2018年12月15日土曜日

日本語教育の効率性と、人と関わる日本語

 以下の記事は、2018年12月9日に、神吉宇一さんのfacebookのタイムラインに送ったものです。
 例の「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案にパブコメしました。https://koichimikaryo.blogspot.com です。ポイントは、「人として人と関わって暮らすための日本語」です。短くは「人と関わる日本語」。
 神吉さんが、ノート「効率性とことばの教育」で書いているように、ことばの教育はスムーズにやり取りができ,効率的なコミュニケーションができるためだけにあるのではない、と思います。じゃあ、他に何なんだ!、となります。日本語教育(界?)は、この「他に」をこれまで見つけることができていません。「日本語教師【初任】研修案でも、「効率的なコミュニケーション」のための(相変わらずの)ニーズ調査・コースデザインのパラダイムにとどまっています。小委員会の皆さんも、就労外国人を人として扱わなければ!と考えているはずですよね。なのに、これじゃあだめでしょう。
 ぼくの答えは(以前から!)「人と関わる日本語」です。実用的(で用を足す)コミュニケーションと並行して、人と関わる日本語(コミュニケーション)の教育をしないと、主に就労目的で日本に来た外国人を労働者扱いするという方向に「加担」することになります。専門家集団の日本語教育(界)の良識に基づく「知恵」として「人と関わる日本語」を今こそ提案するべきでしょう。
 ただ、ここで一つ厄介なことが起こります。それは、「人と関わる日本語」の必要性を科学的に(調査に基づいて?)明らかにしてください、と言われた場合です。「人と関わる日本語」は遍在していて、そういうコミュニケーションがそこらじゅうどこでも起こっているというのが「デフォルト」です。そして、そういうコミュニケーションが行われていないと、孤立や情報不共有や、疎外や無援というような事態が生じるというものです。そのようなみんながフツーにやっていること、つまり、自分のことをあれこれ話、相手の話も聞いて、交友を広め、仲間や「味方」を作り、自分を支えてくれる、あるいは相互に支え合う基本の人間関係を作ること、そういうことがフツーにできるようにするために必要なのが「人と関わる日本語」です。そして、そういうことができないと、しばしば仕事や仕事を覚えることもうまく行かなくなり、実用的なコミュニケーションもスムーズに行かなくなります。それは広く人文学に従事する日本語教育者であるからこそ、指摘することができる日本語教育についての重要な視点です。その必要性は「科学的に」ではなく、人が人と関わって生きることを営むことの重要側面として人文学的に(あるいは哲学として?)議論されるべきことです。

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