2月某日。外は寒いながら、南向きの研究室は日差しがたっぷりと入って、うららかな陽 気です。お弁当を食べながら思いついたことをつらつら書いてみたいと思います。教育実 践の創造と研究ということについてです。(いつもは、書きたいモチーフがあって書き始め るのですが、今回はどういう結論になるかわかりません。) たぶん前にもこの羅針盤で書いたことがあると思いますが、ぼく自身は自分自身が優れた 授業をすることには関心を置いていません。そんなのはあまりにも当たり前のことでとっ くに「解決」しています。そんなところで「うろうろしている」なんてありえません。で、 ぼくの関心は自身の実践の創造ではなく、むしろ、最も身近では、(1)自身がコーディネー タをしているコースで優れた実践が行われること、そしてもう一歩広くは、(2)ぼくが属し ている機関の多くのコースで優れた実践が行われること、さらに広くは、(3)ぼくが考案し た教育企画とそれを支える教材を活用していろいろなところで優れた教育実践が行われる こと、です。(そして、その付随として、日本語教育者の「意識」を変革することです。) こんなふうに大それたことを考えるのは、実は多くの日本語教育者はalternativeな教育 企画と教材を求めているとの認識?感覚?がぼくにあるからです。つまり、期待され求め られているのは具体的な(包括的な)alternativeな提案であって、(a)教え方のアイデア や、(b)習得や習得支援に関する理論的な「能書き」ではないし、(c)特定の文法現象につ いての日本語学的な研究や、(d)第二言語習得の原理に関連する実証的な研究の知見でも ない、と思います。世間的には(a)から(d)のようなものが求められているようにも見えま すが、実際に「心の底から」求められているのは、具体的な(包括的な)alternativeな提 案だと思います。しかし、多くの日本語教育者は「基礎段階の教育で文型・文法事項を柱 とした教育以外に、組織的な教育(つまり重要な諸事項・諸内容を相当程度に網羅してい る教育)はできない、つまり「画期的な」alternativeな教育企画や教材は考えられない と思っているフシがあります。もしalternativeが不可能であるなら、基礎から中級にか けての日本語教育の「停滞」は今後も続くことになります。そして、そんな「従来通り」 の枠組みの中では、教授者が(a)から(d)のようなことを勉強して身につけたとしても、「焼 け石に水」です。…というような認識でぼくはalternativeを提案し続けています。 次に、ぼくが提案するalternativeの発想やアイデアの源はなにか! ヴィゴツキー? バ フチン? バーガーとルックマン? ブルーナー? そうではありません。じゃあ、クラシェ ン? それもちがいます。もちろんかれらのおかげでぼく自身の考えがより洗練されてく るわけですが、そこが源ではありません。源は、明らかに「ぼくが学習者だったら、こん な教育企画をしてほしい、こんな教材がほしい、こんな授業をしてほしい!」です。この 源から虚心坦懐(←この使い方、少し変かも)、融通無碍に考えて発想やアイデアを創出す れば、大きく間違うことはないと思っています。(←ほんまかいな!<桂文枝さん風に>) 「間違うことはない」の根拠は? 何か「物事を見る目」のようなものがあるのでしょうか? 虚心坦懐・融通無碍に考えれ ば誰でも物の道理はわかるはず!と思っているフシがあります。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
羅針盤:虚心坦懐・融通無碍(201803)
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