2018年12月23日日曜日

多文化共生と未来共生

 日本での多文化共生の議論は、たいてい文化本質主義的な議論、つまり、日本(人)vs.外国(人)、日本(人)vs.中国(人)、ベトナム(人)、フィリンピン(人)などの構図になるのですが、馳さんはそれではだめだということを感じていらっしゃるのだと思います。それは、以下の一節に「匂って」います。「わかりやすい言葉でいえば「根無し草」では人間はいけない。親の一人がブラジル人でもう一人は日本人、日本で生まれポルトガル語は話せない。こういう例はけっして少数ではない。「私は何者なのか」という悩みに配慮しなければならない。日本語を学んでもらう目的は相互理解だ。相互理解というのは他者を尊重すること。自分が何者なのか、理解したうえで相手の立場も理解し、尊重する。」(馳さんの記事のより) ご存じかと思いますが、大阪大学では未来共生学という新しい学を提唱しています。未来共生というのは、これまでの多文化共生の議論が抱える文化本質主義を克服するための方略です。そのキモは、「共生すべきなのは人間か文化か」(pp.76-79)という栗本さん(栗本英世、現在大阪大学人間科学研究科長)の議論に集約されています。https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/56236/... 馳さんの先の一節は、この栗本さんの意見あたりを感じていらっしゃるように思います。 未来共生というのは、簡単に言うと、「共生すべきは人間だ!」ということになり、「みんな違って、みんないい!」という考え方です。日本内や日本人内の多様性に目を向けない共生の議論は、とても寒々しいです。

2018年12月20日木曜日

プロフィール

☆皆さんからのブログ記事へのコメント、お待ちしています。

西口光一 NISHIGUCHI, Koichi PhD.
言語文化学博士
大阪大学教授
国際教育交流センター/言語文化研究科
〒565-0871
吹田市山田丘1−1
ICホール

日本語教育学、第二言語教育学、言語哲学、人文学

☆バフチン関係の本
(1)『第二言語教育におけるバフチン的視点−第二言語教育学の基盤として』(2013年、くろしお出版)
(2)『対話原理と第二言語の習得と教育—第二言語教育におけるバフチン的アプローチ』(2015年、くろしお出版)

☆日本語教科書(NJシリーズ)
・『NEJ:A New Approach to Elementary Japanese−テーマで学ぶ基礎日本語』(vol.1&2)くろしお出版
・『NIJ:A New Approach to Intermediate Japanese-テーマで学ぶ中級日本語』(くろしお出版)
・『Perfect Master Kanji N2』(凡人社)とiPhoneアプリ「Perfect Master Kanji N5-N2」(ナウプロ)
※facebook:https://www.facebook.com/profile.php?id=100004549323842
※ブログ:https://koichimikaryo.blogspot.com
※メールマガジン「NJ研究会フォーラム・マンスリー」(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)
※過去の雑誌掲載論文などは、OUKA、
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/browse?type=author&order=ASC&rpp=10&authority=1000050263330 で。

2018年12月15日土曜日

日本語教育の効率性と、人と関わる日本語

 以下の記事は、2018年12月9日に、神吉宇一さんのfacebookのタイムラインに送ったものです。
 例の「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案にパブコメしました。https://koichimikaryo.blogspot.com です。ポイントは、「人として人と関わって暮らすための日本語」です。短くは「人と関わる日本語」。
 神吉さんが、ノート「効率性とことばの教育」で書いているように、ことばの教育はスムーズにやり取りができ,効率的なコミュニケーションができるためだけにあるのではない、と思います。じゃあ、他に何なんだ!、となります。日本語教育(界?)は、この「他に」をこれまで見つけることができていません。「日本語教師【初任】研修案でも、「効率的なコミュニケーション」のための(相変わらずの)ニーズ調査・コースデザインのパラダイムにとどまっています。小委員会の皆さんも、就労外国人を人として扱わなければ!と考えているはずですよね。なのに、これじゃあだめでしょう。
 ぼくの答えは(以前から!)「人と関わる日本語」です。実用的(で用を足す)コミュニケーションと並行して、人と関わる日本語(コミュニケーション)の教育をしないと、主に就労目的で日本に来た外国人を労働者扱いするという方向に「加担」することになります。専門家集団の日本語教育(界)の良識に基づく「知恵」として「人と関わる日本語」を今こそ提案するべきでしょう。
 ただ、ここで一つ厄介なことが起こります。それは、「人と関わる日本語」の必要性を科学的に(調査に基づいて?)明らかにしてください、と言われた場合です。「人と関わる日本語」は遍在していて、そういうコミュニケーションがそこらじゅうどこでも起こっているというのが「デフォルト」です。そして、そういうコミュニケーションが行われていないと、孤立や情報不共有や、疎外や無援というような事態が生じるというものです。そのようなみんながフツーにやっていること、つまり、自分のことをあれこれ話、相手の話も聞いて、交友を広め、仲間や「味方」を作り、自分を支えてくれる、あるいは相互に支え合う基本の人間関係を作ること、そういうことがフツーにできるようにするために必要なのが「人と関わる日本語」です。そして、そういうことができないと、しばしば仕事や仕事を覚えることもうまく行かなくなり、実用的なコミュニケーションもスムーズに行かなくなります。それは広く人文学に従事する日本語教育者であるからこそ、指摘することができる日本語教育についての重要な視点です。その必要性は「科学的に」ではなく、人が人と関わって生きることを営むことの重要側面として人文学的に(あるいは哲学として?)議論されるべきことです。

2018年12月14日金曜日

就労外国人の受入れに関わる日本語教育について

就労外国人の受入れに関わる日本語教育について

 ぼくのこの苛立ちは何なのでしょう? たぶん、「また、日本語教育界は知恵と洞察を発揮しないで仕事をしようとしている!」という苛立ちでしょう。あるいは、さらに非難がましく?言うと、「また、日本語教育界はつまらない日本語教育を再生産しようとしている!」という苛立ちでしょう。
 ここでは就労を主な目的として日本に来て居住する外国出身者のことを就労外国人と呼びます。まず、提案を箇条書きにします。その後に、そうした提案が出てきた背景を書きます。

□ 提 案
1.就労外国人に対する日本語教育プログラムについて
(1) 人として人と関わって暮らすための日本語
 就労のための日本語だけでなく、「人として人と関わって暮らすための日本語」(以降では、「人と関わる日本語」と略す)もプログラムのもう一つの柱として設定する。
(2) プログラム当初はオーラル日本語に集中
 プログラムの当初はオーラル日本語(口頭日本語)の習得に集中する。つまり、日本語学習当初は、オーラル-オーラル(オーディオの利用ももちろん可能)による学習活動を通したオーラル日本語の習得をめざす。日本語学習当初にひらがな、カタカナなどを要求しない。テクストや板書などでは、メモとしてローマ字表記を使用する。
(3) (2)をサポートする教材を制作する。
 就労のための日本語の部分についても、「人と関わる日本語」の部分についても、日本語独自の文字を使用しないローマ字表記による教材を制作する。

2.就労外国人の日本語能力の試験について
(1) 文字に依存しない日本語能力の試験
 「人と関わる日本語」を中心として、文字に依存しない試験を作成する。基本の形は、オーディオを聞いてそれに対応する絵を選ぶという形の試験となる。(解答用紙は適宜に工夫する。) 
(2) 試験あるいは模擬試験のウェブ公開
 (1)のような試験をいつでもどこでも実施できるように、試験あるいは模擬試験をウェブ公開する。

 これくらいの「工夫」をしないといろいろなことが決してうまくいきません。この提案は、以下の2つの提案に集約することができます。

A.「人として人と関わって暮らすための日本語」を就労外国人が身につけるべき日本語としてしっかりと位置づける。
B.日本語学習当初にひらがな等を教えることや、日本語学習でひらがな等を使用することをやめる。※就労外国人が必要な日本語の重要部分はオーラル日本語である。日本語独自の文字の学習と日本語学習でのその使用は、オーラル日本語の習得を大きく阻む。

 Bは、日本語習得の基本的な企画に関わることで、すぐれて日本語教育学的な問題です。この提案については、ご同輩の日本語教育の専門の皆さんがどう考えるか、ご意見をうかがいたいと思います。
 Aは、就労外国人に対する日本語教育に関するいわば倫理的な観点から導き出されることです。以下では、この点について論じます。

□ 「人と関わる日本語」という提案が出てきた背景 
 以下、移民か外国人労働者かという議論からスタートして、このイシュー(問題、検討課題)を日本語教育学のイシューとして正確に位置づけたいと思います。
 政府の見解ではかれらは移民ではないそうです。「移民」という場合は「定住のために」という修飾語がつく(IOM、国際移住機関)ので、確かに移民ではありません。
 ならば、彼らは外国人労働者か? 産業界(とそれに追従する政府)の目線では、かれらは外国人労働者でしょう。だって、この大騒ぎは、人手が足りない! 労働力がほしい! というところから始まっているわけですから。
 良識派の論者は、当初は「きちんと移民として受け入れるべきだ」と主張していましたが、現在はトーンが変わって、「現在の経済水準を維持したければいずれは移民を大量に受け入れざるを得ない状況になるだろうから、そこまでのロードマップを描き出しつつ現在の就労外国人の受入れに関する制度や態勢の整備を行うべき。」(例えば、http://www.canon-igs.org/column/security/20181203_5386.html)つまり、移民なのか就労外国人なのかという二元論的な議論を乗り超えて、就労外国人から移民へとうまくバランスを取りながら徐々に移行していきましょう、ということです。バランス感覚のとれた、もっともな議論だと思います。
 一方で、人権派からは「就労外国人の受入れの制度や態勢の整備にあたっては、かれらの人権を守ることが肝要!」と叫ばれています。しかし、改正入管法の特定技能1では、「滞在期間中は結婚が不可。既婚者は家族同伴禁止」となっていて、問題ありだと思います。また、他にもさまざまな側面で人権保障・人権侵害防止のための制度・態勢整備が必要になると思います。現在、政府のほうで「鋭意検討中」のようです。
 他方、日本語教育界では、以前から「外国人労働者が来るのではなく、『人』が来るのだ!」という声が上がっています。つまり、働くばかりの労働者ではなく、人として人と関わりながら人生を生きる「人」が来る、ということです。この観点は、先に触れたような、人権的な観点ではありません。いわば、倫理的な観点です。そして、人文系の一分野である日本語教育学からそうした観点が提起されるのはひじょういふさわしいことだと思います。そうした観点の提示そのものがひじょうに重要なことだと思います。そして、その上で、次に日本語教育学として重要なことは、就労外国人のための日本語教育のプログラムにそのような観点に基づく教育内容を設定ことです。しかし、…。
 文化庁で「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】(活動分野:就労者,難民等,海外)が作成され、現在パブリックコメントが求められています。(http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/ikenboshu/nihongoiken_kyoshi/index.html
) その中の就労者や難民等の部分に上のような「人として人と関わりながら…」というような観点がまったく含まれていません。ですから、就労者に対する日本語教育の内容は、就労のための日本語だけになってしまいます。日本語教育学の関係者は、そんなことでいいの? 
 そして、「そんなことでいいの?」という疑問が多々ありますので、それをきっかけにあれこれ考えて、上記のような提案が出てきました。

2018年12月9日日曜日

「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】 (活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案に関する意見

「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】
(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案に関する意見 
【文化庁HP:新着情報より】
http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/ikenboshu/nihongoiken_kyoshi/index.html
に意見を送りました。

文化庁国語課
日本語教育担当 御中

以下のように標記について意見を申し上げます。参考にしていただければ幸いです。

西口

○件名: 日本語教師(初任)研修に対する意見
○氏名: 西口光一
○性別・年齢: 男・62
○職業: 大学教員
○住所: 大阪府箕面市森町中1−10−14
○意見

「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点の追加

0.はじめに
 分科会でのご検討並びに報告書(案)の作成に感謝します。
 先に「在り方について」(報告書)で提案された日本語教員の【養成】にかかる教育内容については、提案に基づいて各大学や養成機関でそれぞれの持ち味を生かしたカリキュラムが企画され実施されることと思います。さて、本文書では、今回の日本語教師初任研修(就労者、難民等、海外)について意見を述べたいと思います。

1.就労者と難民等における「生活者としての外国人」という観点の欠落
 まずは、就労者と難民等について、今回の報告の資料の1−2と2−2「知識」の【1】と【2】及び「技能」の前半部に関わることです。端的に言うと、「生活者」の観点が欠落しています。「在り方について」の表2の「【初任】(生活者としての外国人)の内容は並行して実施するということでしょうか。

2.人として人と関わって暮らすための日本語という観点の欠落
 また、今回の報告の就労者と難民等や「在り方について」(報告書)の生活者としての外国人のいずれにおいても、人として人と関わって暮らすための日本語という観点が欠落しています(注1)。
 わたしたちはみんなそれぞれ一人の人として人生を生きています。職場や地域の一メンバーとしてそこでのさまざまな活動に参画してメンバーとしての「役割を果たす」ことはそれはそれで重要なことです。しかし、わたしたちの人生には、人として人と関わって暮らすという面も重要な側面としてあります。わたしたちは人と関わってあれこれと自分の話をします。家族の話をする、好きな物や好きなこと(スポーツ、音楽、映画・ドラマなど)の話をする、毎日の生活/きつい生活について話す、週末の過ごし方について話す、あれがしたいこれがしたいと話す、自分の来し方や将来について話す、特別な技能や能力について話す、子どもの時の話をする、自分の国や町のことを話す、などです。そして、もちろん相手からのそういう話も聞きます。わたしたちはそのようにして、他の人たちと人生をシェアしつつ相互にラポールを育みながら人生を生きています。外国出身の就労者や難民等は、就労者や難民等であるわけではありません。かれら一人ひとりは一人の人間です。就労者や難民等というのはかれらが経験する/経験した一つの人生であり、そういう意味でかれら一人ひとりの背景でしかありません。かれらが一人の人として生きていくためには、自身のことや自身のあれこれの背景を語る言葉を持たなければならないし、また、現在の自身の生活や暮らしを自分なりに話す言葉や自身の将来を思い描きそれを語る言葉も持たなければなりません。(難民等の場合のように「厳しい過去」がある場合は、過去を語ることはきついことであるとは思われますが、それでも一定の「折り合い」つけて将来に向かって人生の展望を描くほかありません。)

3.生活活動の実用的な側面と非実用的な側面
 わたしたちの生活活動には、実用の面と非実用の面があります。就労者や難民等のための日本語教育やこれまでの生活者のための日本語教育の議論では、実用の面ばかりが注目されきたように思います。上で述べた「人として人と関わって暮らすための日本語」は非実用の面です。しかし、そういう非実用の部分こそが人が一人の人間として生きるために欠かすことのできない部分ではないでしょうか。また、そういう非実用の部分があってこそ、基本としての人と人との関係が構築され、人と人との信頼できる関係が醸成されます。そして、そうした関係やそこで育まれたラポールなどが実用の面の土台となったり、実用の面をいい方向に導く「触媒」となったりするものと見られます。
 実用の面ばかりに注目することは、パウロ・フレーレが批判した機能的識字の視点を適用することとなります。つまり、体制に順応して、与えられた立場において役割を適正に果たすという視点です。フレーレが説いたように、そうした機能的識字の視点にとどまらないで、一人の人として「解放」される方向を見据えた日本語教育の構想が必要であろうと思われます。そのようなより広い視点から就労者や難民等や生活者の日本語教育を構想するというのは、ニーズに基づいて企画される言語教育ではなく、人が流動する現代社会についての見方や見識に基づいて未来志向的に企画される言語教育となります。

4.人格尊重の日本語教育
 そのような面に目を向けた日本語教育を企画し実践してこそ、外国出身のそれぞれの人を一人の人として受け入れるという人格尊重の日本語教育になるのだと思います。実用の面での言語コミュニケーションを実用的コミュニケーションと呼ぶとすれば、非実用の面は社交コミュニケーションと呼ぶことができるでしょう。つまり、ここで強調しているのは、社交コミュニケーションのための日本語ということになります。
 「人として人と関わって暮らす」という面への着目は、長い目で見て人権尊重に繋がると思われます。また、しばしば言われる多文化共生社会を築くという方向にも合致することだと思われます。

5.人と人が出会い・交流する場としての日本語教室
 生活活動の実用の面にばかり注目することの「弱点」がもう一つあります。それは、日本語教室という場の根本の構図に関わることです。
 生活活動の実用の面はたいてい教室の外にあります。ですから、実用的なコミュニケーションというのは教室の外の「現実」で行われる活動に奉仕するコミュニケーションとなります。実用的コミュニケーションが生気を得るのは教室の外です。そのような事情ですので、生活活動の実用の面を日本語習得の課題として設定すると、教室の構図は、教室の外の「現実」で行われるコミュニケーションの形骸をただ覚えるだけの学習と教育になってしまいます。教室は、畢竟、「役に立つ日本語」を教えてもらうだけの場になってしまいます。そこには、教室に集まった学習者と学習者、学習者と教師や支援者との出会いや交流はありません。
 教室というのは、週に1回あるいは数回、同じ場所に同じ顔ぶれの人たち(学習者、教師、支援者など)が寄り合う機会です。教室という時空間のデフォルトの構図はこのように人と人が出会う場であり、人と人の交流が自然と進む場です。実用の面ばかりに注目した日本語の学習と教育は、そのような貴重な出会いと交流のチャンスを台無しにしてしまいます。「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点からの日本語の学習と教育がそこに実現されれば、教室という時空間は生気を取り戻して、人と人の出会いと交流の活動が促進され、それに伴う「支援された言語パフォーマンス」(assisted language performance)の形で社交的なコミュニケーションの日本語を習得することができます。

6.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点
 どのような日本語教育の構想であれ、そこには緻密な企画と計画が必要です。「人として人と関わって暮らすための日本語」教育を系統的にあるいは段階的に実践するためには緻密な企画と計画が必要です。それがどのような内容でどのような段階を踏んで行うのが有効で有益であるかは明瞭にはわかっていません。しかし、そのような教育の可能性を追究することは必要でしょう。(注2)

 以上のような論点から、就労者や難民等の【初任】の資質・能力の中にぜひとも「人として人と関わって暮らすための日本語」(短く、人と関わる日本語の教育)の観点を入れていただくのが適当であろうと考えます。

注1.生活者としての外国人の観点に、「人として人と関わって暮らすための日本語」の観点が含まれているかどうかは、実際には、あいまいです。「在り方について」の表2の中の「教育的観点」や「「学習者が地域社会とつながり、ネットワークを構築する力を育てる教育実践」というような文言ににじみ出ているとも言えます。
注2.「人と関わる言語教育」については、Hall(2001)で「関わり(interaction)そのものを目的とする言語活動」として言及されている。※Hall, J. K. (2001) Methods for Teaching Foreign Languages: Creating a Community of Learners in the Classroom. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.
捕捉.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点は、海外の【初任】においても重要であると思われる。

2018年12月8日土曜日

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑫

♢3 教育実践③ ─ 言葉遣いを盗み取って領有することと、ことば経験の充填

 ここでは、各ユニットでの学習と指導の話と、各授業やユニットを越えた日本語習得支援の話をします。

言葉遣いの盗み取りと領有
 教材③(♣3)で、表現活動の日本語教育では、文型・文法や語いなどは学習事項として採り上げて、取り立てて指導することは推奨されていないと言いました。しかし、実際のところを言うと、学生は多かれ少なかれ語や表現に注目してそれを身につけようとしますし、語や表現への一定の注目は言語習得のために必要でしょう。では、それをどのようにするのが言語習得のために有効でしょうか。それが、言葉遣いを盗み取るという方法です。
 言葉遣いを盗み取るというのは、日本語の表現法をただ抽象的で一般的なものとして受け取ってそれを覚えることではありません。発話をした当該の話し手における現実といっしょにその現実を示した言葉遣いを盗み取って、自身の事情と照らし合わせて流用するという形で言葉遣いを習得することです。「日本語の表現法を抽象的で一般的なものとして受け取る」ということは、ほとんど「その表現法を対応する訳とともに受け取る」ということと同義です。抽象的で一般的に受け取られた表現法は訳にしか止まりどころがありません。しかし、具体的な話し手を「感じ」つつ、その話し手における現実世界というものを構成しながら発話やディスコースを受け取る場合はどうでしょう。例えば、NEJのユニット3のB1の好きな食べ物について話しているリさんのナラティブは次のように終わります。

 … わたしは、あまいものも、好きです。シュークリームが大好きです。チョコレートも、好きです。クッキーも好きです。でも、あまりたくさん食べません。

 上のディスコースを勉強しそれに一定程度習熟した学生は、このディスコースによってことば経験をします。すなわち、ここまでのナラティブで知ったリさんは「あまいものも好き」という事実を知り、「シュークリーム」と「チョコレート」と「クッキー」という語をリさんと結びつけてリさんの好物として知り、「でも、あまりたくさん食べません」を、甘い物が好きだけど糖分の摂り過ぎを気にしているリさんの切実な声として受け取ります。そして、それらを示したリさんの具体的な発話をこれらの現実と共に聞き取ります。また、自身もあまいものが好きな学生はリさんの言葉遣いを共感をもって受容します。さらに、リさんと同じように甘い物が好きだが糖分控え目を心がけている学生は、リさんの最後の言葉に強く「仲間意識」を感じてこの言葉遣いを自身にも当てはまる言葉遣いとして受容し摂取します。
 具体的な話し手を「感じ」つつ、その話し手における現実世界というものを構成しながら発話やディスコースを受け取ると、ディスコースと学生とのこのような立体的な対話的関係が生じて、そこで行使されている語や言葉遣いを生きた生気のある言葉として受け取ることができます。そして、そのディスコースに自身の意味や価値を重ね合わせてそこにある言葉遣いを受容し摂取するということが行われる可能性が拓かれます。抽象的で一般的に提示され、そのようにしか受け取ることができない言葉では、言葉はこのようには経験されません。(話し手の事情と学生の事情が大きく異なる場合も、それとして違う形で現在の発話と学生との間で対話が生じて生きた言葉の受容が行われます。)

NEJのナラティブはそのテーマを話すためのテンプレート
 NEJとNIJでは、ディスコースを上のように経験し、その中の言葉遣いを盗み取ることが容易にできるように、細心の注意を払ってテクストが作られています。特に基礎段階のNEJのナラティブでは、各テクストが当該のテーマについて話すためのいわばテンプレートのようになっています。教師が学生に「ナラティブをモデルにすれば自分の話ができるようになる!」と助言し、学生がそのことを理解すれば、後は学生は自ずと積極的に言葉遣いの盗み取るようになります。
 教育企画③(♠3)では、言語促進活動を強調しましたが、各ユニットの学習では、このように言葉遣いを盗み取って自分のものにすること、つまり言葉遣いを領有することが推奨されます。中級段階のNIJのユニットの学習においても、盗み取って領有するという同じ原理で語や言葉遣いを習得することが期待されています。

ことば経験の充填
 教育企画③(♠3)では、言語促進活動が豊富に行われることを勧めました。そして、その中でも特に受容摂取言語促進活動の重要性を強調しました。一方、ここでは、NEJやNIJのナラティブや会話やレクチャーのディスコースをその話し手の生きた言葉として経験して、そこにある語や言葉遣いを盗み取って自分のものにするという日本語の学び方について説明しました。この2つは、広く言うと、いずれもことば経験をして、そこにある語や言葉遣いをしっかりと自身に充填するということです。
 教育企画として特定のテーマの言語活動をうまく設定して、各ユニットではユニットのテーマの活動に従事できるようにしっかりと日本語を充填すること。その充填ということが十分に行われればユニットの終わり頃には学生はそのテーマの言語活動にかなりの程度従事できるようになります。あとは、産出摂取言語促進活動(♠2)で語や言葉遣いに最終的に習熟すればいいのです。

ユニットのテーマ横断的な言語習得の促進
 以上のように教育企画を理解し、教材を把握し、教育実践の方法を知って、具体的な教育実践に臨めば、十分な教育成果を生み出す授業実践ができると思います。
 最後になりますが、特に基礎段階の授業の方法について、もう一つの注意です。NEJに基づく基礎段階の教育では、各ユニットでユニットのテーマについて学生が言語活動に従事できるようになることが重要です。しかし、ユニットの教育目標達成ばかりに集中していると、ユニットの各テーマについては話せるが、広く柔軟にさまざまに話題が移行する会話に従事することができないというような結果になってしまうことがあります。そのようにならないためには、ユニットのテーマ横断的に話を聞いたり、会話をしたりする機会が必要です。つまり、ユニットのテーマ横断的に、受容摂取言語促進活動の機会や、産出摂取言語促進活動の機会や、それらの複合の機会を提供することです。そうしたテーマ横断的で柔軟な言語習得の促進もしながら、各ユニットの教育目標も順次に達成していくことができれば、表現活動の日本語教育の教育実践としては完璧です。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑪

♢2 教育実践② ─ 言語教育実践におけるタッチ&ゴー

「(教師である)『わたしたち』の関心」と「(教師である)『わたし』の関心」
 はじめに少し言葉遊びをします。「日本語を教える」ということについてです。
 日本語の先生たちがミーティングをして、カリキュラムや教材や基本的な授業方法をめぐって「どのように日本語を教えたらいいか」について議論しているとき、その場合の先生たちの関心は「学生たちが日本語ができるようになること」にあります。そこでは、理論的、実践的、教育方略的などのさまざまな議論が熱心に展開されます。そして、その場合の「日本語を教える」の意味は、「学生たちが日本語ができるようになることを促進し支援すること」となります。このような場合の先生たちの目線を仮に、「(教師である)『わたしたち』の関心」と呼びましょう。
 一方で、そのような目線で熱心に議論していた先生たちも、いざ自分が具体的な授業をする段になると、「わたしはわたしの授業では何を教えればいいの?」とたずねてしまいます。そして、その「何」は特定の文型・文法や語彙や漢字などとなります。つまり、そのように「何を?」と言った瞬間に、「(教師である)『わたしたち』の関心」は霧散してしまい、日本語教育は文型・文法などの個々の言語事項に関心を寄せた、それらを教えようとする実践に移行してしまいます。そのような目線を「(教師である)『わたし』の関心」と呼ぶことにしましょう。
 日本語教育の企画と教材と実践をめぐる根本的なむずかしさは、最終の具体的な教育実践が「(教師である)『わたし』の関心」に陥らないで、どの先生の授業においても「(教師である)『わたしたち』の関心」を維持して教育が実践されるようにすることにあります。

「(教師である)『わたしたち』の関心」の維持
 従来の日本語教育の方法、とりわけ基礎(初級)の教育では、教材ができて提供された段階で、すでに「(教師である)『わたしたち』の関心」は抹消され、「何を教えるのか」という「(教師である)『わたし』の関心」に移行してしまっています。そして、学生のことを真摯に考えている教師は、「『わたしたち』の関心」を抹消された教材を手渡されても、再度「『わたしたち』の関心」に寄り戻して、何とか学生たちが日本語ができるように指導しようと涙ぐましい努力をするというような状況もよく見られます。本当に、涙ぐましいことです。
 表現活動の日本語教育は違います。教育企画(♠)と教材①(♣1)で話したように、教育企画や教材の段階まで、「『わたしたち』の関心」を維持しています。そして、引き続いて実際の授業まで「『わたしたち』の関心」を維持することが期待されています。しかし、最終的に実際の授業で「『わたしたち』の関心」が維持されるかどうかは、一人ひとりの先生の教えることに臨む姿勢にかかっています。教育企画や教材までは表現活動中心なのに、実際の授業になると結局は文型・文法などを採り上げて教えたり、活用の練習をしたりしているようでは、『わたしたち』の教育企画も教材も台無しです。

言語教育実践におけるタッチ&ゴー
 日本語の習得というのは、文型・文法や語いや漢字などの言語事項を身につける単線的に進行する経路ではありません。そのような単線的な経路ではなく、多元的で、多面的で、輻輳的で、累進的な経験蓄積的な言語摂取の過程です。そして、表現活動の日本語教育の企画では、学生を生きた生気のある言語活動従事の状況につなぎとめておくために、あえて学生をそのような道筋に導き入れています。それはある種類の学生にとってはつらい状況です。学生たちはそこここで、さまざまな「言語的なむずかしさ」に直面するからです。しかし、生気のある言語活動従事の現場で「言語的なむずかしさ」を克服していくことにこそ言語習得の契機があるのです。ですから、教師も学生もそのような状況に耐えなければなりません。そして、教師が言語促進活動を緻密に段階的に計画し実施すれば、その「つらさ」は十分に耐えて克服していける「つらさ」となります。そのあたりは、一つの教師の腕の見せどころです。
 そして、教師は、そのようにそこここで「言語的なむずかしさ」に直面する学生にしっかりと寄り添わなければなりません。それは、「言語的なむずかしさ」を課題の言語事項として抽出して教えることではありません。それでは、「先祖返り」、「元の木阿弥」です。そうではなくて、発生したさまざまな「言語的なむずかしさ」を言語活動従事のその現場で手当をしたり修繕したり解決したりするのです。そして、手当・修繕・解決をしたら、また元々の言語活動に戻るのです。それが、言語教育実践におけるタッチ&ゴーということです。
 タッチ&ゴーというのは飛行機の曲芸飛行の一つで、着陸するような具合で一旦着地してすぐにまた離陸・上昇するという飛行法です。学生に寄り添う教師は、学生がそこここで遭遇する「言語的なむずかしさ」にさっと対応して、また学生といっしょに言語活動従事の空間に上昇するのです。学生の言語活動従事に寄り添いながらのこのタッチ&ゴーが、言語を有効に摂取させるひじょうに有効な方略です。

言語活動従事を続ける学生に寄り添い続ける教師
 学生が遭遇する「言語的なむずかしさ」にはいろいろなものがあります。ある種類の「むずかしさ」(例えば、ちょっとした誤用を訂正したり、学生が思い出せない言葉をそっと教えてあげたり、など)はわりあい誰でもこのタッチ&ゴーができます。言い誤りやちょっとした発音の誤りなどもわりあい簡単にタッチ&ゴーができます。しかし、文法的な「むずかしさ」への対応や、文法に関する疑問などへの対応などは、かなりの経験と熟練が必要でしょう。可能な範囲でタッチ&ゴーの芸をしながら言語活動従事を維持して、学生が言語促進活に従事するのに寄り添い続けることが、実際に教育を実践する教師にまず第一に期待されていることなのです。
 教師は、コーディネータに「わたしはわたしの授業で何を教えればいいの?」とたずねてはいけないのです。また、授業を計画する際にも、「何(どの言語事項)をどういう順で教えようか?」というふうに考えてはいけないのです。
 教師と学生に与えられるのは、ユニットのテーマと教材です。教材には学生が習得するべき言語事項が織り込まれています。しかし、教えるべき言語事項は指定されていません。教師は、テーマと教材をよく検討して、無理なく運営可能で言語習得を促進し得る言語促進活動を授業として計画し実施しなければなりません。授業で行われる活動の要諦は、学生たちの現在の日本語力でできることと現在の日本語力では少し困難なこと間(はざま)を開示することです。タッチ&ゴーでその間をさまざまな部分で架橋することです。くれぐれも、「言語事項を教える」に「先祖返り」することがありませんように。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑩

♢1 教育実践① ─ 主体的に学ぶ学生と学生を強力に支援する教師、そして日本語学習者のコミュニティ

学習者主体の学びを実現する自己表現の日本語教育
 日本語を習得するというのは、第一義的には学生に課された巨大なチャレンジ(挑戦)です。そして、教育企画というのは本来、この巨大なチャレンジを、取り扱い可能な小チャレンジの系列に仕立て直すことです。そして、教材というのは本来、そのように取り扱い可能に設定された小チャレンジに立ち向かう学生に何をどのように学ぶのがいいかを知らせるべきものです。そして、授業や教師は本来、そのように教材に導かれ援助を受けながらチャレンジに立ち向かう学生を支援するべきものです。ここに表明された基本的な思想は、(1)第二言語の習得においては学生が主体的に学ぶべきであり、(2)教育企画と教材と授業・教師は主体的に学ぶ学生を導き援助し支援するべきものである、という学習者主体の学びの思想です。自己表現の日本語教育はこのような思想の下に構想されています。

獅子奮迅に授業をする教師、やる気のない学生
 従来の教科書や教育企画には、そのような思想がありません。従来の方法では、(1)教科書は学生が習得し教師が教えるべき言語事項を会話や練習の形で提示するもの、(2)教師は教科書で指定された言語事項を独自に研究して教科書を適宜に活用して授業を計画し実施する者、というような位置づけで、それはあまりにも即物的で単純直接で、練られた企画になっていません。そして、学習者主体の学びというような観点もなく、いかなる第二言語習得の原理もありません。学生は日本語習得のためのロードマップを与えられることもなく、教師が計画して実施する授業にただただ従って勉強する者となってしまいます。その一方で、教師は、教科書で指定された文型・文法等を習得させる責任を全面的に押しつけられ、その責任をなんとか全うしようとして、文型・文法等の教え方を懸命に研究し、熱心に授業準備をして、熱血的に授業を実施します。そして、学生にも文型・文法等を中心とした学習に奮励することを要求します。そして、そのような状況の結末が、獅子奮迅に授業をする教師と、がんばって勉強しても結果が出ないことに落胆してモチベーションをなくして熱心に勉強しなくなった学生という構図です。
 このような構図ができあがってしまうのは、学習者が自身の進むべき道を示されていないで、主体的に学ぶことができる状況が実現されていないからです。それができていない状況では、本来進むべき道を示すはずの教育企画や教材に代わって、教師が教育全般の主導権を握るほかなくなります。その結果、そのように全面的に責任と権限を委譲された教師は、獅子奮迅になるわけです。そして、そういう教師の姿を見て学生は、「気の毒に…」と思いながらも、ますますしらけていきます。これが、学習者の主体的な学びを実現しない教育の末路です。

日本語習得という仕事の主役を教師から学生に
 表現活動の日本語教育の構想は、日本語習得という仕事の主役を教師から学生に移行させるという考えから始まっています。この部分を転換しないと、日本語教育にある根本的な構造的課題を克服することはできません。そして、そうした構想の具体化が、「はじめに」や教育企画(♠)や教材(♣)で説明したような教育企画と教材です。表現活動の日本語教育では、そうした仕掛けによって、学生が歩んでいくべき道をはっきりと示し、語や言葉遣いの参照先となる補助(ルビや注釈)付きの「透明なディスコース」(♣2)となっているリソースを提供することで、学習者が主体的に日本語を学習し習得を進めていくことができる環境と条件を整えています。そして、そのように主役の座を学生に譲ってこそ、教師は主体的に学ぶ学生を強力に支援するという本来的な立場を確保することができて、安心してその役割を果たすことができるのです。

 獅子奮迅になって教えるのはやめましょう。獅子奮迅になるべきは、先生ではなく学生のほうです。日本語を身につけたいという気持ちがある学生なら、「歩んでいけば『登っていける』日本語習得の経路」が示され、「なるほど、これなら無理なく『登っていける』」と知れば、がんばるでしょう。先生は、そんな学生たちをやさしく励まし、しっかり支援すればいいのです。それが表現活動の日本語教育の流儀です。

日本語学習者のコミュニティ
 授業を実践する教師のもう一つの重要な役割は、学習者たちを各々で孤立させないで、「みんなで協働して励まし合い支え合い協力しながらいっしょに日本語がじょうずになろう」という集団へと形成ことです。学生同士で励まし合うこと、学生同士で支え合い協力することは、クラスというような集団で学ぶ際の大きなメリットです。そのメリットが働いてこそクラスでいっしょに学ぶ意味も意義があると言ってもいいでしょう。クラス作り、つまり学生たちを日本語学習者のコミュニティとして形成することが教育を成功に導く重要な要因です。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑨

♣3 教材③ ─ 文型・文法の扱い方

従来の日本語教育での文型・文法への偏重
 従来の日本語教育では、文型・文法は、日本語の学習と教育で最も重要な部分として扱われてきました。現在の基礎(初級)教科書を文型・文法を中心として編まれているし、中級の教科書でも各ユニットで特定の文型・文法を採り上げて教えるようになっています。そして、基礎段階や中級段階などの日本語教育を担当している先生たちが集う教員室では、学生たちの未習得・未習熟の文型・文法に関する話で持ち切りです。「まだ、テ-形ができない」とか、「ナイ-形の練習をしてみたら、ほとんどの学生はできなかった」とか、「『あげる』『もらう』『くれる』が、うまくできない」とか。学生の文型・文法の課題を見つけて、それについてあれこれ論じるのが、日本語の先生である証しででもあるかのようにみなさん滔々と話しています。そして、たいていの場合はぼやくばかりで何の対応もしないのですが、仮に対応をする場合でも、やはりその問題の文型・文法を採り上げてまた指導するだけです。そして、多くの場合、その課題は引き続き残ります。
 さて、同じ言語事項の領域として、文型・文法の領域と語いの領域の両方を考えてみましょう。そして、問いは「文型・文法と語いとどちらが重要でしょう?」という問いです。ほとんどの先生は、この問いには、少なくとも第一声としては、「どちらも重要!」と答えるでしょう。そして、どちらも重要であるなら、上の教員室での先生たちの議論は片寄っていることになります。一部の自然習得者などの例外を除いて、文型・文法の課題がある学生はたいてい全体としての日本語力に、つまり文型・文法だけでなく語いにも課題があるからです。そうなると、結局、先生たちが実施し、実践している日本語教育のトータルな教育力に根本の課題があるということになります。

表現活動の日本語教育における文型・文法の扱い方
 先生たちが実践する個々の授業が問題なのではありません。むしろ、根本の教育企画や教材のほうが、長い間何の根本的な革新もなく放置された課題なのです。そして、そのような大きな課題を克服して、日本語教育実践を再生しようとするのが表現活動の日本語教育の提案なのです。
 教育企画①(♠1)で論じたように、表現活動の日本語教育の企画には、文型・文法や語いの教育が組み込まれています。表現活動の運営に直接に奉仕するのは言葉遣いですが、言葉遣いでは文型・文法や語彙などの言語事項が動員されています。つまり、表現活動を行うためには、当然相応の言語事項が必要になるということです。
 教材として言うと、表現活動の日本語教育の教材のテクストに、習得が期待される文型・文法や語いがすべて織り込まれています。そして、実際の授業においては、教育企画②で論じたように、学習者が受容経験摂取的な言語促進的言語活動や産出補充摂取的な言語促進的言語活動に従事するように指導が行われることが期待されています。つまり、教育企画③で論じたように、学習者がテーマを軸とした各種の言語促進的言語活動に豊富に従事することが日本語の習得を最も有効に促進すると考えられています。
 NEJやNIJでは、文型・文法の練習のための素材は提供されていません。基本的に、文型・文法は、学習事項として採り上げて、取り立てて練習することは推奨されていません。むしろ、言語促進活動に段階的で豊富に従事させることが期待されています。

日本語指導におけるタッチ&ゴー
 ただし、文型・文法や語いなどで学生において「わからない」「うまくできない」というような課題が浮上した場合に、それを放置するわけではありません。しかし、課題があるからといって、それを採り上げて指導するということはやはりしません。文型・文法や語いなどの言語事項の課題に関しては、基本的には、タッチ&ゴーという形で対応します。タッチ&ゴーについては、教育実践②(♢2)で論じています。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑧

♣2 教材② ─ 「透明なディスコース」とルビや語釈、及び文法説明

テクストの難易
 NEJでもNIJでも、新しいユニットでは、学生にとって初めての語や言葉遣いが出てきます。また、NEJのナラティブやNIJのレクチャーでは比較的長い文が現れ、ディスコース全体もかなり長いものとなります。ですので、それらのテクストは一見むずかしいように見えます。しかし、実際にはそれらは見かけほどはむずかしくはないと思われます。と言うよりむしろ、むずかしくないように作成しています。

「透明なディスコース」
 NEJやNIJでは、本文のテクストの作成において、「透明なディスコース」になるように心がけました。「透明なディスコース」というのは、語や言葉遣いがわかりさえすれば、全体の意味を捕捉できるディスコースです。
 本文のテクストの作成にあたっては、もちろん新出の語や言葉遣いの量を適量に調整し、新出あるいは未習熟の文型・文法などの数も適量に調整したわけですが、その他に、テクストが「透明なディスコース」になるように以下のような工夫をしました。
 (1) 全体を一つのまとまりのあるディスコースとして作成すること
 (2) 論理を素直に自然に展開すること
 (3) 結束性をしっかり維持すること
 (4) 論理を混乱させるような余分な要素は入れないこと
 このような工夫をすることにより、NEJやNIJのテクストは充実した内容がありまがら、ディスコース的にはかなり「透明」になっていると思います。
 「透明なディスコース」にこだわるのは、教材の本文というのは基本として日本語を育成するためのリソースであって、そのような本文が「わからない」というのでは、日本語を育成するためのリソースにならないからです。NEJやNIJのテクストは、聴解教材や読解教材ではありません。日本語を理解し経験し摂取してもらって、日本語を育成するためのリソースです。

ルビと語釈、及び文法説明
 漢字仮名交じりでテクストを提示した場合に、学生にとってハードルになるのが漢字の読み方です。NEJとNIJでは、そのようなハードルを取り除くために必要な範囲のルビを付けています。ただし、ルビを隠して読めるように、いずれにおいても下ルビにしています。また、ディスコースの透明性を確保するために、むずかしいと思われる語や言葉遣いや文法については媒介語で語釈を付けています。このような配慮を施すことで、NEJやNIJのテクストは一層「透明」になっていると思います。
 一方で、見知らぬ言語の文法というのはしばしばわかりにくく、語釈だけでは理解できない場合があります。そのようなケースにNEJでもNIJでも一定の対応をしています。NEJでは、説明が必要と思われる文法について、各ユニットでGist of Japanese Grammarという欄を設けて、媒介語で解説をしています。また、NIJでは、Grammar Notesで、受身、使役、〜ていく、〜てくる、意志形の表現というどのようなディスコースでも出現しがちな5つの文法について解説し、さらに、3ユニット毎にGrammar Summaryを設けて3つのユニットで頻出した文法を整理しています。
 NIJは現在のところ、英語版しかありませんが、NEJは、英語版と中国語版とベトナム語版があります。

その他の付属教材
 NEJとNIJには、ユニットの学習を一定程度進めた上で、文型・文法の定着を図る教材や、漢字学習のための教材や、各ユニットの復習のワークシートなどが付属しています。また、音声素材は、くろしお出版のウェブサイトで公開されています。NEJもNIJも、「この1冊さえ購入すれば全部揃っている」というオール・イン・ワンの教材です。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑦

♣1 教材① ─ ストーリー性とことばの作者性

日本語の知識を習得しても日本語はできない
 これまでの日本語教育では、主として日本語の文を正しく作れるようになることが日本語教育、特に基礎日本語教育の目標とされてきました。ですから、教科書でも文の作り方に関わる文型・文法が課の目標とされ、教科書には、本文としてその文型・文法が例示された会話が提示され、それに続いて文の作り方の習得をめざした練習が用意されていました。そうした立場での日本語教育の企画と教材と実践では、日本語は実際の言語の行使として学ばれることは決してなく、常に学習の対象として一般化され、そのように抽象化された日本語、つまり日本語の言語事項の知識が習得されるだけでした。そして、そのような知識は日本語で言語活動に従事することを支える知識ではありません

教材で開示される世界
 NEJやNIJの本文では、実際に行使された日本語の例を提示しています。NEJとNIJを通して舞台は「大京大学」です。
 「大京大学」は、東京の郊外にある総合大学です。「リさん」「あきおさん」「中田くん」はいずれも「大京大学」の学生で、「西山先生」は大京大学の先生です。「リさん」はマレーシアから来た学生で、4月に工学部に入学したばかりです。リさんは中国系のマレーシア人です。「あきおさん」は、工学部の4年生で、大京大学の「山の会」のリーダーです。「中田くん」は外国語学部2年生で、マレーシア語が専門です。「西山先生」は国際センターの先生で、同センターで日本語を教え、留学生のための科目である国際交流科目の「現代社会を生きる」も担当しています。
 NEJのナラティブは、「リさん」「あきおさん」「西山先生」がそれぞれ各ユニットで自分のことについてあれこれ話すという設定になっています。学生たちは、ユニットのテーマでのかれらの話を聞いて知ることで、そのテーマについての話し方を知って、それを実際の言葉遣いの参照先(モデル)にして、テーマについて自分の話をします。NEJを活用した自己表現の日本語教育を通して、学生たちは、リさん、あきおさん、西山先生についてさまざまなことを知るとともに、自分のことについていろいろ話せるようになります。
 他方、NIJの各ユニットは、会話とレクチャーの2つのパートでできています。NIJの会話は、リさんと中田くんとの会話です。リさんと中田くんは、国際センターの新入留学生歓迎パーティで会いました。中田くんは夏休みにマレーシアに行く計画をしています。それで、マレーシアについていろいろ話を聞きたいので、リさんを紅茶の店に誘います。(リさんはコーヒーより紅茶のほうが好き!) NIJの会話パートは、人物紹介を兼ねたリさんと中田くんの紹介(それぞれのモノローグ)から始まります。そして、ユニット2は新入留学生歓迎パーティでのリさんと中田くんの出会いの会話で、ユニット3からユニット11まではすべて紅茶の店での二人の会話になっています。最後のユニット12は、リさんのはじめての山登りの経験の話(リさんのモノローグ)になっています。
 最後に、NIJのレクチャーは、「現代社会で生きる」というタイトルでの西山先生の12回の連続講義になっています。この講義は留学生に向けた講義で、人間の社会や文化の成り立ちの話から始まり、現代社会の特質に進み、最後に日本で暮らす外国出身の若者の話で結ばれます。
 このようにNEJとNIJの本文は全体として一つの小世界になっています。そして、その小世界は、リさんや西山先生などの登場人物の発話によって紡ぎ出されます。

ことばの作者性
 わたしたち一人ひとりが実際の生活の中で自身の行為として話すことば=発話は、作者性があります。つまり、わたしたちが発する(あるいは書く)一つひとつのことばは、間違いなく「わたし」が「わたし」の存在(の一部)としてその都度に創作し発していることばです。そして、それはわたしの存在や振る舞いを作り出し、出来事という社会的な現実を構成します。このようにわたしたちはことばを発することによって、日本語世界を制作することに関与し、自己を制作することに従事しているのです。そして、日本語世界の制作に関わるすべてのことばは生きたことばであり、それには必ずその出所としての作者がいます。つまり、ことばの出所の人物=自己が自己の創造行為としてことばを作り出し、発しているということです。
 NEJとNIJのナラティブや会話やレクチャーを構成していることばは、フィクションではありながら、いずれもリさんや西山先生などの登場人物による作者性のある生きたことばです。つまり、リさんや西山先生などの「人格の声」であり「心の声」です。そして、学生は、ナラティブなどのことばを理解し学びながら、かれらの小世界を知り、一つの人格として生きる人として登場人物に出会います。そして、登場人物に、時には共感し、時には反発したり、登場人物の意見に賛同したり、反論したりします。学生のそれらの反応は、生きたことばであればこその反応です。これまでの教科書の本文の場合のように、命のない抽象的な言葉に対しては、学生は反応しません。
(言うまでもありませんが、どれほどストーリー世界やその中の人物を生き生きと描けているかは、実際に作成されたナラティブや会話やレクチャーの質によります。そこの部分がうまくできているかどうかは、ユーザーである先生方や学生の「審判」に委ねるほかありません。)

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑥

♠3 教育企画③ ─ テーマに導かれた言語活動と言語習得、及び言語習得の経路

範例としてのナラティブ
 わたしたちが何かのテーマについて話すとき、何をどれくらい話すのか、またどれくらい詳しく話すのかなどをあれこれと指示の形で伝えるのはなかなかむずかしいです。むしろ、何をどれくらい話すのかなどは、範例によって示すのが有効です。NEJとNIJでは、まさにそのようにしています。例えば、NEJのユニット8「わたしの家族」では、リさんは以下のように家族の話をしています。

 わたしの家族は、7人です。父と母と兄と姉と弟と妹とわたしです。父も母も兄弟も、マレーシアに住んでいます。父は、小さい会社を経営しています。ビジネスのコンサルタントです。日本の会社とよく仕事をしています。時々、仕事で日本に来ます。父は、とてもやさしいです。母も、仕事をしています。母は、大学の先生です。大学で中国語と中国の歴史を教えています。母は、ちょっときびしいです。兄は、銀行に勤めています。頭がよくて、いろいろなスポーツがよくできます。大学生のときは、近所の子どもにサッカーを教えていました。大学では、経済学を勉強しました。兄は、とてもおもしろいです。兄は、結婚しています。そして、子どもが1人います。姉は、今、大学院生です。大学院で薬の研究をしています。姉はピアノが上手です。うちで、ピアノ教室をしています。姉は、とてもきれいです。弟と妹は、高校生です。同じ学校に行っています。弟は、外国語の勉強が好きです。英語と日本語とフランス語を勉強しています。妹は、数学と物理が好きです。よくパソコンで遊んでいます。弟も妹も、かわいいです。

ナラティブに基づく受容摂取言語促進活動
 このようなテクスト(ナラティブ)を学習することで、学生は、そのテーマの下で、(1)何をどれくらい話せばいいか、(2)どのような全体構造で話せばいいか、(3)このテーマについて話すためにどのような語や言葉遣いを使うことができるか、を知ることができます。そして、教育企画②の意義③で話したような適切に実施された受容摂取言語促進活動従事を通して、学生はこの(1)から(3)を統合的に理解し経験し摂取することができます。教育企画②で論じたように、受容摂取言語促進活動は言語習得の中心的な部分です。それは、産出摂取言語促進活動に進むための準備的な言語育成段階です。この段階を充実して行うことが、表現活動の日本語教育のスキームできわめて重要な部分となります。

テーマについての産出摂取言語促進活動
 1つのユニットでは、そのような受容摂取言語促進活動の後に、産出摂取言語促進活動が行われます。そのテーマについて、ペアになってお互いに自分自身のことを話す活動や、そのテーマについてエッセイを書く活動などです。そして、そうした活動の途上や事後に、学生はクラスメイトの学生からあるいは先生から、さらには教科書を参照することで、さまざまな支援や補充を得て、語や言葉遣いを再摂取してそれらに習熟することができます。

テーマに導かれた言語活動と言語習得
 このように見ると、テーマを設定する形で企画され、学習のプラットフォームとしてテーマについての範例的なディスコースを示す表現活動の日本語教育は、テーマを軸とした日本語教育です。ユニットの学習を通じて、学生の頭の中には常にユニットのテーマがあります。ユニット学習の前半で、学生はナラティブやレクチャーなどを通してそのテーマが実際にどのような形(内容と表現)で展開されるかを知り、同時にその展開を媒介している語や言葉遣いを知り、摂取を始めます。ユニット学習の中盤では、朗唱練習やシャドーイングなどによって学生はテーマの展開の仕方とそれを媒介している語や言葉遣いを本格的に摂取します。そして、ユニット学習の後半で、学生はそのテーマに沿って自分自身のことや自分の考えや意見を紡ぎ出し、その途上で語や言葉遣いを再摂取しそれに習熟します。このように表現活動の日本語教育では、テーマが軸となって、それに導かれて段階的に言語促進活動が展開され、それぞれの段階でそれぞれの形でテーマをめぐる語や言葉遣いが輻輳的に摂取され習熟されます。

テーマに導かれた言語習得の経路
 「テーマに導かれた」ということについては、もう一つ、重要な点があります。それは、自己表現の日本語教育(NEJ)やテーマ表現の日本語教育(NIJ)の教育企画は、一連のテーマに導かれて日本語を習得する経路になっているということです。簡単にいうと、一つのテーマの下での表現活動を通した日本語習得が達成されると、次には、そこまでで育成された日本語技量である程度対応できるテーマの表現活動が設定されている、ということです。そして、自己表現の日本語教育もテーマ表現の日本語教育もそのような一連のテーマによる仮想的な日本語習得の経路の教育企画、になっているわけです。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑤

♠2 教育企画②  ─ 表現活動のテーマを設定することの言語教育的意義:生気のある言語活動と言語促進的な言語活動従事

表現活動のための一連のテーマを企画すること
 文型・文法ではなく、また実用的なコミュニケーションでもなく、表現活動を主要な教育内容として設定すると、教育企画の基本は、表現活動のための妥当な一連のテーマを企画することとなります。そのようにテーマを中心として教育を企画することには、重要な言語教育的意義があります。

意義① ─ 生きた生気のある言語活動を促す
 これまでの基礎(初級)日本語教育では、一連の文型・文法事項を配列するという形で教育が企画されました。しかし、そのように文型・文法事項を中心としてユニット(単元)を企画すると、学習者は各ユニットで何かについて話すことができるというような目標を持つことができません。つまり、文型・文法事項中心で教育を企画した瞬間に、教室は、学習事項の文型・文法事項を教える/学ぶだけの「お勉強の空間」になってしまいます。そして、教室で生きた生気のある言語活動を実践する道を閉ざしてしまいます。
 教室あるいは授業というのは、数ヶ月にわたって週に何時間も同じ顔ぶれの人たちが定期的に寄り合う場です。そんなふうに考えると、教室の「自然状態」は、学生と学生、そして先生と学生が出会って交わる場であることがわかります。ですから、出会いや交わりに関わる言語活動が行われるように誘導してこそ、そこで生きた生気のある言語活動が営まれるようになります。適切に選ばれた表現活動のためのテーマは、そのような言語活動を促します。

意義② ─ 産出の契機で生きたことばを学ぶ
 テーマが設定されて、「さあ、このテーマで話しましょう!」と言われて、学生たちはすぐに話せるわけではありません。ユニットの学習を通して学生たちは、「テーマについてうまく話せない/会話ができない」から「テーマについてうまく話せる/会話ができる」へと導かれなければなりません。そして、教師は、その立場での重要な役割として、授業の中で学習者が日本語の日本語習得が促進されるように積極的に行為しなければなりません。では、教師はそのために何ができるでしょうか。
 教師の積極的な行為で学生の日本語習得を促進する最も分かりやすい形は、テーマについて学生が話をしていて、誤りがあったりうまく言えないことがあったりしたときに、教師が援助の手を差し伸べてそれを学生が採り入れる瞬間です。言いたいことを言おうとしているがうまく言えないまさにそのときに教師がその言い方を教えて学生がそれを採り入れるということです。そのような契機が生きたことばを学ぶ重要な契機となることは十分に推測できるでしょう。
 生きたことがを学ぶ重要な契機となりそうな瞬間がしばしば生じるような言語活動従事の様態をここでは言語促進的言語活動従事と呼ぶことにしましょう。より一般的に言うと、学生自身の力で概ね従事することができるが、より有能な他者の支援があることで言語活動が促進されるような言語活動従事の様態です。それは、学生の立場から言うと、援助のある言語活動従事となり、教師の立場あるいは指導の観点から言うと、言語促進的言語活動従事となります。上のような「うまく言えない」ということが生じて教師の支援を得てそれを採り入れるという契機がしばしば生じるような言語活動従事は、一つの重要な言語促進的言語活動従事となります。

意義③ ─ 受容の契機で生きたことばを学ぶ
 言語促進的言語活動従事は、そのような援助のある言語活動従事だけではありません。上のような産出補充摂取的な諸契機、つまり学生が「産出」しようとしているその現場で先生がうまく言えない部分を「補充」してくれてその部分の語や言葉遣いを学生が「摂取」する諸契機は、実は、当該の語や言葉遣いの習得のいわば仕上げ段階です。つまり、「もうすぐ言えるようになる言葉」が「実際に言えるようになる」へと移行する仕上げの段階です。そして、言語の習得のためには、それに先だって、それよりももっと重要で時間のかかる工程があります。それは、さまざまな未習熟の語や言葉遣いを何度も実際の行使の中で経験してそれらを摂取するという、表面には現れないで潜在的に進行する言語習得の工程です。その工程での言語活動従事では、未習熟の語や言葉遣いが含まれる言語行使が内容が捕捉可能な形で行われて、学習者がそれらを「受容」して「経験」して「摂取」するということがさまざまな部分で生じます。そのような言語活動従事の様態は、先の産出補充摂取的な言語促進的言語活動従事に対して、受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事となります。
 そのような受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事では端的に言語活動従事の経験が蓄積されると言っていいでしょう。そして、そのように捕捉可能な言語活動従事経験が蓄積されることが言語の育成のために不可欠の要因です。にもかかわらず、そのような機会を豊富に与えることが、日本語教育に限らず一般的な言語教育の実践でほとんど行われてきませんでした。学生たちが口頭日本語力を伸ばすことができない根本の原因はここにあります。
 表現活動の日本語教育では、その教育企画の自然な流れとしてそのような機会を豊富に与えることができます。例えば、テーマ表現の日本語教育では、ユニットのテーマについてもっぱら先生が話をし学生は聞くという活動です。あるいは、自己表現の日本語教育では、ナラティブのリさんやあきおさんや西山先生の話を先生が代弁して、最初は「かみくだいて」話し、徐々に発話の形に拡張して話すというような、学生としては受容的な言語活動従事をじっくりとすることができます。そうした教師によるコントロールされた話し方は、聴解と言うことではなく、受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事です。また、そうした後にリさんらの声(ナラティブのオーディオ)で同じ話を繰り返し聞くというのも、やはり受容経験摂取的な言語促進的言語活動従事の機会となります。こうした活動は、ユニットで設定されている特定のテーマの下に先生が積極的に話すのを聞くとか、先生が話を代弁するのを聞くとか、リさんらの声を聞いて経験するということで、そのテーマについての生きた生気のある言語活動従事の経験となります。そして、そうした経験を通して学生は生きたことばを豊かに摂取することができます。
 表現活動の日本語教育の各ユニットではユニットの最後に、ペアやグループでユニットのテーマについて自分のことを話す活動や、そのテーマでエッセイを書く活動や、書いたエッセイをクラスメイトとシェアする活動などが設定されています。そして、学生は、そのような活動が毎ユニットの終わりにあることを認識しています。そうすると、学生たちは、上のように受容的な活動に従事している間でも、後で自分が自分のことや自分の考えを話すことを意識しており、その意識が受容活動で出会った語や言葉遣いを摂取することを一層促進していると見られます。例えば、次の教育企画③で紹介するリさんのナラティブの冒頭の「わたしの家族は、7人です」を朗唱練習しているときに、家族が5人の学生はすでにそれと並行して「わたしの家族は、5人です」と内的にあるいは外的につぶやいています。テーマを設定して、後で自身が話すために受容活動をしながらも語や言葉遣いを積極的に盗み取ることが推奨されている点が、捕捉可能な言語入力(comprehensible input)を単に大量に与えるというKrashen流の方法とは大きく異なる点です。これは次の教育企画③(♠3)での議論とも関連する点です。

 言語促進的言語活動や受容経験摂取的な言語促進的言語活動や産出補充摂取的な言語促進的言語活動というのはいかにも長ったらしいので、以降では、それぞれ以下のように省略して言います。

 言語促進的言語活動   → 言語促進活動
 受容経験摂取的な言語促進的言語活動 → 受容摂取言語促進活動
 産出補充摂取的な言語促進的言語活動 → 産出摂取言語促進活動

 受容摂取言語促進活動と産出摂取言語促進活動はもっぱらそれとして実施することもできますが、言うまでもなくそれらを複合させた形で実施することもできます。しかし、そうは言っても、受容摂取言語促進活動の重要性は再度強調しておかなければなりません。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ④

 ♠1 教育企画① ─ 会話とは表現活動である

「これだけ教えているのに、学生たちは会話ができない!」
 「これだけ教えているのに、学生たちは会話ができない」という日本語の先生の嘆きの声をよく耳にします。おそらく、学生たちも「これだけ勉強しているのに、会話ができない」と嘆いているでしょう。これはなぜでしょう。
 会話やコミュニケーションを教えるとして、教科書制作者や授業をする先生たちは、「道を尋ねる」「買い物をする」「料理の作り方を教える」「レストランで注文をする」「友だちを誘う」「ものを頼む」などの言語活動を扱ってきたのではないでしょうか。しかし、よく考えてみてください。

社交的なコミュニケーション
 わたしたちは実用的な用を足すためだけに言語活動をしているのではありません。用を足す言語活動のほかに、話すことそのものを目的としたおしゃべりという言語活動をとても豊かに行っています。わたしたちは、最近の自分の経験や、友人のことや家族のこと、また自分自身のことなどいろいろなことについて、友だちや最近知り合った人などに話しています。また、そういう会話をしています。そして、一定程度親しくなった相手には、より深く経験や自身のことや家族のことや趣味のことなどについて話しますし、そういう会話をします。そして、時には特定のテーマについてお互いの考えを交換したりします。実用的なコミュニケーションに対して、これらは社交的な言語活動と呼ぶのが適当でしょう。つまり、わたしたちの言語活動の重要な部分は社交的な言語活動であり、「日本語で会話ができる」ということの実際は実はそういう言語活動ができることなのです。
 そんなふうに考えると学生たちが会話ができるようにならないのは当然です。従来の日本語教育では教育企画として社交的な言語活動を組織的に扱っていないからです。

文型・文法と語彙、及び実用的なコミュニケーション能力の位置
 社交的な言語活動の中心部分は表現活動、つまりさまざまなテーマについて話す(話したり、聞いたり、やり取りしたり、書いたり、読んだりすること)ことです。表現活動の日本語教育では、その名の通り、そのような表現活動を日本語教育の中心に据えて教育を企画しています。そうすると、文型・文法と語彙や、実用的なコミュニケーションはどうなるのでしょう。
 先ずは、文型・文法と語いなどについて。表現活動を実際に運営するのは言葉遣いです。そして、言葉遣いでは文型・文法や語彙などの言語事項が動員されています。つまり、表現活動を行うためには、当然相応の言語事項が必要になるということです。ですから、表現活動の日本語教育の中に当然文型・文法や語彙の教育が組み込まれることとなります。そして表現活動の日本語教育の学習と教育を巧みに企画し、着実に実践すれば、文型・文法は自ずと身につきます。(ただし、その教育企画と教材制作は簡単なことではありません。表現活動ができる領域を徐々の拡大しながらそれに伴う形で文型・文法や語いを拡充できるようにうまく表現活動のテーマとそれに伴う言語事項を調整しなければならないからです。NEJとNIJでは、そのような作業を慎重に行いました。)
 他方、実用的なコミュニケーション能力はどうなるでしょう。手短に結論を言うと、実用的なコミュニケーション能力は表現活動の言語技量を基礎としています。表現活動の言語技量を身につければ、それを基盤として、実用的なコミュニケーション能力をはじめとしてさまざまな種類の言語技量を容易に発達させることができます。つまり、表現活動の言語技量こそが他のすべての言語活動に関わる基幹的な言語能力だということです。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ③

♡3 教育の趣旨と内容③ ─ NEJの教育内容の概要

以下のファイルをご覧ください。http://nej.9640.jp/sample/contents

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ②

♡2 教育の趣旨と内容② ─ NIJのテーマと文法

以下のファイルをご覧ください。https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ①

♡1 教育の趣旨と内容① ─ ねらいと目標

 表現活動中心の日本語教育は、口頭と書記の両様にわたる基幹的な日本語表現技量を習得することをねらいとしています。そして、そうしたねらいを達成するために、基礎日本語教育中級日本語教育の2段階に分けて、各段階でねらいと目標を定めて、教育を企画しています。以下では、表現活動中心の日本語教育の基礎日本語教育と中級日本語教育のそれぞれについて、ねらいと目標と教育内容について説明します。順番として、まず、中級日本語教育から話をします。中級日本語教育のねらいと目標が表現活動の日本語教育の全体がめざす最終的なねらいと目標になるからです。つまり、最終の到達点から出発点の方にさかのぼるような形で話を進めます。
※ KGIは、Key Goal Indicator(目標達成指標)の略です。

Ⅰ.テーマ表現活動中心の中級日本語教育の趣旨

□ ねらい
 自己をめぐるさまざまなテーマ、及び現代社会の諸側面とそこで生きることに関するさまざまなテーマについて、話すことと聞いて理解することとやり取りすることの口頭言語の諸モードと、書くことと読んで理解することの書記言語のモードで、さまざまな言語活動に従事できる言語技量を育成する。また、そのような言語活動に関与する語や言葉遣いに習熟し、合計約400字の漢字を習得しそれらに実用的に習熟する。

□ 目標
 コース修了時に、学生は以下の言語活動ができるようになり、以下の言語事項と言語技能を習得し習熟している。
※総括的評価においては、1の言語活動のパフォーマンスを評価材料とし、(1)そのパフォーマンスが達成されているか否かを判定し、さらに、(2)そのパフォーマンスにおいて2の言語事項や言語技能が適切に実現されているか否かを判定する。
1.言語活動に関する目標(KGI-1)
(1) 口頭日本語(KGI-1.1)
 自己をめぐるさまざまなテーマについて、話したり、相手の話を理解しながら聞いたり、相互行為的に会話をしたりすることができる。また、現代社会の諸側面とそこで生きることに関するさまざまなテーマについて、話したり、相手の話を理解しながら聞いたり、ディスカッションしたり、インフォーマルなプレゼンテーションをしたり、そうしたプレゼンテーションをおおむね理解したりすることができる。
(2) 書記日本語(KGI-1.2)
 上記のようなさまざまなテーマについて、適宜にスマホなどを利用しながら、1時間で、約400字の漢字を用いながら、A4で1枚程度(800字程度)のエッセイを書くことができる。また、そのようなエッセイを読んでおおむね理解することができる。
2.言語事項と言語技能に関する目標(KGI-2)
(1) 言語事項(KGI-2.1)
 基礎段階の文型・文法や語彙などに十分に習熟するとともに、テーマ表現活動に関わる言葉遣い、及びそこで行使される文型・文法と語彙等を新たに学習しそれらに習熟する。※前者はN4(あるいはCEFRのA2)水準の内容、後者はN3(あるいはCEFRのB2.1)水準の内容となる。
(2) 音声言語技能(KGI-2.2)
 基礎的な音声技能(発音と基本的なアクセントパターン)の課題を克服して十全に習得するとともに、発話やディスコースのプロソディ特性に注目し習熟する。※同上。
(3) 文字言語技能(KGI-2.3)
 基礎的な書記技能(ひらがなとカタカナの認識と書き方)の課題を克服して十全に習得するとともに、基礎300字の漢字と新たに学習する約100字の漢字の計約400字について、実用的に習熟する。
※「実用的に習熟する」とは、学習した語の中で遅滞なく認識できて、ワープロ入力で正しい漢字を選択できるようになることと、提示された漢字語を正しく再生できること。

□ 教育内容
 以上のようなねらいと目標の下に、テーマ表現活動中心の中級日本語教育を企画した。同教育企画で扱われる具体的なテーマと文法については、https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg)を参照。


Ⅱ.自己表現活動中心の基礎日本語教育の趣旨と教育企画

□ ねらい
 自己のさまざなな側面に関するテーマについて、話すことと聞いて理解することとやり取りすることの口頭言語の諸モードにわたる口頭日本語の基礎技量を育成する。また、漢字300字を含む基礎的な書記日本語の知識を習得し、基礎的な書記日本語技能を習得する。

□ 目標
 コース修了時に、学生は以下の言語活動ができるようになり、以下の言語事項と言語技能を習得している。
※総括的評価においては、1の言語活動のパフォーマンスを評価材料とし、(1)そのパフォーマンスが達成されているか否かを判定し、さらに、(2)そのパフォーマンスにおいて2の言語事項や言語技能が適切に実現されているか否かを判定する。
1.言語活動に関する目標(KGI-1)
(1) 口頭日本語(KGI-1.1)
 自己のさまざまな側面に関するテーマについて、話したり、相手の話を理解しながら聞いたり、相互行為的に会話をしたりすることができる。また、インフォーマルなプレゼンテーションをしたり、そうしたプレゼンテーションをおおむね理解したりすることができる。
(2) 書記日本語(KGI-1.2)
 上記のようなさまざまなテーマについて、適宜にスマホなどを利用しながら、1時間で、約300字の漢字を用いながら、A4で2/3枚程度(600字程度)のエッセイを書くことができる。また、そのようなエッセイを読んでおおむね理解することができる。
2.言語事項と言語技能に関する目標(KGI-2)
(1) 言語事項(KGI-2.1)
 自己表現活動に関わる言葉遣い、及びそこで行使される基礎的な文型・文法や語彙等を習得する。
(2) 音声言語技能(KGI-2.2)
 基礎的な音声技能(発音と基本的なアクセントパターン)を習得する。
(3) 文字言語技能(KGI-2.3)
 ひらがなやカタカナで表記される学習した語彙や表現を認識することができる。基礎300字の漢字を実用的に習得する。
※「実用的に習得する」とは、学習した語の中でおおむね認識できて、ワープロ入力でおおむね正しい漢字を選択できるようになることと、提示された漢字語をおおむね正しく再生できること。「おおむね」とは70-80%程度。

□ 教育内容
 以上のようなねらいと目標の下に、自己表現活動中心の基礎日本語教育を企画した。同教育企画で扱われる具体的なテーマと文型・文法については、http://nej.9640.jp/sample/contents)を参照。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪

はじめに ─ 日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪
 
 NEJ(2012年)に続いて中級のNIJがこの(2018年)秋出版されました。これで、基礎(入門・初級)から中級までの日本語教育について、ぼく自身の考えと教育構想をようやく具体的な形にすることができました。

現在の日本語教育実践は労多くして功少なし
 今、この時点で改めて、ぼくは一体何をしたかったのかと考えてみました。それは、日本語教育実践の再生ということのようです。
 日本語教育の具体的な現場の実践は、根本の構想が有効でないために、「労多くして功少なし」、つまり現場の先生があれこれと工夫していっしょうけんめい教えてもなかなか結果が出ない、という状況になっています。現在の日本語教育のカリキュラムや教材では今後もこの状況が続くでしょう。それでは、いっしょうけんめい学生を支援しようとしている先生の努力がちっとも報われません。
 ぼくがやりたかったことは、そのような現状を克服して、学生たちが着実に成果をあげて、現場の先生たちの熱意と創意工夫が報われるような教育実践ができる新しい日本語教育のプラットフォームを作ることでした。

「教育の良し悪しはすべて授業をする教師の教え方にかかっている」?
 日本語の先生たちの間ではしばしば「教科書『を』教えるのではなく、教科書『で』教えるのだ!」と言われます。そして、「教科書『で』教える」でも飽き足らず、上のような「授業至上主義」あるいは「教師の教授方法至上主義」的な発言に至ります。
 上の言葉はすでに日本語を教えている先生たちの間でよく言われています。また、日本語教員の養成課程でも、これから日本語の先生になろうかと考えている人たちにいの一番に言われる「お説教」です。そんな事情ですので、ベテランであれ若手の先生であれ、日本語を教えている先生はほぼみんな上の言葉を信じています。そして、そのご教説に従って、日々、創意工夫に励んでいます。
 上の言葉をもう少し詳しく言うと、「教育が有効となるかどうかはすべて授業を計画し実施する教師の教え方にかかっている」となります。このご教説」は何を意味しているのでしょう。日本語教育のことを知らない人がこの言葉を聞いてどのように思うかという形で想像してみましょう。

第一声 わー、日本語を教えるってたいへんそう!(終わりなく永遠に創意工夫を続ける? それは厄介な仕事で、とてもしんどそう! ほとんど自虐趣味!?)
第二声 うん? 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」? 一つひとつの授業が大事なのはわかるけど、そもそもの教育の企画や、カリキュラムや、学習や授業実践を支える教材などもすごく大事なんじゃない? そのあたりは、どうなっているのだろう?
第三声 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」ということは、日本語の先生というのは、授業に配当された言語事項をとにかく創意工夫して教えればいい」ということ? 日本語の先生は「言語事項指導請負人」ということ?
第四声 日本語の先生の仕事の重要部分はあてがわれた言語事項をしっかりと教えるということ? 何だかこじんまりした仕事で、それで十全な仕事をしていると言えるのかなあ。先生たちがそんなふうにばかりしていて、「日本語ができるようになる」という結果を出すことができるのかなあ?
第五声 日本語教育では、(教師も学生も多かれ少なかれ頼りにするはずの)教材や、(学生がその筋道で学び教師がその筋道で教える)教育計画(カリキュラム)や、そもそものアプローチ(「何を」「どのように」習得させていくのかについての根本原理)などは、あまり問題にされないの? 専門的に議論されないの? 一つのコースを担当する先生たちは設定されたゴールや目標の達成に向けて協力し合いながら授業を実践するんじゃないの?
第六声 また、日本語を教えている人たちは、「媒介語を使用しない直接法で日本語を教える」らしいけど、媒介語は日本語の習得を阻害しないようにしながら効果的に使ったらいいのでは? 実際のところ学生たちは辞書や文法書(最近はみんなネット上のものを使っている!)を利用しているわけだし。「媒介語を使用しない直接法で」というのに固執するのはドグマ的な感じがするし、そもそもの「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」というのも何だか前近代的な感じがする。


 現在日本語教育に従事している人の「精神」は上の「教育の良し悪しは…」という言葉によく集約されていると思います。しかし、その「精神」は、日本語教育のことを知らない人が聞くと、上の第一声から第六声のように、いろいろな疑問が提示されます。端的に言うと、合理主義の精神が感じられないということです。ただし、ここに言う合理主義というのは、ニーズ分析をしてそれに基づいてコースデザインをするというような現金なやり方を言っているのではありません。むしろ、日本語の習得と習得支援について熟考した上で思い描かれた優れた日本語教育実践を実際に実際に実現するという構想を完遂できるように緻密にもくろまれた合理的な企画と開発をするということです。それは、容易なことではありませんが。

新しい日本語教育の構想と実践の創造
 ぼくはかれこれ40年近くも日本語教育の仕事をしています。そして、ずっと前から、「今の日本語教育の企画では有効な教育実践ができるわけがない!」と言ってきました。他方で、日本語の先生たちや先生を養成・研修している大先生たちのほうは上のように「教師の教授方法が最重要の問題!」と言い続けてきました。そして、現場の先生たちは大先生や先輩の先生方の言葉に従って、教え方を工夫しつつどうにかこうにか日本語教育を支えてきました。しかし、ぼくには教授方法が最重要の問題とは思えません。また、教材を改善すればいいという問題だとも思えません。むしろ、根本の教育企画に問題があるからこそ、上のような精神論(合理的な企画と開発と実行ではなく、個々のメンバーの多大な努力と強靱な精神で状況を乗り切ろうとすること)が横行するのだと思います。根本の教育企画を練り直して、教師が相応の仕事をすれば十分な教育成果を出すことができて、創意工夫をすればさらに優れた教育成果が得られるような教育企画にしないと、日本語教育という仕事はいつまで経っても精神論が横行する「ブラックな仕事」のままです。
 さて、教育企画が問題となると、教育企画を刷新しなければなりません。そして、教育企画を新たにすると、当然、その教育企画を反映して学習と教育実践を支える教材も制作しなければなりません。また、期待される具体的な授業の原理やイメージも多かれ少なかれ提案する必要があるでしょう。つまり、新たな教育実践を創造するためには、企画・教材・具体的な実践を包括する構想が必要です。ぼく自身は日本語教育の経験を重ね、第二言語教育学を探究しつつ、そのような構想をずっと温め続けてきたように思います。そして、その構想がようやく具体化されました。それが、自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の日本語教育からなる表現活動中心の日本語教育です。

内容も方法もこれまでの日本語教育とは異なる表現活動中心の日本語教育
 表現活動中心の日本語教育は、日本語教育実践を再生するための新たな日本語教育の提案です。 そして、その基礎教育を支える教材がNEJ(『A New Approach to Elementary Japanese ─ テーマで学ぶ基礎日本語』くろしお出版)で、初中級から中級段階の教育を支えるのがNIJ(『A New Approach to Intermediate Japanese ─ テーマで学ぶ中級日本語』くろしお出版)です。
 専門的な職業として日本語を教えている人で、日本語を教えるということをただ文の作り方(文型・文法)と文の要素(語彙)や、ひらがなやカタカナや漢字を教えることと考える人は少ないだろうと思います。そして、現在の流行(はやり)は「コミュニケーションができる」ようにすることです。しかし、日本語を教えることを「日本語でコミュニケーションができる」ように教えることと見るようになると、どちらかというと、「道を尋ねる」「買い物をする」「友だちを誘う」「ものを頼む」などの実用的なコミュニケーションが注目されるようになりました。つまり、「日本語ができる/話せる」の実際をそのような実用的な用を足すコミュニケーションができることと見たわけです。しかし、そのような実用的なコミュニケーションの仕方を教えるだけでは、基幹的な日本語力は身につきませんし、文型・文法や語彙などの言語事項も十分に習得することができません。これまでの日本語教育は、「文型・文法(と語彙)か、実用的なコミュニケーションか」という2つの間で揺れていました

忘れられた領域としての社交的なコミュニケーションあるいは表現活動
 これまでの日本語教育の内容と方法の議論では、「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という議論ばかりがされてきました。そして、そうした二者択一の議論の中でまったく気づかれていないのが、文型・文法でも実用的なコミュニケーションでもない第3の領域としての社交的コミュニケーションあるいは表現活動です。この社交的なコミュニケーションあるいは表現活動の「発見」が日本語教育の構想の重要な転換点となります。そのような立場で、表現活動を中心に据えて構想された日本語教育を、ここでは表現活動中心の日本語教育と呼びます。

自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の中級日本語教育
 表現活動中心の日本語教育の具体的な教育企画として、基礎段階で自己表現活動中心の基礎日本語教育を企画し、初中級から中級段階でテーマ表現活動中心の中級日本語教育を企画しました。
 自己表現活動表現活動の基礎的な部分で、自己表現活動中心の基礎日本語教育におけるテーマとしては自分のことや自分の身の回りのことや人についてあれこれ話す(話したり、聞いたり、やり取りしたり、書いたり、読んだりすること)を選んでいます。具体的な内容は、NEJのテーマ(http://nej.9640.jp/sample/contents)です。そして、テーマについての表現活動より進んだ表現活動で、テーマ表現活動中心の中級日本語教育としては、自分や家族などに関するさまざまなテーマや人間一般や社会一般に関するさまざまなテーマを扱っています。具体的な内容は、NIJのテーマ(https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg)です。

NEJやNIJは新しい教材ではなく、新しい日本語教育を創造するためのリソース
 NEJやNIJは従来的な意味での新しい教科書ではありません。NEJやNIJは表現活動中心の日本語教育の構想の上にあり、それらは同教育を具体化するためのプラットホームであり「触媒」です。NEJやNIJは、日本語促進的な言語活動従事(♠2)を触発して、言語事項の習得を伴いながら日本語技量を育成する表現活動中心の日本語教育を創造するための中核的なリソースです。
 ですから、NEJやNIJを使って、その中で出てくる言語事項の指導をして、その後に本文を聴解活動や読解活動の素材にするというような教育実践は、表現活動中心の日本語教育という新しい日本語教育の趣旨に合致したものではありません。NEJやNIJを活用することにおいて重要なことは、実際に教育を行う実践者が表現活動中心の日本語教育という構想をよく理解し、教材が誘発するするさまざまな言語活動をしっかりと想像すること、そしてその上で、教育構想の趣旨に合致し、教育のねらいや目標の達成を力強く後押しする教育を創造的に実践することです。つまり、重要なのは、実際に教育を担当する先生が表現活動中心の日本語教育ということの趣旨をよく理解して、NEJやNIJを自身及び学習者を支えるリソースとしてうまく活用して、表現活動中心の日本語教育を主体的に実践することです。

日本語教育再生の日本語教育へ
 表現活動中心の日本語教育はこれまでの日本語教育とは内容も方法も大きく異なります。そして、そこで期待される教師の役割もこれまでのものとは異なります。しかし、その実践方法は、決してむずかしいものではありません。多くの先生が、表現活動中心の日本語教育(以下の♡以外の本文では、表現活動の日本語教育と略記)を知り、NEJやNIJを活用して、自己表現活動中心の基礎日本語教育(以下の♡以外の本文では、自己表現の日本語教育と略記)やテーマ表現活動中心の中級日本語教育(以下の♡以外の本文では、テーマ表現の日本語教育と略記)を主体的に実践してくれることを願いつつ、以下では、♡教育の趣旨と内容、♠教育企画、♣教材、♢教育実践の4つの領域に分けて、各々3項目で、表現活動中心の日本語教育についてその趣旨を説明したいと思います。

※参考文献
 表現活動中心の日本語教育の理論的な背景を知りたい方は、以下の本を参考にしてください。同書では、理論的な背景と共に、特に基礎段階(NEJ)のユニットの授業の進め方や具体的な授業の方法が紹介されています。
西口光一(2015)『対話原理と第二言語の習得と教育』くろしお出版

2018年12月2日日曜日

オンボロ船と新造船

以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー 第49号 2018年12月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。

2018年12月号 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!) 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない?  うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く!  日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! (に)