2018年12月8日土曜日

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑩

♢1 教育実践① ─ 主体的に学ぶ学生と学生を強力に支援する教師、そして日本語学習者のコミュニティ

学習者主体の学びを実現する自己表現の日本語教育
 日本語を習得するというのは、第一義的には学生に課された巨大なチャレンジ(挑戦)です。そして、教育企画というのは本来、この巨大なチャレンジを、取り扱い可能な小チャレンジの系列に仕立て直すことです。そして、教材というのは本来、そのように取り扱い可能に設定された小チャレンジに立ち向かう学生に何をどのように学ぶのがいいかを知らせるべきものです。そして、授業や教師は本来、そのように教材に導かれ援助を受けながらチャレンジに立ち向かう学生を支援するべきものです。ここに表明された基本的な思想は、(1)第二言語の習得においては学生が主体的に学ぶべきであり、(2)教育企画と教材と授業・教師は主体的に学ぶ学生を導き援助し支援するべきものである、という学習者主体の学びの思想です。自己表現の日本語教育はこのような思想の下に構想されています。

獅子奮迅に授業をする教師、やる気のない学生
 従来の教科書や教育企画には、そのような思想がありません。従来の方法では、(1)教科書は学生が習得し教師が教えるべき言語事項を会話や練習の形で提示するもの、(2)教師は教科書で指定された言語事項を独自に研究して教科書を適宜に活用して授業を計画し実施する者、というような位置づけで、それはあまりにも即物的で単純直接で、練られた企画になっていません。そして、学習者主体の学びというような観点もなく、いかなる第二言語習得の原理もありません。学生は日本語習得のためのロードマップを与えられることもなく、教師が計画して実施する授業にただただ従って勉強する者となってしまいます。その一方で、教師は、教科書で指定された文型・文法等を習得させる責任を全面的に押しつけられ、その責任をなんとか全うしようとして、文型・文法等の教え方を懸命に研究し、熱心に授業準備をして、熱血的に授業を実施します。そして、学生にも文型・文法等を中心とした学習に奮励することを要求します。そして、そのような状況の結末が、獅子奮迅に授業をする教師と、がんばって勉強しても結果が出ないことに落胆してモチベーションをなくして熱心に勉強しなくなった学生という構図です。
 このような構図ができあがってしまうのは、学習者が自身の進むべき道を示されていないで、主体的に学ぶことができる状況が実現されていないからです。それができていない状況では、本来進むべき道を示すはずの教育企画や教材に代わって、教師が教育全般の主導権を握るほかなくなります。その結果、そのように全面的に責任と権限を委譲された教師は、獅子奮迅になるわけです。そして、そういう教師の姿を見て学生は、「気の毒に…」と思いながらも、ますますしらけていきます。これが、学習者の主体的な学びを実現しない教育の末路です。

日本語習得という仕事の主役を教師から学生に
 表現活動の日本語教育の構想は、日本語習得という仕事の主役を教師から学生に移行させるという考えから始まっています。この部分を転換しないと、日本語教育にある根本的な構造的課題を克服することはできません。そして、そうした構想の具体化が、「はじめに」や教育企画(♠)や教材(♣)で説明したような教育企画と教材です。表現活動の日本語教育では、そうした仕掛けによって、学生が歩んでいくべき道をはっきりと示し、語や言葉遣いの参照先となる補助(ルビや注釈)付きの「透明なディスコース」(♣2)となっているリソースを提供することで、学習者が主体的に日本語を学習し習得を進めていくことができる環境と条件を整えています。そして、そのように主役の座を学生に譲ってこそ、教師は主体的に学ぶ学生を強力に支援するという本来的な立場を確保することができて、安心してその役割を果たすことができるのです。

 獅子奮迅になって教えるのはやめましょう。獅子奮迅になるべきは、先生ではなく学生のほうです。日本語を身につけたいという気持ちがある学生なら、「歩んでいけば『登っていける』日本語習得の経路」が示され、「なるほど、これなら無理なく『登っていける』」と知れば、がんばるでしょう。先生は、そんな学生たちをやさしく励まし、しっかり支援すればいいのです。それが表現活動の日本語教育の流儀です。

日本語学習者のコミュニティ
 授業を実践する教師のもう一つの重要な役割は、学習者たちを各々で孤立させないで、「みんなで協働して励まし合い支え合い協力しながらいっしょに日本語がじょうずになろう」という集団へと形成ことです。学生同士で励まし合うこと、学生同士で支え合い協力することは、クラスというような集団で学ぶ際の大きなメリットです。そのメリットが働いてこそクラスでいっしょに学ぶ意味も意義があると言ってもいいでしょう。クラス作り、つまり学生たちを日本語学習者のコミュニティとして形成することが教育を成功に導く重要な要因です。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑨

♣3 教材③ ─ 文型・文法の扱い方

従来の日本語教育での文型・文法への偏重
 従来の日本語教育では、文型・文法は、日本語の学習と教育で最も重要な部分として扱われてきました。現在の基礎(初級)教科書を文型・文法を中心として編まれているし、中級の教科書でも各ユニットで特定の文型・文法を採り上げて教えるようになっています。そして、基礎段階や中級段階などの日本語教育を担当している先生たちが集う教員室では、学生たちの未習得・未習熟の文型・文法に関する話で持ち切りです。「まだ、テ-形ができない」とか、「ナイ-形の練習をしてみたら、ほとんどの学生はできなかった」とか、「『あげる』『もらう』『くれる』が、うまくできない」とか。学生の文型・文法の課題を見つけて、それについてあれこれ論じるのが、日本語の先生である証しででもあるかのようにみなさん滔々と話しています。そして、たいていの場合はぼやくばかりで何の対応もしないのですが、仮に対応をする場合でも、やはりその問題の文型・文法を採り上げてまた指導するだけです。そして、多くの場合、その課題は引き続き残ります。
 さて、同じ言語事項の領域として、文型・文法の領域と語いの領域の両方を考えてみましょう。そして、問いは「文型・文法と語いとどちらが重要でしょう?」という問いです。ほとんどの先生は、この問いには、少なくとも第一声としては、「どちらも重要!」と答えるでしょう。そして、どちらも重要であるなら、上の教員室での先生たちの議論は片寄っていることになります。一部の自然習得者などの例外を除いて、文型・文法の課題がある学生はたいてい全体としての日本語力に、つまり文型・文法だけでなく語いにも課題があるからです。そうなると、結局、先生たちが実施し、実践している日本語教育のトータルな教育力に根本の課題があるということになります。

表現活動の日本語教育における文型・文法の扱い方
 先生たちが実践する個々の授業が問題なのではありません。むしろ、根本の教育企画や教材のほうが、長い間何の根本的な革新もなく放置された課題なのです。そして、そのような大きな課題を克服して、日本語教育実践を再生しようとするのが表現活動の日本語教育の提案なのです。
 教育企画①(♠1)で論じたように、表現活動の日本語教育の企画には、文型・文法や語いの教育が組み込まれています。表現活動の運営に直接に奉仕するのは言葉遣いですが、言葉遣いでは文型・文法や語彙などの言語事項が動員されています。つまり、表現活動を行うためには、当然相応の言語事項が必要になるということです。
 教材として言うと、表現活動の日本語教育の教材のテクストに、習得が期待される文型・文法や語いがすべて織り込まれています。そして、実際の授業においては、教育企画②で論じたように、学習者が受容経験摂取的な言語促進的言語活動や産出補充摂取的な言語促進的言語活動に従事するように指導が行われることが期待されています。つまり、教育企画③で論じたように、学習者がテーマを軸とした各種の言語促進的言語活動に豊富に従事することが日本語の習得を最も有効に促進すると考えられています。
 NEJやNIJでは、文型・文法の練習のための素材は提供されていません。基本的に、文型・文法は、学習事項として採り上げて、取り立てて練習することは推奨されていません。むしろ、言語促進活動に段階的で豊富に従事させることが期待されています。

日本語指導におけるタッチ&ゴー
 ただし、文型・文法や語いなどで学生において「わからない」「うまくできない」というような課題が浮上した場合に、それを放置するわけではありません。しかし、課題があるからといって、それを採り上げて指導するということはやはりしません。文型・文法や語いなどの言語事項の課題に関しては、基本的には、タッチ&ゴーという形で対応します。タッチ&ゴーについては、教育実践②(♢2)で論じています。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑧

♣2 教材② ─ 「透明なディスコース」とルビや語釈、及び文法説明

テクストの難易
 NEJでもNIJでも、新しいユニットでは、学生にとって初めての語や言葉遣いが出てきます。また、NEJのナラティブやNIJのレクチャーでは比較的長い文が現れ、ディスコース全体もかなり長いものとなります。ですので、それらのテクストは一見むずかしいように見えます。しかし、実際にはそれらは見かけほどはむずかしくはないと思われます。と言うよりむしろ、むずかしくないように作成しています。

「透明なディスコース」
 NEJやNIJでは、本文のテクストの作成において、「透明なディスコース」になるように心がけました。「透明なディスコース」というのは、語や言葉遣いがわかりさえすれば、全体の意味を捕捉できるディスコースです。
 本文のテクストの作成にあたっては、もちろん新出の語や言葉遣いの量を適量に調整し、新出あるいは未習熟の文型・文法などの数も適量に調整したわけですが、その他に、テクストが「透明なディスコース」になるように以下のような工夫をしました。
 (1) 全体を一つのまとまりのあるディスコースとして作成すること
 (2) 論理を素直に自然に展開すること
 (3) 結束性をしっかり維持すること
 (4) 論理を混乱させるような余分な要素は入れないこと
 このような工夫をすることにより、NEJやNIJのテクストは充実した内容がありまがら、ディスコース的にはかなり「透明」になっていると思います。
 「透明なディスコース」にこだわるのは、教材の本文というのは基本として日本語を育成するためのリソースであって、そのような本文が「わからない」というのでは、日本語を育成するためのリソースにならないからです。NEJやNIJのテクストは、聴解教材や読解教材ではありません。日本語を理解し経験し摂取してもらって、日本語を育成するためのリソースです。

ルビと語釈、及び文法説明
 漢字仮名交じりでテクストを提示した場合に、学生にとってハードルになるのが漢字の読み方です。NEJとNIJでは、そのようなハードルを取り除くために必要な範囲のルビを付けています。ただし、ルビを隠して読めるように、いずれにおいても下ルビにしています。また、ディスコースの透明性を確保するために、むずかしいと思われる語や言葉遣いや文法については媒介語で語釈を付けています。このような配慮を施すことで、NEJやNIJのテクストは一層「透明」になっていると思います。
 一方で、見知らぬ言語の文法というのはしばしばわかりにくく、語釈だけでは理解できない場合があります。そのようなケースにNEJでもNIJでも一定の対応をしています。NEJでは、説明が必要と思われる文法について、各ユニットでGist of Japanese Grammarという欄を設けて、媒介語で解説をしています。また、NIJでは、Grammar Notesで、受身、使役、〜ていく、〜てくる、意志形の表現というどのようなディスコースでも出現しがちな5つの文法について解説し、さらに、3ユニット毎にGrammar Summaryを設けて3つのユニットで頻出した文法を整理しています。
 NIJは現在のところ、英語版しかありませんが、NEJは、英語版と中国語版とベトナム語版があります。

その他の付属教材
 NEJとNIJには、ユニットの学習を一定程度進めた上で、文型・文法の定着を図る教材や、漢字学習のための教材や、各ユニットの復習のワークシートなどが付属しています。また、音声素材は、くろしお出版のウェブサイトで公開されています。NEJもNIJも、「この1冊さえ購入すれば全部揃っている」というオール・イン・ワンの教材です。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑦

♣1 教材① ─ ストーリー性とことばの作者性

日本語の知識を習得しても日本語はできない
 これまでの日本語教育では、主として日本語の文を正しく作れるようになることが日本語教育、特に基礎日本語教育の目標とされてきました。ですから、教科書でも文の作り方に関わる文型・文法が課の目標とされ、教科書には、本文としてその文型・文法が例示された会話が提示され、それに続いて文の作り方の習得をめざした練習が用意されていました。そうした立場での日本語教育の企画と教材と実践では、日本語は実際の言語の行使として学ばれることは決してなく、常に学習の対象として一般化され、そのように抽象化された日本語、つまり日本語の言語事項の知識が習得されるだけでした。そして、そのような知識は日本語で言語活動に従事することを支える知識ではありません

教材で開示される世界
 NEJやNIJの本文では、実際に行使された日本語の例を提示しています。NEJとNIJを通して舞台は「大京大学」です。
 「大京大学」は、東京の郊外にある総合大学です。「リさん」「あきおさん」「中田くん」はいずれも「大京大学」の学生で、「西山先生」は大京大学の先生です。「リさん」はマレーシアから来た学生で、4月に工学部に入学したばかりです。リさんは中国系のマレーシア人です。「あきおさん」は、工学部の4年生で、大京大学の「山の会」のリーダーです。「中田くん」は外国語学部2年生で、マレーシア語が専門です。「西山先生」は国際センターの先生で、同センターで日本語を教え、留学生のための科目である国際交流科目の「現代社会を生きる」も担当しています。
 NEJのナラティブは、「リさん」「あきおさん」「西山先生」がそれぞれ各ユニットで自分のことについてあれこれ話すという設定になっています。学生たちは、ユニットのテーマでのかれらの話を聞いて知ることで、そのテーマについての話し方を知って、それを実際の言葉遣いの参照先(モデル)にして、テーマについて自分の話をします。NEJを活用した自己表現の日本語教育を通して、学生たちは、リさん、あきおさん、西山先生についてさまざまなことを知るとともに、自分のことについていろいろ話せるようになります。
 他方、NIJの各ユニットは、会話とレクチャーの2つのパートでできています。NIJの会話は、リさんと中田くんとの会話です。リさんと中田くんは、国際センターの新入留学生歓迎パーティで会いました。中田くんは夏休みにマレーシアに行く計画をしています。それで、マレーシアについていろいろ話を聞きたいので、リさんを紅茶の店に誘います。(リさんはコーヒーより紅茶のほうが好き!) NIJの会話パートは、人物紹介を兼ねたリさんと中田くんの紹介(それぞれのモノローグ)から始まります。そして、ユニット2は新入留学生歓迎パーティでのリさんと中田くんの出会いの会話で、ユニット3からユニット11まではすべて紅茶の店での二人の会話になっています。最後のユニット12は、リさんのはじめての山登りの経験の話(リさんのモノローグ)になっています。
 最後に、NIJのレクチャーは、「現代社会で生きる」というタイトルでの西山先生の12回の連続講義になっています。この講義は留学生に向けた講義で、人間の社会や文化の成り立ちの話から始まり、現代社会の特質に進み、最後に日本で暮らす外国出身の若者の話で結ばれます。
 このようにNEJとNIJの本文は全体として一つの小世界になっています。そして、その小世界は、リさんや西山先生などの登場人物の発話によって紡ぎ出されます。

ことばの作者性
 わたしたち一人ひとりが実際の生活の中で自身の行為として話すことば=発話は、作者性があります。つまり、わたしたちが発する(あるいは書く)一つひとつのことばは、間違いなく「わたし」が「わたし」の存在(の一部)としてその都度に創作し発していることばです。そして、それはわたしの存在や振る舞いを作り出し、出来事という社会的な現実を構成します。このようにわたしたちはことばを発することによって、日本語世界を制作することに関与し、自己を制作することに従事しているのです。そして、日本語世界の制作に関わるすべてのことばは生きたことばであり、それには必ずその出所としての作者がいます。つまり、ことばの出所の人物=自己が自己の創造行為としてことばを作り出し、発しているということです。
 NEJとNIJのナラティブや会話やレクチャーを構成していることばは、フィクションではありながら、いずれもリさんや西山先生などの登場人物による作者性のある生きたことばです。つまり、リさんや西山先生などの「人格の声」であり「心の声」です。そして、学生は、ナラティブなどのことばを理解し学びながら、かれらの小世界を知り、一つの人格として生きる人として登場人物に出会います。そして、登場人物に、時には共感し、時には反発したり、登場人物の意見に賛同したり、反論したりします。学生のそれらの反応は、生きたことばであればこその反応です。これまでの教科書の本文の場合のように、命のない抽象的な言葉に対しては、学生は反応しません。
(言うまでもありませんが、どれほどストーリー世界やその中の人物を生き生きと描けているかは、実際に作成されたナラティブや会話やレクチャーの質によります。そこの部分がうまくできているかどうかは、ユーザーである先生方や学生の「審判」に委ねるほかありません。)

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑥

♠3 教育企画③ ─ テーマに導かれた言語活動と言語習得、及び言語習得の経路

範例としてのナラティブ
 わたしたちが何かのテーマについて話すとき、何をどれくらい話すのか、またどれくらい詳しく話すのかなどをあれこれと指示の形で伝えるのはなかなかむずかしいです。むしろ、何をどれくらい話すのかなどは、範例によって示すのが有効です。NEJとNIJでは、まさにそのようにしています。例えば、NEJのユニット8「わたしの家族」では、リさんは以下のように家族の話をしています。

 わたしの家族は、7人です。父と母と兄と姉と弟と妹とわたしです。父も母も兄弟も、マレーシアに住んでいます。父は、小さい会社を経営しています。ビジネスのコンサルタントです。日本の会社とよく仕事をしています。時々、仕事で日本に来ます。父は、とてもやさしいです。母も、仕事をしています。母は、大学の先生です。大学で中国語と中国の歴史を教えています。母は、ちょっときびしいです。兄は、銀行に勤めています。頭がよくて、いろいろなスポーツがよくできます。大学生のときは、近所の子どもにサッカーを教えていました。大学では、経済学を勉強しました。兄は、とてもおもしろいです。兄は、結婚しています。そして、子どもが1人います。姉は、今、大学院生です。大学院で薬の研究をしています。姉はピアノが上手です。うちで、ピアノ教室をしています。姉は、とてもきれいです。弟と妹は、高校生です。同じ学校に行っています。弟は、外国語の勉強が好きです。英語と日本語とフランス語を勉強しています。妹は、数学と物理が好きです。よくパソコンで遊んでいます。弟も妹も、かわいいです。

ナラティブに基づく受容摂取言語促進活動
 このようなテクスト(ナラティブ)を学習することで、学生は、そのテーマの下で、(1)何をどれくらい話せばいいか、(2)どのような全体構造で話せばいいか、(3)このテーマについて話すためにどのような語や言葉遣いを使うことができるか、を知ることができます。そして、教育企画②の意義③で話したような適切に実施された受容摂取言語促進活動従事を通して、学生はこの(1)から(3)を統合的に理解し経験し摂取することができます。教育企画②で論じたように、受容摂取言語促進活動は言語習得の中心的な部分です。それは、産出摂取言語促進活動に進むための準備的な言語育成段階です。この段階を充実して行うことが、表現活動の日本語教育のスキームできわめて重要な部分となります。

テーマについての産出摂取言語促進活動
 1つのユニットでは、そのような受容摂取言語促進活動の後に、産出摂取言語促進活動が行われます。そのテーマについて、ペアになってお互いに自分自身のことを話す活動や、そのテーマについてエッセイを書く活動などです。そして、そうした活動の途上や事後に、学生はクラスメイトの学生からあるいは先生から、さらには教科書を参照することで、さまざまな支援や補充を得て、語や言葉遣いを再摂取してそれらに習熟することができます。

テーマに導かれた言語活動と言語習得
 このように見ると、テーマを設定する形で企画され、学習のプラットフォームとしてテーマについての範例的なディスコースを示す表現活動の日本語教育は、テーマを軸とした日本語教育です。ユニットの学習を通じて、学生の頭の中には常にユニットのテーマがあります。ユニット学習の前半で、学生はナラティブやレクチャーなどを通してそのテーマが実際にどのような形(内容と表現)で展開されるかを知り、同時にその展開を媒介している語や言葉遣いを知り、摂取を始めます。ユニット学習の中盤では、朗唱練習やシャドーイングなどによって学生はテーマの展開の仕方とそれを媒介している語や言葉遣いを本格的に摂取します。そして、ユニット学習の後半で、学生はそのテーマに沿って自分自身のことや自分の考えや意見を紡ぎ出し、その途上で語や言葉遣いを再摂取しそれに習熟します。このように表現活動の日本語教育では、テーマが軸となって、それに導かれて段階的に言語促進活動が展開され、それぞれの段階でそれぞれの形でテーマをめぐる語や言葉遣いが輻輳的に摂取され習熟されます。

テーマに導かれた言語習得の経路
 「テーマに導かれた」ということについては、もう一つ、重要な点があります。それは、自己表現の日本語教育(NEJ)やテーマ表現の日本語教育(NIJ)の教育企画は、一連のテーマに導かれて日本語を習得する経路になっているということです。簡単にいうと、一つのテーマの下での表現活動を通した日本語習得が達成されると、次には、そこまでで育成された日本語技量である程度対応できるテーマの表現活動が設定されている、ということです。そして、自己表現の日本語教育もテーマ表現の日本語教育もそのような一連のテーマによる仮想的な日本語習得の経路の教育企画、になっているわけです。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑤

♠2 教育企画②  ─ 表現活動のテーマを設定することの言語教育的意義:生気のある言語活動と言語促進的な言語活動従事

表現活動のための一連のテーマを企画すること
 文型・文法ではなく、また実用的なコミュニケーションでもなく、表現活動を主要な教育内容として設定すると、教育企画の基本は、表現活動のための妥当な一連のテーマを企画することとなります。そのようにテーマを中心として教育を企画することには、重要な言語教育的意義があります。

意義① ─ 生きた生気のある言語活動を促す
 これまでの基礎(初級)日本語教育では、一連の文型・文法事項を配列するという形で教育が企画されました。しかし、そのように文型・文法事項を中心としてユニット(単元)を企画すると、学習者は各ユニットで何かについて話すことができるというような目標を持つことができません。つまり、文型・文法事項中心で教育を企画した瞬間に、教室は、学習事項の文型・文法事項を教える/学ぶだけの「お勉強の空間」になってしまいます。そして、教室で生きた生気のある言語活動を実践する道を閉ざしてしまいます。
 教室あるいは授業というのは、数ヶ月にわたって週に何時間も同じ顔ぶれの人たちが定期的に寄り合う場です。そんなふうに考えると、教室の「自然状態」は、学生と学生、そして先生と学生が出会って交わる場であることがわかります。ですから、出会いや交わりに関わる言語活動が行われるように誘導してこそ、そこで生きた生気のある言語活動が営まれるようになります。適切に選ばれた表現活動のためのテーマは、そのような言語活動を促します。

意義② ─ 産出の契機で生きたことばを学ぶ
 テーマが設定されて、「さあ、このテーマで話しましょう!」と言われて、学生たちはすぐに話せるわけではありません。ユニットの学習を通して学生たちは、「テーマについてうまく話せない/会話ができない」から「テーマについてうまく話せる/会話ができる」へと導かれなければなりません。そして、教師は、その立場での重要な役割として、授業の中で学習者が日本語の日本語習得が促進されるように積極的に行為しなければなりません。では、教師はそのために何ができるでしょうか。
 教師の積極的な行為で学生の日本語習得を促進する最も分かりやすい形は、テーマについて学生が話をしていて、誤りがあったりうまく言えないことがあったりしたときに、教師が援助の手を差し伸べてそれを学生が採り入れる瞬間です。言いたいことを言おうとしているがうまく言えないまさにそのときに教師がその言い方を教えて学生がそれを採り入れるということです。そのような契機が生きたことばを学ぶ重要な契機となることは十分に推測できるでしょう。
 生きたことがを学ぶ重要な契機となりそうな瞬間がしばしば生じるような言語活動従事の様態をここでは言語促進的言語活動従事と呼ぶことにしましょう。より一般的に言うと、学生自身の力で概ね従事することができるが、より有能な他者の支援があることで言語活動が促進されるような言語活動従事の様態です。それは、学生の立場から言うと、援助のある言語活動従事となり、教師の立場あるいは指導の観点から言うと、言語促進的言語活動従事となります。上のような「うまく言えない」ということが生じて教師の支援を得てそれを採り入れるという契機がしばしば生じるような言語活動従事は、一つの重要な言語促進的言語活動従事となります。

意義③ ─ 受容の契機で生きたことばを学ぶ
 言語促進的言語活動従事は、そのような援助のある言語活動従事だけではありません。上のような産出補充摂取的な諸契機、つまり学生が「産出」しようとしているその現場で先生がうまく言えない部分を「補充」してくれてその部分の語や言葉遣いを学生が「摂取」する諸契機は、実は、当該の語や言葉遣いの習得のいわば仕上げ段階です。つまり、「もうすぐ言えるようになる言葉」が「実際に言えるようになる」へと移行する仕上げの段階です。そして、言語の習得のためには、それに先だって、それよりももっと重要で時間のかかる工程があります。それは、さまざまな未習熟の語や言葉遣いを何度も実際の行使の中で経験してそれらを摂取するという、表面には現れないで潜在的に進行する言語習得の工程です。その工程での言語活動従事では、未習熟の語や言葉遣いが含まれる言語行使が内容が捕捉可能な形で行われて、学習者がそれらを「受容」して「経験」して「摂取」するということがさまざまな部分で生じます。そのような言語活動従事の様態は、先の産出補充摂取的な言語促進的言語活動従事に対して、受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事となります。
 そのような受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事では端的に言語活動従事の経験が蓄積されると言っていいでしょう。そして、そのように捕捉可能な言語活動従事経験が蓄積されることが言語の育成のために不可欠の要因です。にもかかわらず、そのような機会を豊富に与えることが、日本語教育に限らず一般的な言語教育の実践でほとんど行われてきませんでした。学生たちが口頭日本語力を伸ばすことができない根本の原因はここにあります。
 表現活動の日本語教育では、その教育企画の自然な流れとしてそのような機会を豊富に与えることができます。例えば、テーマ表現の日本語教育では、ユニットのテーマについてもっぱら先生が話をし学生は聞くという活動です。あるいは、自己表現の日本語教育では、ナラティブのリさんやあきおさんや西山先生の話を先生が代弁して、最初は「かみくだいて」話し、徐々に発話の形に拡張して話すというような、学生としては受容的な言語活動従事をじっくりとすることができます。そうした教師によるコントロールされた話し方は、聴解と言うことではなく、受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事です。また、そうした後にリさんらの声(ナラティブのオーディオ)で同じ話を繰り返し聞くというのも、やはり受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事の機会となります。こうした活動は、ユニットで設定されている特定のテーマの下に先生が積極的に話すのを聞くとか、先生が話を代弁するのを聞くとか、リさんらの声を聞いて経験するということで、そのテーマについての生きた生気のある言語活動従事の経験となります。そして、そうした経験を通して学生は生きたことばを豊かに摂取することができます。
 表現活動の日本語教育の各ユニットではユニットの最後に、ペアやグループでユニットのテーマについて自分のことを話す活動や、そのテーマでエッセイを書く活動や、書いたエッセイをクラスメイトとシェアする活動などが設定されています。そして、学生は、そのような活動が毎ユニットの終わりにあることを認識しています。そうすると、学生たちは、上のように受容的な活動に従事している間でも、後で自分が自分のことや自分の考えを話すことを意識しており、その意識が受容活動で出会った語や言葉遣いを摂取することを一層促進していると見られます。例えば、次の教育企画③で紹介するリさんのナラティブの冒頭の「わたしの家族は、7人です」を朗唱練習しているときに、家族が5人の学生はすでにそれと並行して「わたしの家族は、5人です」と内的にあるいは外的につぶやいています。テーマを設定して、後で自身が話すために受容活動をしながらも語や言葉遣いを積極的に盗み取ることが推奨されている点が、捕捉可能な言語入力(comprehensible input)を単に大量に与えるというKrashen流の方法とは大きく異なる点です。これは次の教育企画③(♠3)での議論とも関連する点です。

 言語促進的言語活動や受容経験摂取的な言語促進的言語活動や産出補充摂取的な言語促進的言語活動というのはいかにも長ったらしいので、以降では、それぞれ以下のように省略して言います。

 言語促進的言語活動   → 言語促進活動
 受容経験摂取的な言語促進的言語活動 → 受容摂取言語促進活動
 産出補充摂取的な言語促進的言語活動 → 産出摂取言語促進活動

 受容摂取言語促進活動と産出摂取言語促進活動はもっぱらそれとして実施することもできますが、言うまでもなくそれらを複合させた形で実施することもできます。しかし、そうは言っても、受容摂取言語促進活動の重要性は再度強調しておかなければなりません。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ④

 ♠1 教育企画① ─ 会話とは表現活動である

「これだけ教えているのに、学生たちは会話ができない!」
 「これだけ教えているのに、学生たちは会話ができない」という日本語の先生の嘆きの声をよく耳にします。おそらく、学生たちも「これだけ勉強しているのに、会話ができない」と嘆いているでしょう。これはなぜでしょう。
 会話やコミュニケーションを教えるとして、教科書制作者や授業をする先生たちは、「道を尋ねる」「買い物をする」「料理の作り方を教える」「レストランで注文をする」「友だちを誘う」「ものを頼む」などの言語活動を扱ってきたのではないでしょうか。しかし、よく考えてみてください。

社交的なコミュニケーション
 わたしたちは実用的な用を足すためだけに言語活動をしているのではありません。用を足す言語活動のほかに、話すことそのものを目的としたおしゃべりという言語活動をとても豊かに行っています。わたしたちは、最近の自分の経験や、友人のことや家族のこと、また自分自身のことなどいろいろなことについて、友だちや最近知り合った人などに話しています。また、そういう会話をしています。そして、一定程度親しくなった相手には、より深く経験や自身のことや家族のことや趣味のことなどについて話しますし、そういう会話をします。そして、時には特定のテーマについてお互いの考えを交換したりします。実用的なコミュニケーションに対して、これらは社交的な言語活動と呼ぶのが適当でしょう。つまり、わたしたちの言語活動の重要な部分は社交的な言語活動であり、「日本語で会話ができる」ということの実際は実はそういう言語活動ができることなのです。
 そんなふうに考えると学生たちが会話ができるようにならないのは当然です。従来の日本語教育では教育企画として社交的な言語活動を組織的に扱っていないからです。

文型・文法と語彙、及び実用的なコミュニケーション能力の位置
 社交的な言語活動の中心部分は表現活動、つまりさまざまなテーマについて話す(話したり、聞いたり、やり取りしたり、書いたり、読んだりすること)ことです。表現活動の日本語教育では、その名の通り、そのような表現活動を日本語教育の中心に据えて教育を企画しています。そうすると、文型・文法と語彙や、実用的なコミュニケーションはどうなるのでしょう。
 先ずは、文型・文法と語いなどについて。表現活動を実際に運営するのは言葉遣いです。そして、言葉遣いでは文型・文法や語彙などの言語事項が動員されています。つまり、表現活動を行うためには、当然相応の言語事項が必要になるということです。ですから、表現活動の日本語教育の中に当然文型・文法や語彙の教育が組み込まれることとなります。そして表現活動の日本語教育の学習と教育を巧みに企画し、着実に実践すれば、文型・文法は自ずと身につきます。(ただし、その教育企画と教材制作は簡単なことではありません。表現活動ができる領域を徐々の拡大しながらそれに伴う形で文型・文法や語いを拡充できるようにうまく表現活動のテーマとそれに伴う言語事項を調整しなければならないからです。NEJとNIJでは、そのような作業を慎重に行いました。)
 他方、実用的なコミュニケーション能力はどうなるでしょう。手短に結論を言うと、実用的なコミュニケーション能力は表現活動の言語技量を基礎としています。表現活動の言語技量を身につければ、それを基盤として、実用的なコミュニケーション能力をはじめとしてさまざまな種類の言語技量を容易に発達させることができます。つまり、表現活動の言語技量こそが他のすべての言語活動に関わる基幹的な言語能力だということです。