日本の英語教育者は典型的な非母語言語教育者で、日本語教育者は典型的な母語話者教育 者です。(この指摘の詳細な内容は省略。読者のほうであれこれ思いをめぐらせていただけ れば。) 日本語教育者は母語話者言語教育者であるがゆえに、「日本語話者ならだれでも 日本語を教えることができるんじゃないの!?」という何とも「失礼な言葉」をしばしば あびせられます。また、「先生は、英語や中国語ができるんですか。授業は英語や中国語で するんですか?」というような、日本語教育の先生大部分が「とんちんかんな質問」とす る質問を受けます。(本来の直接法で教えているというならいざしらず、現在の日本語教育 の方法の状況ではぼくは「とんちんかんな質問」とは思いませんが。) こうした「失礼な 言葉」」や「とんちんかんな質問」を多くの日本語教育者はにべもなく否定します。たぶん 「またそんな『思慮のない』質問を!」という気持ちがあるので、にべもなく否定するこ とになるのでしょうが、この質問をきっかけとして自己反省するのも一定の価値があると 思います。 前者の「失礼な言葉」については、わたしたちが行っている「教える行為」の中のどの部 分/どのくらいが「母語話者であればできる」ことであり、どの部分/どのくらいが「専門 的な教育者でないとできないか」ということを振り返ってみるとおもしろいと思います。 後者の「とんちんかんな質問」については、「現在の日本語教育の方法の建前としては」と いうことで「日本語の先生はできるだけ日本語だけで日本語を教えます」と多くの先生は なぜか誇らしげに?応えます。この応えはけっこう「まゆつば物」であるかと思います。 もともとの質問にもう少し親切に応えるならば、「語彙や文法説明については、英語や中国 語での解説書などが用意されています。学習者はそれらを参照して予習や復習ができるの で、授業については主として日本語でやっています。しかし、質問があったときなどは、 媒介語も使いながら対応することもあります」となるでしょう。 さて、このエッセイの主張です。日本語教育者は、「母語話者」言語教育者としての強みを 十二分に発揮しているか、です。日本語教育者は、授業実践において母語話者教育者の強 みや持ち味を十分に発揮しているでしょうか。日本語教育者は、教材作成や教材開発にお いて母語話者教育者の強みを十分に発揮しているでしょうか。そもそも、母語話者言語教 育者としての自覚があってその強みを発揮してこそ母語話者教育者の値打ちだというふう に考えているでしょうか。そのあたり、「自覚」あたりからあやしいように思います。 母語話者言語教師としての強みの中心は、いろいろな「芸」ができることだと思います。 いろんな特徴のある人物を登場させて一人芝居ができる、おなじディスコースをキャラを 幾種類にも変化させて演じることができる、学習者にわかりやすい話ができる/文章が書 ける、などなど母語話者教師としての有利さがいろいろあります。こういうことを生かし て教育実践してこそ、母語話者言語教育者として胸を張って誇れるのではないでしょうか。 「失礼な言葉」や「とんちんかんな質問」を否定しているだけというのは、何ともさびし い。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
羅針盤:母語話者言語教育者の強み(201612)
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