2018年4月22日日曜日

哲学のタネ明かしと対話原理 6

第6回 アリストテレス (2017年7月)

木田の俯瞰点(木田元 2007 『反哲学入門』※2010年に新潮文庫でも出ています。)

木田は、哲学とは、「ありとしあらゆるものが何であり、どういうあり方をしているの
か」について突き詰める営みであると言っています(木田p.19)。それは、「人間を含む生
き物やモノなど、地球上にあるありとしあらゆるものが『ある』というのはどういうこと
か、それをあくまで全体として研究しようとする学問だ」と言っています(p.40)。(これ
に対し、科学というのは、存在者全体のうちからある特定の領域、つまり物理現象とか経
済現象と言って、領域を切り取ってきて、そこにある法則を見出そうとするものです。) 
こうした哲学の営みから出てきた見解を木田は大きく、「なりいでてある」という見方
(前回の「なる」的思考)と、「つくられてある」という見方(前回の「つくる」的思
考)に分類しています。

このような「哲学をする」ことについて、木田は、西洋以外の他の文化圏には生まれなか
った営みだと言っています。というのは、そんなことを考えるためには、自分たちが存在
するものの全体の内にいながら、その全体を見渡すことができる特別な位置に立つことが
できると思わなければいけないわけで、そのような立ち位置・目線をもったのは西洋だけ
だと言うのです。存在するものの全体を「自然」と呼ぶなら、自分たちがそうした「自
然」を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在」と関
わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、そんな思考はできません。自分が自然の中
にすっぽり包まれて生きていると思っている人々には、そんな立ち位置や目線をそもそも
採ることができません。西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照し
ながら自然を見るという特別な見方・考え方をしたのであり、その思考法が哲学です。

哲学は、それ以前の「なりいでてある」という見方から「つくられてある」という見方へ
の転換です。その転換を強力に牽引したのがソクラテスです。そして、ソクラテスの弟子
のプラトンがイデア論によって、哲学の第一歩を踏み出しました。それ以降の哲学発展の
経路は、この「つくられてある」の見方の発展の経路となります。

形相(エイドス)-質料から可能態-現実態へ

プラトンのイデア論については、第4回の「プラトニズムの誕生」の部分で論じました。
イデア論は、すべてのものは「つくられたもの」であり、さらに「つくられるべきもの」
であるという制作的存在論を説くためには有効であると思います。そんなふうに考える
と、プラトンは、「つくる」論理に特別な権利を与えて「自然」を包括して規定しようと
していたことが分かります。しかし、自然的な存在物、つまり植物や動物などの場合はど
うなるのでしょう。その場合でも、「つくる」論理があてはまるでしょうか。

アリストテレスは、言ってみれば、プラトンの極端な「つくる」論理と、ギリシア古来の
「なる」論理を仲裁して組み替えようとしました。アリストテレスは、まずは、「自然に
よって存在するもの」と「技術によって存在するもの」を区別します。前者は、例えば樫
の木、後者は、ヴィーナスの像です。そして、樫の木の種子が樫の巨木に成長する運動
と、大理石の塊がヴィーナス像になる運動とを対比して、それぞれの運動の原因を見定め
ようとします。アリストテレスの考えでは、「自然によって存在するもの」、例えば樫の木
では、運動の原因である「自然」が運動体である樫の木に内蔵されている。それに対し、
「技術によって存在するもの」では、運動の原因が彫刻家の「技術」で、それが運動体で
ある大理石の塊の外にあると考えます。

アリストテレスによると、プラトンには2つの原理しかありません。第4回の最後の部分
で論じた、イデアに由来する形相(エイドス)と材料・素材としての質料(ヒューレー)
です。端的に言うと、アリストテレスは、この「形相-質料」という図式を「可能態-現
実態」という図式に組み替えました。つまり、プラトンの言う質料(ヒューレー)は単に
質料なのではなく、何らかの形相(エイドス)の可能性を含んでいるもの、つまり可能態
の状態にあるものと考え、その可能態が「原因」によって現実化された状態を「現実態」
と呼びました。例えば、樫の木の種子は、樫の木になる「可能態」で、自然の力で成長し
た樫の木は、樫の木の形相を具現化した現実態となります。しかし、その樫の木は、材木
になる「可能態」で、木を切り倒し切り分けて製材するという「技術」の働きを受けて材
木の「現実態」となります。さらに、その材木は、机になる「可能態」で、机の形相に基
づく「技術」の働きを受けて机の形相を具現化した現実態である机になります。

アリストテレスの純粋形相論

このように考えると、可能態-現実態という関係はどこまでも相対化されます。というこ
とはつまり、すべての存在者はその内に潜在している可能性を次々に現実化していく目的
論的運動の内にあるということになります。

こうして見ると、アリストテレスの描く世界像は、動的で、広い意味で生物学的だという
ことになります。これに対し、プラトンの場合では、現実の世界は永遠に不変のイデア界
の模像なので、原理的に不変となります。そのような事情で、プラトンの世界像は数学的
で、アリストテレスの世界像は生物学的と呼ばれるようになりました。

アリストテレスは、絶対的に超越したプラトン流のイデアは否定しましたが、かれ自身が
考えた目的論的運動がめざしている最終目的地(telos)をかれは「純粋形相」と呼びま
す。アリストテレスの言う純粋形相とは、自身を含んでいる可能性をすべて具現化し、も
はや現実化されていない可能性のまったく残されていない存在者、したがってそれ以上動
くことのない存在者のことです。もはや自らは変化することなく、他のすべての存在者を
己に引き寄せようと動かすこの存在者つまり「不動の動者」こそが世界のすべての目的論
的運動の究極の目的(telos)だということになります。この純粋形相は一切の生成消滅
を免れているわけですから、超自然的な存在者と見なすしかありません。その意味では、
プラトンのイデアと同質です。このように、アリストテレスはプラトンの超自然的思考様
式を批判し否定しようとしたのですが、結局はそれを修正しながら受け継いだということ
になります。

そして、ここに至ってギリシア発祥の哲学はキリスト教神学と接近することとなります。
その話は、次回に。

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