2018年12月23日日曜日

多文化共生と未来共生

 日本での多文化共生の議論は、たいてい文化本質主義的な議論、つまり、日本(人)vs.外国(人)、日本(人)vs.中国(人)、ベトナム(人)、フィリンピン(人)などの構図になるのですが、馳さんはそれではだめだということを感じていらっしゃるのだと思います。それは、以下の一節に「匂って」います。「わかりやすい言葉でいえば「根無し草」では人間はいけない。親の一人がブラジル人でもう一人は日本人、日本で生まれポルトガル語は話せない。こういう例はけっして少数ではない。「私は何者なのか」という悩みに配慮しなければならない。日本語を学んでもらう目的は相互理解だ。相互理解というのは他者を尊重すること。自分が何者なのか、理解したうえで相手の立場も理解し、尊重する。」(馳さんの記事のより) ご存じかと思いますが、大阪大学では未来共生学という新しい学を提唱しています。未来共生というのは、これまでの多文化共生の議論が抱える文化本質主義を克服するための方略です。そのキモは、「共生すべきなのは人間か文化か」(pp.76-79)という栗本さん(栗本英世、現在大阪大学人間科学研究科長)の議論に集約されています。https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/56236/... 馳さんの先の一節は、この栗本さんの意見あたりを感じていらっしゃるように思います。 未来共生というのは、簡単に言うと、「共生すべきは人間だ!」ということになり、「みんな違って、みんないい!」という考え方です。日本内や日本人内の多様性に目を向けない共生の議論は、とても寒々しいです。

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