第4回 西洋の文化形成の伝統プラトニズムの誕生 (2017年5月) 哲学を勉強しようとする人が、いきなり躓いてしまうのが、ソクラテス、プラトン、アリ ストテレスという「有名人」が登場する古代ギリシア哲学です。神がかっているソクラテ スの奇行と、事情がよく分からないソクラテス裁判のこと、膨大で広範にわたるプラトン とアリストテレスの思想など「躓きどころ満載」です。プラトンについて論じる今回は、 まずはじめに、師ソクラテスと弟子プラトンの時代背景を概観した上で、プラトン(BC427- 347、なんと80歳まで生きた!)の来歴をざっと見ます。そして、最後に、プラトン哲学 のプラトニズムたる所以を論じます。引き続き、主として木田と竹田の本を参考にして論 じることになります。 ソクラテスとプラトンの時代 ギリシアを中心に紀元前5世紀あたりからの歴史をざっと概観します。古代ギリシアは、 ペロポネソス半島とクレタ島を含む現在のギリシアの地域と概ね重なります。紀元前8世 紀頃からこの地域のあちこちに都市国家ポリスが発達し、ギリシア文明が急速に開花しま した。ご存じのように、ポリスは、市民と奴隷で構成されており(実際にはペリオイコイ という在留外国人もかなり多数住んでいた)、市民の生活は奴隷労働によって支えられて いました。そして、紀元前5世紀までに、ホメロスの叙事詩やソフォクレスの悲劇が生ま れ、前回紹介したタレスやピタゴラスやヘラクレイトスなどの(自然)哲学者が登場しま した。ここまでは背景です。 しかし、紀元前500年に、エーゲ海の東にあった大国ペルシアに侵攻にさらされます。ペ ルシア戦争です。ギリシアのポリスは連合してこの敵と戦いました。そのときに、二大ポ リスであるアテナイとスパルタはどちらがその連合の盟主になるかで競い合っていました。 ペルシア戦争は、マラトンの戦いに代表される第一次ペルシア戦争と、サラミスの海戦と プラタイアの戦いの第二次ペルシア戦争を含めて紀元前500年から449年までの約50年 続いたとされています。そして、第二次ペルシア戦争(紀元前480年-479年)の後に、ペ ルシアの脅威を背景としてアテナイを中心にデロス同盟(都市国家同盟)が組織されます。 これにより、アテナイは都市国家群の盟主となり、大いに繁栄することになります。ソク ラテス(紀元前470/469ー399)がアテナイに生まれたのはちょうどそんな時期です。アテ ナイは、交易や商業が栄えるだけでなく、ギリシア全土からさまざまな人々が訪れ、新し い知識が流れ込みました。そういう時代の雰囲気の中で職業的教育者たち、いわゆるソフ ィストたちがアテナイの町で活躍するようになりました。紀元前5世紀の半ばつまり紀元 前450年くらいからです。そして、ソクラテスは時を同じくして、ソフィストたちの辛辣 な批判者として登場します。このあたりが、アテナイの黄金時代です。 アテナイの繁栄は長く続かず、やがてギリシアは、アテナイ・グループとスパルタ・グル ープに分かれて、内戦に入ります。紀元前431年から404年までの30年間にわたるペロ ポネソス戦争です。そして、この戦争に敗北したアテナイは、以降、徐々に衰退の道をた どります。 プラトンの来歴 プラトンが生まれたのは、ペロポネソス戦争の最中の紀元前427年です。名門の貴族の家 出身です。ソクラテスに出会ったのも、同戦争の最中の紀元前407年20歳のときです。そ して、師ソクラテスは、ペロポネソス戦争終結間もない紀元前399年に最後の弁明を残し て刑死します。プラトンの生涯は大きく次の4期に分けることができます。 1.哲学修業時代(紀元前407年〜) 20歳のときにソクラテスと出会って傾倒。ソクラテスの刑死によって政治への道を断念 するまで。 2.世界漫遊旅行と哲学探究時代(紀元前399年〜) ソクラテスの死後、メガラ、キュレネ、エジプト、フェニキアなど地中海の諸国を旅しつ つ、ソクラテス対話篇を書き続ける。 3.アカデミアの時代(紀元前386年〜) 紀元前386年41歳のときに、アテナイに戻って、アカデミアを設立して、その後の約 20年。『饗宴』『パイドン』『国家』などの中期以降の著作。 4.後半生の時代(紀元前367年〜347年死去) シュラクサイ(シチリア島の一都市)のディオニュシオス一世の義弟ディオンとの政治 的、哲学的交流。そして、後のディオニュシオス二世の時代にディオンとディオニュシ オス二世との間の確執に自身も多少とも巻き込まれる(紀元前367年から365年)。『ソ ピステス』『政治家』『書簡集』などの後期の著作。 本エッセイのテーマとの関係では4はあまり重要ではないので、これ以上論じません。こ の時代背景とプラトンの来歴で言いたいのは、プラトンはアテナイが繁栄していた時期に 円熟期のソクラテスに出会って、以降の師との濃密な交流を通して師のすべてを吸収しよ うとしたこと、そして、師の死後には師の思想を熟成させそれを基盤としてプラトン独自 の哲学を発達させたということです。そして、名門というプラトンの出身もプラトンがそ うした仕事を達成するのに有利に働いたと想像されます。 プラトニズムの誕生 ここでは、本エッセイの重要地点となる哲学の絞り込み作業をします。つまり、古代ギリ シアから連綿と続く人類の膨大な営みである哲学のどのような面に関心をおき注目するべ きかを論じます。(逆に言うと、それ以外の面は関心も注目も不要ですよということになり ます。) 本エッセイの関心は、第二言語教育を考えるための基盤と第二言語教育学のための基盤を 得ることです。そのような基盤を得る上で重要なのは、認識論への関心です。認識論とは、 わたしたちはどのように世界を知ることができるのか、またその「知る」という作用が向 けられる方の世界はどのような構造になっているのか、を解明しようとする試みあるいは それについての見解です。ゆえに、認識論は、自然科学であろうと人文学であろうと、「知 る」という科学的営みの基礎となるものです。前回言ったように、ソクラテスとプラトン は「そもそもわたしたちが世界を知るとはどういうことか」という根本的な問いを人類史 上で始めて徹底的に探究した人たちです。では、その問いに対して得たプラトンの見解は どのようなものでしょうか。それが、イデア論です。イデア論については、わたしが説明 するより木田の説明を直接に引用するほうが後の議論のために有用ですので、かなり長く なりますが、木田の説明を引用します。 「イデアという言葉は、idein(見る)という動詞から生まれた言葉ですが、プラトンは『魂 の目』でしか見ることができない、けっして変化することのない物事の真の姿を指します。 たとえば、三角形のイデアがあるとしたら、純粋な二次元の平面に、幅のない直線で描か れた三角形でなくてはならないわけです。それは、普通の目で見ることはできませんが、 魂の目によって直感できるはずだとプラトンは言うのです。いわば、目の前にある物はイ デアの模像にすぎず、人間が感じ取れる世界は、イデア界の似姿に過ぎない。なにが真に 存在する本物かという価値判断の基準をまったく逆転させたところに、プラトンの独創が あるわけです。…いずれにせよ、「魂の目」が人に備わっていて、その目でしか見えない真 の存在の実現を目指して生きるというのが、プラトンにとっては、どうしても必要な考え 方でした。」(木田、『反哲学入門p.73) ここからは木田の推測になりますが、プラトンは、(1) 師のソクラテスを断罪したアテナ イの「なりゆきまかせ」、「なる」にまかせる政治哲学さらにそれを支えている「なる」の 論理を否定したかった。そして、(2) ポリスというものは一つの理想、つまり正義の理念 をめざして「つくられる」べきものだという新しい政治哲学を構想しようとした。しかし、 (3) そうした政治哲学を説得的に主張するには、ポリスに限らずすべてのものが「つくら れたもの」「つくられるべきもの」だとする一般的存在論によって基礎づけられる必要があ った。(4) そうした一般的存在論としてイデア論が構想された、と木田は論じています。 そして、プラトンが生成しなければ消滅もしない「イデア」という超自然的な原理を設定 してから後は、「自然」はそうした原理にのっとって形成される単なる材料・質料であり、 単なる物質つまり単なる質料としての物に過ぎないという考え方が成立した、と木田はプ ラトンの飛躍を評価しています。これが西洋の文化形成の基礎となるプラトニズムです。 次回は、プラトンのアカデミアで学び、プラトンとならぶ哲学者として評価されているア リストテレスについてできるだけ完結に話したいと思います。しかし、注目点はやはりプ ラトニズムです。そして、わたしたちが注目すべきは、そのような物の見方です。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
哲学のタネ明かしと対話原理 4
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