2018年4月22日日曜日

哲学のタネ明かしと対話原理 10

第10回 近代へのとびらを押し開けたデカルト (2017年11月)

有名な「私は考える、それゆえ私は存在する」というテーゼによってデカルトは近代的自
我の自覚を達成し、そういう意味で近代哲学の創建者だと言われてきました。しかし、以
下に論じるように、実は、デカルトは近代へのとびらを押し開けただけです。

デカルトは本当に近代的自我を自覚したか
いつものように木田に依拠しながら話をします。木田は『反哲学入門』の中でデカルトの
本に言及しながら次のように言っています。

 「(『方法序説』の)第一部の冒頭でこう言います。「良識はこの世でもっとも公平に分け
 与えられているものである」。この「良識(ボン・サンス)」は数行後に、「正しく判断し、
 真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識(ボン・サンス)とか理性(レゾン)と
 呼ばれているものだ」と解説され、さらに「自然の光(リュミエール・ナチュレル)」と
 言いかえられています。そして、この「自然の光」は『哲学原理』(1の30)で「神から
 われわれに与えられた認識能力」と定義されています。」(上掲書pp.108-109)

このようにデカルトの言う「理性」は、神によってわれわれに分かち与えられたものであ
り、それはわれわれ人間のうちにありながらもわれわれの自然的な能力ではなく、神の理
性の派出所や出張所のようなものなのです。そして、この「理性」を正しく使いさえすれ
ばわれわれは普遍的な認識ができるのであり、世界の奥の奥の存在構造を捉えることがで
きる、となります。一般に「近代的自我」といえば、神的なものから解放され自立した自
我ということですが、デカルトの言う自我はそのようなものではありませんでした。プラ
トンの言うイデアや、アリストテレスの純粋形相や、キリスト教神学の「神」というよう
な超自然的原理の「出張所」のようなものが人間のうちに設定されただけと言ってもよい
かもしれません。

「私は考える、ゆえに私は存在する」再考
デカルトの主著の一つである『省察』(1641年)の書名は、正式には『神の存在、および人
間の精神(アニマ)の身体からの区別を論証する、第一哲学についての省察』です。デカ
ルトは、『方法序説』でも『省察』でも、方法的懐疑という手続きを展開しています。「私
は考える、ゆえに…」はその方法的懐疑の終着点として出てくる言葉です。方法的懐疑の
手続きを木田は以下のように説明しています。

 「デカルトは、私たちの外的感覚器官の教えてくれること、つまり外的世界が存在する
 ことを疑い、次に私たちの内的感覚器官の教えてくれること、つまり自分の肉体が存在
 することを疑います。これらは疑えばいくらでも疑えます。さらに彼は、数学的認識の
 ような理性の教えてくれることも疑っていき、いっさいを懐疑の坩堝に投げこみます。
 こうして「どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所もない」と仮想し、
 いわば絶望の淵に立たされますが、そのとき一条の光が射してきます。というのも、デ
 カルトは、そんなふうにどれほどいっさいを疑い、「すべてを偽と考えようと」、そうし
 て疑いつつある「私」、「そんなふうに考えているこの私」は「必然的に何ものかでなけ
 ればならない」ということに気づいたからです。この「私」の存在を疑えば疑うほど、
 その「疑っている当の私」の存在、広い意味での「考えている私」の存在はいっそう確
 実になります。『そして、<私は考える、ゆえに私は存在する>というこの真理は、懐疑
 論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、
 この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と
 判断した』とデカルトは結論しています。」

これが、“Cogito ergo sum.”です。

「私」とは何か
さてこのような理路から「私」というものはどのようなものになるでしょうか。以下も、
木田が引用しているデカルトからの一節です。

 「これらのことから私は、次のことを知った。私は一つの実体あり、その本質ないし本
 章は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物
 質的なものにも依存しない、と。したがって、この私、すなわち、私をいま存在するも
 のにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物質〕より認識
 しやすく、たとえ身体〔物質〕が無かったとしても、完全に今あるがままのものである
 ことに変わりはない、と。」

この引用からは、「私は考える、…」の「私」とは、「考えるもの」たるかぎりでの「私」、
つまり「心もしくは精神」、「悟性」、「理性」たるかぎりでの「私」だということになりま
す。身体から実在的に無別され、それが存在するために身体のようなものはいっさい必要
としない「精神」としての、あるいは「理性」としての「私」の存在がこので確認された
わけです。『省察』の表題にあった「人間の精神の身体からの区別を論証する」というのが
まさにこうした結論なのです。

結論
結局デカルトは、私たち人間にあって実体をなしているのはあくまで精神であり、精神は
身体と区別されうるし、身体がなくても精神はそれだけで存在しうる、と言いたいのです。
なぜなら、この精神、つまり理性は神の創造した実体であり、私たち人間のうちにあって
も、いわば神の理性の出張所のようなものだからです。デカルトの主張したいのは次のこ
とです。つまり、上のような事情なので、肉体的感覚に与えられる感覚的諸性質は物体の、
つまり自然の実在的構成要素ではなく、単に私たち人間にとって偶有的なものである身体
への現れにすぎないのであり、物体、つまり自然を真に構成しているのは、私たちの精神
が洞察する(ダ・ヴィンチやガリレオがすでに科学において実践していた!)数学的な量的
諸関係だけなのだと。

神は誠実なのだから、その神が真の観念として私たちの精神に植え付けた観念には客観的
実在性がある。つまり、その観念に対応する客観は実在せざるをえない、というわけです。
そして、これは何もデカルトが初めて言い出したことではなく、すでに科学的な営みが始
まっていた当時のヨーロッパを中心としたキリスト教の世界創造論ではそのように考えら
れていたのです。「神は、世界創造の仕上げとして、みずからに似せて人間を創造し、それ
に理性(ラティオ)を与えた」と。デカルトは、人間理性の実在性を論証によって基礎づ
けようとしたということになります。

次回はデカルト後の展開です。

0 件のコメント:

コメントを投稿