日本語の知識を習得しても日本語はできない
これまでの日本語教育では、主として日本語の文を正しく作れるようになることが日本語教育、特に基礎日本語教育の目標とされてきました。ですから、教科書でも文の作り方に関わる文型・文法が課の目標とされ、教科書には、本文としてその文型・文法が例示された会話が提示され、それに続いて文の作り方の習得をめざした練習が用意されていました。そうした立場での日本語教育の企画と教材と実践では、日本語は実際の言語の行使として学ばれることは決してなく、常に学習の対象として一般化され、そのように抽象化された日本語、つまり日本語の言語事項の知識が習得されるだけでした。そして、そのような知識は日本語で言語活動に従事することを支える知識ではありません。
教材で開示される世界
NEJやNIJの本文では、実際に行使された日本語の例を提示しています。NEJとNIJを通して舞台は「大京大学」です。
「大京大学」は、東京の郊外にある総合大学です。「リさん」「あきおさん」「中田くん」はいずれも「大京大学」の学生で、「西山先生」は大京大学の先生です。「リさん」はマレーシアから来た学生で、4月に工学部に入学したばかりです。リさんは中国系のマレーシア人です。「あきおさん」は、工学部の4年生で、大京大学の「山の会」のリーダーです。「中田くん」は外国語学部2年生で、マレーシア語が専門です。「西山先生」は国際センターの先生で、同センターで日本語を教え、留学生のための科目である国際交流科目の「現代社会を生きる」も担当しています。
NEJのナラティブは、「リさん」「あきおさん」「西山先生」がそれぞれ各ユニットで自分のことについてあれこれ話すという設定になっています。学生たちは、ユニットのテーマでのかれらの話を聞いて知ることで、そのテーマについての話し方を知って、それを実際の言葉遣いの参照先(モデル)にして、テーマについて自分の話をします。NEJを活用した自己表現の日本語教育を通して、学生たちは、リさん、あきおさん、西山先生についてさまざまなことを知るとともに、自分のことについていろいろ話せるようになります。
他方、NIJの各ユニットは、会話とレクチャーの2つのパートでできています。NIJの会話は、リさんと中田くんとの会話です。リさんと中田くんは、国際センターの新入留学生歓迎パーティで会いました。中田くんは夏休みにマレーシアに行く計画をしています。それで、マレーシアについていろいろ話を聞きたいので、リさんを紅茶の店に誘います。(リさんはコーヒーより紅茶のほうが好き!) NIJの会話パートは、人物紹介を兼ねたリさんと中田くんの紹介(それぞれのモノローグ)から始まります。そして、ユニット2は新入留学生歓迎パーティでのリさんと中田くんの出会いの会話で、ユニット3からユニット11まではすべて紅茶の店での二人の会話になっています。最後のユニット12は、リさんのはじめての山登りの経験の話(リさんのモノローグ)になっています。
最後に、NIJのレクチャーは、「現代社会で生きる」というタイトルでの西山先生の12回の連続講義になっています。この講義は留学生に向けた講義で、人間の社会や文化の成り立ちの話から始まり、現代社会の特質に進み、最後に日本で暮らす外国出身の若者の話で結ばれます。
このようにNEJとNIJの本文は全体として一つの小世界になっています。そして、その小世界は、リさんや西山先生などの登場人物の発話によって紡ぎ出されます。
ことばの作者性
わたしたち一人ひとりが実際の生活の中で自身の行為として話すことば=発話は、作者性があります。つまり、わたしたちが発する(あるいは書く)一つひとつのことばは、間違いなく「わたし」が「わたし」の存在(の一部)としてその都度に創作し発していることばです。そして、それはわたしの存在や振る舞いを作り出し、出来事という社会的な現実を構成します。このようにわたしたちはことばを発することによって、日本語世界を制作することに関与し、自己を制作することに従事しているのです。そして、日本語世界の制作に関わるすべてのことばは生きたことばであり、それには必ずその出所としての作者がいます。つまり、ことばの出所の人物=自己が自己の創造行為としてことばを作り出し、発しているということです。
NEJとNIJのナラティブや会話やレクチャーを構成していることばは、フィクションではありながら、いずれもリさんや西山先生などの登場人物による作者性のある生きたことばです。つまり、リさんや西山先生などの「人格の声」であり「心の声」です。そして、学生は、ナラティブなどのことばを理解し学びながら、かれらの小世界を知り、一つの人格として生きる人として登場人物に出会います。そして、登場人物に、時には共感し、時には反発したり、登場人物の意見に賛同したり、反論したりします。学生のそれらの反応は、生きたことばであればこその反応です。これまでの教科書の本文の場合のように、命のない抽象的な言葉に対しては、学生は反応しません。
(言うまでもありませんが、どれほどストーリー世界やその中の人物を生き生きと描けているかは、実際に作成されたナラティブや会話やレクチャーの質によります。そこの部分がうまくできているかどうかは、ユーザーである先生方や学生の「審判」に委ねるほかありません。)
日本語教師です。大変に共感いたしました。以後この教科書により生徒に教えることを楽しみにしています。
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