2019年12月15日日曜日

日本語教育学って何だろう?

 「日本語教育能力の判定に関する報告(案)に対するパブコメが一昨日(12月13日(金)に締切となりました。一方、来年5月の日本語教育学会の総合テーマは「日本語教育学の輪郭を描く」です。
 この間、日本語教育学って何なのだろう? 日本語教育学は過去40年の間に発展したのだろうか? これから発展するのだろうか? どのように発展する必要があるのだろうか? などについて考えました。そんな話をします。

1.現行の検定試験の内容は何か
 現行の検討試験や教員養成・教師養成課程の内容は、平成12年度の「日本語教育のための教員養成について」(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/nihongokyoiku_suishin/nihongokyoiku_yosei/pdf/nihongokyoiku_yosei.pdf)を基本として引き継いでいます。つまり、約20年前のままです。
 この内容は、約20年前の日本語教育学の状況を参考にして教員として必要と考えられる事項が「社会・文化・地域」「言語と社会」「言語と心理」「言語と教育」「言語」の5つの分野、16の下位区分にわたって列挙されたものです。それらの事項の後ろにはさらにキーワードというものが列挙されています。上掲「教員養成について」のpp.11−12。(その後文化庁では、そうした事項の列挙では養成課程にバラツキがあるということで、2018年3月に必須の50項目というものを絞り込んで、現在はその50項目と教育実習が含まれることが養成課程の「基準」となっています。)

2.20年前に日本語教育学の体系はあったか
 平成12年の「教員養成について」が出たときに、日本語教育学の体系はあったでしょうか。残念ながらありませんでした。逆に、その「教員養成について」を検討するときに、日本語教育学の体系のようなものがいわばはじめて意識されたと言わなければなりません。しかし、上記のような状況で、日本語教育学を体系づけることはできませんでした。

3.日本語教育学と「教員養成について」の内容との関係
 20年前の「教員養成について」に盛り込まれている内容は、当時の日本語教育関係の研究者の(a)「守備範囲」と、(b)「守備範囲」ではないが目に届いていた」部分です。逆に言うと、当時の日本語教育関係の研究者の目に届いていない」内容や領域はそこには入っていません。

4.日本語教育学の輪郭について
 新たに日本語教育学の輪郭を描くにあたっては、これまでの(a)「守備範囲」と(b)「守備範囲」ではないが「目に届いている」部分を参考にしながら、(c)として、(c)現在発展中の重要分野も含めながら、研究分野と研究テーマを包括できる体系を構築しなければなりません。そして、学の体系というのであるから、(ア)研究領域、(イ)研究系、(ウ)研究分野、(エ)研究テーマというような階層構造での全体の整理が必要です。

5.日本語教育学の体系の構築をめぐる観点
 4のような認識の下にいくつかの観点を提示したいと思います。
(1) 日本語教育は第二言語教育の一分野である。ゆえに、個別の目標言語を超越した応用言語学や第二言語習得研究は、日本語学や社会言語学や特殊目的日本語教育論などとは独立した、そして第一の研究領域として第二言語教育学領域が設定されなければならない。
(2) 日本語教育は「日本語×教育」なので、第二の研究領域として、「日本語教育基礎領域」を設定し、その下に、日本語学系、教育学系、心理学系などの関連の系を配置するのが適当である。
(3) 上のように第二言語教育学領域と日本語教育基礎領域を設定した上で、日本語教育という現象をめぐる研究分野として日本語教育事情領域を、また、日本語教育の実践を研究する分野として日本語教育実践領域を、それぞれ設定するのが適当である。
(4) 4で(c)として言及した現在発展中の重要分野として、言語理論学が必要である。これまでの日本語教育学は、そもそも言語とはどのようなものであるか、つまり、言語と人間、言語と社会・文化、言語と認知、言語と知性等のそもそもの関係を考究することなしに日本語教育の学や日本語教育の実践に臨んできた。そのために、言語は単に実体として捉えられ、シンボルとして厳密に記号学的に把握されることがなかった。このことが、これまでの日本語学等への偏った依拠と相俟って、日本語教育を即物としての言語事項を扱う営みに矮小化してしまっている。教育実践に追従するのではなく、教育実践により広く深遠な視野を提供すべき日本語教育学としては、そうした言語理論学がぜひとも必要である。

 以上のような観点を踏まえて、日本語教育学の体系(私案)を作成しました。コメントなどお寄せいただければ。
https://www.dropbox.com/s/pm1kbv87p0kngge/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%BD%93%E7%B3%BB.pdf?dl=0
 


「日本語教師」国家資格は既定の路線!?

 「日本語教育能力の判定に関する報告(案)に対するパブコメが一昨日(12月13日(金)に締切となりました。「ぜひパブコメをしてください。パブコメの数が本件についての国民の関心のバロメーターになります」と喧伝していた文化庁のほうにはかなりの数のコメントが寄せられたことと思います。(しかし、「パブコメの数が国民の関心のバロメーターになる」なんて、まじめにコメントするモチベーションが下がりますね。「コメントの内容を文化庁はちゃんと読んでその後の小委員会での議論に反映してくれるのかよー?」との疑問が湧きます。)
 この記事では、今回の「騒動」のタネ明かし!?をしたいと思います。

1.日本語教育に従事する人の「資格」について
 文化庁の報告(案)ではわかりにくいですが、今回の報告(案)の主眼は、

(1)従来の日本語教育能力検定試験に代わって「新試験」を設置する。※「新試験」の内容は2018年3月に出た「在り方について」の50項目を反映したものと報告(案)では説明されています。これって、これまでの検定試験といっしょです。どうなっているのでしょうね!?
(2)その新試験合格と、実習修了と、大卒(学士)の3点をもって、「公認日本語教師」という国家資格(名称独占)として認定する。※「名称独占」というのは、「その資格を持っている人だけがその名を名乗ることができる」ということです。他の国家資格として「業務独占」というのがあって、こちらの制度だとその資格がなかったらその仕事ができないこととなります。「公認日本語教師」の資格は「名称独占」です。ちなみに、「公認日本語教師」という名称はいかにも不細工なので、わたしはパブコメで「日本語インストラクター」という名称を提案しました。さてさて、どのような名称になるでしょうか!?
(3)検定合格者あるいは養成課程・養成講座修了者という従来の日本語学校での教員採用基準を上の「公認日本語教師」変えるよー!ということです。現在の日本語学校設置の「規制」となっている法務省の告示基準がそのように変更されることが予定されているようです。

 「規制」という観点から見るのが話が早いと思います。(2)の「名称独占」の国家資格は、それ自体は日本語を教える仕事をすることに関して何の「規制」にもなりません。しかし、(3)のように法務省の告示基準が変更されることで、「規制」となります。つまり、新しい資格がスタートし法務省の告示基準が変更されると、(a)日本語学校は「公認日本語教師」でないと採用することができなくなる、(b)「公認日本語教師」でないと日本語学校で教師の仕事ができなくなる、ということです。そんなわけで、今回の報告(案)の中心的な趣旨は、「日本語学校の先生はみんな『公認日本語教師』にしよう!」ということです。

2.新制度で日本語学校の教育はよくなるのか、日本語学校の教師の待遇は改善されるのか
 まじめな「論点」としては、検定試験というのがいわば国家資格に置き換わること、及び、日本語学校の先生はやがてみんな「公認日本語教師」となるというこの新制度が、果たして、(ア)より優秀な人を日本語教育に呼び込んで優れた教師として養成され、(イ)日本語学校の教育の質が向上し、また、(ウ)その人たちも国家資格にふさわしい待遇がされるか、という問題です。報告(案)はこの部分について「楽観」しているように見受けられます。というか、…。

3.「日本語教師」国家資格は既定の路線
 報告(案)には明記されていませんが、「日本語教師」国家資格は、日本語教育推進法第21条で「日本語教師の資格に関する仕組みの整備」ということが謳われていて、今回の報告(案)の内容は、その具体化という話です。そして、現在、日本語教育能力検定試験があるにもかかわらず「日本語教師の資格に関する仕組みの整備」と言われると、検定試験よりもう一段上の国家資格(の中で軽いほうの名称独占)となるのは、いわば当然の帰結です。文化庁の担当者や同小委員会の先生方の判断は、「日本語教育に追い風が吹いている今のこのチャンスを逃したら当分は「格上げ」などできなくなる。だから、「格上げ」はぜひ実現したい!」というとても「戦略的な」判断をされているのだと推察します。

ということで国家資格は早晩実現されるだろうと思います。

4.今回の制度改革で日本語学校の教育の質は向上するのか、日本語学校の教師の待遇は改善されるのか
 日本語教育に関わる当事者としての関心はこの2点です。今回の制度改革でこのあたりがよくなっていくのか、わたし自身は、楽観していいのか、悲観的にならざるを得ないのか、何とも言うことができません。ただ、言えることは、日本語学校の教育の質の問題は、教師の質の問題ではなく、むしろ、教育内容と教育方法のパラダイムの問題だということです。現状のカリキュラムと教材でやっていては、誰が教育の実施にかかわっても、大きな質の改善は望めないと思います。今回の制度改革で、「おもしろい!」人が日本語学校に入ってきて、日本語学校の教育を抜本的に革新するというような流れになれば、おもしろいなあとは「期待」しています。


 逆に、日本語学校以外では、企業であれ自治体等であれ、「公認日本語教師」でなくても採用することができます。しかし、日本は「忖度」の社会なので、もしかしたら、企業や自治体


2019年12月8日日曜日

Krashenと第二言語教育

 この週末(2019年12月6-7日の金土)はとてもおもしろい経験をしました。一つは、入力仮説とナチュラル・アプローチのKrashenが久々に来日。同志社で公演いや講演があって聞きに行ったこと。もう一つは、ぼく自身が講演者でひょうご日本語教師連絡会議主催の教師セミナーをしたこと。この2つ、関連させて話します。
 Krashenの来日は数年ぶりなのではないかと思います。ぼく自身がかれの話をはじめて聞いたのは1984年のJALT大会(@東京新宿の文化女子大学)でした。これがたぶんかれの初来日だと思います。そして、2015年の秋にサンディエゴであったTESOLの年次大会で30何年ぶりにかれの話を2度目として聞きました。そして、今回が3度目です。1984年のKrashenの話は皆さんご存じの入力仮説のことが中心です。かれが講演中に"comprehensible input!"とお題目のように何度も繰り返していたのを今でも覚えています。当時のKrashenは多分40歳代(前半?)だったのだろうと思いますが、ものすごい自信・確信とエネルギーに溢れていてまるで新興宗教の教祖さまのようでした。そして、かれは「入力仮説は、否定しようのない科学的事実だ!」ということも何度も言っていました。かれは、本当に自身の入力仮説を「葵のご紋」にして第二言語教育の革新を進めようと思っていたのでしょう。そしてその革新運動は必ず成功すると思っていたと思います。
 2015年に30数年ぶりに会ったKrashenは往年のエネルギッシュさはかなり薄れていました。でも、自信・確信はあいかわらずでまあまあ元気に見えました。そして、いつのことからか分かりませんが、かれはcomprehensible inputよりもextensive self-selected readingのほうを強く推奨するようになっていました。おそらく、カリフォルニアを中心として北米におけるヒスパニックの子どもたちなどや家庭の教育環境のせいなどでリテラシーが低くなってしまっている子どもたちの読解能力を中心とした知的な言語能力の養成と認知的な発達の両方を促進するために、第二言語教育よりもむしろリーディングのほうに行ったのではないかと想像します。
 で、今回のKrashenの様子と話です。サンディエゴ以来4年ぶりのKrashenは「けっこうおじいちゃんになったかなあ」という印象があります。話し方も4年前と比べてもとても穏やかでした。でも、自信・確信は変わりませんでした。内容は、extensive self-selected readingでした。ぼくにとって鮮烈に印象的だったのはかれが講演のマクラで話したことです。Krashenは、第二言語教育で一般に普及している方法をスキル学習と言いました。つまり、文型・文法事項や語彙などの言語事項を学習してそれを組み合わせて言語を産出する操作(あるいは発話やディスコースをそうした知識を使って分解して理解する操作)という技能を養成するということです。認知心理学で言われているスキル学習理論(Anderson)です。Krashenによるとそうした第二言語の教育法・学習法が一般の人だけでなく第二言語教師の間でも公理(Krashenはaxiomと言った)になっている。そして、かれの子どもの学校でも、カリフォルニア州や全米を見ても、こうした教育法・学習法が今でも「公理」として普及していると言います。「入力仮説が正しいのが科学的事実であると40年前からこんなにあちこちで紹介しそれに基づく教育・学習を推奨しているのに、現状40年前も今も何も変わっていない!」という悲観的な言い方は自信家のかれの口からは出てきませんでしたが、そういうメッセージは十分に発せられていました。かれのこの部分の話を聞いて、ぼくは、かれと自分自身を重ね合わせて、何だかものすごく共感というか同志意識というか、そういうものを感じました。「Krashenがこんな勢いでこんなに広範に過去40年間入力仮説等を『宣伝』したのに、現状はちっとも変わっていないのか! Krashenさんもさぞ落胆しているだろう。そして、ぼくも同じように落胆している!」と。
 さて、ぼく自身の話です。ぼくはKrashenよりも一歩進めて、(自己)表現活動中心の日本語教育という具体的な教育企画と資材(教材)を提案しています。(自己)表現活動中心の日本語教育では、各ユニットで特定のテーマについて言語活動ができるようになるという「日本語上達のエスカレータ」の日本語教育企画を提案しています。そして、その企画に沿った日本語の学習と教育の実践を支える資材として2012年にNEJ(2012年)を公刊し、昨年の2018年にはNIJを公刊しました。同企画では、「日本語上達のエスカレータ」に沿う形で文型・文法事項が系統的に習得でき語彙も体系的に習得できるように仕組んでいます。表現活動中心の日本語教育の企画は、(1)バフチンのことばのジャンルの考え方と(2)Krashenの入力仮説と(3)インストラクショナル・デザインの三者の融合でできたものです。そして、同教育の背景にある理論(バフチンの対話原理が中心ですが)や習得の原理や具体的な実践方法なども西口(2015)の本で解説しています。
 Krashenの主張は「科学的事実」なのだと思います。しかし、Krashenは、言語事項の習得に関心を置く教師たちに一定の配慮をしたインストラクショナル・デザインをしていません。インストラクショナル・デザインをしていないということは、端的に言うと、正式な教育課程の中の1つの教科にすることができないということです。ぼくのほうは、従来の文型・文法事項や語彙の代わりに(バフチンのことばのジャンルから敷衍した)言葉遣いという観点を提示し、テーマ中心のカリキュラムで言葉遣いを配慮して資材を用意しています。そして、その資材を主要なリソースとして活用して学習と教授を進めることで、文型・文法事項や語彙などを含めた言葉の習得の側面にも対応できるようにインストラクショナル・デザインと教材制作と学習と教授のデザインをしています。つまり、ぼくのほうは、採用可能なコースの提案をしているということです。にもかかわらず…。NEJが出てすでに7年経っています。そして、昨日、教師セミナーで、「文型・文法事項ではなく、実用的なコミュニケーションでもなく、表現活動という言語活動領域に注目しましょう。そして、NEJとNIJは表現活動の部分に注目して、テーマ中心で編まれている教材です」という話をしました。しかし、…。まず、NEJ(NIJ)を知っている人はそこそこいらっしゃったようです。しかし、詳しく見た人や、指導参考書を手にして読んだ人となるとうんと少なくなると思います。今年の5月から6月にかけて大阪、東京、福岡で教師セミナーをしたときは「NEJを使っている。学校で採用している」という人が何人かいらっしゃいましたが、今回はいらっしゃらなかったような。というわけで、ぼくとしては「こんなに丁寧に準備万端整えているのに、あまり知られていないなあ、広まっていないなあ」という感を持ちました。そして、改めて、前日のKrashenと自分自身を重ねてしまいました。
 1年ほど前になりますが、早稲田(元筑波)の今井さんが「教えない教え方」ということで割合注目され「物議をかもし」ました。表現活動中心の日本語教育は、いわば「(言語事項を)教えないが、(言語事項等の習得も含めて)日本語上達という結果を出す」教育方法の提案です。昨日のセミナーでもそのような話をしましたが、うまく伝えられたかなあ…。
 結論です。Krashenは、スキル学習という学習法・教育法が、言語教師たちの公理になっていると言いました。その通りだと思います。(従来から思っていました。「公理」とは言いませんでしたが) つまり、文型・文法事項など即物的な教えるモノがあって、それを教えるてこそ、教師としての仕事をしたことになるという考え方です。しかし、言語事項などを取り立てて教えなくても、日本語が上達して、その日本語を見てみたらちゃんと文型・文法事項や語彙などを適切に使っているという結果を出すことができたらそれで教師として「Good job!」をしたことになるんじゃない! 「教える」という行為をして結果が出ないのと、「教える」という行為をしないけど結果が出るのと、どちらが本当に学習者のためで、教師の職責を果たしている? 皆さん、よく考えてね!
 Krashenは当初から"Speaking is a result of acquisition and not its cause."と言っていました。金曜日の講演でも最後に言うチャンスがあったのに、直截にはこの言葉は言いませんでした。今は、"Language capacity and intelligence is the result of development through extensive self-directed reading."と言うのでしょうか? このあたりは、日本語教育では、子ども向けであれ、成人向けであれ、楽しくハマって読める、それでいて知的な興味に応え、知的な発達をも引き起こす教材が必要だというsuggestionがあるように思います。

2019年12月2日月曜日

現象学から人間科学へ⑧ ─ 「世界内存在」の端緒

このエッセイは、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年12月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に羅針盤として掲載されたものです。 

現象学から人間科学へ⑧ ─ 「世界内存在」の端緒

 これまでの7回で、現象学とは何かを概観しました。今回から、3回ほどは、現象学の中の世界内存在という視点について話し、そのあとの人間科学への話につなげたいと思います。
 今回は、現象学そのものとともに、世界内存在という物の見方がどのような経緯で浮上してきたかを見ていきたいと思います。
 
1.近代哲学から現代哲学へ
 世界内存在という視点が浮上してきた経緯を見るためには、近代哲学から現代哲学への移行の経緯とその内容を見なければなりません。木田の引用から始めます。

 かれ(デカルト、筆者注)の「思う我れ」は、世界のうちに何が存在し何が存在しないかを決定するものであり、そのかぎりそれ自身(デカルトの「我れ」、筆者注)は<世界のうちに存在する>とは言えない、つまり<超越論的>transzendentalな主観なのであり、他方、世界とはこの理性的主観によって認識されるかぎりで存在する、したがって合理的な構造をそなえた、存在者の全体なのである。…ニュートン物理学を基盤にして発展した近代科学は、たしかに方法の上では17世紀の形而上学(デカルトのこと、筆者注)とかなり違った立場になっていたが、やはりこの近代科学にとっても<世界、つまり存在するものの全体は、絶対的な空間・時間のなかで、それ自体において明確に規定された構造をもって存在する>ということは自明の前提であった。こうした前提に立てば、科学的認識とは、この客観的世界のそれ自体における規定性、つまり自然法則を、漸進的にではあれ明確に記述してゆくことにほかならず、しかもその可能性は当然保障されている、と考えられることになる。近代の科学や技術の発達は、こうした絶対に真なる世界、つまり自然の理性的秩序への素朴な信頼に支えられていたわけであり、その意味で近代理性主義(デカルト以降の近代の思想、筆者注)の嫡子と見ることができるわけである。(木田『現代の哲学』、pp.17-18)

 以下も木田からですが、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて、ヨーロッパ文化はその諸領域において深刻な危機ないし変革を経験しました。それがやがて近代的な世界観の転回を引き起こすことになるのですが、それがもっとも明確な形で現れたのが、自然科学の領域、それも最も基礎的な部門である数学と物理学の領域でした。それは、一般に「数学の危機」とか「物理学の危機」と呼ばれています。その概要は、木田の『現代の哲学』のpp.24-29を参照してください。そして、こうした「数学の危機」と「物理学の危機」の結果、「世界」というものについての見方が大きく変わりました。

 実験によって自然の存在として測定される内容は実験装置と相関的であり、さらに実験装置は観察者としての人間の身体の構造や大きさと無関係ではありえぬ以上、自然の存在は人間の存在を参照せずには語られえないわけである。かくて、物理学的に測定された結果を、自然それ自体の規定として絶対化しえないだけでなはなく、そうした即自的自然の存在そのものが疑わしくなるのである。このような数学や物理学における変革が、科学的認識の真理性、つまりは理性の権威や、それを支え、それによって精密化されてきた<客観的世界> ─ の想定にどれほど厳しい打撃を与えたかは、想像に難くないところであろう。(木田『現代の哲学』、p.29)

 木田よると、20世紀の初頭にはすでに、科学の理論体系もその概念もすべて主観的な性質のものであり、それらは「真でもなければ偽でもなく」、経験を整理するのに便利な道具に過ぎないという科学の相対主義的・実用主義的な見方が提唱されました。例えば、ポアンカレ、デュエム、ル・ロアなどです。

 客観的な即自的世界を否認する同じような変革は、科学の他の領域においても並行して進み、たとえば生物学においてはユクスキュル(1864-1944)の環世界論Umweltenlehreが、すべての有機体にはそれぞれ特有の空間性や時間性、内容的性質をそなえた環境構造があって、それ自体において規定されている客観的世界を論じることの無意味であることを教え、また心理学の領域においてもゲシタルト学説が、それまでの要素主義的心理学の恒常仮説 ─ 物理的刺激と感覚との一対一の対応関係の想定 ─ を批判して、われわれの経験に与えられているものが、いわゆる客観的世界ではないことを明らかにした。こうして絶対的な真理の領域としての理性や、その具象化としてのニュートン物理学的世界像への信頼が根底からゆるがされるような事態が、まず科学(哲学に対する科学、筆者注)そのものの内部で現れてきたのである。(木田『現代の哲学』、p.30)

 やはり木田によることになりますが、19世紀中には、一方で、科学の進歩によっていつかは客観的世界の完全な認識が達成されるだろうという19世紀の楽観的な科学的道理主義が生まれ、他方では、人間理性がいっさいの制約から解き放たれて、もはや認識主観であるにとどまらず、その実践的性格を強め、歴史や社会を合理的に形成していくヘーゲル流の絶対精神にまで高まっていきました(ヘーゲルの『精神現象学』は1807年)。しかし、このように近代の理性主義が完成されようとしたそのときに、一方で、上で論じたように、科学そのものの内部でその基本的前提となっていた客観的世界の想定が打ち破られることになりました。そして、他方では、マルクス(初期マルクス)やキルケゴールなどによって、絶対的理性主義が否定される考え方が提示されました。マルクスもキルケゴールもともに、ヘーゲル流の抽象的な理性主義に対して具体的な人間存在を回復しようとする試みでした。

2.生活世界と世界内存在
 世界内存在に接近するために、マルクスが提示した新しい人間把握の方向を見てみましょう。1845年頃のいわば覚え書です。

 従来のあらゆる唯物論 ─ フォイエルバッハのそれも含めて ─ の主要な欠陥は、対象が、つまり現実、感性が、ただ客体ないし直感の形式のみで捉えられ、人間的・感性的な活動、実践として、主体的に捉えられないことである。それゆえ、活動的側面は唯物論とは反対に観念論によって展開される ─ とはいえ、観念論はもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らないので、ただ抽象的に展開されたにすぎないが ─ ということになった。
(「フォイエルバッハに関するテーゼ」廣松訳、2002年、p.231)

 その1年後の『経済学・哲学草稿』のヘーゲル哲学批判の部分で議論の中間総括として、マルクスは「ここに見てとれるのは、考えぬかれた自然主義ないし人間主義が、観念論とも唯物論とも異なるものであること、同時に、その両者を統一する真理だということだ。とともに、世界史の行為を把握できるのは自然主義だけだ、ということも見てとれる。(マルクス『経済学・哲学草稿』、長谷川訳、p.185)

 詳細な議論は割愛しますが、マルクスは従来の主観か客観か、精神か物質かという二者択一を越えたところで人間を捉えようとしていることがわかります。
 1で論じたように、近代から現代への移行の中で、この世界が即自的な(それ自体で完結した)事物の総体、つまりわたしたちの前に繰り広げられた対象的な物理的世界でないことが明らかになってきました。それに代わって出てきたのが、世界内存在(In-der-Welt-sein)という人間(と世界)の在り方についての見方です。
 わたしたちが生きる世界、つまり生活世界は、「ただ客体ないし直感の形式でのみ」捉えられる世界ではなく、「人間的・感性的な活動、実践」の場面として「主体的に」捉えられている世界です。そして、主体とは、これもマルクスの言うように、「現実的・感性的活動」に従事する主体であって、その身体によって世界の内に深く挿し込まれ、投げ込まれた存在となります。ここにわたしたちは、世界と人間の特有の絡み合いを見ることができます。このような物でもないし、純粋意識でもない人間の在り方を現象学では、そして具体的にはハイデガーは、世界内存在と呼んでいます。ちなみに、現象学そのものも、同じような時代背景と問題意識を端緒として提唱されたものです。

2019年11月3日日曜日

現象学から人間科学へ⑦ ─ 『イデーン2』におけるフッサール

以下の記事は、NJフォーラム・マンスリーの2019年11月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載された記事の再掲です。  

 前回最後に予告した、言葉や言語の登場は少し先延ばしにしたいと思います。すみません。
 前々回は、間奏的に、現象学のその後の展開の概略図として、実存主義と解釈学と現象学的社会学への展開を概観しました。今回は、現象学に立ち返って話をします。『イデーン2』におけるフッサールの話をします。焦点は、自然的態度と自然主義的態度の対比と生活世界です。(『イデーン』は『純粋現象学と現象学的哲学の諸構想(イデーン)』の略称)

 一般に中期フッサールと言われる『イデーン1』を中心とした第4回の内容は、「厳密学としての哲学」あるいは「すべての科学の基礎学」としての現象学の構想の展開でした。これに対し、『イデーン2』はフッサールの後期思想の萌芽に位置づけられています。

1.自然的態度と自然主義的態度と生活世界
 『イデーン2』で、フッサールは、『イデーン1』で重要概念として論じられていた自然的態度を再考します。そして、それを改めて、自然的態度自然主義的態度に区別しました。そして、還元によって超えられるべきであったのは、自然科学のように自然を客体化して見る自然主義的態度だったのだと考えるようになります。こうなると、現象学的還元は、客体的なものの意味の生成を主体の構成作用に遡って明らかにするという一般的な認識論的操作ではなく、むしろいっさいの事象を主体-客体の相関関係において見ようとする客体化的な意識の態度(自然主義的態度が滲みついた態度)を排除するものと考えられるようになります。そして、この還元によって、本来の自然的態度が根源的なものとして姿を現してくるようになるわけです。フッサールの用語では、「態度」は習慣によって生じるある特定の世界定立作用の連関ですが、(本来の)自然的態度はその意味では他の態度と並ぶ一つの態度ではありません。むしろ、自然科学の基礎となる自然主義的態度や精神科学の基礎となる人格主義的態度などの他の態度に先立って、基底としてそれらを可能にするものとなります。
 このように現象学的還元によって客体化された自然主義的世界が排除されます。しかし、だからと言って、わたしたちは動物的な自然の世界に生きるのでもなく、主観性だけが作用する領海に生きるわけでもありません。むしろ、自然主義的な客体化に先立つ本来の自然な世界経験が回復されるのです。そして、その自然な世界経験もやはり世界内存在としての世界経験となります。フッサールはこうした自然な日常的経験において生きられる世界を生活世界(Lebenswelt)と呼んでいます。

 木田は、ここでフッサールの考え方は大きな転回を示していると見ています。すなわち、それ以前は哲学的反省(超越論的還元)とは無世界的な純粋意識つまりすべての意味を根源的に産出する超越論的主観性の立場に身を置くことだったのですが、今や、哲学的反省(哲学の課題)は、わたしたちの素朴な日常的経験、つまり普段は反省されることのない自然的態度を振り返り生活世界を回復することになったのです。そして、メルロ=ポンティがこのようなフッサールの志向性を継承しています。以下は、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』からの一節です。

 したがって、最初の哲学的行為は、客観的世界(上に言う客体化された自然主義的世界、筆者注)の手前にある生きられる世界にまで立ちもどることだということになるだろう。それというのも、この生きられる世界においてこそ、われわれは客観的世界の権利もその諸限界も、了解しうるようになるだろうからだ。また、最初の哲学的行為は、事物にはその具体的表情を、有機体には世界に対処するその固有の仕方を、主観性にはその歴史への内属性を返してやることだ、ということになるだろう。(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、pp.110-111)

2.フッサールのクリティカルなモチーフ
 以下、少し大仰な話をします。
 プラトン以来ヨーロッパ的学問の真の理想は、それ以上遡り得ない絶対的な洞察、それ以上ということがもはや無意味であるような第一原理によってすべての認識を理性的に根拠づけ諸学問の普遍的な統一体を実現するところにありました。この理想は近代初頭にデカルトの普遍学の構想によって復活されました。ところが、デカルト以後の近代科学は、こうした根拠づけよりも実用的な効果を追いました。その結果、確かに現実の実用的支配の目的は達成され、わたしたちにとって現実は「より有益」になりましたが、現実がよりよく理解されるようになったかと言うと、そうなったわけではありません。
 ところで、学の理想に含まれていた理性的な根拠づけの努力は、決して理論的認識にのみ関わるものではなく、同時に生きることの実践や価値評価にも関わるものでした。古代ギリシャ以来の形而上学(哲学と同義、筆者注)という理性の追究の企てにはそのような趣旨が含まれており、デカルトによる普遍学の構想にも当然含まれていました。しかし、近代にめざましい発展を遂げた実証主義は、形而上学を独断的で非学問的だとして切り捨ててしまいました。そして、このように近代の実証主義が理性の問題を切り捨てそこから逃避したということは、人間が理性への信頼を失ったということであり、それはまた、理性的存在者であることを自らの本質としてきたヨーロッパ的人間が自己への信頼を失ったことを意味します。このような脈絡で、フッサールは、当時の学問の危機を、ヨーロッパ的人間の根本的な生活の危機、その全実存の危機の表現と見ます。そして、自身の超越論的現象学こそがこの危機を克服する手段だと考えたのです。これがフッサール最晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936年)で展開された議論です。

3.根源的な生活世界への回帰
 フッサールによると、わたしたちが通常、それ自体で存在し、真であり、客体的であると信じている世界は、実はすでに歴史的に沈殿した客体化的認識作業による理念化の成果であり、わたしたちの生活世界の上に構築された主観的形象です。つまり、日常的な常識の枠内においても存在者の全体は、すべてすでに「合理性によって支配されている」という理念の下に捉えられている、とフッサールは主張します。このように近代科学の成果に基づいて着せられた「理念の衣」によって、わたしたちの直接的経験の世界である生活世界が蔽われ見失われることになりました。科学による客体的世界の発見が、そのまま生活世界の隠ぺいになってしまったということです。
 フッサールによると、この「理念の衣」こそが近代的意識にとって最も根深い先入見です。そして、超越論的現象学は、この先入見を還元によって一旦保留することによって根源的な生活世界に立ち還り、そこから逆にこの理念の生成を解明し諸学問の全体を根拠づけようとする企てなのです。これがいわば、フッサール現象学の「野望」です。

2019年10月17日木曜日

入門初期のオーラル日本語と書記日本語の有効な共形成について(続き)

1.欧米語のの場合は、文字としてアルファベットという記号を使い、それの組み合わせとして口頭言語をtranscribeしている。なので、26のアルファベットで文字指導は終了で、あとはスペリングの正確さを問わなければ、口頭日本語と書記言語の両方を使って言語習得を進めてもよい。スペリングの正確さを問わない書き方は、まあいわば「メモ」です。
2.しかし、日本語の場合は、文字そのものとして、ひらがな50、かたかな50、そして、漢字(基礎で)300、ある。
3.ひらがなとカタカナは、表音文字として学習・指導してよい。その場合には、2つの側面からの学習・指導が必要。(1)各文字の書き方・認識を学習・指導する、(2)知っている日本語の語やフレーズをそれに対応するひらがなの組み合わせやカタカナの組み合わせと照合して認識・再生できるように学習・指導する。そして、この(1)と(2)はうまく「行ったり来たり」しながら共強化しなければならない。
4.漢字の学習・指導の原理も、当面は上の3のひらがなとカタカナの学習・指導の場合と同じ。
5.ただし、ひらがな・カタカナと比べて、漢字はしばしば字形が複雑で構成的になる。それは、まあ象形は別途として、指示、会意、形成などの原理で一つの漢字ができているから。
6.なので、漢字の指導の場合は、3の原理を踏まえながらも、象形も含めた5の漢字の特性にも留意して指導するのが、「息抜き」にもなるし、漢字という文字の様子を知り、漢字同士の関係づけにも役立つということで、効果があるでしょう。
7.結論として、上の1−6を認識しつつ、3・4と6の原理に基づいてしっかり指導する必要があります。そして、3の(2)の「(2)知っている日本語の語やフレーズをそれに対応する(ひらがなの組み合わせやカタカナの組み合わせや漢字の組み合わせや漢字とひらがなの組み合わせと照合して認識・再生できるように学習・指導する)」という原理を実現するためには、口頭日本語で!知っている日本語の語やフレーズを増やすことが、書記日本語の技量を総体的に伸ばすための基盤になるということです。つまり、少なくとも基礎段階では書記日本語は二次的、派生的な日本語力だということです。8.この「書記日本語は二次的、派生的な日本語力だ」という認識が希薄になる傾向がしばしばある、ということです。
9.そして、日本語の指導の総体として重要なことは、音声(オーラル)日本語と書記日本語の有効な共形成です。
10.形成のためには「無理のない」じわじわの学習・学習指導が必要です。

2019年10月8日火曜日

入門初期のオーラル日本語と書記日本語の有効な共形成について

 以下、2019年秋学期(10月スタート)の日本語集中コースの開始にあたり、コーディネータの立場から先生方に発信したメッセージです。集中コースとは、大学院進学予備教育で、週に毎日で、15コマ(各90分)×15週間というほんとうに「集中」コース(計337.5時間)です。このコースでは、学習と習得支援(教授)を支援するリソースとしてNEJを使用しています。
 以下、貼り付け。


○ ぼくの「気がかり」
 以前から、
(1)日本語の文字は「超厄介者!」。こんなヤツがなかったら、日本語の習得と習得支援はもっと楽々に行くのに!
(2)しかし、現にこの超厄介者があるのだから、コイツも含めて、何とかオーラル日本語と書記日本語の両方が順調に上達するようにプログラムを工夫するしかない。
(3)これまでの(IJでの)やり方はまだ十分に工夫されていない。
というのが「気がかり」でした。で、今学期。

○今学期の「指針」
1.ユニット4までは、オーラル日本語の習得を優先する。つまり、正書的に書かれた日本語を読ませるということはしない。ローマ字表記のテクストは「それ」を思い出すための「手がかり」として活用する。ローマ字表記のテクストも決して「読む」のではない。
⇒「Deciphering and mimicking Nihonngo」で、decipherging(解読)というのはローマ字テクストでの日本語の解読です。音声形態で優先して日本語を習得するための工夫です。決して、正書法の日本語テクストをdecipherさせないでください。
2.一方で、(1)(音声形態でおおむね習得した)語や句とその書記体との照合を通して音声形態の語や句の書記形態での姿を「見知る」こと、(2)「見知って」それをなぞること、などにより、(音声形態で知っている)語や句の書記形態での姿に馴染む練習は、適切なタイミングで「無理なく」豊富に行う。
3.さらに一方で、文字の書き方の指導は、基本としては語や句をベースにしながら、有効&巧妙に行う。
4.ユニット5以降も、「オーラル日本語習得の優先」を基本としてください。オーラルがまだ身についていないのに(正書法の)日本語を読ませるというのはしないでください。
5.書記形態での日本語を「後追い」の形で強化するために、ウィーク4以降に「Oral review and Reading and writing enhancement」というのを入れています。ここで、読み&書きの強化をします。
6.その他にも、(a)オーラル日本語優先、(b)オーラル日本語と書記日本語がうまく連係した日本語上達の工夫、がスケジュールに反映されています。

というようなことで、これまでの学期にも増してamazingな結果が出せるように、有効&滋養たっぷりの指導を、よろしくお願いします。

ご意見などありましたら、先生間で、また、わたしのほうにも!

西口

2019年10月6日日曜日

土台としての理論と本質探究のための理論的議論

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年3月号に羅針盤として掲載されたものです。

土台としての理論と本質探究のための理論的議論

 「わたしは理論が弱い」と告白する院生が多いです。確かに、データに基づく研究をするにしても、理論は必要ですね。そんな告白を聞くと「ふむふむ」と思うのですが、いつもやがて「うん??」となります。最近、その「うん??」の正体がようやくわかりました。
 昨日「子どもの変容に対するフリースクールの役割」という修士論文の発表を聞きました。例のごとく、フリースクールの常勤スタッフ2人に半構造化インタビューをしてという研究でした。そして、ハーシ(1969/2010)のボンド理論を基礎として分析するということでした。ボンド理論というのは、「『人はなぜ社会のルールに従っているのか?』という視点から、逸脱は社会的絆(social bond)が弱体化することから起こる」という理論だそうで、森田次朗(1991)が不登校現象にそれを応用しているということで、森田がまとめている4領域のボンドに基づいて分析したとのことでした。この発表のようにうまい理論を持ってくると分析は相応にすっきりいきますし、その上で、上手に考察の議論を行えば、わりと立派な研究に仕立て上げることができます。
 このボンド理論適用の例は、実証研究をする土台としての理論の話となります。つまり、持ってきた理論は分析のための土台です。このような場合は、当該の現象を説明するために適当である可能性のあるいくつかの理論をまずは持ってきて、その中のどれが最も適当かの吟味をした上で、一つの理論を適用しなければなりません。また、そのように持ってきた理論はデータ分析のためのいわば「当面の方便」のようなものなので、方便であることをしっかりと認識して、いわゆる考察を行った上で、さらに、理論そのものの適切性や妥当性を検討する議論も展開しなければなりません。
 さて、ぼくが言いたいことは、上のような土台としての理論の利用方法ではありません。院生たちがほしがっている理論はそのような土台としての理論なのかもしれません。しかし、ぼくが興味と関心をもって取り組んでいるのはどうもそういう理論ではないようです。ぼくが取り組んでいるのは、言語や認知や文化(社会)や現実や自己など、及び言語の習得と習得支援の全般にわたる基幹の部分を一貫した形で説明できるような理論のようです。そのような理論がないと、第二言語の習得と習得支援に関していかなる実質のある研究もできないのではないかとぼくは思っているようです。そして、ぼくがやってきた&やっている研究(?)はそういう理論の構築に向けての研究のようです。(実は、あと一歩で「いける!」気がしています。乞うご期待!)
 院生の皆さんは、当面自身の研究の「背骨」となる土台としての理論を見つけ出す必要があるだろうと思いますが、一方で、第二言語教育学の本質探究に関わる理論にもぜひ関心をもってほしいと思います。研究の深化のためにも、教育実践(企画・教材制作・授業実践)のためにも。

母語話者並に? ─ 日本は多言語多文化社会になっているか?

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年2月号に羅針盤として掲載されたものです。

母語話者並に? ─ 日本は多言語多文化社会になっているか?


 少し以前から第二言語教育関係の論考などでしばしば、「第二言語話者(非母語話者)は母語話者並に話す(書くも?)必要はない。第二言語話者は第二言語話者らしく、あるいは自分らしく話せば(書けば?)いい!」との意見が出されています。一方で、学習者の中には「母語話者と同じくらいに日本語ができるようになりたい」と言う人がいます。そして、さらに他方で、やたらに文法にうるさい先生がいます。この3つの意見、いずれに対しても違和感があります。
 ハワイに行ったときに、空港から宿までタクシーに乗りました。運転手さんは中国系の人でした。これから行く道の話から始まって、道中のあれこれの建物の話を機嫌よくしてくれるのですが、こっちは「予習不足」なので、地理も分からず、建物もよく聞き取れません。英語はbroken Englishと言っていいし、発音もかなり訛りがありました。話を聞くと、この5・6年の間にハワイに移住したらしいです。この運転手さんは明らかに「母語話者並に」は話していないし、母語話者並みの英語力を身につけているとはいえません。でも、この英語でタクシーの運転手の職を得て、ハワイで悠然と暮らしているわけです。たぶん、ハワイには中国人コミュニティなどもあって、英語が十分にできなくても十分に「居場所」があり、生活情報源もあって、快適に暮らせるのでしょう。この運転手さんにとっては、今の英語力で当面は十分で、今は十分にハッピーなのでしょう。一方で、タクシーの運転手さんの英語が十分に理解できなかったぼくのほうは「もっと英会話ができるようになりたい!」なんて全然思いませんでした。それどころか、無精をして「ああ、そう!」と日本語で生返事をしているくらいです。英会話のための英語力は今くらいで十分と思っているのです。それでいて、今英語で講義をしているのですが、こっちのほうは「もっとしっかりと伝え、学生を引きつけ楽しませる講義ができるようになりたい!」と強く思っています。ただ、こっちのほうも「ネイティブスピーカーの大学の先生のように!」というのは到底ムリです。日本語教育者であり、ユーモアが好きで、学生をリラックスさせるのが得意?なぼくは、そういうぼくらしく英語で講義をしたいと思っています。
 ハワイの中国系の運転手さんの例からは、多言語多文化になっている社会では、共通語になっている言語の能力はかなり限られていてもだいじょうぶということが言えます。ぼくの例からは、その人から見えている第二言語の言語活動領域というものがいろいろあって、領域によって「できるようになりたい」と「そこそこでいい」があることがよくわかります。ぼくの場合では、ぼくの専門分野の学術英語と講義の英語技量は「できるようになりたい」のほうで、英語での日常的な会話や旅行先での会話は「そこそこでいい」となります。
 結論です。多言語社会で暮らす複言語話者における第二言語や第三言語の能力について考える場合には、言語活動領域と「間に合っているかどうか」が主要な視点となります。簡単に言うと、必要なあるいは従事できるようになりたいと思う言語活動領域で「間に合う」ことがその人にとっての言語能力のゴールです。そして、それは当該の言語活動領域に限定してもたいていは母語話者並みではありません。ちなみに「間に合う」と言う場合に実際に話している言語の質は、言語活動領域と「間に合う」の中身によって全然違います。いつぞやサンフランシスコで乗ったタクシーのプエルトリコ系の運転手さんはほとんど世間話もできませんでした。行き先も何度も言い、説明しなければなりませんでした。こちらとしては「間に合ってないでしょう!」と思いましたが、ご本人としては「タクシーの運転手として『認められて』職を得て、その仕事を曲がりなりにもしているのだから、間に合っている」となるのでしょう。
 そもそも習得者の種類やその人が置かれている状況と無関係に一様・一律に言語能力というものを措定するというのは、最初から違っています。そして、そのような一様・一律の言語能力を措定した上で、第二言語話者の場合はそれを割り引いて「不完全でいいんだ!」と言うのは、値段をつり上げておいて「ああ、じゃあ5割引にしておくよ!」と言っているようなものです。人によって必要なあるいはできるようになりたい言語活動領域と「間に合う」が違うわけで、それに寄り添うのが本来の第二言語習得支援なのだろうと思います。
 ただし、日本で暮らすとか日本で仕事をするという事情になった場合は、どうもそんなに簡単には「間に合わない」ように思います。あのプエルトリコ系の運転手さんレベルの日本語力では決してタクシー会社に雇ってもらえないでしょう。あのハワイの中国系の運転手さんでもダメでしょう。日本語力が実用能力としてかなりの水準に達していないと、人とのコミュニケーションを伴う仕事はさせてもらえません。日本はまだまだ「日本語力がいろいろな人たちがハッピーに暮らせる」という意味での多言語多文化社会になっていないのだと思います。

日本語教育を構想することについて

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年1月号に羅針盤として掲載されたものです。

日本語教育を構想することについて

 あけましておめでとうございます。昨年は、就労外国人の受入れ施策のことで、世間は大騒ぎ。そして、今年は、新しい元号の元年とともに、日本開国元年となります。昨年の11月や12月は、就労外国人関係の日本語教育界の動きにたくさん言いたいことがあって、ブログ(https://koichimikaryo.blogspot.com)であれこれ発言してきました。で、そういう発言に疲れたので、今回はまったく違うテーマでとても自由に書きたいと思います。日本語教育の構想の仕方についてです。
 小中高の教科の学習というのは、現状では知識の習得が中心(←それがいいかどうかの議論は当面置いておいて)なので、教育の企画も、教育の実践も、そして評価も、わりあいしやすいです。一般的に言って、教育内容を「即物的に」設定すると企画も実践も評価もしやすいです。日本語教育ではしばしば「文型・文法か、コミュニケーションか」という議論が行われます。前者では教育内容として文型・文法や語彙などの言語事項を並べるわけですから、「即物的」で、企画も実践も評価もしやすいものとなります。しかし、「日本語の上達」という教育成果が得られるかどうかは「?」です。では、後者はどうでしょう。
 学習活動をコミュニケーションの形で行うということであれば、それは「即物的ではない」ということになります。しかし、コミュニケーション中心で教育を企画する場合に、何が行われているのでしょう? それは、悪名高き!(←と思っているのはわたしだけ?)ニーズ分析とコースデザインです。ニーズ分析では、目標場面target situation(できるようになるべき言語活動)を明らかにして、さらにそこでの話し方である目標言語target languageが調査されるわけです。次に、そうした調査の結果に基づいてコースがデザインされ、教材が制作されます。そして、そのようにして制作された教材の主要部は、端的にいうと、場面別やり取り集となります。つまり、「文型・文法か、コミュニケーションか」の後者のコミュニケーションを選んだとしても、結局は新たな「即物的な」言語事項が主な教育内容になってしまうわけです。ただし、これは基礎的な段階の教育を考えた場合のことで、一定程度の基礎力をすでに身につけている学習者に対して課題解決型のモジュールからなるプログラムを策定した場合はかなり「即物的」ということから免れるでしょう。文化庁の報告書(1月15日まではまだパブコメ中)を見ると、就労外国人のための日本語教育では、こうしたニーズ分析とコースデザインというパラダイムで教育を企画することが推奨されているようです。しかし、それはおそらく基礎段階の教育になるでしょうから、新たな「即物的な」教育となるでしょう。
 さて、ここまでは前口上で、ここからが本論です。
 では! 「即物的な」ものは習得しなくていいのでしょうか。つまり、言語事項は習得しなくていいのでしょうか。それは、そんなはずはありません。日本語ができるようになるというのは、日本語を使いながら能動的に言語活動に従事したり、相手の話を日本語を手がかりとしながら理解して応答したりできるようになることですから、日本語ができるようになることには、どのような形であれ言語事項の習得ということが伴います。日本語が上達するというのは、多かれ少なかれ言語事項の習得を伴いながら、より広い言語活動やより高度な言語活動に、より有効に従事できるようになることです。
 そのような日本語上達の経路に合致する日本語教育の構想はどのようなものでしょう。つまり、日本語教育の実践が「即物的に」言語事項を教えることから免れて、しかし結果として言語事項の習得も含めた言語活動従事技量の上達を促進できるように日本語教育を構想するにはどうすればいいのでしょうか。その問いに対するわたしの答えは、言語事項の習得を伴う言語促進的な言語活動がユニットの教育指導として実践できるような形で一連のユニットを企画する、というものです。これは、第二言語習得の原理の問題ではなくて、単に論理的な帰結です。ただし、その一方で、何をもって言語事項とするかは、クリティカルに検討されなければなりません。そこで言語事項とされるのは、従来のような文型・文法や語彙などではないでしょう。これは、言語哲学的な問題です。
 さて、クリティカルに検討するべき点がもう一つあります。それは、日本語プログラムの構成に関わることです。まずは、最終的な目標が日本語での言語活動に実際に従事できるようになることだとして、どのような方面の言語活動に従事できるようになることが期待されるのかをクリティカルに検討することです。その際には、当該の日本語プログラムの教育的な文脈や制度的な文脈などを含むさまざまな文脈も考慮されなければなりません。さらに、ある方面の言語活動に従事できるようになることが最終目標として設定されたとして、その水準に至るための前段階の基礎的な教育が必要ではないかをクリティカルに検討し、必要ならば基礎教育としてそれを企画することです。基礎的な日本語力を養成しないで、いきなり実際のコミュニケーション場面を設定した練習ばかりするのは、何ともナイーブだと言わなければなりません。これはすぐれて日本語教育学的なテーマだと思います。
 このように有効となり得る日本語教育を構想するためには、時には論理的に考え、時には言語哲学と向き合い、そして、最終的には日本語教育者としての高度な専門的知識と深い洞察を動員してさまざまな判断が下されなければなりません。「文型・文法か、コミュニケーションか」という二者択一で考えたり、教育企画と言うと即座に「ニーズ分析の出番だ!」としていては、いつまで経っても、「『即物的な』教育企画ではないが即物的な言語事項の習得も伴わせる巧妙な日本語教育の構想」はできないでしょう。「ニーズ分析!」、「コースデザイン!」と叫ぶのは、すでに古色蒼然の観があります。また、基礎教育を、従来の初級日本語教育で間に合わせてそのままにしているのもどうなのでしょう。わたしたちは、巧妙な日本語教育の構想の下に、創造的で調和的な日本語教育の実践を今後も展開していきたいと思います。

沈没しそうなオンボロ船から最新鋭の新造船に乗り換える!

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2018年12月号に羅針盤として掲載されたものです。

沈没しそうなオンボロ船から最新鋭の新造船に乗り換える! 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。
 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。
 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!)
 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない? 
 うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く! 
 日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。
 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! 

「あいつ、年下のくせに、なまいきだね」は日本語ネイティブにはわかる!?

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年3月号にコラムとして掲載された者です。

「あいつ、年下のくせに、なまいきだね」は日本語ネイティブにはわかる!?

 わたしはFM京都αステーションのファンで、車に乗ったときはいつも聞いています。そして、朝の番組は素敵な低音の素晴らしく落ち着いた話しぶりの佐藤弘樹さんがDJをしています。佐藤さんは英語が素晴らしくできるようで、京都外国語大学の講師もしていらっしゃって、同番組でワンポイント・イングリッシュというコーナーをいつもやっていらっしゃいます。「こんなの英語で何と言うのだろう?」というような話です。ワンポイント・イングリッシュで取り上げられる表現はいずれも英語で表現するのはむずかしいです。そして、自分たちの(1)生活習慣に基づいた上で、(2)日本語で考えて、そして(3)日本語にした上でそれを英語にしようとする、(悪い!)習慣がある「英語が苦手な」英語学習者たちには「なるほど、だからそれを英語で言うのがむずかしいのかあ」と手を打って思わせるものばかりです。しかし!! これってどうなの? そういう「悪い習慣」をもっている人の「悪い習慣」に基づく「ご質問」に答えて(応えて?)いていいのでしょうか、英語の習得を支援しようとする者として。佐藤さんの番組は佐藤さんのトークもそこで流される音楽も大好きなのですが、このワンポイント・イングリッシュだけはいつも「引っかかり」ます。
 そのワンポイント・イングリッシュで先日(実は2月10日)「『あいつ、年下のくせに、生意気だね』は英語でどういうんでしょうね?」というのが出てきました。佐藤さん曰く「 うーん。これは、英語にならないでしょうね。これは、日本語ネイティブならわかりますが、英語話者の人には何を言ってんだかさっぱりわからないでしょうね」。ワンポイント・イングリッシュにはそもそも「引っかかって」いるのですが、この「日本語ネイティブならわかりますが」には大いに引っかかりました。日本語ネイティブと言われるには、この水準までどっぷり『日本』に浸かっていないといけないの? そもそも「あいつ、年下のくせに…」というのはほとんど差別発言です。「あいつ、女のくせに…」とか「あいつ、男のくせに…」というふうにすれば差別発言であることがすぐにわかります。差別発言は、差別発言だからだめ、というものではありません。そのように言われた当事者が不快になることと、そのような不当な「線引き」を維持し助長するから、いけないのです。その根本は、人に対するやさしさや人を一人の人として尊重する態度です。そのようなことを考えると、「あいつ、〜なのに…」という発言は、そもそも人へのやさしさや尊重する態度のない発言となります。それを「これって、英語でどう言うんだろう?」というネタにするというのはどうなんでしょう? そして、実はワンポイント・イングリッシュで取り上げられているネタの多くは、ここまでひどくはないにしても、「土着的な」生活習慣に基づいた発想の日本語がとても多いです。
 「外国語を学ぶときは、その言語が話されているところ/人々の文化や習慣も理解しなければならない」とよく言われます。それは、一応その通りではありますが、その基本は、(a)人へのやさしさと尊重する態度と、(b)自身が身につけていることの中で自文化に特殊的な部分を認識し意識化すること、です。(a)のほうは、言語や文化を超えた普遍性のあるものです。そして、(b)の「自身が身につけているもの」には、自文化に特殊な部分と(a)に通じる部分の両方が含まれています。そんなふうに考えると、外国語学習を通してめざすべきは、他者を尊重しよりやさしい度量の広い人間になることであって、相手の文化の特殊性を知っておもしろがることではありません。そして、そうして身につけた態度や度量は、自身の第一言語で外国出身の人と話す場合においても発揮されるものです。
 こんなふうに考えると外国語の学習は人格の陶冶ということに大いに資するものなのだと思われます。外国語を勉強しているのにあいかわらず「あいつ、〜なのに…」というような考えをもっている人は、一体、何をその外国語で話し、どのようにその言語の話者と交わろうとしているのでしょうか? 何だか、そんな人は、そもそもの外国語学習の入口にも立っていないのではないかという気がします。
 ああ、ちなみに、佐藤弘樹さんのために「弁護」をすると、佐藤さん自身は英語教育の人でもあるわけですが、このワンポイント・イングリッシュについては、教育的な観点ではなく、娯楽的な観点でやっていらっしゃるということだと思います。そして、いわゆる英会話を勉強しているという人のかなりの部分は、真剣に英語ができるようになって何かをしたいということなのではなく、英会話の勉強そのものがそもそも娯楽なのではないかとしばしば思ってしまいます。もちろん、そういうのも「あり」ですが。

2019年10月1日火曜日

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし なりのこたえ

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし
なりのこたえ
                                  西口 光一

先日、神戸のコミュニカ学院で研修を担当させていただきました。その時に、わたしの
考えを十二分に理解してくださった上で院長の奥田先生から「そういう話の上で、結
局、西口先生は何のために日本語を教えるの? 学生たちは何のために日本語を学ぶ
の?」と尋ねられました。5月以来何回か、NEJやNIJの日本語教師対象のセミナーとい
うことで表現活動中心の日本語教育(自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現
活動中心の中級日本語教育を合わせたもの)について話す機会がありましたが、そこで
はどちらかというと「学習者における日本語の上達」に関心を置くオーディエンスの関
心に応える形で、「従来の日本語教育の企画(言語事項中心のアプローチや実用的なコ
ミュニケーション中心のアプローチ)では日本語を上達させることはできません。日本
語を上達させることができる教育企画は表現活動中心の日本語教育です!」という指摘
をして、同教育企画の内容をお話しし、さらにユニットの一連の授業の流れを説明し
て、その一部について具体的に模擬授業を実施する、ということをしました。そんなこ
とでこのところひどく「実際の教育実践対応」をしてきたわたしには、奥田先生のご指
摘は改めて表現活動中心の日本語教育の原点に回帰させてくれるものでした。

表現活動中心の日本語教育におけるそもそもの「関心」は二つです。一つは、上で言及
したように、本当に日本語を上達させることができる日本語教育を構想しその実践を実
現することです。そして、その先にあるもう一つのより上位の関心は、新たな言語を習
得してこれまで交わることのできなかったもっとたくさんの人と交流してほしいという
ことです。そして、より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かに
してほしいということです。この後者は、CEFRの複言語主義と重なる関心かと思いま
す。

仮に、前者を「つながる日本語」という関心と呼び、後者を「つながり」という関心と
呼ぶことにします。あえて、これらに形容詞をつけると、「つながる日本語」は教育的
な関心、「つながり」は価値判断的な関心ということになるでしょうか。

両者の関係は、一見すると、「つながる日本語」の習得が先で「つながり」はその後に
実現できることというように見えるかもしれません。そして、この見方では後者が目的
で前者が手段という具合になってしまいます。しかし、これでは、またまた「道具主義
的な教育」の「復活」となります。表現活動中心の日本語教育では、この2者をそのよ
うな関係としては考えていません。「そのような関係としては考えていない」というこ
とには二つの面があります。

一つは、「つながる日本語」の学習と習得支援(教育)を、さまざまなところから来た
さまざまな背景を持つ他の学生とつながり交流しながら行っているということです。つ
まり、言葉を行使するというのは人とつながることなんだという見解を口で言うのでは
なく、具体的な学習と習得支援の実践として伝えているわけで、そのような実践を通し
て「より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かにしてほしい」と
いうメッセージ/願いを伝えるようにしているわけです。このように表現活動中心の日本
語教育では両者は目的と手段というような関係ではなく、重なり合っています。

今一つは、一つ目と明らかに関連していますが、表現活動中心の日本語教育を実践する
教師は授業であるいは授業外で学生と接するときの態度でも、上のようなメッセージ/願
いを伝えています。同教育を「正統に」実践する教師は、「日本語を教えている」、
「日本語をしっかりと身につけてください」という態度で学生と接することはありませ
ん。むしろ、「日本語で自身のことを話せるように/インターアクションできるようにな
っていろんな人とつながってね。そしたら、楽しいよ。人生がもっと豊かになるよ」と
いうような部分に関心を持っているという態度で学生と接しています。上のエッセイで
岡崎さんが言っているように、表現活動中心の日本語教育の教師は、「つながる日本
語」として学習者一人ひとりが自分の自己というものを紡ぎ出せるようになることに、
そして相互の紡ぎ出し合いによるつながりと対話に関心を置いています。日本語の習得
というのはそれに付帯する事柄として副次的にのみ関心が寄せられます。

このように、表現活動中心の日本語教育は、「つながる日本語」という教育的な関心と
「つながり」という価値判断的な関心を契機として、その両者が渾然となって実際の教
育が実践されるようにと企図して構想されたものです。そして、一教育実践者であるわ
たし自身は言うまでもなく、「正統派」の教師たちも、そのような企図を具現する形で
教育を実践しています。

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

この時期は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものです。

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

 今回は、現象学とは何かをできるだけ簡明に説明し、さらに現象学と現象学的心理学を架橋する議論を紹介したいと思います。
 メルロ=ポンティは、自然的態度、エポケー、現象学的還元について以下のようにうまく説明しています。(木田からの孫引きで、原著はまだ確認していません。) すなわち、自然的態度に生きるかぎりでのわたしたちは、環境や外的諸条件によってさまざまに条件づけられています。メルロ=ポンティはこれを「負わされた条件」と呼んでいます。そして、現象学的還元は、この「負わされた条件」を、エポケー(判断留保)という操作をすることによって、「意識された条件」あるいは「自覚された条件」に変えようとすることです。決して条件づけられていることを否定しようと試みることではありません。(第4回の末尾のメルロ=ポンティの引用ももう一度見てください。)

1.『イデーン1』における志向性の再考
 初期の『論理学研究』で、フッサールは、意識の志向性という視点を中心に据えて主として心理学主義を批判しました。そして、中期の『イデーン1』においてはより包括的に自然主義批判を行います。そのために、志向性の問題も考え直されることとなります。『論理学研究』で問題になっていたのは広い意味での心理というイデア的対象の構成に関心が置かれていました。しかし、『イデーン1』においては、イデア的か実在かを問わずすべての対象の構成が関心の対象となりました。すなわち、すべての志向的対象の存在が、それを構成する意識の志向作用に遡って明らかにされなければないこととなりました。そして、一般的に、存在と意識とは厳密な相関関係をなしているのであって、いかなる存在もそれが意味をもつかぎりは必ずそれに対応する意識の構成作業があり、その作業においてそれがそのような意味をもつものとして所与となるのです。
 ここで間奏として、『イデーン1』におけるフッサールのねらいを見ておきたいと思います。上のように、世界の存在とその意味に関するあらゆる仮定や先入見が還元によって排除(一旦、判断保留)され、世界や世界の内部で経験され得るすべての存在者(存在者というのは、実際には「者」ではなく、対象として存在する「もの」、筆者注)の本質的な区別と構造は、それら存在者が与えられるさまざまな意識の作業にまで遡って問い直されることになります。例えば、自然科学や精神科学の用いる基本的な概念やカテゴリーは、たいていの場合素朴な世界革新の上に立つわたしたちの日常的経験から汲み取られたものです。それが、それらの諸科学が究極の根拠づけをもち得ない理由です。ですから、それら科学の基本的概念やカテゴリーは、現象学によって根本的に検討し直さなければならないのです。そして、フッサールによると、超越論的現象学こそ、かつてのデカルトの試みと同様に、自己と世界とを意識している者としてのわたしたち自身の確実性に立ち返っていっさいの諸科学を基礎づけなおすべき基礎学だとなります。

2.ノエシスとノエマ
 さて、議論をわたしたちの関心に近づけていきたいと思います。
 端的に、上に言う存在者がノエマで、それに与えられる意識あるいは志向作用がノエシスとなります。ラングドリッジはこれをわかりやすく、ノエマ=経験されることノエシス=経験される仕方、と説明しています。つまり、意識あるいは経験の一般的構造は、志向作用であるノエシス的契機と、そこで志向される対象であるノエマ的契機との相関関係として捉えられるわけです。
 ラングドリッジは、それ以前の意識についての考え方の「自己中心的袋小路」問題について論じ、現象学から現象学的心理学への橋渡しをしています。

 過去200〜300年にわたって哲学では、とりわけ17世紀のデカルトの哲学に従って、私たちは自己自身と自分の考えや感情に気づくのであって、そのようなものとして意識は、そうした考えや感情を導く外部の事象に向かうというより、内部に向かうというように、きわめて特別なしかたで理解されてきたのだった。この、意識についてのデカルト主義的な考え方では、私たちの意識は「何かについての」意識ではなくなってしまう。代わりに、哲学者たちが「自己中心的袋小路」(egocentric predicament)と称したものにとらえられてしまう。神経科学の研究成果は、一見したところ、意識についてのそのような見解を支持しているように思われる。…もし気づきが内面に向かっているのであれば、私たちはどのようにして外部世界に触れることができるのか、という難問(自己中心的袋小路)に直面することになる。さらなる問題として、私たちは、どのようにして、同じように自分自身の主観性の囚われとなっている他人の世界を知ることができるのであろうか。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 ラングドリッジは、明快に指摘します。

 志向性はここでは、…何かをしようと意図する(intention)という普通の意味で使われているのではない。そうではなくて、私たちが意識している(conscious)時は ─ 気づいているときは、と言ってもよいが ─ いつでも何かを意識している(または何かに気づいている)、という事実のことを言うのである。…現象学者にとっては、…意識が世界に向かうそのしかたが、焦点となる。なぜなら意識は、志向的に世界のなかの諸対象に関わるからである。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 そして、現象学的心理学の研究対象を以下のように規定します。
 
 現象学的心理学の研究対象となるのは、世界についてのこの意識であり、具体的に言えば、人間の意識と世界との関係である。それは経験の公共的な(public、筆者注)領域である。…(現象学的心理学では、筆者捕捉)志向的な相関関係において事象が現れるがままの経験とそれが私たちに現れるしかたに取り組むことになる。…これによって心理学という企ては、脳の中の思考のパターンを探究するというよりは、ある人物とその住まっている世界に起こっていることを基にしたものになる。このような構想の結果として、現象学的心理学にとって、経験を理解すること、そしてその人がその住まっている世界をどのように知覚しているかが、中心的な関心事となる。(Langdridge, 2007, pp.13-14、邦訳pp.16-17、一部改訳)

 ここに言う志向的な相関関係が、ノエシス的契機(事象が現れるままの経験)とノエマ的契機(それが私たちに現れる仕方)の相関関係であることは言うまでもありません。

3.環境と世界と、体験と経験
 現象学では志向性が働く以前の生のままの世界のことをしばしば(世界の代わりに)環境と呼びます。つまり、わたしたち一人ひとりは、ある時空間にいて、そこで原初的に環境と接し交わるわけです。そして、わたしたちが覚醒しているかぎり、志向性が自ずと働いて、「何か」としてこの環境を知り、それと交わって生きることを営みます。その「何か」が世界やその中の対象(両者を合わせて存在者)となります。
 実は、日本語とドイツ語は便利で、前者の原初的な環境との交わりと後者の世界との交わりをそれぞれ別の言葉で言うことができます。前者が体験、ドイツ語ではErlebnisで、後者が経験、ドイツ語ではErfahrungとなります。つまり、経験として捉えられる以前の生のままの体験(Erlebnis)というものがあって、それがノエシス的な契機とノエマ的な契機の相関関係として止揚されて経験(Erfahrung)になるのです。
 そして、ここでいよいよ言葉、言語が登場することになります。それは次回に。

2019年9月18日水曜日

どんな日本語教育者になる? ー 勉強者? 発信もするスーパー勉強者?

 ある研究会の友人が研究会のメーリングリストで、知の探求者の分類表ということで、以下のような4象限の図を紹介してくれました。(この図は、『在野研究ビギナーズ』(荒木優太編著、アマゾン日本の思想でベストセラー第1位)を読んで、山本隆一さんがblog(https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/09/08/222032)で提示しているものです) そこでは「勉強者」というおもしろいカテゴリーが提案されています。また、ここに言う「スーパー研究者」というのは「複数の分野にまたがり得る優れた研究者で(たぶん哲学的な造詣もあって!)応用的なアイデアも豊富な人」というようなことかと思います。




で、これを参考にして考えたこと。

1.理系の場合はB(勉強者)の価値は高い
 まず、4象限を右上から時計回りに、SR:スーパー研究者(学者)、B:勉強者、M:マニア、R:研究者、としましょう。荒木優太さん(『在野研究ビギナーズ』の著者)も山本隆一さん(blogで図を発信した人)も基本理系の人ではないかと思います。そして、理系の場合は、あらゆる分野で、実験やシミュレーションなどに基づいた「実のある研究」が十分すぎるほど行われていると思います。つまり、現在「利用可能で(活用されることを待っている)そこにある知」が極めて豊富です。ですから、B(勉強者)の価値はとても高いと思います。

2.「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」というのは一応わかる
 しかし、日本語教育学を振り返ってみてください。日本語教育学には「利用可能でそこにある知」が一見たくさんあります。しかし、その知の大部分は、日本語について(日本語学)と、日本語の使われ方について(社会言語学、会話分析)です。(当面は、実践研究での知の蓄積の話はどけておきます。) そして、それらの知は、日本語教育の実践に「直接に応用が可能」でしょうか。この「直接に応用が可能か」という部分がぼくがずっと「警鐘を鳴らしている」ところです。
 端的に言って、現在利用可能な知は、直接に応用は可能ではありません。応用のためには、(1)まずは知の「出番」を見極めなければなりません、そして、(2)教育指導として適切な形に「仕立て直して」利用しなければなりません。
 現在「利用可能でそこにある知」を生産し続けている研究所の研究者や大学のセンセたちは、「どうぞどんどん使ってください!」「わたしたち(研究者)はいろんな(利用可能な)知を皆さん(日本語教育実践者)に提供してるでしょ!」というスタンスで、「自分たちが好きな」知をただ増やし続けています。そして、研究の方面に必ずしも強くない日本語教育実践者はいつもかれらが発信するディスコースの量と「ややこしさ」に圧倒されて煙に巻かれてそしてひれ伏すばかりです。そんな文脈があるので、「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」という立場は一見「悪くない」感じがします。

3.知性の充実こそ日本語教育学の現状を打破する
 しかし、現在の大勢の日本語教育学の知を生産しているR(研究者)たちとクリティカルに対話をしても、日本語教育学にとって本質的に必要な知は出てこないと思います。ぼくが「日本語教育学には知性が足りない!」(https://koichimikaryo.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlと言ったのはそういう問題意識の表明です。
 結局、問題は、現在の日本語教育学というのは、実際には個別の研究領域の単なる寄せ集めになっていて、そういう個別の学を統括する総括的な学がないということです。そして、そのことが、日本語教育学を迷走させています。実践研究を推進しているグループは、そのような現状を改善・打開するためのかれらとしての試みとして、実践研究というのを強力に推進しているのでしょう。それは、「前向きな」一つの姿勢だと思います。
 ただ、ぼく自身は、それよりも知性の充実こそが必須だと思っています。ただし、忘れてはいけないのは、「日本語教育実践への真摯な関心を維持しながら」です。知性の探究には大きな時間と努力が要ります。ですので、それをやり始めると、ややもすると当初の問題意識である実践への真摯な関心から離れたり、それを忘れたりしてしまいます。

4.新たな本質的に必要な知を生産して発信するB
 当面は、B(勉強者)としてやっていくのはいいと思います。ただし、「既存の知」のBではなく、「新たな本質的に必要な知」を探究するBです。
 でも、考えてみてください。この「新たな本質的に必要な知」をどこの誰が生産してくれるでしょう? 日本語教育学全体をながめても「ほぼいない!」です。そうすると、当面はBでも、近い将来には「新たな本質的に必要な知を生産して発信するB」にならないといけないのでは? それも業績のために発信するのではなく、日本語教育のギョーカイでの知性の拡充を促進するために発信することになります。どのようなメディア、モード、方法でそういう発信をするかは、検討しなければなりませんが。(もちろん業績にもなる形であるなら、それはそれでいい!) 

5.「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」というドライブ(推進力)
 実践への真摯な関心を維持しながらそういう本質的に必要な知を探究する場や「コミュニティ」がぜひとも必要です。そして、知の生産とシェアの場の「馬力」を高く維持するためには、ぜひ「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」という心意気を持つことが期待されます。それが「新たな知を探究する」強力なドライブ(推進力)になるからです。
 ちなみに言うと、日本語教育者&日本語教育学者は、日本語という対象が関わる諸分野だけでなく、言語と言語の習得と習得支援や言語と文化と現実の構成や言語と文化と自己などがテーマとなる分野についても探究する必要があると思います。そのような意味で、日本語教育者&日本語教育学者は避けがたく「オールラウンド・プレイヤー」であることを求められているように思います。ですから、基本はB(勉強者)なのでしょう。ぼく自身、そういう意識です。そして、その行きつく先は、個別分野のR(研究者)を凌駕する「スーパーB」です。そんなBやスーパーBが増えると、日本語教育(学)の分野は俄然おもしろくなると思います。

2019年9月11日水曜日

日々の教育実践での悩みやもがき ─ 「これって、本来じゃないよねえ!」という改革・革新の声

 従来の日本語教科書を主教材とする日本語コースで仕事をしている人は、常に「教科書のこの部分をやってください!」というノルマを課されます。例えば、『みんなの日本語』で言うと、「練習Aと練習Bをお願いします!」、「練習Cと問題をお願いします!」などです。そして、最近では、「練習Aと練習Bの授業を赫々然々の手順で実施してください!」と丁寧に(お節介に!!)指定してくる学校もあるようです。
 そんな中で、自身の授業ができるだけ学生の日本語習得や日本語の上達に資するようにと考える真摯な教師は、「練習Aと練習Bをカバーしながらどのように授業を組み立てれば有効な授業になるか?」、「練習Cと問題というノルマを果たした上で、他にどのような活動を計画し実施すれば学生における日本語の上達に資することができるか?」などと日々考えます。そして、その途上でしばしば、「この練習は 教師に授業実践として何を期待しているのだろう?」とか、「うーん、この練習はそもそも有効・有益なのかなあ?」とか、「そもそも『一つの課で一つ文型に集中』というデザインはそれでいいのだろうか?」などとあれこれ悩みながらも、とにかくあすの授業を何とか有効・有益なものにするべく、もがきます。
 多くの日本語学校や大学でフツーの(従来的な)コースを担当している日本語教師の悩みやもがきをこのように記述してみましたが、だいたい当たっているでしょうか?
 さて、この悩みやもがき、一体何なのでしょうか。また、この悩みやもがきはやがて解消されて、有効・有益な授業ができるようになる「途上」の悩みやもがきなのでしょうか。「途上」の悩みやもがきなのであれば、しっかり悩みもがいていただくのがいいと思います。しかし、ぼくにはそれは「途上」の悩みやもがきとは見えません。それは、そもそもの教育企画(と教材)が抱える問題や矛盾を現場教師に丸投げされているという根本的な悩みやもがきなのだと思います。そして、その悩みやもがきは根本的な悩みやもがきなので、悩んでももがいてもほとんど甲斐がなく現行の教育企画(と教材)が続く限り続く悩みやもがきであり、後輩たちにも引き継がれる悩みやもがきです。結論として言うと、現行の日本語教育企画(と教材)を続けている限り、この詮ない悩みやもがきは続きます

 この記事を「そうだそうだ!」と思いながら読んでくださっている方は、現行のフツーの日本語コースで日々悩みもがいている真摯な方であろうと思います。しかし、もう一歩!! 十分に悩みもがいた上で、「やはりこの現行の教育企画(と教材)では教育成果は得られない!」と思ったら、「この教育企画(と教材)はやめよう!」「もっと『有望な』教育企画(と教材)に置き換えよう!」という声を大にしてあげてください。そうでないとこの詮ない悩みともがきが続く、いい仕事ができない業界(現行の日本語教育とその実践)が続きます。

 いい仕事ができない教育業界というのは、そのために犠牲になる学生をずっと再生産しているんですよ! あなたは真摯な人なのかもしれませんが、「まじめ」(きまじめ?)な人でもあるのかもしれません。そして、「まじめ」(きまじめ?)な人はしばしば「先輩」や「伝統」に反旗を翻すことを躊躇します。
 改革・革新の気運というのは、民衆の中からじわじわと発生し広がり膨らんでいくものです。現行の体制が続いている間はその中で何とか創意工夫して実践を続けるとしても、一方で、「これって、本来じゃないよねえ!」という声を(ひそかに? 燎原の火のように!)上げ、改革・革新の気運を醸成していってください。そうでないと、学生の犠牲が続きます。

2019年9月8日日曜日

日本語教育者=日本語教育という仕事を理知的に捉え、理知的に考え場合によっては探究もし、実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする人

 昨日、土曜の会(@関学梅田キャンパス、doyounokai@gmail.com)がありました。いつものようにすばらしく教養深く、理知的で、真摯な議論が展開されました。そんな中で、わたし及びこの仲間たちは「何者になる」ことを目指し、「何者が増える」ことを切望しているのだろうかと考えました。
 
 従来からぼくは、「日本語教師」という言葉は避けて、「日本語教育者」という言葉を使っています。例えば、ぼく自身のことは「日本語教師」と言うと「収まっていない」感じで、「日本語教育研究者」と言い方をすると日本語教育の実践を傍観している感じになって日本語教育の実践に常に関与しているぼく自身のスタンスを反映しません。そうなると、ぼく自身の、日本語教育の実践とのスタンスと研究的な姿勢と研究の取り組みを包含する呼び方はやはり「日本語教育者」かなあと…。
 で、土曜の会に参加している人たちはけっこうぼくと同じオリエンテーションがある人たちだという気がしています。つまり、日本語教育者であったり、そうなることをめざしている感じがします。じゃあ、日本語教育者というのはどんな人か?
 日本語教育者は、
(1)日本語教育という仕事を理知的に捉え、
(2)理知的に考え場合によっては探究もし、
(3)実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする
人、でしょうか。 で、ご覧のように「理知的」というのがどうもキーのようです。「理知的」というのがキーワードになるのは、業界全体としては「理知的」が不足しているという認識なのでしょう。
 そして、このオリエンテーションの基盤にある根本の姿勢は、「いい仕事、誇れる仕事をしたい」ということです。そのためには、当面は?「理知的」を厚くしなければならないという問題意識なのでしょう。
 ただし、…。「知性的」と「理知的」はどう違うか?
 ぼく自身は、 理知的=知性が豊かで明敏×感性が豊かで鋭い と考えています。言語教育に適正に従事するためには、知性だけではなく、人間や言葉や人間文化や人と人の言葉を仲介とした接触・交流や言語の習得などについての感性も大いに必要だと思います。(感性を磨きあげて言葉にしたものが「野生の知性」?←これ、ぼくの好きな言葉!)

 ということで、日本語教育者をめざそう! ということでどうでしょう!?

大学のセンセと地域日本語

地域の日本語教室に対する関心は引き続き高く/ますます高まっています。そして、日本語教育の専門家(大学のセンセ? 日本語学校等のベテラン教師?)の多くも関心を持っています。しかし、日本語教育の専門家としては、まずは「お膝元」の日本語学校や大学での日本語教育をまず「改革」したら! 続きは、https://twitter.com/koichishinmachi/status/1170517886860836864へ。

2019年9月7日土曜日

研究と実践研究について(ガーゲン&ガーゲン, 2018の第4章を読んで)

研究と実践研究について

1.研究
・ 研究のコミュニティ(パラダイム) ─ 研究対象 ─ 研究方法 ─ 研究成果
  研究対象についての「真理」の探究

2.実践研究(日本語教育の実践研究)
2-1 日本語教育
・学習者における「日本語の上達」を計画的・組織的に支援する営み。

2-2 教育の企画
・一般目的のための日本語教育の企画の第一歩
 日本語力の基幹となる言語活動的なまとまりを伐り出す 
 ⇔ 日本語の上達を「線」としてではなく、「固まり」として措定する。
 
<従来の日本語教育の企画>
 企画A:「文型・文法ときどき語彙(漢字、発音)、ところによって技能」
⇒ 日本語力の基幹を知識と技能と措定している。
 企画B:実用的な言語コミュニケーションの「カタログ」
⇒ 日本語力の基幹を育成するという意図がない。

・そのまとまり(固まり)を育成するために習得の経路を直線的に描く⇒日本語上達の階段
・各ユニットは、日本語の習得と習得支援のフィールド

2-3 教材の制作

2-3 具体的な学習と教授の実践
・学習者と教師としては、基本は、各ユニットの目標を達成すればよい。

3.実践研究
3-1 実践領域に関わる研究
(1)実践をめぐる物の見方や考え方や発想やアイデアと、具体的な学習活動や習得方法、教育企画、教材の制作・作成、授業計画、実際の教授実践などに直接・間接に関わる諸テーマについての、
(2)研究というものを知っている実践を担う者(→研究的実践者?)に向けた
(3)実践のあり方やその改善に真摯な関心を持つ者(→実践的研究者?)による「発信」
・それが「研究」と呼びうるためには、一定程度の論理主義と証拠主義が必要。また、理論的研究としては、堅実な発掘と遡及が必要。
☆つまり、実践研究とは、純粋に「真理」を探究しようという企てではなく、学術研究的な方法を一定程度踏襲しながらの、実践に直接・間接に関わる諸テーマについての探究と報告の対話的実践である。
あくなき実践のあり方やその改善への関心がその対話のナヴィゲーターとなる。

3-2 「日本語の上達」という成果
・「日本語の上達」という成果についてはおおむね合意が得られるであろう。
・しかし、「日本語の上達」をどのように見るかは、人によって見方が異なるである。
・研究においては、研究者が何をもって「日本語の上達」と考えるかをしっかりと定義しておけばよい。
・そして、実践はその「日本語の上達」との対応で解釈すればよい。 




2019年9月1日日曜日

現象学から人間科学へ⑤

以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年9月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものです。

2019年9月号羅針盤 現象学から人間科学へ⑤

 前回は、「志向性、ノエシスとノエマなどの概念もからめながら現象学というものが何なのかを改めて考えたいと思います」と言って終えました。今回は、多くの人を惑わしている現象学のその後の展開の概略図を示したいと思います。この話は、このような形で語られたことはたぶん今まで一度もなかったと思います。

1.現象学の実存主義的展開
 現象学の展開は、ヨーロッパにおける実存主義的な展開と、北米に移って発展した社会学理論への展開という2つに分けて見なければなりません。まずは、ヨーロッパにおける展開の話をします。
 ヨーロッパにおいて、フッサール(1859−1938)の現象学は、弟子であったハイデガー(1889−1976)によって実存主義的な展開を見せます。そして、その実存主義的展開は、隣国フランスでサルトルやボーヴォワールによって実存主義運動として花開きます。だいたい1940年代の後半から70年代です。『存在と無 ─ 現象学的存在論の試み』(1943年)以降、実存主義の旗手で当代一の知識人としてサルトルの名声は不動のものとなります。(ちなみに、ハイデガーは、その後の哲学・思想に強く広範な影響を及ぼした20世紀最大の哲学書と言われる『存在と時間』で一般に実存主義の哲学者と言われていますが、ハイデガー自身は実存主義の哲学者と見られることをきっぱりと拒否していました。ハイデガーが実存主義の哲学者と見られるのは、一般に流通している『存在と時間』が実はハイデガーが構想していた上下2巻の本の上巻だけであり、そして、それは上下2巻の本でハイデガーが意図していた「存在一般の意味の追究」の準備作業としての人間存在の分析でしかなかったのですが、その後下巻が出ることなく、上巻のみが『存在と時間』として一人歩きしたという事情によります。その上巻のみの『存在と時間』が出るや否やドイツの思想界に巨大な衝撃を与え一挙に思想界の形成を変えたために、同書で展開された人間存在の分析によってハイデガーは実存主義の哲学者と見られるようになった、というような次第です。しかし、ハイデガーの思想的営為の全体の中に『存在と時間』を位置づけようとする諸研究を見れば、かれの仕事の中心は実存主義の部分にはないことが分かります。)
 フッサールの現象学的な観点を継承したハイデガーの思想は、ヨーロッパにおいてもう一つの展開を見せます。解釈学への展開です。主な担い手はガダマーです。こちらの展開については次回や次々回でもう一度論じます。
 哲学的な背景を踏まえて現象学的な心理学について論じているラングドリッジは、現象学におけるこれら2つの実存主義的な展開を、実存的転回解釈学的転回と呼んでいます。

2.現象学の社会学理論への展開
 第一次大戦前のオーストリアのウィーン生まれのアルフレッド・シュッツ(1899−1959)は、ウィーン大学卒業後、銀行の法律業務に従事する傍ら研究を続け、1932年にはウェーバーの理解社会学とフッサールの現象学を融合した『社会的世界の意味構成』を出版し、同書をフッサールに捧げました。それ以来フッサールとの交流が始まり、それは1938年のフッサールの死去まで続きました。やがて、ナチスの台頭によりユダヤ系であるシュッツは母国を出ざるを得ない状況となり、1939年にはアメリカに亡命しました。そして、アメリカに移ってからも銀行での仕事と研究を並行して行い、社会学理論の発展に大きな功績を残しました。著名な社会学者であるピーター・バーガーやトーマス・ルックマンはシュッツの弟子です。
 シュッツの研究は現象学的社会学と呼ばれています。現象学の物の見方に基づいて社会というものの正体を究明しようとする研究です。

3.実存主義と現象学的社会学が現象学的である点
 ハイデガーの実存主義と現象学的社会学の重要な現象学的な重複点は、いずれも「そもそも○○とは何か」を追究している点です。ハイデガーは『存在と時間』で現存在という独自の用語を軸として「そもそも人間という存在とは何か」を追究しています。現存在=Daseinというのは、「da」(そこ)と「sein」(ある/いる)の組み合わせで、人間という存在を前提なしのデフォルトで捉えて追究するためにハイデガーが作った造語です。そして、『存在と時間』以後のハイデガーは、人間という存在と世界という存在の両者を含めて「そもそも存在するとは何か」を追究しています。
 一方、社会学に関心を置くシュッツは、現象学の視点に基づいて「そもそも社会とは何か」を追究しました。銀行家と研究者という「二足のわらじ」のシュッツは、少数の著作しか残していませんが、いずれもひじょうに重厚なものです。そして、晩年のシュッツの遺稿はルックマンによって『生活世界の構造』としてまとめ上げられ、バーガーとルックマンの共著になる『現実の社会的構成』は社会学理論の名著として現在も読み継がれています。バーガーは、『現実の社会的構成』の一年後に宗教を社会学的に分析しようという試みの『聖なる天蓋』を上梓し、その第1章で自身の社会学の立場をコンパクトながら明瞭に提示しています。これらはいずれも、日常的世界に生きるわたしたちにとって、また社会学の対象として、「そもそも社会とは何か」を考究したものです。
 実存主義と現象学的社会学がいずれも現象学的である重要点は、人間的実存を志向的であるというふうに捉えている点です。そして、それだけでなく、両者ではいずれにおいても、実存の重要な立脚点として言語を置いています。この点が、現象学的心理学においても、またわたしたちの関心である第二言語の習得と習得支援を考える第二言語教育理論においても重要な視点となります。

4.むすび
 このあたりが区切りになりますので、これで今回は終わりたいと思います。後期ハイデガーの重要書である『「ヒューマニズム」について』からの有名な「言葉は、存在の家である」の一節を紹介して次節への繋ぎとしたいと思います。

 行為することの本質は、実らせ達成することなのである。…本来的にはただ、すでに存在しているもののみが、実らせ達成されうるものなのである。ところで、あらゆるものに先だって「存在している」ものは、存在である。思索というものは、その存在の、人間の本質に対する関わりを、実らせ達成するのである。…思索は、この関わりを、ただ、存在から思索自身へと委ねられた事柄として、存在に対して、捧げ提供するだけなのである。この差し出し提供する働きの大切な点は、思索において、存在が言葉となってくる、ということのうちに存している。言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。(『「ヒューマニズム」について』pp.17−18)

2019年8月30日金曜日

日本語教育=日本語の上達を組織的に支援する営み ─ 日本語教育者はサド&マゾ

日本語教育=日本語の上達を組織的に支援する営み ─ 日本語教育者はサド&マゾ

0.はじめに
(a)一般的に言っても、第二言語の習得は時間とエネルギーを要するがんばりと忍耐の要る企てである。
(b)また、第二言語の習得は、多元的で、輻輳的で、累進的な過程である。これを、修得する内容を特定して直線的(linearly)に企画するのは不可能
※基礎的な対面的コミュニケーションのための口頭日本語に限定した習得は特別にむずかしいわけではないが、書記日本語をも並行して習得するとなると、特別にむずかしい言語となる。(漢字系学習者にとっては、根本的に第二言語としての種類が違う。圧倒的に有利。)

1.これまでの日本語教育の企画
1−1 学習と教授と習得という用語
習得とは、「何か」を学んで、日本語が一層上達すること。※対象・対象内容を特定する「○○を習得する」というような「習得」は、本来の習得と区別して「修得」と呼んだほうがいい。
学習は、日本語の上達(ねらい)を企図して、習得(目標)も視野に入れながら、学習者が行う意図的な営み
教授は、日本語の上達を企図して、習得も視野に入れながら、教授者が学習者に向けて行う意図的な営み。

1−2 教育企画と学習活動と教授活動
・教育企画というのは、制度的文脈やステイクホルダーの期待や学習者の一般的な期待や要望などを考慮して、広義の目標(ねらいと目標)を設定するところから始まる。
(1)ねらいには、他の教育的目標が含まれることもしばしばあるが、基本的には、何らかの内容での特定のレベルまでの日本語の上達(ねらい)とその基幹となる日本語力(目標)となる。
(2)具体的な教育企画の概略は、その目標に至っていく行程と重なる。
(3)具体的な学習活動と教授活動は、教育企画の下に行われる。

1−3 これまでの初級日本語の企画=最後になったときに一挙に目標が達成される。
□ 実情
・規範的に自己同一的な形態の体系(system of normatively identical forms)、つまりラング(langue)の習得を目標にしている。
・言語活動に従事するのは基礎的なラングをすべて修得してからという考え方。
□ 批判
・こういう企画では、学習者の忍耐がもたない(何かができるようにならないことに我慢できなくなってイヤになる)。また、そういう企画は学習者の自己効力感などを考えても、ひじょうに
・ラングの各要素を修得したとしても、それは元の全体(original whole)ではない。
□ 評価
稚拙な教育企画は、有効な学習活動と教授活動を導くことができない。それどころか、阻害する。
「理不尽な」教育企画は、学習者のやる気をなくさせる
基幹的な日本語力という発想がない。

1−4 これまでの初中級・中級の企画
□ 実情
・基礎的な技量が身についているという前提で、「次」に行ってしまっている
・学習者は、基礎的な(ラングの)知識も基礎的な技量も十分に身についていない。
□ 批判
・「次に行く」のは、まったく理不尽で酷
・学習者のスタート時点の知識・能力や、次に養成するべき知識・能力が十分に検討・特定されていない。
・賢い学習者は、企画されたコースに導かれてではなく、学習素材と機会と教師というリソースを上手に活用して自分なりに日本語の上達を図っている
□ 評価
「無理」と「やたら」が顕著
・基礎的な知識・技量がない学習者は落ちこぼれる

2.新たな日本語教育の企画へ
2−1 これまでの教育企画の共通的な根本問題
(1)基幹的な日本語力という発想がない。
(2)基幹的な日本語力の発達階梯という発想もない。
(3)根本的に、学習者を日本語上達のエスカレータに乗せて、着実に上に連れて行く、という発想・強い意志がない。
□ 批判
 ひじょうに基本的な問題として、
・半数以上の学習者が達成できない目標を設定して教育課程を策定して実施するというのはどうか。
・「○○を教える」(「○○を修得させる」)という発想での教育企画はどうか。⇔ 日本語の上達は「○○を教える」(「○○を修得させる」)という発想では達成されない! 教授=日本語を教えることではない。むしろ、教授は、学習者における日本語の上達を促進する営み、とまず規定しなければならない。
※前者は、マゾヒスティック。後者は、サディスティック

※まずは、サド・マゾをやめる!! 
※そして、ノーマル(正常)の世界に戻る!! 
※ノーマルの世界というのは、着実に日本語を上達させる教育企画と教育実践の世界!

2-2 新たな企画 ─ 教育企画者の仕事
(1)基幹的な日本語力 = 表現活動能力
(2)発達の階梯
 基礎段階(N4): 助走期(N5)、離陸期、表現方法拡張期、表現方法充実期、表現方法発展期
 初中級段階(N4-N3): 進んだ対面的口頭表現力養成期(NIJのパート1会話)
 中級前半段階(N3): 口頭での知的言語養成期(NIJのパート2レクチャー)
 中級後半段階(N2): 口頭と書記の両様での進んだ知的言語養成期
  興味・関心や目的に特化した日本語力の養成期
(3)日本語上達のエスカレータ
 具体的な特定の言語活動ができるようになる(下位目標)という形での達成が可能な各ユニット、及び一連のユニットを企画する。
  
2−3 コーディネータの仕事
・企画されたコースを具体的な達成可能なスケジュールとして策定する。

2−4 具体的な教育実践 ─ 授業教師の仕事
・各ユニットの目標を着実に達成する。
⇔ 配当された時間でユニットの目標を達成できない場合は、コーディネータのスケジュールが適当でないか、授業教師の仕事が稚拙か、のどちらか!
⇔ ユニット間の「接続・移行」がうまく行かない、より適当な「接続・移行」のアイデアがある場合は、教育企画者にクレームしなければならない。

3.学習者を「惹き込む」「楽しませる」 新たな教材と授業実践
3−1 新たな教材 ─ 語学ための材料として
・テーマの言語活動の範例
・有用な言葉遣いで構成される。
・言葉遣いは有用な語彙と文型で構成される。
・語彙と文型の提出はユニットの進行で一定程度体系的で系統的になるように調整される。

3−2 学習者を「惹き込み」「楽しませる」教材 ─ 文芸作品として
・教材は、語学のための材料でありながら、文芸的な作品である。
・文芸的な作品には、モチーフがあり、ストーリーがあり、登場人物がいて、ドラマ性があり、レクチャーの内容・主張などがある。
・そういう要素があれば、学習者を惹き込み、楽しませながら、学習と教授を進めることができる。

3−3 教材と学習者のインターアクション
・文芸作品的な教材であれば、学習者はそれに「反応」(コメント)するができる。
・また、「わたしの場合は」「わたしだったら」などのストーリーとしての自己の語りを誘発することができる。
・表現活動中心という枠組みであれば、即興的なわたしについての語りやわたしの考えについての語りなどはすべて言語促進活動のためのリソースとなる。