2018年4月22日日曜日

羅針盤:日本語教育学は隆盛?(201703)

ここでは、日本語教育に従事し日本語教育に関わる研究にも従事している人を日本語教育
(学)従事者と呼ぶことにします。

文化というのは本来、「必要」に応じて組織的に発展・展開していくものではありません。
無造作に蔓延る(はびこる)ものです。また、研究というのは本来、特定の問題を解決す
るために行われるものではなく、純粋な興味や関心に基づいて自発的に行われ展開するも
のです。そのような意味で、研究は「実用」に従属するものではなく、むしろ文化の一領
域です。ですので、研究というのは、元来「蔓延る」ものです。

日本語教育学を含めて実践に関心をおく研究分野は、広く実践上の課題を明らかにしそれ
を解決したりベターな方向に改善したりするという実用的なモチベーションに基づいて行
われるものです。しかしながら、日本語教育学の現状はそのようにはなっておらず、むし
ろ日本語教育に関わる諸事象・諸現象に関するいろいろな研究の単なる寄せ集めになって
いるようです。つまり、日本語教育学はいろいろな立場から日本語教育に関心を持ってい
る人によるさまざまな観点や「目のつけどころ」に基づく社会的実践(営み)になってい
ます。それには、日本語教育という実践に関心をおいたものから、日本語教育という社会
的事象に関心をおいたものまでさまざまあります。後者については、例えば、日本語教育
政策の研究や日本語教育のイデオロギー性を暴くというような研究や日本語教育史研究で
す。そして、広義に「実際の教育の内容や方法に関わる」研究が日本語教育学の中心であ
る(べきだ!?)と仮定するなら、現在の日本語教育学の状況はそれを中心とした「学の
体系化」がなされていないのだと思います。学の体系化があってこそ、日本語教育学全体
を俯瞰することができて、自身の研究がその全体のどこにあって、何と関わり、どのよう
に実践に貢献できるのか(できないのか)などを知って、安心して研究に発展的に従事す
ることができます。従来から日本語教育学の状況はいびつだと思っていましたが、昨今は
別の要素も入り込んでますますいびつになっているように思います。紙幅の関係で、詳し
い指摘は省略しますが、皆さんはその辺どう思っていますか。「安心して」「発展的に」
研究活動ができているでしょうか。「No!」であれば、やはりいびつで体系がないというこ
とです。

一方で、蔓延ることは本来そんなに悪いことではありません。蔓延る中から純粋な「生成
のエネルギー」を背景としてすばらしいものが産み出されることはフツーにあります。し
かし、日本語教育学の現状は、純粋な生成のエネルギーではなく、むしろ「業績をあげな
ければ!」という圧力(とそれに押された「不純な動機」?)に基づいて日本語教育学が
蔓延っている気がします。これが上で言った「別の要素」です。そして、「業績をあげな
ければ」とばかり考えて、もともと教育の実践に関心を持っていた人でも、(a)本当にその
人自身が関心があって問題意識を持っているテーマに、(b)じっくりと時間とエネルギー
をかけて取り組む、ということをしない風潮があるように思います。これでは、日本語教
育学は変に蔓延るばかりで、本当の意味での日本語教育学はいつまでたっても確立されな
いでしょう。現在行われている日本語教育に関わるさまざまな研究は、日本語教育(学)
従事者の文化の維持と更新には貢献しています。しかし、現在の動きを「発展」と言える
かどうかは微妙です。「いやいや、それでいいんだ!」という意見もあるでしょう。しか
し、広義の日本語習得の支援の仕方の改善に、間接にでも、貢献しない日本語教育学はそ
の名に値しないのではないでしょうか。日本語教育学者・日本語教育研究者と名乗るので
あれば、業績をあげることに精を出すのではなく、何をどのように研究するべきかを真摯
に考えて研究活動を進めるべきなのでは? そうでないと、お為ごかしに引っ張り出され
た「学習者」が取り残されるばかりでかわいそう! 業績と「真摯さ」のバランスがむず
かしいことはわかりますが、長い目で「真摯さ」を忘れないでほしい!

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