新年あけましておめでとうございます。本メルマガ、お友だちにもぜひご紹介いただきた くお願いします。 ぼくはたぶん誰よりも日本語教育と日本語教育学のことを考えていると思います。四六時 中? それはちょっと言い過ぎですが、「ON」の時間が多いです。そんな事情もあって、「OFF」 のときでもいろんなことや言葉が浮かんできます。浮かんだ言葉 ─ 「たかが言語教育、 されど言語教育」です。 前者の「たかが…」のほうは、わたしたちがやっていることは言葉を教えるという「ちっ ぽけな」仕事です、というような意味になるでしょうか。言語教育を卑下しているわけで す。そして、後者の「されど…」のほうは、言葉を教えるという「ちっぽけな」仕事なん だけど、(a)実はそれは学習者一人ひとりが自身の声を獲得することや新たに「豊かな」ア イデンティティを形成することに関わる重要で重大な仕事だし、また、(b)うかつにその仕 事をやっていると、すごーく学習者を非人間的にあつかってしまうよとの「警鐘」です。 で、ここからが、「おもしろい話」なのですが、大学のせんせたちは、「されど…」のほう に関してあれやこれやたくさん「発信」(シンポジウムなどで話をしたり、論考や記事で書 いたり)していらっしゃいます。それは、多くの「フツーの」日本語教育従事者は「たか が…」で仕事をしてしまっているという認識に基づいているのでしょう。まあ、それはそ れでいいのですが、どうもぼくはそういう趣味ではありません。 けっこういろんなテーマについてそうなのですが、ぼくと大学のせんせたちの認識はまあ 一致しています。しかし、行動=actionが違うようです。「たかが言語教育、されど言語 教育」なんて、ちょっと考えれば当たり前のことで、そんなことは声を大にして喧伝する ほどのことでもない、と思ってしまいます。 ぼくの場合は、「たかが言語教育、されど言 語教育」という認識の下に、もう一度前者に立ち返って、言語教育の実際の姿を「たかが 言語教育、されど言語教育」を体現するものに作り替えたいと思って仕事をしているよう に思います。 このあたりは、役割分担ということかもしれません。つまり、「されど言語教育」と喧伝し てくれる人も必要だと思います。しかし、「たかが言語教育、されど言語教育」を体現する ように作り替える方向で行動=actionをする人も必要だと思います。そういう人が、ちょ っと少ないかなあ。 すみません。今年も早々に「ええカッコ」言うてしまいました。本年もよろしくお願いし ます。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
羅針盤:たかが言語教育、されど言語教育(210801)
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