2018年4月20日金曜日

人間主義的な言語観(tentative)

ぼくが考えている人間主義的な言語観(tentative)を公表します。

背景的な諸見解

1.ことばと人間の生 ─ 概観
(1) ことばは、人間が生きることに直截に関わっている。人間が生きることに関わってこそ、ことばも本来の生きたことばとなる。人間の生きることに関わらないことばは「死んだ」ことばとなる。ことばと人間存在は相即的な関係にある。
(2) ことばは、人間が社会的に行為することに直截に関わっている。そして、いずれの行為も他者に承認され応答されて現実的な社会的行為となる。他者に承認され応答されない行為は行為として現実を構成することはできない。(ことば行為の対話性、あるいは行為の他者依存性)

2.ことばと言語
(1) 本書でことばと言う場合は、記号というものの代表としてのことばである。ことば固有の能力は社会的な交流・交わりの中での象徴化能力である。そして、そうしたことば現象を総体的に捕捉したものを言語と言う。
(2) 言語が生き、その生命を維持し続けることができ(ことばであり続けることができ)るのは、現実のコミュニケーションの中でである。
(3) 言語は、(a)共時性の中の多様性、(b)通時性の中の変化のダイナミズム、(c)抽象レベルの安定性(GeeBig D)、(d)構造のシステム(ソシュールのラング)、(e)ナノ・レベルでの個体発生、(f)実践レベルでの慣習性と創造性、などの観点を踏まえて検討・議論されなければならない。

3.言語と社会 
(1) 社会的現実は人々による対面的あるいは非対面的な相互的行為群(外在化)に基づいて集合的に構築され維持されている。(社会は人間の産物である。)
(2) 社会は歴史的にノモス(規範秩序あるいは普通態)やフォークサイコロジー(民間心理)を作り上げている。(客体化) それは、仮想的なものでありながら、社会的機制の働きに基づいて現実的なものとなる。(社会は客観的現実である。)
(3) ノモスやフォークサイコロジーの中心的な部分は人々による世界の捕捉の仕方や構造化の仕方が沈殿したものである。そして、それは社会化された人間の具体的な行為(の集合)や言説の(集合)によって示される。

4.社会と個人
(1) 個人史的な過程を通して人間は社会に偏在するノモスやフォークサイコロジー(の一部)を浸透(内在化)させて一つの種類の自己となる。それは、主観性の社会的再編成の過程、あるいはより一般的な言葉で言うと個人の社会化の過程である。(人間は社会の産物である。)
(2) 自己とはノモスやフォークサイコロジーを充填された人であり、それを構造化リソースとして行為する人である。そして、かれの自己は、ノモスに多かれ少なかれ従い、フォークサイコロジーのナラティブの中に生きる人として発現される。

5.言語と自己
(1) 個人は心という機構を備えて行為する存在である。そうした個人を行動主体(agent)と呼ぼう。
(2) 行動主体は、生まれ落ちた世界(社会文化的世界)での先住の行動主体との接触・交流を通して形成される。それは、身体と心の多かれ少なかれ連動した発達である。身体と心が一定程度発達を遂げたところで、行動主体は当該社会における責任ある行動主体と(制度的、社会慣習的に)認められ、それとして振る舞うようになり、それとして振る舞うように期待される。
(3) 個人という行動主体の中心は、文明社会においては、身体構成や腕力などにはない。むしろ、心にある。人間という行動主体の中心は心にこそある。そして、心のあり方が自己のあり方である。
(4) 自己は、客観的なモノのようにそこにあるのではない。自己は、行動主体によることば行為を含む行為によって発現される。つまり、自己は社会的に構成され再構成され維持される。その人によって具体的になされた諸行為の総体においてその人の自己が認められるのである。没後に発見された日記などによって、その人の自己がより深く理解されたり、周りに見せていなかったその人の別の側面が明らかになったりすることもある。
(5) そうした自己との関連で、さまざまな行為の中でも、ことば行為はきわめて重要な部分をなす。人は文化のナラティブの中に自己を見出し、そして、人は、文化のナラティブの中の一人の人間となる。(Bruner, 2002/2007

6.言語とコミュニケーション
(1) 「人間の表現作用は客体化され得る」(Berger and Luckmann, 1966)。言語は、そうした客体化の最たるものである。
(2) 言語の客観的な実在は音声である。その他にはない。
(3) 社会には、ある種の実在性としてノモス(規範秩序)やフォークサイコロジー(民間心理)があり、それに対応してある種の実在性としての言語がある。ノモスやフォークサイコロジーと言語は、前者がノエマで後者がノエシスという関係にある。
(4) 個人は、社会で一定程度共有されている行動方式と身体技法とことば技法(いずれもノモスやフォークサイコロジーに関連)を自身の内に浸透(内在化)させ、それらを重要な機制として行動し行為する。
(5) 各個人がそのようであることが、個人と個人がノーマルに(まともに)相互行為できることの基盤となっている。
(6) 言語は、コミュニケーション(本書の中では、社会言語的交通)を成立させる枢要な媒介となっている。
(7) 言語の具体的で現実的な様態は発話やディスコースである。構造的システムとしての言語(ラング)は言語の現実的な様態ではない。それは具体的なコミュニケーションに潜在的意味素性(meaning potential)として関与しており、わたしたちはそれを自覚することができるが、やはりそれは言語の直截的な現実ではない。

7.主体性と人格と意識(心理)
(1) 心理の素材は言説である。
(2) 個人は、フォークサイコロジーの中のカテゴリー的言説を採り入れることで世界を特定の方法で認識できる主体となり、フォークサイコロジーの中の特定の種類のナラティブ(あるいはそれの複合)を自身に摂り入れることによって人格を象る。(人間のイデオロギー的形成)
(3) 個人の具体的な意識はそうした主体性や人格と関連して生じ、言説として内的に示され、また、社会的な言説として外在化される。

第二言語の習得と習得支援に関する視点と見解
 ※以下で、(第二)言語習得あるいは(第二)言語の習得や、習得支援あるいは習得の支援や、習得段階や、知識や技量の習得という場合の習得は、1の(1)の習得と学習の両者を包含した意味で使っている。

1.第二言語習得についての基本的な観点
(1) 第二言語の習得には、習得と学習という2つの様式がある。
(2) 習得とは、第一言語の習得の場合と類似して、社会的な交流・交わりの文脈の中で*意味を知りうる言語活動に実際に従事することを通して言語を習得する方法である。習得の様式においては、第二言語習得初期の言語活動は、避けがたく、受容を中心とした活動となる。
 *「意味を知りうる」は、当面は、「言語活動従事が継続できる程度に意味がわかる」くらいの意味としておく。意味の問題は本書でも採り上げて議論される。
(3) 学習とは、個々の言語事項に取り上げて、各言語事項を理解して練習を通して身につけることにより言語事項の知識を拡充していく言語習得の方法である。
(4) 習得は、半意識的な心理過程(subconscious process)で、それを通して養成される知識は言語についての非明示的な知識(implicit knowledge of language)であると言われている。それに対し、学習は、意識的な心理過程(conscious process)で、それを通して養成される知識は言語についての明示的な知識(explicit knowledge of language)と言われている。(Krashen
(5) Krashenは、習得と学習を分明に区別された2種類の過程とし(acquisition-learning dictinction)、習得された知識と学習された知識は交わり合うことはないと主張している(non-interface position)。しかしこの点については、筆者は、(a)習得と学習はKrashenの言うように分明に区別された過程ではない、(b)学習された知識は習得を支援する、という立場である。

2.第二言語習得の支援についての2つのスタンス
(1) 第二言語習得の支援に関するスタンス(以下、単に支援のスタンスとする)については、基本的な極として、習得の極と学習の極がある。そして、各第二言語教育者の支援に関するスタンスは基本としてこの2つの極のいずれかの点に位置づけられる。
(2) 習得の極の第二言語教育者は、第二言語の習得は第一言語習得のときと同じような環境を提供することによって最もよく促進されると考える。Krashenの言葉で言うと「情意フィルターが低い状態で理解可能なインプットを大量に与え続けること」、筆者の言葉で言うと「現在の言語能力で概ね従事可能な随従的な言語活動に豊富に従事すること」が習得支援のための最も重要な要因となる。両者は同じことを言っているが、Krashenの言い方はmonologicalな言い方、筆者の言い方はdialogicalな言い方、となる。
(3) 学習の極の第二言語教育者は、言語や言語コミュニケーションに関する知識を特定し、その各事項を採り上げて教授しようとする。そして、学習の極の教育者は、一般的に知識の学習はその事項についての理解と理解した知識を反復的に適用する練習という2つのステップを通して達成されると考えるので、言語の学習においても、言語事項をできるだ正確に理解させることと、習熟するまで反復して練習することを強調する。学習の方式では、一つの言語事項を身につけさせるために相当の時間を費やすことになる。多くの日本語教育者が「好きな」直接法というやり方ですると、さらに時間がかかる。また、コミュニカティブ・アプローチが普及している現在でも基礎から中級前半程度の日本語教育では、いわゆる文型・文法が学習者が身につけなければならない知識の中心とされる傾向がある。なので、学習者たちがある文型・文法事項がうまく使えない状況が観察されると、学習を基本スタンスとする日本語教育者は、またその文型・文法事項を取り立てて復習するということになる。習得スタンスの教育者からすると「そのように言語事項を取り立てて教えて身につけさせようとするから身につかないのだ!」という批判が出そうである。

3.学習者と第二言語習得についての筆者の基本的認識
(1) 学習者が目標言語に熟達するために身につけなければならないことの重要部分が文型・文法や語彙であることはまちがいないだろう。しかし、「だから第二言語教育は文型・文法や語彙等を習う経路として企画するのが適当だ」と考えるのは、単純直截である。
(2) かれらに必要なのは、(a)意味を知りうる言語活動従事を豊富に経験することであり、(b)そうした経験の中で文型・文法や語彙に習熟することである。採り上げて教え学ばれた言語事項の知識は、実際の言語活動従事に役に立ちそうにない。

4.第二言語習得の支援についてのスタンス
 本書がとる第二言語習得の支援についてのスタンスは以下2つの要因の複合である。
(1) 各習得段階で一定の主導的な言語活動従事(いわゆる産出活動)技量の習得をめざした、習得の要素と学習の要素が混合した支援活動を行うこと
  ※ 身を委ねた模倣的な追経験の重要性
  1.声の中の「抽出可能な要素」を知る。
   2.声の流れ(ノエシス)に身を委ねて、他者におけることば的経験(ノエシス-ノエマ)を模倣的に追経験する。─ subject oneself to the flow of the voice and verbally experience imitatively other person’s verbal experience.
   32において、「第一言語の注釈」はノエマを「示唆」する。
   4. 身を委ねた模倣的な追経験を繰り返すことでやがて「第一言語の注釈」なしに追経験できるようになる。
(2) (1)の活動と並行して即興的な習得のための活動を大量に行うこと
 いずれにせよ、「まずは言語事項を学習してその後に言語活動をする」というふうには考えず、随従的(受容的)であれ主導的(産出的)であれ常に学習者に言語活動に従事させ、その脈絡で必要な言語促進的な支援をするという言語促進的な言語活動従事の経験を学習者に大量に提供するというのが筆者の立場である。

5.第二言語教育
(1) 第二言語教育とは、学習者における第二言語の習得を支援する、計画的で、組織的で、意図的な営みである。
(2) コースの企画と計画は、目標(ねらいと目標)の設定から始まる。コースの目標は、一連のコースの最終目標を主として学習者の日本語学習の目的を参照して設定した上で、それに至るステップとして、当該コースの終了時の実用的なニーズの達成も考慮しながら、現下のコースの目標を設定するのが適当である。
(3) コースの目標が設定された後は、設定された目標を最も合理的に達成しうる教育の内容と経路を計画する。
(4) 具体的な授業の実践も設定された目標を学習者が有効に達成することを最も有効に支援するように行う。
(5) 教育の改善は、計画性のない学生からのフィードバックなどに拠るのではなく、PDCAのサイクルの下に計画的なカリキュラム評価や授業評価を実施して堅実に行う。
(6) 授業の改善は、教育の改善と連動して、自身の専門性と持ち味を発揮して各授業教師が与えられた裁量に基づいて行う。

6.第二言語の授業について
(1) 授業及びそこでの言語活動/相互行為は、習得促進支援の枢要な部分である。
(2) 授業という状況には、学習者という「受益者」と、教授者という「支援者」がいる。授業という時空間が始まった瞬間に、学習者と教授者の間と学習者同士の間での対面的な相互行為は開始される。つまり、お互いがお互いの(言語)行為に注意を向ける。
(3) 第二言語の授業では、言語的リソースの欠如という条件があるので、教科学習のようにことばのやり取りと板書という言語的リソースに全面的に依存して授業を行うことはできない。第二言語の授業、特に基礎的な段階の授業は、まずは、(a)実物(レアリア)やイラスト・写真・図・表(スクリーン提示でも)などと連動したさまざまな言語行為で、身振り手振りやイラストレーションや書記形態提示や視線や体の向き等による注意のコントロールなどさまざまな補助的手段をも使いながら、巧みに相互行為を構成し再構成し維持することが必要となる。そして、(b)そのように巧みに成り立たせた相互行為の展開の筋道に載せる形でようやく未知あるいは未習熟のことばが示されてその習熟が促進され、第二言語の習得が促進される実質的な教授活動が実践されることになる。こうした事情は、習得を中心とした教育方法の場合でも、学習を中心とした教育方法の場合でも、変わらない。

(4) ゆえに、第二言語の授業の有効性の重要部は、(a)授業の基底として相互行為をうまく(再)構成し維持することができているかということと、(b)そうした基底の上で未知あるいは未習熟のことばをうまく相互行為の文脈で指導して言語の習得を促進できているか、によって決まる。

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