第2章 第二言語の習得と習得支援についてのわたしの考え
表現活動中心の日本語教育と、(表日!)SALの両方に関わる、第二言語の習得と習得支援についてのぼくの考えを、改めて、タネ明かし的に話したいと思います。
「タネ明かし的に」と言うのは、序章で言った理論家としてのわたしの「タネ明かし」と関連しているからです。序章の最初のパラグラフの末尾でわたしは「修正派のクラシェニアンだ」という話をしました。以下の【参考資料】は、修正派クラシェニアンの習得と習得支援についての見解(Newmark and Reibel×Krashen)です。そして、これも序章で言いましたが、ぼくの習得と習得支援についての考えは、修正派クラシェン×バフチンです。それを簡潔に言って、クラシェン×バフチン です。【参考資料】は、quick look(快速参照)としては、太字にしているA、B、C、だけ見てください。
これまでの表現活動中心の日本語教育の議論ではバフチンばかりを表(おもて)に出してきましたが、それは「話のわかりやすさ」のためです。最終的に行きたいところは、クラシェン×バフチンで、さらに言うと、クラシェン的な(正確には修正クラシェン的な)学びに、学習者を導くことと教師による習得支援を導くことです。そして、言語事項中心のカリキュラムでは、それは決してできません。表現活動中心の日本語教育でこそできる! クラシェン流とバフチン流は、表現活動中心の日本語教育を支える両輪です。
ちなみに、「話のわかりやすさ」というのは、「何を身につけさせるか」の見えやすさの問題です。クラシェンでは、「何」とか「これ!」というのが一切見えません。しかし、バフチンなら見えます。それは、言葉遣いです。ただし、その言葉遣いも「実体」や「モノ」ではありませんが(西口, 2015, p.29)。
1.Newmark and Reibel:言語学習のための必要性と十分性
1960年代はオーディオリンガル法の流れにありながら、学習者の第一言語と目標言語との対照研究が重視された時代です。対照研究によって学習困難点を予測し、それに基づいて教材を用意して、特に母語の干渉(英語ではinterference)が生じると予想される構造について集中的なパターン・プラクティス等を実施することが強調された時代でした。そんな時代に、カリフォルニア大学サンディエゴ校のLeonard NewmarkとDavid Reibelが書いた「言語学習のための必要性と十分性」(Necessity and sufficiency in language learning、Newmark and Reibel, 1968)が発表されました。同論文で、かれらは以下のように高らかに主張しました。
言語教育を有効に行うために言語構造の理論に基づく言語習得の理論の開発を待つ必要はないとわたしたちは主張します。人が言語を習得するために必要で十分な条件はすでにわかっているものとわたしたちは考えます。つまり、言語行使の実例がそのまま学習者に提示されて、学習者の実際に言語を行使しようとする行為が選択的に強化されさえすれば、普通の人は言語を習得することができます。ここで重要な点は、学習者が実際の使用の中にある言語の実例(instances of language in use、筆者注)を学ぶのでなければ、言語を学んだことにならないということ、そして、学習者がそうした言語の実例を十分に習得すれば、そのままの形で与えられている実例について分析や一般化は不要だということです。…学習する教材に関して教師が主としてコントロールしなければならないのは、教材として提示される材料が学習者が使う事項として把握可能であることだけです。後は、学習者の言語学習能力が発揮されてうまく行きます。(Newmark and Reibel, 1968, p.149とp.161、筆者訳、傍点強調は原著)
当時も今も、多くの人は、子どもにおける第一言語の習得と成人における第二言語の習得は違うものであり、成人は言語学習者として子どもとは質的に異なると考えています。Newmark and Reibelはそうした一般的な見解に反論して、かれらの主張の根拠となる議論を展開しています。Newmark and Reibelの主張を箇条書きにすると以下のようになります。
A. 第二言語の習得支援についてのNewmark and Reibel(1968)の見解
1.言語習得のために必要で十分な条件
(1) 言語行使の実例をそのまま学習者に提示すること
(2) 学習者の実際に言語を行使しようとする行為を選択的に強化すること
(3) 言語行使の実例とは、実際の使用の中にある言語の実例である。
(4) 十分な量の言語行使の実例を知り、習得すること。
2.言語習得のために不必要なこと
学習者が言語行使の実例を十分に学んでしまえば、それについての分析や一般化は不要である。
3.教材として提示する材料についての条件
学習者が使う事項として把握可能であること
かれらの議論でとりわけ注目されるのは、実際の使用の中にある言語の実例(英語ではinstances of language in use)、あるいは短く、行使中の言語の実例という視点です。かれらの言う行使中の言語の実例は、いわゆる場面会話としての話し方のサンプルではありません。Newmark and Reibelは、次のように説明しています。
しばしば批判されるように、具体的で、それゆえ必然的に限定された状況でどのように話すかを学習者に提示しようというのではありません。むしろ、学習者が貯蔵(stores)し、分節(segments)し、そして最終的に再構成(recombines)して新たな状況で適切な用法として使える新たな発話が作れるような、意味のある言語行使の実例(instances of meaningful use of language)を提示することを提案しているのです。(Newmark and Reibel, 1968, p.152、筆者訳、括弧内は原文の英語)
Krashenの言う“comprehensible”と、Newmark and Reibelの言う把握可能(原文ではgraspable)はよく似ていますが、Krashenの“comprehensible”のほうが概略的にわかればいいというニュアンスが強いです。
入力仮説は、従来の第二言語の習得支援に関する見解に次のような変更を要求しています。
B. 従来の習得支援の見解への入力仮説からの変更要求
(1) 言語事項を取り立てて指導することは役に立たない。
多くの第二言語教育者はPPPの方略による教授を通して言語を産出する能力を養うことができると信じているが、入力仮説はその有効性を否定する。入力仮説によると、PPPなどの教授を通して得られる学習された知識や言語操作能力をいくら身につけても、それは言語を内から発起する能力にはならない。それは発起された発話の文法や語彙などをチェックして修正できるだけである。そして、理解可能な言語入力に基づく習得を通して得た無自覚的な知識のみが言語を内から発起することができる。ゆえに、学習よりも習得こそが重要だと主張する。
(2) 話させることは習得を促進しない。
これまでは学習者にたくさん話させることが言語能力を伸ばすと考えられてきたが、入力仮説はそれを否定する。そして、むしろ言語を理解して受容する活動こそが、そしてそれに大量に従事させることこそが言語の習得を促進すると言う。そして、そのような豊富な受容的言語活動従事の結果として、話すこと(や書くこと)は自ずと育成され現れてくると主張する。
これら2点を含めたKrashenの第二言語の習得支援についての見解は次の2点に集約されます。
C. Krashenの第二言語の習得についての見解のサマリー
(1) 話すこと(や書くこと、筆者注)は習得の結果であって、原因ではない。話すこと(や書くこと、筆者注)は直接に教えることはできない。話すことは、むしろ、理解可能な言語入力を通してコンピテンスが育成された結果として自ずと「現れてくる」。
(2) 言語入力が理解できて、そしてそれが十分にあれば、必要な文法は自ずと与えられる。教授者は自然習得順序に準じた次の言語構造を取り立てて教える必要はない。
(Krashen, 1985, p.2、筆者訳)
このような見解の下に、緊張や不安などがない状態で理解可能な言語入力を大量に与えることを教授方略として提案された教育方法が、よく知られているKrashenとTerrell(テレル)のナチュラル・アプローチです。Krashenがめざしたのは、少し乱暴に要約すると、その言語が話されている国に行ってそこで暮らしながら自然に言語を身につけていくという自然的な第二言語習得を疑似的に教室で再現することです。
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