♢2 教育実践② ─ 言語教育実践におけるタッチ&ゴー
「(教師である)『わたしたち』の関心」と「(教師である)『わたし』の関心」
はじめに少し言葉遊びをします。「日本語を教える」ということについてです。
日本語の先生たちがミーティングをして、カリキュラムや教材や基本的な授業方法をめぐって「どのように日本語を教えたらいいか」について議論しているとき、その場合の先生たちの関心は「学生たちが日本語ができるようになること」にあります。そこでは、理論的、実践的、教育方略的などのさまざまな議論が熱心に展開されます。そして、その場合の「日本語を教える」の意味は、「学生たちが日本語ができるようになることを促進し支援すること」となります。このような場合の先生たちの目線を仮に、「(教師である)『わたしたち』の関心」と呼びましょう。
一方で、そのような目線で熱心に議論していた先生たちも、いざ自分が具体的な授業をする段になると、「わたしはわたしの授業では何を教えればいいの?」とたずねてしまいます。そして、その「何」は特定の文型・文法や語彙や漢字などとなります。つまり、そのように「何を?」と言った瞬間に、「(教師である)『わたしたち』の関心」は霧散してしまい、日本語教育は文型・文法などの個々の言語事項に関心を寄せた、それらを教えようとする実践に移行してしまいます。そのような目線を「(教師である)『わたし』の関心」と呼ぶことにしましょう。
日本語教育の企画と教材と実践をめぐる根本的なむずかしさは、最終の具体的な教育実践が「(教師である)『わたし』の関心」に陥らないで、どの先生の授業においても「(教師である)『わたしたち』の関心」を維持して教育が実践されるようにすることにあります。
「(教師である)『わたしたち』の関心」の維持
従来の日本語教育の方法、とりわけ基礎(初級)の教育では、教材ができて提供された段階で、すでに「(教師である)『わたしたち』の関心」は抹消され、「何を教えるのか」という「(教師である)『わたし』の関心」に移行してしまっています。そして、学生のことを真摯に考えている教師は、「『わたしたち』の関心」を抹消された教材を手渡されても、再度「『わたしたち』の関心」に寄り戻して、何とか学生たちが日本語ができるように指導しようと涙ぐましい努力をするというような状況もよく見られます。本当に、涙ぐましいことです。
表現活動の日本語教育は違います。教育企画(♠)と教材①(♣1)で話したように、教育企画や教材の段階まで、「『わたしたち』の関心」を維持しています。そして、引き続いて実際の授業まで「『わたしたち』の関心」を維持することが期待されています。しかし、最終的に実際の授業で「『わたしたち』の関心」が維持されるかどうかは、一人ひとりの先生の教えることに臨む姿勢にかかっています。教育企画や教材までは表現活動中心なのに、実際の授業になると結局は文型・文法などを採り上げて教えたり、活用の練習をしたりしているようでは、『わたしたち』の教育企画も教材も台無しです。
言語教育実践におけるタッチ&ゴー
日本語の習得というのは、文型・文法や語いや漢字などの言語事項を身につける単線的に進行する経路ではありません。そのような単線的な経路ではなく、多元的で、多面的で、輻輳的で、累進的な経験蓄積的な言語摂取の過程です。そして、表現活動の日本語教育の企画では、学生を生きた生気のある言語活動従事の状況につなぎとめておくために、あえて学生をそのような道筋に導き入れています。それはある種類の学生にとってはつらい状況です。学生たちはそこここで、さまざまな「言語的なむずかしさ」に直面するからです。しかし、生気のある言語活動従事の現場で「言語的なむずかしさ」を克服していくことにこそ言語習得の契機があるのです。ですから、教師も学生もそのような状況に耐えなければなりません。そして、教師が言語促進活動を緻密に段階的に計画し実施すれば、その「つらさ」は十分に耐えて克服していける「つらさ」となります。そのあたりは、一つの教師の腕の見せどころです。
そして、教師は、そのようにそこここで「言語的なむずかしさ」に直面する学生にしっかりと寄り添わなければなりません。それは、「言語的なむずかしさ」を課題の言語事項として抽出して教えることではありません。それでは、「先祖返り」、「元の木阿弥」です。そうではなくて、発生したさまざまな「言語的なむずかしさ」を言語活動従事のその現場で手当をしたり修繕したり解決したりするのです。そして、手当・修繕・解決をしたら、また元々の言語活動に戻るのです。それが、言語教育実践におけるタッチ&ゴーということです。
タッチ&ゴーというのは飛行機の曲芸飛行の一つで、着陸するような具合で一旦着地してすぐにまた離陸・上昇するという飛行法です。学生に寄り添う教師は、学生がそこここで遭遇する「言語的なむずかしさ」にさっと対応して、また学生といっしょに言語活動従事の空間に上昇するのです。学生の言語活動従事に寄り添いながらのこのタッチ&ゴーが、言語を有効に摂取させるひじょうに有効な方略です。
言語活動従事を続ける学生に寄り添い続ける教師
学生が遭遇する「言語的なむずかしさ」にはいろいろなものがあります。ある種類の「むずかしさ」(例えば、ちょっとした誤用を訂正したり、学生が思い出せない言葉をそっと教えてあげたり、など)はわりあい誰でもこのタッチ&ゴーができます。言い誤りやちょっとした発音の誤りなどもわりあい簡単にタッチ&ゴーができます。しかし、文法的な「むずかしさ」への対応や、文法に関する疑問などへの対応などは、かなりの経験と熟練が必要でしょう。可能な範囲でタッチ&ゴーの芸をしながら言語活動従事を維持して、学生が言語促進活に従事するのに寄り添い続けることが、実際に教育を実践する教師にまず第一に期待されていることなのです。
教師は、コーディネータに「わたしはわたしの授業で何を教えればいいの?」とたずねてはいけないのです。また、授業を計画する際にも、「何(どの言語事項)をどういう順で教えようか?」というふうに考えてはいけないのです。
教師と学生に与えられるのは、ユニットのテーマと教材です。教材には学生が習得するべき言語事項が織り込まれています。しかし、教えるべき言語事項は指定されていません。教師は、テーマと教材をよく検討して、無理なく運営可能で言語習得を促進し得る言語促進活動を授業として計画し実施しなければなりません。授業で行われる活動の要諦は、学生たちの現在の日本語力でできることと現在の日本語力では少し困難なこと間(はざま)を開示することです。タッチ&ゴーでその間をさまざまな部分で架橋することです。くれぐれも、「言語事項を教える」に「先祖返り」することがありませんように。
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