第8回 プラトン-アウグスティヌス主義とアリストテレス-トマス主義 (2017年9月) ローマ帝国以来、ギリシア哲学とキリスト教は渾然一体となってヨーロッパ文化形成の基 盤となってきた、と前回述べました。そして、プラトン-アウグスティヌス主義とアリス トテレス-トマス主義は、この古代末期以来代わるがわる西洋の文化形成を規定すること になります。 アウグスティヌスとプラトン-アウグスティヌス主義 キリスト教は、380年にローマの国教となりました。しかし、当初は整備された教義体系 はありませんでした。最初の教義体系を組織したのは、アウグスティヌス(354-430年) です。 アウグスティヌスは、当時ローマ領だった北アフリカのカルタゴ近郊のタガステに、異教 徒のパトリキウスと敬虔なキリスト教徒である母モニカの間に生まれました。20代のアウ グスティヌスはマニ教に引きつけられて、ゾロアスター教の流れを汲み光と闇などの二元 論的教義を有するマニ教の聴聞者として10年近くを過ごします。383年にアウグスティヌ スは、ミラノに修辞学の教師として招かれます。そこで、キリスト教の有名な司祭アンプ ロシウスの説教を聞いて心を引かれましたが入信はしませんでした。しかし、このころ に、たまたまラテン語訳でプロティノスの『エンネアデス』の一部分を読んでマニ教の考 え方から解放されます。また、当時ローマに伝わっていたパウロの手紙を読んでカトリッ クの教えに引かれます。ちなみに、プロティノスはオリエントやエジプトの神秘主義思想 プラトン哲学を神秘主義的色彩の濃い新プラトン主義に改造しています。 その後、アウグスティヌスは、32歳の386年の夏の終わりに奇跡的な回心を経験し、ミラ ノ郊外の友人の山荘で母のモニカや友人たちと聖書に親しみ哲学的談義を続けた後、ミラ ノに帰って、ついにアンプロシウスの手で洗礼を受けます。その後、388年に故郷のタガ ステに帰り、友人たちと共に清貧と祈りの生活を続けたアウグスティヌスは、391年の 春、37歳のときに、カルタゴの西の港町ヒッポの友人に招かれてその地の司祭になりま す。以後、その地に終生留まり、自伝風の本『告白』(397-401年)を著し、またキリス ト教の護教論と教義論からなる大著『神の国』全22巻(413-426年)などの著作をしま す。そして、『神の国』で展開された教義はやがてローマ・カトリックの正統教義と認め られます。 アウグスティヌスとローマ帝国の運命 アフリカの片田舎の司祭が書いたものがと思われますが、カルタゴを中心とする北アフリ カ地域にはローマの貴族たちが昔から広大な土地や別荘をもっており、またもともとアフ リカはローマの穀倉地帯でした。そして、この頃のローマはすでに衰退の一途を辿ってお り、410年8月の西ゴート族(ゲルマン諸族の一族)によるローマ略奪で、再度の侵入を恐 れたローマの貴族たちが次々と海を越えてカルタゴに逃れていました。この貴族たちに伴 われてきた知識人たちが、当時すでに西方教会の中心人物になっていたアウグスティヌス に、この危機に対処する術を尋ねるのは当然であり、アウグスティヌスの周りで宗教論争 が展開されるのも何の不思議もありません。そして、アウグスティヌスが没する430年に はかれが住んだヒッポの町もヴァンダル族(ゲルマン諸族の一族)に包囲されて陥落寸前 になります。ローマは395年にすでに東西に分裂しており、ローマを中心としていた西ロ ーマ帝国は476年についに滅亡します。地中海世界と西ヨーロッパを含む西方世界は、以 降、未開のゲルマン民族に蹂躙され、暗黒時代に入ります。そして、以後、キリスト教文 化は東ローマ帝国に引き継がれていきます。 プラトン、新プラトン主義、そしてプラトン-アウグスティヌス主義へ プラトンには、イデアの世界と、その模倣であるこの現実の世界つまり個物の世界という 2つの世界を考える独特な二世界説がありました。プロティノスの新プラトン主義経由で プラトン哲学を学んだアウグスティヌスは、プラトンのこの二世界説を「神の国」と「地 の国」の厳然たる区別という形で受け継ぎ、あの「つくる」論理に基づく制作(ポイエー シス)的存在論によって世界創造論を基礎づけ、イデアに代えてキリスト教的な人格心を 形而上学的原理として立てます。イデアは世界創造に先立って神の理性に内在していた観 念と考えられるようになります。ここから、idea(イデア、ギリシア語)を観念(例えば 英語のidea=アイデア)と見る考え方が生まれてきます。 このように神の恩寵の秩序である「神の国」と、世俗の秩序である「地の国」、ローマ教 会と皇帝の支配する世俗国家、信仰と知識、精神と肉体とを截然と区別するプラトン-ア ウグスティヌス主義的教義体系がローマ・カトリック教会の正統教義として承認されま す。ただし、それはアウグスティヌスの没後1世紀近くたった529年のオランジュ公会議 においてでした。背景にある事情を木田は次のように推測しています。「一方では、世俗 の秩序であるローマ帝国によって国教にされ、国家との共存をはかりながらも、他方では すでに崩壊してしまった西ローマ帝国と運命を共にすることを避けようとするカトリック 教会の政治的意志が働いたように思われます。」と。 こうしてプラトンの超自然的思考様式は、プラトン-アウグスティヌス主義的教義体系に 受け継がれ、キリスト教の信仰と結びついて現実的有効性を発揮しながら展開されていき ました。このプラトン-アウグスティヌス主義的教義体系は、古代末期から13世紀までカ トリック教会の正統教義として機能し続けます。一方で、オランジュ公会議と同じ529年 にユスティニアヌス大帝(東ローマ帝国第2代皇帝、東ローマ帝国はビザンツ帝国とも呼 ばれる)の命令で哲学は禁止され、プラトン以来900年に及ぶ伝統をもつアテナイのアカ デミアも閉鎖されました。ちなみに、木田は、ニーチェ(1844-1900)の言葉を引用して 「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」と指摘しています。 次回は、ゲルマン諸族によるヨーロッパの形成と新たな中世キリスト教文化の開花の話と なります。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
哲学のタネ明かしと対話原理 8
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