第12回(最終回) 哲学のタネ明かしと対話原理-フッサールへ (2018年1月) 今回がこの連続エッセイの最終回となります。考えてみると、何とも無謀な企てをしたも のです。でも、何とか「収拾」をつけなければなりません。しかし、ほぼ予定通り、フッ サールで「収拾」をつけることができそうです。この連続エッセイの第1回から前回まで は実は、この最終回の内容を言いたいがための布石のようなものでした。本エッセイでは、 哲学のタネ明かしのタネ明かしとフッサールへのつなぎをします。 哲学のタネ明かし デカルトからカントに至る経緯は、ごくわかりやすく言うと、理性の神から人間への「引 っ越し」です。その裏事情をはじめに話したいと思います。いつも「あんちょこ」(若い人 にはこの言葉わからないでしょうね…)にしている木田はカントを論じる部分で、「近代哲 学はなぜ文体が変化したか?」という一節を設けています。その部分の話によると、以下 のような理路になります。 (1)カントあたりまでの大学の哲学の先生は中世以来のスコラ系の哲学者だった。 (2)スコラ系の哲学者とは言わば「教会御用哲学者」である。 (3)ですから、彼らは神に疑義を挟むような議論はできない。 (4)そのような事情なので、近代を開く新しい哲学の担い手は在野の人たちだった。 (5)たとえば、デカルト、マルブランシュ、スピノザ、ライプニッツといった17世紀の 大陸系哲学者も、ルソー、ヴォルテール、ディドロなどの18世紀フランスの啓蒙哲 学者も、ロック、バークリ、ヒュームなどのイギリス系の哲学者も、みんな在野の知 識人、政治家、外交官などでした。 (6)そして、かれらが本を書くときは一般の知識人を読者に想定し、平明な文章で書くの が常だった。 (7)そして、だんだんラテン語ではなく、それぞれの国語で書かれるようになった。 このように近代哲学のトビラは、大学の御用哲学者ではなく、在野の人たちによって、在 野の知識人の間から開かれていったのです。御用哲学者さんたちが近代哲学のトビラを開 けられないのは当然ですよね。かれらは神に「仕えている」わけですから。 で、カントの前後から近代哲学の担い手たちが大学の先生になるようになりました。カン ト哲学を引き継ぎ展開したフィヒテ(1762-1814)、シェリング(1774-1854)、ヘーゲル(1770- 1831)などはみんな大学の先生でした。かれらは、日頃かなり高度な専門知識をもった学 生たちを相手にしているし、近代哲学は何しろしっかりと理屈を展開しないといけません ので、かれらの文章もどんどんむずかしく難解になっていきました。 カントからヘーゲルに至る哲学は、いわゆるドイツ観念論です。それは、ソクラテス、プ ラトン、アリストテレスのギリシア哲学に匹敵する哲学のもう一つの黄金時代と見られて います。さて、1781年のカントの『純粋理性批判』から1831年のヘーゲルの没年までの ちょうど半世紀にわたって展開されたドイツ観念論哲学の課題は何だったのでしょう。カ ントの下で神的理性の後見を退けた上で「超越論的主観性」としての自覚に達した人間理 性は当初は自身の有限性の中にあったわけです。ドイツ観念論哲学の課題は、その限界を 打ち破って無条件な「絶対精神」に高まっていこうとするところにあった、と木田は言っ ています。それがドイツ観念論の到達点である、ヘーゲルの『精神現象学』での論となり ます。 本連続エッセイで試みたようにギリシア哲学からカントまでをひじょうに大きく俯瞰して みると、哲学の歩みは、(1)イデアなどの超自然的原理の「発明」(第3回から第6回)、(2) スコラ哲学を代表とするそうした超自然的原理とキリスト教との合流(第7回から第9回)、 (3)キリスト教神学からの解放と人間による人間理性の自覚(第10回から第12回今回の 最終回)、という流れとなるようです。わたしたち哲学の素人としては、カントまでの哲学 の「大饗宴」というのはそのようなものだったのだという程度に考えておいたらどうでし ょう、というのが哲学のタネ明かしのタネ明かしです。そして、現代の人文社会科学の研 究者として重要なのはフッサールです。 フッサールの現象学 わたしたちの経験あるいはわたしたちの現実というものの本当の姿を捉えるために、フッ サールは、エポケー(判断停止)ということで、わたしたちが日常生活の中で普通にやっ ている自然的態度を一端やめる必要があると言いました。自然的態度というのは、「世界」 がわたしたちの外(out there)にあって、わたしたちは感覚器官を通して「それ」を経験 して、そうすることを通して「この世界」を他者と共に生きることであり、そのように自 然にやり、それが自然だと思うことです。フッサールが第一に主張したいのは、「世界」や 「それ」や「この世界」などは、わたしたちの外(out there)にあらかじめあるものでは ない、ということです。確かにわたしたちは感覚器官を通して世界と交わるわけですが、 世界というのはわたしたちが経験するものであって、あらかじめ「経験」として与えられ るものではないということです。そして、フッサールは、そのようなわたしたちの世界の 経験の仕方を、志向性(intentionality)と、ノエシスとノエマという概念によって説明 しようとしました。 ノエシスとは経験される仕方で、ノエマとは経験されるものです。ノエシスとノエマの説 明としては、よくリンゴの例があげられます。机の上にあるリンゴを目にしたとき、わた したちは「あっ、リンゴがある!」や「あっ、リンゴだ!」とそれを経験するわけです。 つまり、リンゴだというわたしたちの認識とその認識が関係している当該の対象との関係 がわたしたちの経験となるわけです。この関係のことを志向性と言うわけです。世界や経 験があらかじめそこにあるのではなく、わたしたちは認識との相関の中で世界や対象を経 験するのだということです。また、経験というのが物理的な世界との関連でのみ生じるの ではなく、思考や意思などの形で生じることもフッサールは論じています。このような見 方に基づく認識論と存在論を現象学と言います。まあ、こんなに単純な話ではないのです が。 フッサールの現象学は、後にシュッツの現象学的社会学に継承され、それがさらに、シュ ッツの弟子であるバーガーやルックマンによって展開されて知識社会学へと結実します。 また、シュッツの研究はガーフィンケルにも影響を与えエスノメソドロジーの誕生へと繋 がりました。 フッサールと対話原理 フッサールの現象学とバフチンの対話原理を照らし合わせるといろいろとおもしろいこと が見えてきます。まずは、フッサールの議論ではノエシスとノエマの相関関係が最重要部 となるわけですが、ノエシスを結ぶことがいかに可能になるのかや、ノエシスの素材は何 なのかについてフッサールは十分に議論していないように思われます。ノエシスの素材は、 おそらくバフチンに言わせると言語でないはずがない、となります。そして、素材が言語 であるとして、体系としての言語なのか、発話やディスコースとしての言語(ことば)な のかも、議論されなければなりません。また、対話原理の観点から言うと、フッサールの 議論は個体主義的でモノローグ的だと言わざるを得ません。 結論 現在、社会学でも心理学でも質的研究というものが注目されています。興味深い研究方法 だと思います。そして、質的研究を行うためには、それと量的研究との対比を知ると共に、 その哲学的基礎である現象学及びその系譜を知っていなければなりません。日本語教育や 第二言語教育一般で質的研究をしようという場合にはややもすると研究の具体的な方法ば かりに注目が集中してしまいがちです。質的研究の核心をよく理解してそれを行わないと、 研究者自身による薄っぺらい個別ケースの記述あるいは独善的な記述に終わってしまいま す。そのような意味で、フッサール現象学からリクールのナラティブ論までの系譜をたど っているラングドリッジの『現象学的心理学への招待』はとても参考になると思います。 結論として、現代的な人間科学的な研究に従事するためには、フッサールをしっかり勉強 し、それ以降の系譜も承知しておくというのがいいのではないかと思います。 以上でこの連続エッセイを終わります。長い間、お付き合いありがとうございました。次 の連続エッセイ、やるかどうか、いつから始めるか、現在、思案中です。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
哲学のタネ明かしと対話原理 12
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