups.google.com/forum/#!forum/doyounokai
- 大阪大学リポジトリー: https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/search/simple/?lang=0&mode=0&con_kywd=西口光一&schema_exp%5B%5D=1000&schema_exp%5B%5D=2000&schema_exp%5B%5D=3000&req=search
2019年1月8日火曜日
日本語教育をプロデュースしているのは誰/何で、監督をしているのは誰/何だ? ─ 「遠吠え」ばかりしている?
webjapanese(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/
)の「Who cares? ─ 誰が日本語学習者を守るのか」の記事を読んだ上での先の記事の後に以下のようなことを考えました。まあ、この記事も、あまり「明るい」記事ではありません。
前口上
わたしはなぜあれこれ専門の本を読んだり論文を読んだりしているのでしょうか? それは、何かについて発言しよう(書こう)と思ったら、その何かについてすでに発言している人の見解を知っておかないといけないからです。これは、研究や学問をする人間の基本的なマナーです。
一般的にはこれは先行研究のレビューということになります。では、わたしは先行研究のレビューということをしているのでしょうか。どうも違うようです。先行研究のレビューというのは、一定の研究領域(例えば、第二言語習得研究)と一定の研究テーマ(例えば、文法形態素や文法構造の習得の研究や語用論転移の研究ど)があって、それまでに行われている理論的研究や実証的研究を踏まえてその上にさらに研究的知見を積み重ねようという趣旨で先行研究のレビューをします。その営みは、当該の研究分野をさらに伸展させることです。
「わたしの場合は違う」というのは、(1)わたしの学問的営みは特定の研究領域に焦点化していない、そしてこの(1)とも関係ますが、わたしの研究は、(2)いろいろな研究領域の研究成果を第二言語教育学の関心から「批判的に」(関係があるか無関係か、関係がある場合はどのように関係があるか、に焦点化して)まとめあげることと、(3)教育学的に日本語教育学を確立すること、です(教育実践に関わる仕事は別物ととして)。わたしがやっていることは、フツーの意味での学術研究ではないのだろうと思います。しかし、(たぶん!)、日本語教育や第二言語教育の実践のために「必要で」「求められている(?)」学問的な営みであろうと思って(願って)います。
そんな事情のため、日本語教育(学?)関係の論文や海外の応用言語学関係の本や論文もけっこう読んでいます。そして、今、日本の日本語教育界は、就労外国人の受入れに向けた日本語教育の整備で「てんやわんや」になっていて、そんな文脈で教員教育や教師養成の改革というテーマが頻繁に論じられています。そんなのも、読んでいます。
そんなことをしていて、しばしば感じるのが、表題のようなことです。検討してみましょう。
本文
取りあえず、用語。映画のプロデューサーや、ドキュメンタリーや特集番組のプロデューサーと言うように、プロデューサーというのは、基本のところで何をどのように制作するかを決める人です。そして、監督というのは、プロデューサーと連携しながら具体的に制作を進める人です。多くのジブリ作品では、高畑勲さんがプロデューサーで、宮崎駿さんが監督です。
Q1 日本語教育をプロデュースしているのは誰/何だ?
A1 日本語の教科書です。基礎(初級)段階や中級前半は、各々基礎(初級)教科書、中級教科書に依存しています。そして、中級後半や上級段階でも適当な教科書を選んで授業をしたり、いろいろな教科書から抜粋して寄せ集めて授業をしています。自身でコースを企画しデザインして、教材なども準備して教育実践をしているのは、ごく一部の先生だけです。それも、中級以上の学習段階に限られるでしょう。結局、日本語教育をプロデュースしているのは教科書です。そして、厄介なことに、たいていの教科書の著者は一人ではありません。ですから、日本語教育をプロデュースしているのは誰だと聞かれて、「この人(A教科書の著者)と、この人
B教科書の著者)」というふうに言うことができません。日本語教育は、責任を負っているのが誰だかわからない教科書によってプロデュースされているのです。そして、この状況は今後も変わらないだろうと思います。
そして、フツーの教師が教科書を頼りにするのはむしろ「フツー」のことです。ですから、日本語教育の専門家という人が、優れた教育の企画とそれを支える「頼りになる教科書」を制作するべきなのだろうと思います。
Q2 日本語教育を監督しているのは誰/何だ?
A2 日本語教育を監督するのは本来は、各々の教育現場を担当しているコーディネータであるはずです。しかし、実際にはコーディネータは、学生や先生たちの「ご不満」をうけたまわってそれに対応して若干の「調整」をしている程度ではないでしょうか。既存の教科書を使っている限りは、コーディネータが授業担当教師と相談してダイナミックに学習活動や教育活動を展開するということはないように思います。(コースの流れに乗っていない唐突なスピーチコンテストや発表会などはありますが…) そんな状況ですので、授業担当の先生たちの方はそれぞれで、与えられたノルマをどのようにこなそうかということに汲々とするばかりです。そして、基礎(初級)段階では、各々の文型・文法の教え方を解説した教授法の本などに頼って、授業を計画し実施しています。このような事情ですので、この質問への答えは、監督は「不在」となります。
さて、現在日本語教育の実践は、満足な状況でしょうか。これは、結果を客観的に測定して云々ということではなくて、実際に教育をしている教師の感覚として、そして教育を受けている学習者の感覚として、です。非漢字系の学習者について「毎日勉強していても、1年半勉強してN3に受かるかどうかだ!」という話をよく聞きます。うーん、これはどうもうまくいっていないと言わざるをえないのでは…。
そんな状況を見て、大学のセンセたちは、たいていは、日本語教員の教育や教師養成を何とかしなければという方向で、あれやこれや「研究」して「提案」をします。そして、ますます「上等な」議論を繰り広げます。しかし! 今の日本語教育の状況を改善する方策として、教員教育や教師養成を改革するという行き方はどうなんでしょう? 有効でしょうか? 大学のセンセたちは、QA1やQA2などの状況をどのように考えているのでしょうか。どうもそのような現場や現状やそれに実際に関わっている人に直接関わることを避けて、「遠吠え」ばかりしているように見えてなりません。
大学のセンセになった人は、「自分は日本語教育の研究者であって、日本語教育の(実践をする)専門家ではない」と自認しているのかもしれません。(それには一定の理解はできます。大学のセンセであるという「値打ち」を維持するためにも!) そして、その一方で、「日本語教師は…」「日本語教師にとって…」というように「日本語教師」ということをよく論じています。こういうセンセは、「日本語教師」を「卒業」されたようです。しかし! 大学のセンセが「日本語教師」を「卒業」した日本語教育の研究者で、現在日本語教育の現場に携わっている人が「未卒業」の日本語教師だとしたら、この世の中のどこに日本語教育の専門家がいるのでしょうか? どこに、日本語教育の専門家(その重要部分として、日本語教育のプロデューサーや監督がある)が「生まれる」のでしょうか。
これは、日本語教育と日本語教育学が抱える根本的な構造的問題です。この構造的問題を解決する処方箋はまだ誰も見出していません。厄介です。
そして、その一方で、日本語教育の研究者と目されている人は、今、政治家や行政官から「関連するデータを出してくれ!」とせがまれて(?)います。普及可能なgood pracriceを生み出すことができておらず、そのために「関連するデータ」も集めることができていないわけで、これも実に厄介です。
webjapaneseの記事をきっかけにあれこれ考えてしまいました。
2019年1月6日日曜日
就労外国人に関わる日本語教育の施策と「日本語教育のデータ」ということについて
こんなblog(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/)、だれかさんのfacebook関係で知りました。(ありがと!) ライターさんの情報収集力、恐るべしです。で、この記事の中にも「データ」云々のことが書いてありますが、以下、就労外国人に関わる日本語教育の施策と「日本語教育のデータ」ということについて考えました。(「だれかさん」にも送った記事からの抜粋です。)
1.「データ」云々について
これはとても厄介。(1)施策にはお金がかかる、(2)お金をかけるのだから「何に」いくらかけたら「どんな成果が」得られるかが明確になっていないと、お金を出せないし、いくら出せばいいかもわからない(accountability<説明責任>の問題)という論理ですねえ。
2.「何に」と「どんな成果が」について
現在の日本語教育学は「何に」について十分に語ることができるでしょうか。現在できることは、(1)(多かれ少なかれ)日本語学に基づいた「何に」、と、(2)ニーズ分析に基づいた「何に」、だけではないでしょうか。
そして、そのような発想では「何に」は「どんな成果が」と直接に関連するわけで、(1)の場合は「抽象的な言語事項の知識」において「ここまで!」という「成果」となり、(2)の場合は、リストアップされた言語活動の一覧表で「ここまで!(この言語活動まで!)とならざるを得ません。いずれも言語的な観点からの即物的な議論になっています。
3.もう一段広い視野で
(細川さんではありませんが!)「何に」の背後に「何のために」を置く必要があるのだろうと思います。そして、この「何のために」は、移民政策の一環なのであれば、「さまざまな背景をもつ市民の社会統合のため」となります。が、今回は移民政策ではない(らしい!)ので「社会統合」はダメです。そうなると、「何のために」一体は何でしょうか?
すぐに思いつくのは、(a)就労外国人でありながらも日本生活経験者としての(副次的な?)メリットとしての日本語力、(b)一人ひとりの生活の「人間的な豊かさ」を向上させ、安寧な社会を維持するための日本語、です。(a)は、就労外国人その人にとってのメリットであり、また日本の会社が海外で展開する場合の「サポーター」作りになるという面もあるかと思います。(b)は、就労外国人本人の利益(福利)にもなりますが、大きくは日本人側の利益になるでしょう。
そして、おもしろいのは、この「何のために」を見据え始めると、「何に」のほうの発想も変わってくるように思います。これまでは、「生活のために必要な日本語」や「就労のための日本語」ばかりが議論されてきました。それらを上の(a)や(b)と照らし合わせると違っている!(的が外れている!)ことがわかります。詳細な議論は省略して論を進めると、(a)や(b)に対応するのは、「生活日本語」や「就労日本語」よりももっと一般的な日本語能力だと思います。
4.現実
これはぼくがこれまでの論考などで度々主張していることですが、日本語教育は「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という二元論の間で彷徨っていて、日本語教育の内容として確固たるものを提案できないでずっとここまで来ています。そんな事情ですので、確固たる内容に基づいた教育実践はありませんし、そうした教育実践についてのデータもありません。
5.現実への対応
このような状況(ちょっと「悲しい状況」?)ですので、日本語教育(学)関係者そのものとしてのアジェンダ(重要課題)の第一は「確固たる日本語教育」を確立して、世間にも見せる/見えるようにすることです。これは、日本語教育(学)関係者であるわれわれ自身の問題・課題です。
そして、そのようなアジェンダを「右手に」しながら、その問題・課題への対応・貢献を視野に入れながら、「左手で」現在目の前に置かれているさまざまな具体的な問題・仕事に上手に対応することです。これはなかなか「高等戦術」です。
2.「何に」と「どんな成果が」について
現在の日本語教育学は「何に」について十分に語ることができるでしょうか。現在できることは、(1)(多かれ少なかれ)日本語学に基づいた「何に」、と、(2)ニーズ分析に基づいた「何に」、だけではないでしょうか。
そして、そのような発想では「何に」は「どんな成果が」と直接に関連するわけで、(1)の場合は「抽象的な言語事項の知識」において「ここまで!」という「成果」となり、(2)の場合は、リストアップされた言語活動の一覧表で「ここまで!(この言語活動まで!)とならざるを得ません。いずれも言語的な観点からの即物的な議論になっています。
3.もう一段広い視野で
(細川さんではありませんが!)「何に」の背後に「何のために」を置く必要があるのだろうと思います。そして、この「何のために」は、移民政策の一環なのであれば、「さまざまな背景をもつ市民の社会統合のため」となります。が、今回は移民政策ではない(らしい!)ので「社会統合」はダメです。そうなると、「何のために」一体は何でしょうか?
すぐに思いつくのは、(a)就労外国人でありながらも日本生活経験者としての(副次的な?)メリットとしての日本語力、(b)一人ひとりの生活の「人間的な豊かさ」を向上させ、安寧な社会を維持するための日本語、です。(a)は、就労外国人その人にとってのメリットであり、また日本の会社が海外で展開する場合の「サポーター」作りになるという面もあるかと思います。(b)は、就労外国人本人の利益(福利)にもなりますが、大きくは日本人側の利益になるでしょう。
そして、おもしろいのは、この「何のために」を見据え始めると、「何に」のほうの発想も変わってくるように思います。これまでは、「生活のために必要な日本語」や「就労のための日本語」ばかりが議論されてきました。それらを上の(a)や(b)と照らし合わせると違っている!(的が外れている!)ことがわかります。詳細な議論は省略して論を進めると、(a)や(b)に対応するのは、「生活日本語」や「就労日本語」よりももっと一般的な日本語能力だと思います。
4.現実
これはぼくがこれまでの論考などで度々主張していることですが、日本語教育は「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という二元論の間で彷徨っていて、日本語教育の内容として確固たるものを提案できないでずっとここまで来ています。そんな事情ですので、確固たる内容に基づいた教育実践はありませんし、そうした教育実践についてのデータもありません。
5.現実への対応
このような状況(ちょっと「悲しい状況」?)ですので、日本語教育(学)関係者そのものとしてのアジェンダ(重要課題)の第一は「確固たる日本語教育」を確立して、世間にも見せる/見えるようにすることです。これは、日本語教育(学)関係者であるわれわれ自身の問題・課題です。
そして、そのようなアジェンダを「右手に」しながら、その問題・課題への対応・貢献を視野に入れながら、「左手で」現在目の前に置かれているさまざまな具体的な問題・仕事に上手に対応することです。これはなかなか「高等戦術」です。
政策・施策の「矢面」に立っている人にとっては、このような議論は「お気楽」かもしれませんが、「今求められている仕事・役割がひじょうに困難なものであることはわかってるよ! ぼちぼち、うまくやってね!」というエールとして!
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