2018年4月1日日曜日

第二言語習得の支援についてのスタンス

 第二言語習得の支援についてのスタンスについて書きたいと思います。いろいろな人とこのテーマについて直接あるいは間接に話をしていて、しばしば違和感を覚えるからです。
 第二言語習得の支援についてのスタンス(以下、単に支援のスタンスとする)については、基本的な極として、習得支援の極と学習促進の極があるように思います。ここに言う習得と学習は、Krashenの習得と学習です。ここで、習得支援や習得の支援や言語習得や言語の習得と言う場合の習得は、Krashenの習得と学習の両方を含んだものとなります。
 習得の極の第二言語教育者は、わかりやすくいうと、第二言語の習得は第一言語習得のときと同じような環境を提供することによって最もよく促進されると考えます。Krashenの言葉で言うと「情意フィルターが低い状態で理解可能なインプットを大量に与え続けること」、筆者の言葉で言うと「現在の言語能力で概ね従事可能な随従的な言語活動にたくさん従事すること」が習得支援のための最も重要な要因となります。ちなみに、両者は同じ事を言っているのですが、Krashenの言い方はmonologicalな言い方、筆者の言い方はdialogicalな言い方、となります。Krashenは、習得は半意識的な心理過程(subconscious process)で、その結果養成される知識は言語についての非明示的知識(implicit knowledge of language)だと言います。そして、習得された知識と次に論じる学習された知識は交わり会うことはないと主張します。いわゆる、non-interface positionです。Krashenの議論はまさに習得の極のスタンスです。
 これに対し、学習の極の第二言語教育者は、言語や言語コミュニケーションに関する知識を特定し、その各事項を採り上げて教授しようとします。そして、学習の極の教育者は、一般的に知識の学習は「その事項についての理解」と「理解した知識を反復的に適用する練習」という2つのステップを通して達成されると考えるので、言語の学習においても、言語事項をできるだ正確に理解させるという部分をひじょうに重視して指導を行い、必要で十分と思われる知識適用的な反復的練習を行います。そのような結果として一つの言語事項を身につけさせるために相当の時間を費やすことになります。多くの日本語教育者が「好きな」直接法というやり方ですると、さらに時間がかかります。また、コミュニカティブ・アプローチが普及している現在でも基礎から中級前半程度の日本語教育では、いわゆる文型・文法が学習者が身につけなければならない知識の中心とされる傾向があります。ですので、学習者たちがある文型・文法事項がうまく使えない状況が観察されると、またその文型・文法事項を取り立てて復習するということになります。習得スタンスの教育者からすると「そのように事項を取り立てて教えて身につけさせようとするから身につかないのだ!」という批判が出そうです。
 こうした習得と学習の対比は、Wilkinsの分析的アプローチと綜合的アプローチの対比を彷彿させます。周知のようにWilkinsのこの議論は、コミュニカティブ・アプローチの嚆矢となった「Notional Syllabus」(Wilkins, 1976)の第1章で提示されたものです。後者の綜合的アプローチというのは、端的に上の学習の極に対応します。綜合的アプローチというのは、一つずつ取り立てて教えられたさまざまな「離散的な」文型・文法事項を学習者は自身の中で一つの総体的な知識となるように「綜合(synthesize)」しなければならないという意味で綜合的アプローチと呼ばれています。これに対し、分析的アプローチというのは、綜合的アプローチのように文型・文法事項を一つずつ採り上げて積み上げていくように教えるのではなく、最初から多様な文型・文法事項が混在するテクストに接したりそのような言語活動に従事したりすることによってより有効に言語の習得が促進されると考えます。そして、コミュニカティブ・アプローチの基軸は、それまでの綜合的アプローチからWilkinsの言う分析的アプローチへの大転換です。それは、学習の極から離脱して、習得のスタンスのほうに基本の立ち位置を転換することを意味しています。つまり、コミュニカティブ・アプローチの基軸である分析的アプローチは、Krashen的な意味とはやや観点が異なりますが、習得の側のスタンスとなります。
 さて、結論に近づきました。筆者自身のスタンスは明らかに習得の側です。そして、非漢字系学習者に対する日本語教育ではKrashenの立場・スタンスに近いです。一方、漢字系学習者に対する日本語教育ではWilkinsの立場・スタンスに近いです。いずれにせよ、習得の側のスタンスに立っています。それに対し、応用言語学や習得研究に親しみのない日本語教育者の多くは、如何ともしがたく学習の側のスタンスに立っています。端的に言うと、「あんたら、勉強してない!」「21世紀の第二言語教育の専門家とはとうてい思えない」という感じ。これが、冒頭に言った筆者の違和感です。21世紀の日本語教育者の大勢がそんなものなので一般的には「あきらめて」いるのですが、筆者の身近で仕事をしている先生があいかわらず学習のスタンスで物事を考えていらっしゃるのに出くわすと、「えっ?!」と思い、がっかりしてしまいます。もちろん、習得のスタンスと学習のスタンスというのをよく理解し検討した上で、自身なりの「第二言語習得成功の道」について、限られたコースの時間の中で達成可能な理路を築いた上で、「わたしはやはり学習のスタンスに足場を置く」とおっしゃるのであればいいのですが、多くの場合は、理解も検討もしていません。
 最後に、筆者は習得スタンスの側に立っていますが、Krashenのように?成人学習者の現実を考慮しない立場ではありません。成人学習者としての「弱み」の部分については「適切に」対応するのが学習者の精神的にも実際の言語習得促進的にも有効であると思います。また、成人学習者の「強み」もあるわけで、それも「適切に」生かした習得支援を企画し実践するのが当然だと思っています。例えば、筆者の本や論文などでしばしば論じている第一言語での注釈などは、この「弱み」と「強み」の両方にまたがった「適切な」対応の一例となります。そして、この第一言語での注釈という方略を一つ駆使するだけで、習得スタンスでの習得支援の実践も大いに容易になります。

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