2018年4月22日日曜日

羅針盤:学術論文? 研究論文? 研究ノート?(201704)

この羅針盤の記事は、いつも「季節感」がありません。例えば、年末に考えたことを何気
にアップしてしまうので、「新年号」にふさわしくも何ともない記事になっていました。い
つも、出てから「ああ、新年号だった!」と気がつくしだいです。今回は、ちょっとだけ?
新学期らしく?

数年前に出てけっこう評判になった山城むつみ氏の『ドストエフスキー』によると、どう
もドストエフスキーの頃のロシア文学は小説の新しいジャンルを形成したorしつつあっ
たようで、ドストエフスキーはそれを成し遂げたようです。ドストエフスキーの作品は、
それまでの小説というジャンルを超えた新しい小説のジャンルの高みに至ったということ
です。詳細は同書の序章をご覧ください。

この「新しいジャンル」というところに、ぼく自身は「反応」してしまいました。ヴィゴ
ツキーやバフチンを研究し始めた頃からぼくは研究ノートをよく書いています。ぼくが「開
拓中」の分野はまだぼく自身にとっても「開拓途上」なので、研究論文とするのは「無理」
だし、適当ではないと思いました。また、ぼくがヴィゴツキー/バフチン研究としてやって
きたことは特段の「新発見」はないので、そもそも「研究(論文)ではないなあ」と自覚
していました。その一方で、「誰かがこれをやらないと埒があかないよなあ」と考え、また、
「これはいずれ研究書として出すぜ!」と決めていました。その結果、バフチン本1(西
口, 2013)を出すまでの10年余りの「潜伏期間」、ぼくは研究論文をほとんど書いていま
せん。でも、研究ノートで「発信」は続けていました。「構想10余年」ということでしょ
うか?

この10余年の間に、いろいろなことを考えました。その中の重要なことは、(1)日本語教
育学や(日本の)英語教育学に「言語文化心理学」(study of language, culture and
 psychology)の歴史や積み重ねがないなあ、だから、(2)そういうテーマで発表する場所
もないし議論できる人もいないなあ、(3)このテーマって学術研究になる?学術研究とし
て書いて「発信」するべきもの? でした。で、このエッセイのテーマとして重要なのは、
(3)です。

端的に言って、学術研究の「発信先」つまり読者は同じような研究をしている他の研究者
です。(「実践に役に立つ研究」ということの根本の矛盾はここにあります!) いつも言う
ようにぼくは単に「先行の関連の文献に広く通じている教育実践者」でしかありません。
ですので、ぼくの「研究のような活動」の発信先は同じように「先行の関連の文献に広く
通じている教育実践者」です。でも…、そんな人、なかなかいないみたい! そして、(3)
に関連してぼくがずっと思っていたのは、「先行の関連の文献に広く通じている教育実践
者同士で議論し合う新しいジャンルが必要なのではないか」ということです。残念ながら、
そのようなジャンルは今でもないかなあと思います。

このエッセイ、「新学期らしい」でしょうか? 新たに研究者や研究的実践者になろうとし
ている新院生や、これから積極的に「研究らしきもの」に取り組もうと思っている研究志
向のある教育実践者に向けて書いたつもりなのですが…。どんなメッセージが伝わったで
しょう? 

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