「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】
(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案に関する意見
【文化庁HP:新着情報より】
http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/ikenboshu/nihongoiken_kyoshi/index.htmlに意見を送りました。
文化庁国語課
日本語教育担当 御中
以下のように標記について意見を申し上げます。参考にしていただければ幸いです。
西口
○件名: 日本語教師(初任)研修に対する意見
○氏名: 西口光一
○性別・年齢: 男・62
○職業: 大学教員
○住所: 大阪府箕面市森町中1−10−14
○意見
「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点の追加
0.はじめに
分科会でのご検討並びに報告書(案)の作成に感謝します。
先に「在り方について」(報告書)で提案された日本語教員の【養成】にかかる教育内容については、提案に基づいて各大学や養成機関でそれぞれの持ち味を生かしたカリキュラムが企画され実施されることと思います。さて、本文書では、今回の日本語教師初任研修(就労者、難民等、海外)について意見を述べたいと思います。
1.就労者と難民等における「生活者としての外国人」という観点の欠落
まずは、就労者と難民等について、今回の報告の資料の1−2と2−2「知識」の【1】と【2】及び「技能」の前半部に関わることです。端的に言うと、「生活者」の観点が欠落しています。「在り方について」の表2の「【初任】(生活者としての外国人)の内容は並行して実施するということでしょうか。
2.人として人と関わって暮らすための日本語という観点の欠落
また、今回の報告の就労者と難民等や「在り方について」(報告書)の生活者としての外国人のいずれにおいても、人として人と関わって暮らすための日本語という観点が欠落しています(注1)。
わたしたちはみんなそれぞれ一人の人として人生を生きています。職場や地域の一メンバーとしてそこでのさまざまな活動に参画してメンバーとしての「役割を果たす」ことはそれはそれで重要なことです。しかし、わたしたちの人生には、人として人と関わって暮らすという面も重要な側面としてあります。わたしたちは人と関わってあれこれと自分の話をします。家族の話をする、好きな物や好きなこと(スポーツ、音楽、映画・ドラマなど)の話をする、毎日の生活/きつい生活について話す、週末の過ごし方について話す、あれがしたいこれがしたいと話す、自分の来し方や将来について話す、特別な技能や能力について話す、子どもの時の話をする、自分の国や町のことを話す、などです。そして、もちろん相手からのそういう話も聞きます。わたしたちはそのようにして、他の人たちと人生をシェアしつつ相互にラポールを育みながら人生を生きています。外国出身の就労者や難民等は、就労者や難民等であるわけではありません。かれら一人ひとりは一人の人間です。就労者や難民等というのはかれらが経験する/経験した一つの人生であり、そういう意味でかれら一人ひとりの背景でしかありません。かれらが一人の人として生きていくためには、自身のことや自身のあれこれの背景を語る言葉を持たなければならないし、また、現在の自身の生活や暮らしを自分なりに話す言葉や自身の将来を思い描きそれを語る言葉も持たなければなりません。(難民等の場合のように「厳しい過去」がある場合は、過去を語ることはきついことであるとは思われますが、それでも一定の「折り合い」つけて将来に向かって人生の展望を描くほかありません。)
3.生活活動の実用的な側面と非実用的な側面
わたしたちの生活活動には、実用の面と非実用の面があります。就労者や難民等のための日本語教育やこれまでの生活者のための日本語教育の議論では、実用の面ばかりが注目されきたように思います。上で述べた「人として人と関わって暮らすための日本語」は非実用の面です。しかし、そういう非実用の部分こそが人が一人の人間として生きるために欠かすことのできない部分ではないでしょうか。また、そういう非実用の部分があってこそ、基本としての人と人との関係が構築され、人と人との信頼できる関係が醸成されます。そして、そうした関係やそこで育まれたラポールなどが実用の面の土台となったり、実用の面をいい方向に導く「触媒」となったりするものと見られます。
実用の面ばかりに注目することは、パウロ・フレーレが批判した機能的識字の視点を適用することとなります。つまり、体制に順応して、与えられた立場において役割を適正に果たすという視点です。フレーレが説いたように、そうした機能的識字の視点にとどまらないで、一人の人として「解放」される方向を見据えた日本語教育の構想が必要であろうと思われます。そのようなより広い視点から就労者や難民等や生活者の日本語教育を構想するというのは、ニーズに基づいて企画される言語教育ではなく、人が流動する現代社会についての見方や見識に基づいて未来志向的に企画される言語教育となります。
4.人格尊重の日本語教育
そのような面に目を向けた日本語教育を企画し実践してこそ、外国出身のそれぞれの人を一人の人として受け入れるという人格尊重の日本語教育になるのだと思います。実用の面での言語コミュニケーションを実用的コミュニケーションと呼ぶとすれば、非実用の面は社交コミュニケーションと呼ぶことができるでしょう。つまり、ここで強調しているのは、社交コミュニケーションのための日本語ということになります。
「人として人と関わって暮らす」という面への着目は、長い目で見て人権尊重に繋がると思われます。また、しばしば言われる多文化共生社会を築くという方向にも合致することだと思われます。
5.人と人が出会い・交流する場としての日本語教室
生活活動の実用の面にばかり注目することの「弱点」がもう一つあります。それは、日本語教室という場の根本の構図に関わることです。
生活活動の実用の面はたいてい教室の外にあります。ですから、実用的なコミュニケーションというのは教室の外の「現実」で行われる活動に奉仕するコミュニケーションとなります。実用的コミュニケーションが生気を得るのは教室の外です。そのような事情ですので、生活活動の実用の面を日本語習得の課題として設定すると、教室の構図は、教室の外の「現実」で行われるコミュニケーションの形骸をただ覚えるだけの学習と教育になってしまいます。教室は、畢竟、「役に立つ日本語」を教えてもらうだけの場になってしまいます。そこには、教室に集まった学習者と学習者、学習者と教師や支援者との出会いや交流はありません。
教室というのは、週に1回あるいは数回、同じ場所に同じ顔ぶれの人たち(学習者、教師、支援者など)が寄り合う機会です。教室という時空間のデフォルトの構図はこのように人と人が出会う場であり、人と人の交流が自然と進む場です。実用の面ばかりに注目した日本語の学習と教育は、そのような貴重な出会いと交流のチャンスを台無しにしてしまいます。「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点からの日本語の学習と教育がそこに実現されれば、教室という時空間は生気を取り戻して、人と人の出会いと交流の活動が促進され、それに伴う「支援された言語パフォーマンス」(assisted language performance)の形で社交的なコミュニケーションの日本語を習得することができます。
6.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点
どのような日本語教育の構想であれ、そこには緻密な企画と計画が必要です。「人として人と関わって暮らすための日本語」教育を系統的にあるいは段階的に実践するためには緻密な企画と計画が必要です。それがどのような内容でどのような段階を踏んで行うのが有効で有益であるかは明瞭にはわかっていません。しかし、そのような教育の可能性を追究することは必要でしょう。(注2)
以上のような論点から、就労者や難民等の【初任】の資質・能力の中にぜひとも「人として人と関わって暮らすための日本語」(短く、人と関わる日本語の教育)の観点を入れていただくのが適当であろうと考えます。
注1.生活者としての外国人の観点に、「人として人と関わって暮らすための日本語」の観点が含まれているかどうかは、実際には、あいまいです。「在り方について」の表2の中の「教育的観点」や「「学習者が地域社会とつながり、ネットワークを構築する力を育てる教育実践」というような文言ににじみ出ているとも言えます。
注2.「人と関わる言語教育」については、Hall(2001)で「関わり(interaction)そのものを目的とする言語活動」として言及されている。※Hall, J. K. (2001) Methods for Teaching Foreign Languages: Creating a Community of Learners in the Classroom. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.
捕捉.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点は、海外の【初任】においても重要であると思われる。
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