2018年4月21日土曜日

基礎日本語教育の授業実践を考える ─ 自然習得系のアプローチの系譜

この記事は2015年11月から2016年10月のNJ研究会フォーラム・マンスリー(まぐまぐ!、http://www.mag2.com/m/0001672602.html#detailbox)に掲載された連続エッセイを転載したものです。

第1回 イントロダクション

○ 応用言語学の時代
 わたしは、教材の開発や教員研修なども含めて外国人に日本語を教えるという仕事にずっと携わってきました。しかしながら、専門は、日本語学や社会言語学などではありません。第二言語習得研究でもありません。自分の専門は、第二言語の習得と教育の内容と方法を考究するという意味でこれまでは第二言語教育学と呼んできました。その行き着いたところが、バフチン(Mikhail Bakhtin, 1885-1975)の対話原理の研究とその第二言語教育への応用でした。
 応用言語学というのは、狭義には、第二言語の習得と教育の方法を考究する学問分野となります。そして、その考究においては、言語学や社会言語学や語用論や談話分析などの言語関連の研究分野の成果が参照されます。著名な応用言語学者としては、古くは20 世紀最大の応用言語学者と言われるPalmerがおり、比較的最近では、といっても70年代から80年代初頭にかけて、一世を風靡したStevickがいます。そして、その後は広い意味でコミュニカティブ・アプローチの時代となります。まず最初にWilkinsの『Notional Syllabus』(1976)が刊行されてコミュニカティブ・アプローチの鏑矢となります。その後に、70年代後半から80年代前半にかけて、WiddowsonStrevensBrumfitなど多数の主としてイギリス系の応用言語学者が現れ、興味深い論考を多数世に出しました。一方で、80年代の初頭には北米からKrashenが登場し、その入力仮説は第二言語教育者の間にセンセーションを巻き起こしました。Krashenは、それまでの第二言語教育の常識に大きく反旗を翻しました。当時は、第二言語教育を考究する者として「胸躍る」時代で、筆者も書店でかれらの新刊本を見つけては即入手し、むさぼるように読みました。筆者の第二言語教育探究はその後も続いたわけですが、広い意味での応用言語学はKrashenを境として潮目が変わったように思います。ごくわかりやすく言うと、時代は応用言語学から第二言語習得研究へと大きく移行したようです。
 ここに名前を挙げた応用言語学者たちを中心にその他の応用言語学者たちも含めて、かれらの著作は、第二言語の習得やその促進や支援についての筆者の考えを豊かにしてくれました。第二言語教育学を志す人はぜひかれらの論に触れてほしいと思います。ただ、その一方で、かれらの論を読んでいて筆者は何となく十分には満足できない感じをもっていました。それは、言語や心理や人間存在やコミュニケーションなどのテーマについての根源的な議論が欠けているという感覚でした。かれらの議論にはそれがなく、それがないと第二言語教育の考究としてもう一歩先に進めないのではないかと思いました。ある意味でそれはしかたないことでした。なぜなら、かれらはそれまでの既存の言語関係の研究の応用として第二言語の習得や教育を考究していたからです。かれらの視野には上のようなテーマについての哲学的な考究は入っていませんでした。
 「根源的な議論が欠けている」という感覚は、筆者を、当初は認知心理学や第二言語習得研究、そしてやがて言語哲学や学習研究や発達心理学などの分野を彷徨わせました。そして、そうした彷徨の行き着いた先がバフチンでした。バフチンの言語論はそれまで欠けていた根源的な議論をまさに展開していると感じました。バフチンは読めば読むほどに魅力的でした。しかし、魅力的で魅惑的である分、その正体や全体像をやすやすとは見せてくれませんでした。第二言語教育学を前に進めるための筆者とバフチンの長い対話が続きました。その長い対話の成果が、西口(2013)であり、西口(2015)です。
 西口(2103)では、バフチンの初期の著作である『マルクス主義と言語哲学』(バフチン, 1928/1980、邦訳のタイトルは『言語と文化の記号論』で新時代社刊)での議論をスタートとしてバフチン言語哲学について第二言語教育の関心から解釈を試みました。西口(2015)では、対話原理の究明を研究的な主要テーマとして、そこからの基礎日本語教育の企画への展開を論じ、また接触場面相互行為研究への道筋を明らかにしました。一方で、教材作成者としては、上記企画の教育実践をサポートする教材として『NEJ─テーマで学ぶ基礎日本語』(くろしお出版)を世に出しました。
○ 教育実践のプラットフォームの開発から具体的な授業実践へ
 上述の2冊の本では、企画された自己表現活動中心の基礎日本語教育のカリキュラム編成の原理と指針や教材開発の要領、さらに一つのユニットの授業の流れなどが論じられています。それとともに授業方法の基本原理や学習者の役割と教師の役割などについても論じされましたが、それはごく概略にすぎませんでした。また、そこでは、広い意味での応用言語学でのさまざまな議論はほとんど反映されていませんでした。本エッセイの主要な目的は広い意味での応用言語学での注目すべき議論を参照しまたバフチンの対話原理とも関連づけて、自己表現活動中心の日本語教育における具体的な授業実践の方法を検討することです。


文献情報 ※名前を挙げた応用言語学者の主要な文献を一つだけ挙げます。できるだけ入手可能なものを選びました。
Brumfit, C. (1984) Communicative Methodology in Language Teaching. Cambridge University Press.
Krashen, S. (1983) Principles and Practice in Second Language Acquisition. Pergamon Press.
Palmer, H. E. (1968) The Scientific Study and Teaching of Languages. Oxford University Press. 現在はScholar’s Choiceという出版社から新版(2015)が出ている。
Scarcella, R. C. and Oxford, R.L. (1992) The Tapestry of Language Learning. Heinle and Heinle. 牧野髙𠮷訳・監修(1997)『第2言語習得の理論と実践』松柏社
Stevick, E.1976Memory, Meaning and Method. Newbury House.
Strevens, P.1980Teaching English as an International Language. Pergamon Press.
Widdowson, H. G.1984Explorations in Applied Linguistics 2. Oxford University Press.
Wilkins, D. A. (1976) Notional Syllabuses. Oxford University Press. 島岡丘訳(1984)『ノーショナル・シラバス』桐原書店/オックスフォード

第2回 Krashenの衝撃

   Krashen、東京に現る!

 1984年、東京。JALT(全国語学教育学会)コンファレンスの特別講演の会場を埋める数百人の聴衆は、講演者のよどみのない話に聞き入った。彼の名前は、Stephen Krashen。カリフォルニアからやってきたこの精力と自信にあふれる研究者は、第二言語習得についての自身の仮説であるインプット仮説を提示し、次から次へとたたみかけるようにそれを支持する証拠を挙げてその仮説の正しさを滔々と主張した。そして、彼の推奨する教育方法の根幹となる「comprehensible input!(理解可能なインプット)」という言葉をほとんどお題目のように何度も何度も唱えた。
 聴衆の反応の実際のところはわからない。しかし、Krashenのよどみない話術と2時間ほどの講演の間に100回近く(?)繰り返された「comprehensible input!」という言葉に魅せられた聴衆がかなり多いことは講演中の雰囲気と講演終了時の万雷の拍手とで想像できた。彼の話し方は聞く者に「これは反論の余地のない科学的な事実だ」という印象を与えた。Krashenの仮説は、第二言語教育に革命を起こすのではないか? そうとさえ思わせた。と同時に、Krashenはこのような講演を全米各地は言うまでもなく、世界各地で重ねているのだろうと想像された。「Krashen教」を布教するように。

 以上は、実際にコンファレンスに参加しKrashenの講演を聞いた筆者の当時の印象を再現したものです。そして、201511月に筆者は米国サンディエゴで開催されたACTFLで再びKrashenの講演を聞くこととなりました。Krashenの醸し出すムードとその話しぶりは30年前とほとんど変わりありませんでした。今回は、Krashenのインプット仮説とKrashenTerrellのナチュラル・アプローチを紹介します。
   インプット仮説とナチュラル・アプローチ
 Krashenの理論は包括してインプット仮説と呼ばれています。インプット仮説は以下の5つの仮説からなります。
仮説1 習得—学習仮説(the acquisition-learning hypothesis
 成人の第二言語能力の発達には、習得と学習というまったく別個の独立した過程がある。習得は、子どもが第一言語の能力を発達させるのと類似した過程で、意識下で起こる過程である。これに対し、学習は、言語の規則を知ること、つまり、文法についての知識を意識的に学ぶことである。
仮説2 自然順序仮説(the natural order hypothesis
 文法構造はおおむね予測される順序で習得される。すなわち、ある言語を習得する者は、年齢や母語に関わりなく、ある文法構造を早く他の文法構造をより遅く習得する。個々の学習者が全く同じように習得するわけではないが、その習得順序には明らかな類似性が見られる。
仮説3 モニター仮説(the monitor hypothesis
 習得された能力と学習された能力にはそれぞれ特別な役割がある。通常習得された能力は第二言語の発話を発起(initiate)し、話し方を流暢にする。これに対し、学習された能力は、習得システムによって発話が発起された後に、発話の形式に修正を加えるときにのみ働く。学習システムのこの働きをモニターと呼ぶ。モニターは言語運用上そのような限られた役割しか果たさず、それゆえ、第二言語の発達では学習よりも習得のほうが重要である。
仮説4 入力仮説(the input hypothesis
 入力仮説は以下の4つの下位仮説からなる。
(1)   入力仮説は、学習ではなく、習得に関係する。
(2)   人は現在のレベルiより少し上の構造i1を含む言語を理解することにより言語を習得する。理解はコンテクストや言語外の情報を活用することにより達成される。
(3)   コミュニケーションが成功し、入力言語が理解され、さらにそのような理解できる言語が大量に与えられれば、i1は自然に提供される。
(4)   産出能力は自然に現れてくる。産出能力を教えることはできない。
仮説5 情意フィルター仮説(the affective filter hypothesis
 言語習得には、モチベーション、自信、不安などが関与する。このような情意的要因が好ましくない状態、例えば、自信がない、不安を感じているなどのときは、情意フィルターが高く、入力言語が言語習得装置に届きにくくなり、逆にいい状態のときは、大量の言語入力が習得装置に届いて習得が促進される。
 この5つの仮説を言語習得を引き起こす要因という観点からまとめると以下のようになります。
(a)   習得は学習より重要である。
(b)   習得を引き起こすためには、2つの条件を整えればよい。1つは、i1の構造を含む理解できる言語を大量に与えること。いま1つは、その言語入力が言語習得装置に届くように情意フィルターを低く保つこと、である。
 そして、煎じ詰めて言うと、リラックスした状態で学習者に理解でき(て集中でき)る話をたくさん聞かせたり、そうした読み物をたくさん読ませたりしさえすれば、言語習得は順調に進行する、となります。そして、そのような原理に基づいて企画され実施される教育方法がKrashenTerrellのナチュラル・アプローチです。
   ナチュラル・アプローチについての一般の評価
 Krashenのインプット仮説とそれが推奨する教育方法は、従来の第二言語教育の方法に「物足りなさ」を感じ、自然習得の場合のように大量に目標言語に晒されなければ習得は進まないだろうと感じていた(が公然とはそのように主張できなかった)教師たちを中心に一時期熱烈に支持されました。しかし、いかんせん、現場で教えている教師の大部分はむしろこうした学会に参加するわけでもなく、専門の本を読むわけでもありません。また、Krashenの説を聞いて一定の理解を示したとしても、やはり現実的には従来の文法等をきちんと理解させ、その上で形の練習をしたり話す練習をしたりするという方法のほうが堅実であるとしてそちらを続ける教師が多かったです。そのような事情で、「Krashen教徒」が過去にも現在もかなりの数いるにもかかわらず、Krashenの説やその推奨する教育方法は一般に広く普及することにはなりませんでした。

参考文献
Krashen, S. and Terrell, T.1983The Natural Approach: Language Acquisition in the Classroom. Oxford: Pergamon. 藤森和子訳(1986)『ナチュラル・アプローチのすすめ』大修館書店

第3回 Krashenとコンプリヘンション・アプローチ

○ コンプリヘンション・アプローチ
 それまでの第二言語教育においては話したり書いたりする産出活動こそが第二言語の習得を強力に促進すると考えられていました。教師も学習者も、真剣に外国語を勉強するのであればそれは当然のことだと考え、疑義が挟まれることはありませんでした。Krashenは「話す(書く)ことは習得の結果であり、習得の促進要因にはならない。受容活動こそが習得を促進する」と言って、そのような従来の考え方に反旗を翻したのです。
 受容活動を中心とした言語教育法を提唱したのは、実はKrashenが初めてではありませんでした。Krashenの南カリフォルニア大学と同じカリフォルニアにある米国国防総省語学研修所(Defense Language Institute)のPostovsky1970年代前半にすでにロシア語教育において受容活動中心の方法を実践していました。Postovskyの方法はDelayed Oral Approachとも言われます。つまり、話すことを要求するのを遅らせる方法です。一方で、Asherは、サンフランシスコ郊外のサンノゼでTPRを実践し、世界に普及しようとしていました。また、カンザス州では、WinitzReedsがコンプリヘンション・トレーニングを中心としたドイツ語学習のプログラムを開発しその効果を検証していました。PostovskyAsherらの教授法やコンプリヘンション・アプローチの理論や原理やその効果については、Winitzed.(1981) 掲載のさまざまな論文で論じられていますので、そちらを参照してください。
 こうした受容活動中心の教育方法の共通の考え方は以下のようにまとめられています。原文の要点のみを訳します。

1. 言語のルールは、推論によって最も容易にそして正確に習得される。言語習得のための基本的な資料は目標言語の文である。
2. 言語習得は、基本的に明示化されないプロセスである。なぜなら、言語知識の習得のほとんどの部分は、学習者が明示的に操作したりはっきりと意識化したりしてできるものではない。
3. 言語のルールは相互に複雑に関連していてひじょうに詳細にわたるので、目標言語の文法の大部分に晒されないで間違いなく習得することは不可能である。そのような意味で、言語習得は、一事項ずつ直線的に進むものではない。
4. 理解活動が学習指導の基本となる。学習者は、理解活動を通して目標言語のさまざまな文に晒される。
5. 話すことは、十分なコンプリヘンション・トレーニングが与えられて初めて身につく。                                                
Winitz(ed.), 1981, pp.xvii-xviii
○ コンプリヘンション・アプローチとKrashenの対比
 Krashenのインプット仮説やナチュラル・アプローチは、コンプリヘンション・アプローチの系譜に属するといっていいのですが、Krashenの提唱するアプローチとコンプリヘンション・アプローチの間にはいくつかの違いがあります。以下に説明します。

(1) コンプリヘンション・アプローチにおける文法偏重
 コンプリヘンション・アプローチは、文の作り方という意味での文法知識の習得に大きな関心を寄せています。これに対し、Krashenは、研究としては文法知識の習得を言語習得の証拠としていますが、KrashenTerrellのナチュラル・アプローチでは、いわゆる言語の流暢な運用能力を教育の目標としています。
(2) Krashenの言う習得は無意識的な過程
 コンプリヘンション・アプローチとKrashenとでは、言語習得過程の意識性について違いがあります。コンプリヘンション・アプローチでは、言語習得過程は明示化されないプロセス(implicit process)という言い方をしています。これは、分かりやすくいうと、「言葉遣いの具体的なルールをきちんと説明しながら言語を教えるなんてできやしない」ということです。そして、学習者が行う言語習得の心理的過程については特段論じていません。これに対し、Krashenは、言語を身につけることに関しては意識的に行われる学習(learning)と無意識的に行われる習得(acquisition)という2つの過程が関わるが、言語の流暢な行使に関与する知識・能力を促進するのは習得のほうであると言っています。そして、その習得の過程は無意識的(subconscious)で、また、学習された知識・能力と習得された知識・能力は別のもので、練習や言語活動経験によって前者が後者に編入されることもない(non-interface positionと言う)と言います。
(3) Krashenのアプローチでは理解可能なインプットを大量に与えることこそが重要
 (2)とも関連することだが、Krashenのアプローチでは、理解可能なインプットを大量に与えて、言語習得装置を作動させて、無意識的な過程を通して言語についての暗黙の言語知(tacit knowledge of language)を習得させることを主眼としています。これに対し、コンプリヘンション・アプローチの方法を見てみると、インプットを大量に与えて暗黙の知識を習得させるというよりも、受容活動に従事する中で目標言語の音声的な実現体に習熟するとともに、意識的であろうかと思われる推論の心理過程によって目標言語の構造を知ることが重視されているように見受けられます。
 以上、前回と今回の2回にわたって、Krashenとコンプリヘンション・アプローチについて見てきました。現在、これらのアプローチは第二言語教育の世界ではほとんど注目されていません。しかしながら、言語習得において受容活動に重きを置くこれらのアプローチの観点はないがしろにはできない重要性があると筆者は思います。

参考文献
Winitz, H.1981The Comprehension Approach to Foreign Language Instruction. Rowley, MA: Newburry House.
西口光一(1995)『日本語教授法を理解する本 ― 歴史と理論編』バベルプレス

第4回 コンプリヘンション・アプローチの「先行ランナー」


○ NewmarkReibel
 受容活動を中心とした教育方法は、文脈としては,プロフェッショナルな外国語教育法となっていたオーディオリンガル法に対する「反論」として出てきたものです。そして、そのような「反論」は60年代にはすでに芽生えていました。オーディオリンガル法への「反論」の「先行ランナー」は、NewmarkReibelです。Newmark1966)は、それまでほとんど疑義を挟まれなかったオーディオリンガル法の考え方に最初に異を唱えました。しかし、Newmarkの論考は、主として、構造言語学から導き出された構文を行動心理学の習慣形成理論に基づいて「一度に一つの構文」という形で積み上げ式に強制的に文の作り方を身につけさせようとするオーディオリンガル法を批判することが中心になっていました。その2年後に出たNewmark and Reibel1968)の“Necessity and sufficiency in language learning”は、そのタイトルの通り、オーディオリンガル法に対して明確に「反旗を翻し」、代替案を提示しました。彼らは次のように論じています。
 人が言語を習得するための必要条件と十分条件はすでに分かっているものとわれわれは考える。具体的な実際の言語の使用例が学習者に提示されて学習者が実際に言語を使用しようとする行為が選択的に強化されさえすれば、言語は習得される。ここで重要な点は、(1)学習者が実際の言語の使用例(instances of language in use)を学ぶのでなければ、それはその言語を学んだことにならないのであり、(2)学習者がそうした実際の言語の使用例を十分に身につけてしまえば、すでに実際の形になっているそれらについての分析や一般化は不要なのである。… 学習する教材に関して教師が主としてコントロールしなければならないのは、教材で提示される材料が学習者が使おうとするために十分に理解できること、だけである。後は、学習者の言語学習能力が発揮されてうまく進行する。(筆者訳、強調は原著、括弧番号は筆者)
 かれらの見解の中心にあるのは、実際の言語の使用例instances of language in use)です。つまり、理解できる形で実際の言語の使用例が十分に与えられて、一方でそれを使って言語活動に従事しようとする学習活動を行えば、言語習得能力(かれらの用語では、language acquisition deviceではなく、language learning capability)が発揮されて言語習得が首尾よく進行するというわけです。
○ NewmarkReibelとコンプリヘンション・アプローチとKrashenの評価
 筆者自身は、NewmarkReibelの言う「言語習得の必要でありかつ十分な条件」はその通りだと思います。現在のCEFR関係の教育改革へとつながるヨーロッパ評議会の外国語教育革新の指針を示したWilkinsが “Notional Syllabus”Wilkins, 1976)で論じている分析的アプローチ(analytic approach)もNewmarkらと同様の発想だと言っていいでしょう。実際に、Wilkinsはその本の中でReibelのオーディオリンガル法批判に言及しています。しかしながら、Newmarkらが提案している方法では、実際の言語の使用例というのが、いきなりドラマあるいはダイアローグに化けてしまっています。そして、それらを無理なく段階的に提示し模倣させることによって第二言語能力を伸ばそうという教育ストラテジーを提案しています。かれらが提案している方法は、言ってみれば「計画的なフレーズブック・アプローチ」です。ですので、旅行者のための英語や生活のための基礎日本語などのフレーズブック・アプローチに共通する問題をかれらのアプローチも抱えることになります。それは、(1)現実の「実際の言語の使用例」はしばしば構造的に複雑なものとなる、また、(2)相手への配慮の表現などもしばしば伴うので一つの発話が長くなる、(3)一つのダイアローグの中に多様な構造が現れる、などです。これらの問題を克服して「無理なく段階的に」ダイアローグを提示するのは相当の至難の業だと思います。また、第二言語習得の段階性ということを考えた場合に、学習初期という基礎力養成期の教育内容あるいは教育目標としてダイアローグというのがそもそも適切であるのかという点についても疑問があります。この点については、第7回で論じます。
 一方で、コンプリヘンション・アプローチのほうは、無理矢理に話させることを通して言語習得を促進しようとするのではなく、穏やかに受容活動に従事させることによって第二言語の習得を促進しようという根本的なアプローチの転換はひじょうに注目されるのですが、コンプリヘンション・アプローチの文法偏重の側面は再考する必要があると思われます。コンプリヘンション・アプローチの主要な教育ストラテジーは、提示された文に対応する絵を選ぶという課題の連続であったり(例えば、Winitz and Reeds)、系統立てられた教師が出すさまざな指示に適切に身体で反応するというものであったり(AsherTPR)、でした。そして、そうした課題や活動の趣旨は目標言語の文型や文法を着実に習得させるというものでした。
 最後に、Krashenの主張やアプローチについて言うと、(1)無意識的な過程により暗黙の言語知識が「習得」される、(2)意識的な「学習」と無意識的な「習得」はまったく異なる2つのプロセスである、(3)明示的な知識として「学習」した知識と「習得」により獲得した暗黙の言語知識は融合することはない、というKrashenの主張の重要部はどうも受け入れがたいです。というか、この習得理論の部分は妙に理論言語学、具体的にはチョムスキー流の言語理論に依拠していて、筆者のような社会認知主義の人間には「そういう言語能力観に基づくのですか?」という違和感があります。また、インプット仮説を支持するとしてKrashenが提示する証拠もひじょうにマクロ的な因果関係のみとなっています。
○ 実際の言語の使用例と理解可能なインプット
 第二言語の習得が首尾よく進行するためには、NewmarkReibelの言う実際の言語の使用例に大量に接する必要があると思います。この部分については、多くの第二言語教育者はその重要性を低く見積もっていると思います。理解可能なインプットを大量に与えるというKrashenの方法は、そのような必要性を強く感じている筆者のような第二言語教育者の直感には大いに響きます。また、受容活動の重要性の指摘も十分に納得できます。しかしながら、「そこで起こっているのはすべて無意識的な過程だ」とか「そこで習得されるのはすべて暗黙の言語知識だ」と言われると、そうした主張にわかに賛同することはできません。ただ、そのことは研究や理論的には重要な問題であって、ナチュラル・アプローチあるいはナチュラル・アプローチ的な方法を教育に適用するにあたっては、ある意味でどちらでもいいことです。また、多くのKrashen批判者が指摘しているように、Krashenは、理解とはどういうことか、その際にことばはどのような役割を果たすのか、そして理解の言語経験がどのように後の言語活動従事に関与するのか、などについて十分に見解を提示していません。そのあたりについては、バフチンが「得意」であると思います。この点については第11回で議論をします。
参考文献
Newmark, L.1966How not to interfere with language learning. International journal of American Linguistics, vol.32, No.1, Part: 77-83.
Newmark, L. and Reibel, D. A.1968Necessity and sufficiency in language learning. International Review of Applied Linguistics 6: 146-164. Google Scholarで入手可能。
Wilkins, D. A. (1976) Notional Syllabuses. Oxford: Oxford University Press. 島岡丘訳注(1984)『ノーショナル・シラバス』桐原書店/オックスフォード

5回 Wilkins”Notional Syllabus” 

○ “Notional Syllabus”とは何か
 現在、第二言語教育に関わる専門家の間ではヨーロッパ評議会(Council of Europe、以下COEとする)のCEFRCommon European Framework of Reference for LanguagesCouncil of Europe, 2001)は、第二言語教育の学習と教育の評価のための共通の参照資料として、ヨーロッパだけでなく、広く世界の第二言語教育で活用されるようになっています。同資料の冒頭に書かれているように、COEによるヨーロッパにおける言語教育革新運動は1971年から始まって現在に至っています。筆者の印象では、CEFRの資料の出版を契機とした革新運動の盛り上がりは第二次の盛り上がりです。そして、第一次の盛り上がりは、いわばCEFRの前身となるThreshold LevelWaystageなどが出版され、ユニット・クレジット・システムが開発された1990年前後です。いわゆるコミュニカティブ・アプローチもこの80年代から90年代にかけて喧伝され普及したものです。北米におけるコンプリヘンション系の革新的な教育方法の後を受けて、COE及びその周辺の研究者たちは70年代の後半から現在までの40年間近くにわたり第二言語教育の発展を牽引してきたと言っていいでしょう。そして、Threshold LevelWaystageが作成される際の指針となったのがWilkins”Notional Syllabus”なのです。

○ 綜合的アプローチと分析的アプローチ
 “Notional Syllabus”は名著とされています。しかし、それはThreshold LevelWaystageなどの参照枠の指針となる第2章以降の内容の故ではありません。むしろ、わずか20ページほどの第1章の内容が意味深いとして評価されているのです。そして、その中で中心的な議論となっているのが綜合的アプローチ(synthetic approach)と分析的アプローチ(analytic approach)の対比です。Wilkinsの議論を味わっていただくために、冒頭の部分をつまみ食い的に抜粋します。まずは、綜合的アプローチです。

  A synthetic language teaching strategy is one in which the different parts of language are taught separately and step-by-step so that acquisition is a process of gradual accumulation of the parts until the whole structure of the language has been built up. In planning the syllabus for such teaching the global language has been broken down probably into an inventory of grammatical structures and into a limited list of lexical items. These are ordered according to criteria which is discussed in the next section. At any one time the learner is being exposed to a deliberately limited sample of language. The language that is mastered in one unit of learning is added to that which has been acquired in the preceding units. The learner's task is to re-synthesize the language that has been broken down into a large number of smaller pieces with the aim of making his learning easier. It is only in the final stage of learning that the global language is re-established in all its structural diversity.

 ご覧のようにこれはまさに構造中心のアプローチあるいは日本語教育の文型・文法積み上げ方式です。では、次は分析的アプローチです。

  In analytic approaches there is no attempt at this careful linguistic control of the learning environment. Components of language are not seen as building blocks which have to be progressively accumulated. Much greater variety of linguistic structure is permitted from the beginning and the learner's task is to approximate his own linguistic behaviour more and more closely to the global language. Significant linguistic forms can be isolated from the structurally heterogeneous context in which they occur, so that learning can be focused on important aspects of the language structure. It is this process which is referred to as analytic.

 この部分の主張をかいつまんでまとめると以下のようになります。

 (1) 言語構造をレゴのブロックのように一つずつ積み上げていくように学ぶべきものとは見ない。
 (2) 「一度に一構造」とはしないで、最初からある幅の複数の構造を盛り込む。
 (3) 学習者の仕事は、それらを一つひとつ習得することではなく、自身の言葉の使い方を全体として適正なものに近づけていくことである。
 (4) さまざまな構造が混在するコンテクストの中で重要な言語形式は注目することができるし、学習者は言語構造の重要な側面に焦点化することができる。

 Wilkinsは、これは学習者の分析能力(learner’s analytic capacity)に依拠した方法であるともいっています。それが、分析的アプローチと呼ばれるゆえんです。
 分析的アプローチと、言語事項積み上げ方式などの綜合的アプローチとは相当趣がちがいます。しかしながら、分析的アプローチは、言語事項のコントロールにほとんど意を払わない「強い」コミュニカティブ・アプローチとも異なります。適度に言語事項をコントロールした環境を提供してその中で学習者が言葉遣いを習得し、また自身の話し方(書き方)を適正な言葉遣いに近づけるのが穏当であるとWilkinsは主張しています。
 ところが、Wilkinsの本は第2章以降に進むと、第1章とは打って変わってひどく実用的な議論になり、概念(notion)や機能(function)のリストと各々の事項に対応する表現のカタログのようになってしまっています。そして、Wilkinsの提唱するノーショナル・シラバス(notional syllabus)が分析的アプローチをめざすものなのかさえ結局はあいまいになってしまっています。筆者自身は、Wilkinsが本当にCOEの言語教育の専門家に伝えたかったのは、第1章の内容なのではないかと思っています。そして、文法シラバスに代わる新たな視点によるシラバスを提示するという実用的な必要のために第2章以降を発表したのだと思います。このあたり、Wilkinsも、理念や理論と実用と実際の間の溝に悩んだのではないかと想像します。
 筆者自身は以前から、コミュニカティブ・アプローチには、教育内容の革新教育方法の革新という2つの側面があると論じてきました(西口, 1995)。Wilkinsの本の第1章は、その両方を含めた議論になっています。そして、第2章以降の内容は、ESP(特殊目的のための英語)を代表とする、機能と概念に基づく新たなコースのデザインへと発展していきます。しかし、その概念-機能シラバス(notional-functional syllabus)はやがては新たな言語事項シラバスを産み出すことになってしまい、それは、後にWiddowsonに批判されるところとなりました(Widdowson, 1983)。Wilkinsは、言語発達のために健全で学習に有益なコース計画を実現したかったのだと思います。しかし、その夢は容易に果たせるものではありませんでした。
参考文献
Widdowson, H. G.1983Learning Purpose and Language Use. Oxford: Oxford University Press.

6回 第二言語教育の教育方略と心理言語過程


○ Martonの再構成的方略マスターテクスト・アプローチの出自
 北米発のKrashenのナチュラル・アプローチをはじめとするコンプリヘンション系の教育方法が登場し、その一方でペア・ワーク、タスク練習、さらにはシミュレーションやプロジェクト・ワークなどの活動方法を提唱したコミュニカティブ・アプローチがヨーロッパから発信され普及した1980年代の終わりに、第二言語教育方法について包括的に論じた本が出ました。Marton“Methods in English Language Teaching”です。Martonの本はわずか100ページ余りのコンパクトな本ですが、第二言語教育のインストラクショナル・デザイン(instructional design、教育設計)をしようとする実践的な教育者にとってはすばらしくわかりやすく説得力のある有用な資料となっています。この本の中で、Martonは、第二言語教育の方略を、(1)受容中心の方略(receptive strategy)、(2)コミュニカティブな方略(communicative strategy)、(3)再構成的方略(reconstructive strategy)、(4)折衷的方略(eclectic strategy)の4つにまとめています。そして、それぞれの教育方略についてどのようなタイプの学習者にそしてどのような学習状況や学習段階に適合するかを検討し、最終的に諸要因全体について「成績表」のようものを提示しています。もちろん、(1)がコンプリヘンション系のアプローチ、(2)がコミュニカティブ・アプローチで、(4)(1)から(3)のミックスです。では、(3)の再構成的方略というのは何でしょう。
 再構成的方略については、著名な提唱者はいません。そして、筆者自身は、この再構成的方略を知って「目から鱗」の思いがしました。Martonの説明を引用します。

 The reconstructive strategy is one that imposes a distinct strategy of learning consisting of a very controlled and gradual development of competence in the target language through the learner’s prolonged participation in reconstructive activities. Reconstructive activities are always based on a text, spoken or written, in the target language. This source text provides the learner with linguistic means in the form of syntactic structures, lexical items, phrases, collocations, etc. needed for the successful and accurate execution of a productive task assigned to him by the teacher. The task itself has to be related to the source text, therefore, and may involve re-narrating the text, summarizing it, re-telling it from a different point of view, adapting it to the learner’s personal situations and experiences, etc.
(Marton, 1988, p.57)

 読んでいただければすぐにわかるように、再構成的方略はまさにNEJが採用しているマスターテクスト・アプローチです。そのことは、自己表現活動中心のカリキュラムと教材の作成について最初に論じた西口(2010)で言及されています。
 議論の対象となった4つの教育方略の中で、Martonはこの再構成的方略を最も有力な教育方略として提唱しています。そして、Martonはこの要因については論じていませんが、言語的に距離のある第二言語を学習する場合にも、従来的な言語事項中心の方法に代わると同時にコミュニカティブ・アプローチとも異なるこの再構成的方略が最も有効であると思われます。

○ MartonScarcella and Oxford
 Martonのこの本及びそこでの主張は、その後の教育方法の本で、例えば次に論じるScarcella and Oxford1992)などで、取り上げられているのを見たことがありません。なぜでしょうか。それは、おそらくMartonがそうした第二言語教育法の研究者のコミュニティに入っていないからでしょう。学問の世界もある種人間くさいもので、各研究者の研究純粋にそれとして評価されて諸研究が展開しているわけではなく、研究者コミュニティのメンバーになっていたり、そこに適度に顔を出していたり、権威者のサポートを得たりといった要因で展開されている部分がかなりあるように思います。実際にそういうのがなければ本を出版することもできません。
 さて、第二言語教育の教育方略を論じる際に、外的要因に注目した議論と内的要因に注目した議論という2つのタイプの論じ方があります。前者は、端的に学習者に何を提供するのが言語習得に有益かという観点での議論。後者は、学習者の中で赫々然々の言語心理的な処理が生じるような活動に学習者を従事させなければならないという「学習者の中」に注目した議論です。Martonの議論は、どちらかというと前者に属する議論となります。そして、後者の議論としてScarcella and Oxford1992があります。
 Scarcella and Oxfordは、Martonと似たような具合で、それまでの第二言語習得の仮説(Martonの教育方略に相当)として、(1)入力仮説、(2)産出仮説、(3)相互行為仮説の3つを挙げています。そして、かれらの主張は、入力の受容処理そのものや、産出や相互行為の活動従事そのものが言語習得を有効に促進するのではない。そうではなくて、援助のある言語活動従事が最も言語習得を促進するのだと主張します。

 According to this view, what most facilitates second language instruction is neither providing learners with input (the language that learners read and hear) nor encouraging learner output (the spoken and written language that learners produce). Rather, what best aids language instruction is a combination of various types of language assistance. This assistance encourages learners to stretch their linguistic abilities just when they need to do so. It occurs in the context of language-promoting interaction, which we define as interaction that facilitates language development. If immediate linguistic context is facilitative, we conclude, it is so not because it encourages a particular type of English input or output, but rather because it assists students precisely when they require this assistance.

 Scarcella and Oxfordは、かれらの言語促進相互行為仮説(language-promoting interaction hypothesis)は、ヴィゴツキーのZPDのアイデアに準じたものであると主張しています。しかし、その議論は表面的な類似性の指摘に終わっていると思います。この点については西口(2015)のpp.141-147をご参照ください。とはいえ、ZPDのアイデアと第二言語の習得を明瞭に結びつけて議論したのはかれらの貢献です。筆者としては、Martonの再構成的方略に注目し、バフチンの対話原理やヴィゴツキーのZPDも絡めながらこの後の議論を展開していきたいと思います。
参考文献
西口光一(2010)「自己表現活動中心の基礎日本語教育 ─ カリキュラム、教材、授業 ─ 」『多文化社会と留学生交流』第14pp.7-20.
Marton, W. (1988) Methods in English Language Teaching. Prentice Hall.
Scarcella, R. C. and Oxford, R. L. (1992) The Tapestry of Language Learning: The Individuals in the Communicative Classroom. Heinle and Heinle. 牧野高吉訳・監修、菅原永一他訳(1997)『第2言語習得の理論と実践 ― タペストリー・アプローチ』松柏社



第7回 第二言語の習得と教育についてのいくつかの脱却点

 第二言語の習得と教育に関してこれまでとは異なる発想でそれを企画するにあたってはいくつかの脱却点があるように思います。今回はそれらについて論じたいと思います。

○ 個体主義的学習観あるいは貯蓄型学習観からの脱却
 従来学習というのは、言語や識字の学習も含めて、個人が知識を身につけて蓄えることと見られてきました。パウロ・フレイレはこれを「銀行型教育」と呼んで批判しました。そして、自分たちが置かれている社会的状況に目覚めるような課題提起型学習を提唱しました。また、後の状況的学習論の文脈では、個人が知識を身につけるという見方は個体主義的学習観と呼ばれ、同文脈では、協働と対話のプロセスを通した知識の共生成と共有ということが強調されました。第二言語の習得と教育では、所定のコンピテンスを各学習者が着実に身につけるという見方一般がそうした個体主義的学習観にあたります。
 筆者は、このような個体主義的学習観や銀行型学習観への批判については共感しつつ、時に言われる「だから学ぶのは個人ではない」という言い方については賛同できません。なぜなら、とやかく言ってもやはり「できるようになる」(あるいは「できるようにならない」)のは個人だし、「できるようになる」にあたってはやはり何らかの経験等の蓄積がなければならないと思うからです。
 人間の言語活動について、talk in interaction=相互行為で話すことという見方があります。会話分析や北欧のLinellのグループなどの見方です。人間においては具体的な脈絡で他の人との社会的交通(interaction、バフチンの用語)が起こり、その社会的交通の中でその交通の具体的な進展として発話の交換つまりtalkが交わされるという見方です。人間の言語活動あるいは言語現象をこのように見るならば、言語習得というのは、talk in interactionに従事できるようになることと見ることができ、そのように見るならば言語を習得するということにおける重要な要因は、特定の種類のtalk in interactionに従事して、それを経験しつつ同時にそこで交わされることばやことばづかいを身につけることと見ることができます。第二言語状況においてtalk in interactionに従事しそれを経験しつつことばやことばづかいを身につけるということには、2種類のしかし連続的な心理過程が関与します。ことばやことばづかいを意識して意図的に学習する過程つまり意識的学習(conscious learning)と、ことばやことばづかいを意識しないであるいは半意識で意図なく学習する過程つまり半意識的学習(subconscious learning)です。そして、ここで重要なことは、特定の種類のtalk in interactionに従事できるようになることやさまざまな種類のtalk in interactionに従事できるようになるというのは、ことばやことばづかいだけを習得することではなく、当該のスピーチコミュニティでの相互行為の仕方やそれを運営するためのことばやことばづかいを我が物にして(appropriate)そのスピーチコミュニティの一つの主体になる道程を前進させることだということです。それは、当該の学習者にとっては新たな「人格としての声、意識としての声」(Holquist, 1981)の獲得であり、現象として見れば「イデオロギー記号という社会的建造物を栖とする住人」(バフチン, 1988)になる歩を進めることとなります。そして、そうした経験の蓄積は、単なる知識の蓄積ではなくそのスピーチコミュニティでの言語的な主体性の獲得過程として捉えられるということです。
○ 文の作り方や言語知識の取り立て指導からの脱却
 コミュニカティブ・アプローチの一つの貢献は、文の作り方やそれに関与する言語知識を取り立てて指導することは必ずしも有効ではないという見方を普及させたことです。これは大きな既成概念からの脱却であると思います。なぜなら、文の作り方や言語知識は取り立てて指導する必要があると考えている限り、構造中心あるいは言語(知識)中心のアプローチから逃れることができないからです。初級段階の日本語教育で「コミュニカティブ・アプローチで教えている」と言う人がいますが、教科書のシラバスは文型・文法事項積み上げ方式になっているのですから、それは「ロールプレイやペアワークなどのコミュニカティブな活動も取り入れて授業をしている」くらいの意味でしょう。
 第二言語の習得や教育で文の作り方や言語知識を取り立てて指導することは必ずしも有効ではないということを最初に高らかに宣言したのは、第5回で論じたWilkinsです。ただし、Wilkinsは文の作り方や言語知識が不要であるとは言っていません。文型・文法事項の積み上げではなく、比較的多様な構造が混在した言語活動の仕方のサンプルを提示されれば、学習者は分析的能力を発揮してその中で重要な構造を見つけてその構造に一定の注目をして、自身の言語活動従事の仕方を目標言語の言語活動従事の仕方に近づけることができる、というのがWilkinsの分析的アプローチの主張でした。
○ 「教師が教える」ということからの脱却
 コミュニカティブ・アプローチのもう一つの貢献は、それまでの「教師は教えるものだ」との考え方からの脱却を促したことです。コミュニカティブ・アプローチでは、教師には、従来の教える者の側面もありながら、学習支援者、ファシリテーター(学習環境・条件整備者)、学習アドバイザーなどの役割を担うことを要請しました。また、コミュニカティブ・アプローチの流れから派生した自律学習の考え方は、教師には学習カウンセラーやメンターの役割もあることを知らせました。
 このような従来の物の見方からの脱却は、それらの普及とともに、さまざまな革新的な試みを産み出しました。ただ、その一方で、コミュニカティブ・アプローチの教育革新運動以来、第二言語の習得と教育は、理論も原理も指針もない根無し草になってしまった観があります。そのような状況を、拙著(2015)では、第二言語教育の20世紀末的状況と呼んでいます。この世紀末的状況を超えるためにはもう一つの重要な脱却が必要です。それが以下です。
○ 実用的コミュニケーションからの脱却
 実用的コミュニケーションからの脱却は比較的最近の傾向だと思われます。コミュニカティブ・アプローチでは、「誘う」「誘いを断る」「ものを頼む」「謝る」などの実用的なコミュニケーションが重要な教育内容として扱われました。しかし、CEFRの能力記述からはそのような実用的コミュニケーション偏重の傾向は消えています。それに代わって、実質のある言語活動に従事する能力や、一人の人格として振る舞える言語能力が重視されるようになっているように見られます。そして、21世紀の教育改革の枠組みで論じられるキー・コンピテンシーや21世紀型スキルの中の「さまざまな道具を駆使して相互行為する能力」などがそうした傾向を一層後押ししていると思われます。

 これまでの議論を踏まえて、次回以降では、コミュニカティブ・アプローチを超える基礎日本語教育のカリキュラム開発と教材開発の話をし、その上で最後に実際の授業実践の方法について論じます。そのような作業を進めるための重要な道標として、次回では、社会文化論的な観点から第二言語学習者とはどのような存在かという議論をします。

参考文献
ミハイル・バフチン、佐々木寛訳(1952-53/1988)「ことばのジャンル」『ことば 対話 テキスト』ミハイル・バフチン著、新谷敬三郎他訳 新時代社
Holquist, M.(1981) Glossary. In Holquist, M.(ed.), Emerson, C. and Holquist, M. (trans.)(1981) The Dialogic Imagination. Austin Texas: University of Texas Press.



第8回 第二言語学習者とはどのような存在か

 Homo loquens(ことばを使う人間)というのは人間の存立についてのヘルダー(Herder、ドイツの哲学者、1744-1803)のアイデアです。ヘルダーのhomo loquensというアイデアは人間における教養というところまで行っていますので、ヴィゴツキーやバフチンのアイデアにつながっていると言えます。2回にわたる「第二言語学習者とはどのような存在か」というエッセイの第1回として、今回は、homo loquensとはどのような存在で、かれらにとっての現実とはどのようなものかについて検討します。
○ 系統発生と社会文化史
 人類という類は、長い系統発生の結果、この地球上に現れました。それまでの動物の類は、類ごとに棲息環境(ニッチ)というものがあって、与えられた身体機能と生理機能と本能でその棲息環境で生命を維持し、連綿と類の命を引き継いできました。しかし、人類という類は、これまでの類とは異なる特殊な類でした。この類は、類内で進化と遂げるという独自の類なのです。マルクス曰く「これらの諸個人が自らを動物から区別することになる第一の歴史的行為は、彼らが思考するということではなく、彼らが自らの生活手段を生産し始めるという、ことである。…人間は自らの生活手段を生産することによって、間接的に自らの物質的な生そのものを生産する」(『ドイツ・イデオロギー』pp.25-26、西口, 2015, p.2)。
 そのような存在になった時点で、人間は自然的な存在ではなくなりました。社会文化的な存在となったのです。社会文化的な存在とは、物理的道具と心理的道具を媒介としながら、自身の手で自身のために独自の生産・生活様式を創造し、その中で生きる存在です。そして、人間は、自身の生産・生活様式を累進的に発展させていくとともに、自身の道具的技能や言語心理機構も累進的に改変していきました。これが人間の社会文化史であり人類の進化史です。その頂点にいるのが現代人です。
○ 個体発生
 以下では、物理的道具やそれを媒介とした行為や活動の技能や技量ではなく、記号と心理の発達に焦点化して、また現代社会の人間に注目して、議論します。
 個々の人間は特定の社会文化的環境(sociocultural milleu)で成長し、教育を受け、記号的に成長した社会文化的存在つまり社会文化的主体となります。ことばと心理に関していうと、さまざまな種類の言語活動に従事することができ、さまざまな種類の言語心理機能を働かせることができるようになる、ということになります。個体発生(ontogenesis)です。つまり、かれが身につけるさまざまな心理機能は自然に発生するものではなく、社会文化的に発生するものです。
 社会文化史の場合と同様、個体発生には累進性があります。つまり、前の発達のステージが土台となって、次の発達が起こります。例えば、ヴィゴツキーは、子どもにおける言語的思考の発達を、生活的概念の発達と科学的概念の発達という大きく2つの段階で補足しています。そして、生活的概念を土台として、その上に科学的概念発達の経路が開けると論じています。
○ 社会文化的主体
 社会文化的環境で生きる社会文化的主体はみんな、「わたし」や「あなた」や「かれ(ら)」をも含む「せかい」を記号的に形象化(Lave, 1988Holland et al. 1990)しながら、そして他者と協働する場面では協働行為の局面を記号的に形象化しながら、「わたし」と「あなた」と「かれ(ら)」が生きる形象世界(Holland et al., 1990)に自らを立ち現せて他者とともに生きています。言語は、そうした生き方の肝要な部分に関わっています(Berger and Luckmann, 1966)。そして、社会文化的主体においては、覚醒して活動しているかぎり、形象化という言語心理的な心の作用がきわめて活発に働いています。
○ 対話とことば
 わたしたちは社会文化的環境に生きて、他者とともに現実を構成し再生産し更新していきます。「わたし」は特定の「じくうかん」で「たしゃ」と出会います。出会いの場所は特定の社会文化的時空間となります。そして、出会った「たしゃ」は特定の何者かである「他者」となり、その瞬間に「わたし」もその他者から見た「私」となります。もちろん、出会った瞬間に「たしゃ」においても同様のことが起こります。
 「私」と「他者」はそのような社会文化的空間で何らかの社会的交通に従事します。そして、その際に、「私」も「他者」も一つの社会文化的主体として、社会的交通に従事しそれを生産するために、ことば=発話を発します。そのようなことばのやり取りとそれに伴う諸価値(Jacoby and Ochs, 1995, p.71、西口, 2015, pp.91-92)が言語的交通です。また、言語的交通に従事する「私」や「他者」は、社会文化的空間や社会的交通も進展に伴って一定のままではなく多様に変幻していき、当然社会的交通もさまざまに展開していきます。
 このような形での、社会文化的空間での具体的な人と人との接触・交流が、バフチンの言う対話的交流あるいは対話です。バフチンは、言語活動(英語ではlanguage-speech)の真の現実は発話によって行われる言語による相互行為という社会的出来事(バフチン, 1928/1980, p.208)で、「言語が生息するのは、言語を用いた対話的交流の場をおいて他にはない。対話的交流こそ、言語の真の生活圏なのだ」(バフチン, 1963/1995, p.370、西口, 2015, p.94)と言い、社会的出来事の中の言語つまりことば=発話は話し手と聞き手が共有する共通の領域だ(バフチン, 1928/1980, p.188)と論じています。発話が話し手と聞き手の共有する共通の領域であるからこそ、言語的交通という出来事は維持され、話し手と聞き手は次に進むことができるのです。このように、発話の共通領域性と言語的交通という社会的出来事の成り立ちとは弁証法的な関係にあります。つまり、どちらかが先に成立するとは言えず、その一方で、一方が成立するときは他方も同時に成立するという関係にあります。
○ 人格
 わたしたちは他者とともに言語的交通に従事しながら日々の生産活動や生活活動を営んでいます。そして、そのような世界に対して示される(represent)、世界での主体の持続的な存在的特性が主体の人格となります。ただし、人格は一定程度持続的ではあるが、同時に多面性を有し、また常に緩やかに変容しています。ずっと同じ一つの人格のままの人はいません。

参考文献
Jacoby, S. and Ochs, E.1995Co-consrtuction: an introduction. Research on Language and Social Interaction 28: 171-183.

第9回 カリキュラム策定のスタンスと方略 

 前回の社会文化的主体の部分を少しレビューして話を進めます。
○ 第二言語学習者とことば
 社会文化的環境で生きる社会文化的主体はみんな、「わたし」や「あなた」や「かれ(ら)」や「あれ」や「これ」を含む「せかい」を記号的に形象化(Lave, 1988Holland et al. 1990)しながら、そして他者と協働する場面では協働行為の局面を記号的に形象化しながら、「わたし」と「あなた」と「かれ(ら)」が生きる形象世界(Holland et al., 1990)に自らを立ち現せて他者とともに生きています。言語は、そうした生き方の肝要な部分に関わっています(Berger and Luckmann, 1966)。そして、社会文化的主体においては、覚醒して活動しているかぎり、形象化という言語心理的な心の作用がきわめて活発に働いています。
 成人の第二言語学習者は、言うまでもなく、自身の第一言語においては、自在にそうした形象化を行って、世界を識り、世界に自らを立ち現せ、世界の中で「同種の」他者と共に活動に従事することができます。しかし、第二言語になると、同じ人が、そうしたことが一挙にできなくなります。第二言語学習者は、その人の外見(服装、持ち物、髪型、身だしなみなど)や振る舞い方、及びその人を取り巻いている特定の制度に基づいて特定の主体として尊重はされます。しかし、ことばによって自身の存在や自身が属する世界を示すことができなくなるのです。これは、「声の喪失」とも言うべき深刻な状況です。
○ 声の獲得・回復
 筆者は、これまで、「言語事項か実用的なコミュニケーションか」という二項対立を超える第二言語教育のカリキュラム開発の新たなスタンスとして、自己表現活動を内容とする社交的なコミュニケーションを提案してきました(西口, 2013; 2015)。自己表現活動中心の基礎日本語教育の提案です。自己表現活動中心の日本語教育の妥当性は、上のような論理でも正当化されます。つまり、コミュニカティブ・アプローチで提唱されているように相手への働きかけを中心とした言語活動(ものを頼む、誘う、誘いを断る、許可を求める、など)ができるようになることをめざす前に、自身の存在と自身が属する形象世界を回復することこそ第二言語教育の基礎的な教育内容とするべきだと考えられるのです。それは、「あなたは、何者?」や、「あなたにおいてこのことはどのような事情になっている?」(ご家族は?、好きな食べ物や飲み物は?、どんなスポーツをする?、どんな音楽が好き?、今はどんな仕事を?、など)というような他者からの呼びかけに応えることができる基本的な対話能力です(バフチン, 1980; 1988; 1995、西口, 2015)。自己表現活動中心の教育でいう自己表現活動とは、そのような自身の存在の基本のことです。
 第二言語教育をそのような観点を基本として構想するならば、その教育は、人格としての声や意識としての声(Holquist, 1981、西口, 2015)の獲得と回復としての言語教育となります。そのような声の獲得・回復という最も基本的な課題を放置して、従来通りの文法や語彙などの言語事項中心の教育を提供したり、実用的なコミュニケーション力に焦点化した教育を企画し実施したりするのは、学習者各々の自己の存在の基盤に根付くことのない片々たる、言語事項や実用的なフレーズをただ覚えるだけの語学教育となってしまいます。
○ 教養ある社会文化的主体と言語活動従事
 教養ある社会文化的主体は、テクスト的な思考(text-formed thoughtOng, 1982)をします。あるいは、教養ある社会文化的主体は、短い発話を一つひとつ発出しているような場合でもさまざまな内的なことばが交錯するテクスト的思考を基盤として他者と言語活動に従事している場合が多いです。このあたりは、バフチンの言う意識の対話的存在圏(バフチン, 1963/1995, p.565)という議論とも関連しています。日常的な生活を運営する会話では環境内の偶発的な刺激に基づく直観的な言語的思考に制御されて他者と移ろいやすい言語活動に従事するわけですが、教養在る社会文化的主体にとってはそのような様態の言語活動従事はむしろ周辺的です。
○ 教養ある社会文化的主体の場合に適正な学習的言語活動従事
 わたしたちが学習者として出会う人たちも、第一言語を基礎とするなら、そのように言語的に思考し、そのように言語活動に従事する主体です。そして、第二言語学習の状況になったときに、かれらは一旦声を失ってしまうのです。そうした主体においては、第二言語習得のための学習的言語活動従事=エンゲージメントも、第一言語の言語的心理と第二言語の言語的心理が混在する複言語的なテクスト的思考空間を基本スペースとしてそれを第二言語的に豊富化するエンゲージメントとするのがよいだろうと思われます。
 そのようなエンゲージメントを保障するためには、第二言語的な豊富化の培養環境となる適切なテーマスペースを用意するのが有効でしょう。そして、そのテーマスペースの系列がそのままカリキュラムとなります。そのようなカリキュラムの下での各スペースの中で、声の獲得・回復、ことばの豊富化、言語技量の養成を図るわけです。
 このような構想に基づいて開発された第二言語習得の学習と教育のためのプラットフォームが自己表現活動中心の基礎日本語教育のカリキュラムと教材です。同カリキュラムの具体的な内容についてはhttp://nej.9640.jp/sample/contents を参照してください。
○ マスターテクスト・アプローチ
 自己表現活動中心の基礎日本語教育ではその教育を支える中核的な教材として各ユニットでマスターテクストというものを用意しています。マスターテクストとは、ユニットで目標とされている言語パフォーマンスの事例であり、同時に、学習を進めるにあたり学習者が最も頼りにするリソースとなります。つまり、マスターテクストは、学習者にとっては当該ユニットの目標を知るための資料となり、また、自身が目標のパフォーマンスを行うにあたってそれを参照してディスコースのマクロ構造やその中の言葉遣いを流用するリソースとなります。そのようにマスターテクストを活用して日本語を学習する方略をマスターテクスト・アプローチと呼んでいます。すでに第6回で論じたように、これはMartonの言う再構成的方略です。つまり、用意された自己表現活動中心の日本語教育のカリキュラムと教材は、学習者の立場からは再構成的方略による学習を可能にするプラットフォームとなるということです。

 以上で、コミュニカティブ・アプローチを超えるカリキュラム開発と教材開発の話は終わりとなります。次回からは、いよいよ授業実践の方法についての議論に進みます。



10回 授業実践方法の革新 ① ─ 純朴な見方の落とし穴とコンプリヘンション・アプローチの洗礼


 前回、自己表現活動中心の基礎日本語教育のプラットフォームは学習者に再構成的方略による学習を可能にすると言いました。それは、同プラットフォームの一つの重要な側面です。しかし、専門職(professional)である授業実践者には単に再構成的方略に沿った指導にとどまるのではなく、実際に学習者の前に立って生で授業をする者だからこそできる高度で有益な授業を実践することが期待されます。そのような方向をめざして、今回と次回の2回にわたっては、教師による実際の授業実践の方法についてクリティカルに議論したいと思います。
○ プラットフォームから授業実践へ
 教えるという面について言うと、プラットフォームの開発の後は、コーディネータと授業実践者=教師の世界となります。コーディネータは、実際のプログラムの諸条件や学習者の諸要因などを考慮して、宿題や小テストの計画なども含めて具体的なコーススケジュールを作成します。コーススケジュールは、実際の学習者たちが無理なく着実に日本語技量を形成していけるように、また、そのような趣旨に沿って授業実践者が各授業の目標が何であるかを適切に把握して授業実践ができるように、立案されなければなりません。その際は、当該のカリキュラムのアプローチを理解している授業実践者であれば、端的に作成されたスケジュールを示されただけですむこともあるでしょうが、そうでない場合は各授業で達成してほしいことや、場合によってはより具体的な授業内容や授業方法例などをコーディネータが助言しなければならないこともあります。後者のようなことがないように、自己表現活動中心の基礎日本語教育では、『NEJ指導参考書』を用意しています。コーディネータの立場としては、「『NEJ』の趣旨や各ユニットの構成や、各授業の位置づけや各授業で達成することが期待されていることなどについては『指導参考書』を参照してください」とだけ言えば、あとは専門的な授業実践者であれば自身で考えて工夫して授業を計画し実践すべきでしょう。
 このような状況で、一定の合理性とある程度の一貫性をもって個々の授業実践がスタートラインに立ちます。そこから先は、一人ひとりの授業実践者の世界となります。そして、その世界にはコーディネータを含め他の誰も踏み込むことはできません。ここから先を中心として本エッセイ全体は、カリキュラム・教材開発者でありつつ同時に一人の授業実践者でもある筆者からの、自己表現活動中心の基礎日本語教育の授業を担当する専門職である授業実践者=教師に対するアイデア提供あるいは提案となります。
○ 漢字を書く練習=書字の訓練?
 まずは、漢字を書く練習を例として話をします。漢字を書く練習の目的は漢字が書けるようになることでしょうか。例えば、漢字学習の初期に「学」「生」「先」「校」を習います。漢字の指導では、以下のようなことを教えるでしょう。
 (1) 導入
  例)「がくせー(学生)」「せんせー(先生)」「がっこー(学校)」などで使われている漢字である。
 (2) 各漢字の意味 
  例)「学」は“learn”。「生」は“produce”、“be born”、“student or disciple”、など
 (3) 漢字の読み方
  ※ ただし、漢字の読みを教えるのではなく、漢字語の読み方を教えるだろう。例えば、「学生(がくせい)」「先生(せんせい)」「学校(がっこう)など。発音するときとは異なる表記になることにも注意。
 (4) 漢字の書き方
  例)各漢字の字素とその構成、各字素の書き順と全体の書き順、など。
そして、このような指導の上でようやく漢字を書く練習に入ります。漢字を書く練習では、学習者は先生の指導・助言の下に確かに「漢字を書く」という作業をしています。「漢字を書いているのだから、漢字が書けるようになるためだ! つまり、漢字を書く練習は書字の訓練である」と純朴に言われると「それでよく日本語教育の専門家を名乗って仕事をしているねえ!」と言いたくなります。重要なのは、表面的に見えている作業とその作業の従事を通して学習者において生じている経験や学習とは別途に考えなければならない、ということです。学習者において生じている経験を、ざっと列挙してみましょう。「─」の後ろが学習者の経験。
  「学」を書いているとき ─ わたしは今「がくせー(学生)」の「学」を書いている。「がくせー」は知っている。「わたしは、がくせーです!」。「学」は「がくせー」の「がく(学)」で「がっこー」の「学」。「学」は“learning”。「がっ(学)こーにいきます」。
  「生」を書いているとき ─ わたしは今「がくせー(学生)の「生」を書いている。「がくせー」は知っている。「わたしは、がくせー」。「生」は「がくせー」の「せー/せい(生)で「せんせー」の「せー/せい(生)」。「生」は“student or disciple”。
  「先」を書いているとき ─ わたしは今「せんせー(先生)」の「先」を書いている。「せんせー」は知っている。「にしぐちせんせー」「おかざきせんせー」「わたしはせんせーではありません。がくせーです」。「先」は“previously”。最初の2画は「生」と同じだ!
 このような経験の蓄積を通して学習者は何を学ぶのでしょうか。
  今後出会う個々の「学生」「先生」「学校」などの字形認識力
  字形を認識してそれらを語と結びつける書記言語能力
  「学生」「先生」「学校」などの語彙記憶の強化
  各漢字や漢字語とすでに身についている発話例との連合
  「ッ」「子」「儿」「木」「交」など要素となっている字素の一般的な認識及び書字能力。
  各漢字の書字能力
 つまり、単純に「漢字を書く練習=書字の訓練」ではないということです。
○ ナチュラル・アプローチの学習活動は聴解練習?
 これと同じような純朴な見方がその他の学習活動についてもしばしば行われています。その代表的な例が、第2回から第4回で論じたKrashenのナチュラル・アプローチ、広くはコンプリヘンション・アプローチに関してです。Krashenのナチュラル・アプローチでは、端的に教師は話し続け、学習者はそれを聞きます。Krashenはこれを「教師は理解可能なインプット(comprehensible input)を学習者に提供している。学習者はそれを実物やイラストや教師の動作や顔の表情などをも手がかりとして半意識的に理解する。そして、そうした理解活動に従事することを通して学習者は、言語活動従事の基盤となる潜在的な言語知識であるコンピテンスを形成することができる」と説明しています。
 このようなナチュラル・アプローチの話を聞いてあるいはその(模擬)授業などを見て、「ああ、これは聴解練習だ」、「たしかに、このような学習活動を大量に行えば聞いて理解する能力は身につくだろう」というような反応をする先生がいます。このように純朴に言われると、Krashenも返す言葉がないでしょう。そして、それに加えて「でも、やはり、話せるようになるためには、励まして話させる練習をしなければ!」と言い添えられます。これで、Krashenは「お手上げ」です。
○ 専門職らしくない「でも、やはり…」
 そもそもTPRやナチュラル・アプローチの発想及びそれらに関する研究は、「文法構造などの言語知識を身につけても言語活動に従事することはできない」という見解や、「学習者に強制的に話させることは言語習得に結びつかないのではないか」という疑問からスタートしています。そのような発想の下に、PostovskyAsherTerrellらの教育実践があり、Krashenの研究があるのです。そして、Postovskyらは大きな成功を収めており、Krashenはかれの仮説を支持する膨大な研究結果を出しています。専門職というのを「自身の仕事に関連するさまざまな知識や知見や見解をよく知った上で、さまざまな判断をし、実践を遂行する人」と定義するなら、PostovskyKrashenらの報告をほとんど読まないで知らずに、自身の素朴な理解だけで「でも、やはり…」と言ってしまうのはあまりにも専門職らしくないでしょう。
○ コンプリヘンション・アプローチの洗礼
 現在、日本語教育や英語教育で活躍している中堅よりも若い教育者は、Krashenやコンプリヘンション・アプローチをほとんど知らないでしょう。筆者自身は、第2回で書いたようにそれを「生々しく」経験し、一時は「はまって」いました。ただ、筆者の場合は、第1回で書いたように、同じように応用言語学にもはまっていました。また、この連続エッセイでは書きませんでしたが、認知心理学や言語行為論や語用論や言語哲学にはまった時期もあり、一時は廣松のマルクス論にもディープにはまっていました。比較的最近ではヴィゴツキーや状況的学習論にも割合長くはまっていました。そして、そのような長い彷徨の後に、現在のバフチンの対話原理に至っています。拙著を読んでいただいた方はすでにご存じのように、対話原理は、人間の言語活動や心理過程等に関する一面の理論ではなく、言語と文化と心理と人とコミュニケーションと現実などに関する包括的な視座です。ですので、筆者がこれまでさまざまな学問領域で学んできた言語や文化や心理等に関する重要な見解や知見は対話原理の下に包括的に包摂できると見ています。
 そのような第二言語教育学探究の遍歴を経た筆者からすると、ナチュラル・アプローチやコンプリヘンション・アプローチは歴史に埋没させるにはあまりに惜しい気がします。少なくとも、ナチュラル・アプローチ等の教授方略を十分に知り検討した上で、自身の授業実践の方法を考えてほしいと思います。現状は、おそらくすべての日本語の教師は、自身の授業実践の方法がコンプリヘンション・アプローチが批判したプロダクション・アプローチであるとも自覚しないでプロダクション・アプローチをやっています。それが単に自身にも染みついたオーソドックスだからです。オーソドックスに無自覚に順応するというのは真の専門職のすることではないでしょう。
 一方で、ここでの提案は、ナチュラル・アプローチやコンプリヘンション・アプローチを復活させようということではありません。それを改めて再概念化して、自己表現活動中心の基礎日本語教育に適合するように修正して適用しようという提案です。



11回 授業実践方法の革新 ② ─自己表現活動中心の基礎日本語教育とナチュラル・アプローチの融合

○ 4技能という誤った見方 
 言語に熟達している人とはどのような人でしょうか。従来の見方では「自身に向けられた発話を理解し、それに応える自身の思考を言葉に変換して応答できる人」となります。この見方では、(1)理解の契機と産出の契機が截然と二分され、(2)それぞれの契機は「言語形態→意味/思考」「意味/思考→言語形態」というような形態と意味の変換操作となります。そしてそのような見方では必然的に、(3)そこには「意味」や「思考」などの契機が介在することになり、(4)人間の言語機構はいわば符号化器(下の送信機)と符号解読器(下の受信機)となります。このような見方は、Shannon and Weaverのコミュニケーションのコードモデルにピッタリ対応します。
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図1 Shannon and Weaver(1949) のコミュニケーションのコードモデル
 第二言語教育では、昔から現在でも4つの技能ということがしばしば言われます。話すこと、聞くこと、書くこと、読むこと、です。しかし、言語活動従事能力をそのように4技能としてとらえることで上のようなコミュニケーション観に発想を縛られてしまうこと、そして、上のようなコミュニケーション観では言語活動従事能力は避けがたく言語記号と意味(思考、メッセージなど)との間の変換能力に収束してしまうこと、をどれほどの人が認識しているでしょうか。そして、そのような物の見方が、前回紹介したナチュラル・アプローチの授業を見ての「これは聴解練習で、このような活動を大量に行えば聴解力は身につくだろう」「でも、やはり、話せるようになるためには、話させる練習をしなければ!」との純朴な見方の源泉となっていることにどれほどの人が気づいているでしょうか。
○ ナチュラル・アプローチ再論
 Krashenの言う潜在的な言語知識(implicit knowledge of language)とは何でしょう。残念ながら、Krashenは自発的な言語産出を可能にする暗黙の知識(tacit knowledge)としか言ってくれません。また、Krashenのナチュラル・アプローチの説明の仕方は、「i
+1」の構造を含む理解可能なインプットを受容的に処理することで「話す」という産出を可能にするコンピテンスが形成されるということで、受容活動がコンピテンス形成の手段で「話せるようになる」ことが目的であるというような印象を与えています。そして、それはおそらく、Krashenの本意ではないでしょう。
 基礎段階の教育を考えるとして、「日本語を教える」授業とはどういうものでしょうか。
 (1) 適宜に媒介語も使いながら、目標言語の語彙や文法構造などを理解させ、その知識を駆使して、文が作れるように、また文が理解できるように指導する。
 (2) イラストやレアリアなども活用して、正確な語彙の知識や文法構造の形式と用法の知識を習得させる。
 (3) 教室の中に特定の状況を設定して学習者の発話を促し、表現意図に対応した文を正しく作れるように指導する。
 (4) 話す機会を豊かに提供することで、さまざまな事柄が自然に話せるように指導する。
 これらの見解はいずれも先に批判したコード的なコミュニケーション観に基づく指導原理と指導方法だと言わざるを得ません。教師が懸命になって学習者に話させようとする様子、そして、学習者がなかなかうまく話せないで停滞している様子が目に浮かぶようです。Krashenがナチュラル・アプローチを提唱して言っている重要なポイントは「そんなことをもたもたやっているのは時間の無駄で、重要なコンピテンスを形成するのに有益でもない」ということです。そして「教師がもっぱら話し学習者が関心をもってそれを聞いて理解するということを大量に行うことを通してこそ、言語活動従事を可能にする暗黙の知識を学習者に涵養することができる。そのような授業実践をすることこそが重要である」とKrashenは言いたいのです。そして、この2つの見解に共通するKrashenの見方は「あなたが今指導している学習者には言語活動従事経験という養分がぜんぜん足りていない。話させるなんてまったく時期尚早で、今十分にするべきことは、学習者にたっぷりと言語活動に従事する経験をさせて、意識的知識にであれ半意識的知識にであれ十分に養分を蓄えさせることである」という見方です。そして、学習者にたっぷりと言語活動に従事する経験をさせるための簡単ながら最も有効な方法が理解可能なインプットを与えるという方法だと言うのです。
○ 対話原理に基づく理解可能なインプットの再概念化
 「理解可能なインプットを与える」というのはどうも教師の側の一方的な感じがします。また、「i+1」という言い方も「i+1」の文法知識や能力を習得することが関心であるように思わせます。いずれもKrashenの本意ではないでしょう。重要なのは、学習者にたっぷりと言語活動に従事する経験をさせることができるように注意深く理解可能なインプットを編成して、言語活動従事を可能にする暗黙のコンピテンスを涵養する、ということです。
 ここでバフチンの再登場です。バフチンは、言語活動(英語ではlanguage-speech)の真の現実は発話によって行われる言語による相互行為という社会的な出来事である、と言っています(バフチン, 1928/1980, p.208)。そして、出来事の中の発話は話し手と聞き手が共有する共通の領域です(バフチン, 1928/1980, p.188)。発話が話し手と聞き手の共有する共通の領域であるからこそ、言語的交通(言語による相互行為)という出来事は維持され、話し手と聞き手は次に進むことができるのです。このように、発話の共通領域性と言語的交通という社会的出来事の成り立ちとは弁証法的な関係にあります。つまり、どちらかが先に成立するとは言えず、その一方で、一方が成立するときは他方も同時に成立するという関係にあります。
 教室あるいは授業という対面状況は潜在的な(社会的)出来事発生時空間です。つまり、教室あるいは授業という状況のそこかしこには出来事が発生する潜在性がきわめて豊かにあるのです。当該の言語に熟達している教師はそのような潜在性を見つけ出して、それをつなぎ合わせたり一つの潜在性を取り上げてそれを発展させたりして、教室にさまざまな出来事を発生させる潜在力をもっています。そして、発生させる出来事は、新たな言語を習得するという教室という時空間の制度的な特性と、学習者が出来事に関心や興味をもって注目し従事することができるという参加促進的な特性の両方を兼ね備えていなければなりません。そして、重要なことは、教師はさまざまな出来事を発生させる潜在力を有しているわけですが、実際に出来事を成功裏に発生させるためには自由自在に話せるわけではないということです。つまり、教室というのは一方の参加者である学習者の日本語力が限られている状況なので、教師は教室という時空間の中での学習者の「ことばを伴った出来事従事力」を十分に「計測」しながら出来事を発生させたり進展させたりするほかありません。教師は潜在力としては自由自在に話す力をもっていますが、実際には学習者の「ことばを伴った出来事従事力」に従属しそれに適合して話す=言語活動に従事するほかないわけです。先に「理解可能なインプットを与える」というのは一方的な感じがすると言いましたが、このように実際には全く一方的ではありません。ナチュラル・アプローチの授業は教師が一方的に話し続け学習者はそれを聞くという形態になるわけですが、実は、教師は自由に話しているのではなく、むしろ対話相手である学習者のほうに従属してことばを紡ぎ出し続けているのです。そのような状況は、理解可能なインプットを与えると言うよりも、少し比喩的に滋養豊富な言語従事経験を提供すると言ったほうがいいでしょう。そして、教育経験が豊富で学習者に寄り添う気持ちが強い教師こそそのような授業実践を繊細に行うことができるのです。表面的には教師主導でありながら実際には学習者中心のそのような活動こそが、言語活動従事を可能にする暗黙のコンピテンスを着実に涵養することができるとKrashenは主張しているのです。
○ 自己表現活動中心の基礎日本語教育へのナーチャリング・アプローチ
 自己表現活動中心の基礎日本語教育の質を飛躍的に高度化するための方策として、ナーチャリング・アプローチ(nurturing approach、ことばの技量を育成するようなアプローチ、原理はナチュラル・アプローチに類似)を同教育の授業実践に適用することを提案します。以下では、NEJのナラティブが配当された授業を例として話をします。
 同教育では90分2コマセットの授業に端的にNEJのナラティブが一つ配当されることがあります。そのような場合に、授業終了時に期待される教育成果は概ね以下のようになります。
 (1) 教師のモデルに従ってナラティブを適正な発音で再生することができる。
 (2) ナラティブのセグメントのオーディオ提示後のその内容についての質問に適正に応えることができる。
 (3) ナラティブと同等の内容についての問いかけに概ね適正に応えることができる。
 (4) ナラティブと同等の内容の「別バージョン」の話を聞いて理解を示すことができる。
 つまり、(実際にそういうことはありませんが)授業を終えて教室を出た教師はコースコーディネータから「学生たちは(1)から(4)ができるようになりましたか」と問われるわけです。その問いかけに対して教師は、授業中に何をどのようにしようと、「はい、できるようになっています!」と答えることができればいいわけです。
 そのようなことを言うと、授業時間を4つに分けて(1)から(4)のような練習をベタにする先生がいますが、それは専門職のすることではないでしょう。専門職というのは「髪振り乱して一生懸命仕事をする人」ではありません。むしろ、「与えられた仕事にクールに対応して結果を出す人」です。専門職は「結果を出す」ために知恵と工夫とアイデアを尽くします。やみくもに仕事をして「わたしは一生懸命やりました!」と言うのは専門職の仕事の仕方ではありません。真の専門職の仕事ぶりは、素人にはまるで手品のように結果を出すように見えるでしょう。そうあるべきだと思います。筆者のここでの提案は、所期の授業目標を有効に達成するために、またコース全体の教育の質を飛躍的に高度化するために、上で論じたようなナチュラル・アプローチ的な教育方法を採用しませんかということです。手品師のように仕事をしてみませんかというお誘いです。
 ここで提案している方法は、各授業単位で一定の産出的なターゲットパフォーマンスを要求するという点で本当の意味でのナチュラル・アプローチとは言えません。各授業でターゲットパフォーマンスを設定しているという意味でT-ナチュラル・アプローチ(target performance-oriented natural approach)とでも呼ぶのが適当でしょう。そして、ことばの技量を仕込むあるいは養うという意味で、ここではそれをナーチャリング・アプローチと呼んでいます。
○ 教育の質の高度化をめざすナーチャリング・アプローチの実践
 前の節で突然、教育の質の高度化ということを言い始めました。それは、ナチュラル・アプローチ的な方法は、これまでのプロダクション-オリエンティッドな方法(第11回ではプロダクション・アプローチと呼んでいます)とは質的に異なる能力が涵養され、それがこれまでの方法によっては決して得ることができなかった教育効果につながると感じるからです。このことは、言語活動従事能力とその発達を氷山に譬えて説明できるのではないかと思います。
説明: https://encrypted-tbn3.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSNIKtWAq7BH8rBaWLn2RlN3iNtaCAQF6CWrzJ-riIghoBsom7-vg 話すことであれ聞いて理解することであれ実際の言語的なパフォーマンスは、すべて氷山の海面上にある部分での現象です。これまでのプロダクション-オリエンティッドな方法は、海面上部分の能力を海面上部分をいじって伸ばそうとしているように見えます。Krashenが習得(acquisition)と対比して批判している、明示的な言語知識を身につけさせる学習(learning)も同様です。それに対し、ナチュラル・アプローチ的な方法は、氷山の海面下部分に働きかけて、海面下部分をより大きく豊かに形成することで海面上部分として現れる実際の技量をより大きくしようとしているように思います。Krashenが言っている言語活動従事を可能にする暗黙のコンピテンスを涵養するというのは、この海面下部分に働きかけて海面下部分を大きく豊かにするということなのだろうと思います。
 そのようにして涵養されるコンピテンスは、個々の発話の行為と直截に結びついているというよりも、話すときの間や言いよどみや息づかいや言い直しや言い換えなどを含めた実際の話し方と関連しているように思います。また、そのコンピテンスは、個々の言語活動従事を超えた超領域的なコンピテンスとして成長し豊富化していくものと思われます。これが、教育の質の高度化です。「プロダクション-オリエンティッドな方法にしても学習にしても氷山の海面上部分に働きかける教育方法は役に立たない。氷山の海面下部分に働きかけてこそ真に第二言語の習得は進行するのだ」とKrashenは主張しているのです。
○ おわりに
 世の中には大勢(たいせい)というものがあります。日本語教育について言うと、現在の日本語の教師の大部分は残念ながら第二言語教育法の専門家ではありません。つまり、第二言語習得の原理を勉強してさまざまな教育方法を熟知しているわけではありません。端的に、日本語教育には、第二言語教育法を学ぶ伝統が十分にありません。日本語教育は、これまでの応用「日本語」学の歴史を今でも引き継いでいると言っていいでしょう。
 コミュニカティブ・アプローチは、一定程度「新たな大勢」になることができました。それは、コミュニカティブ・アプローチが「見たことがある」「多かれ少なかれ経験したことがある」「想像できる」「常識的な感覚に合致する」「自分でもそれなりにできそう」というような多くの人が受け入れることができる条件を一定程度満たしているからです。多くの人に受け入れられ普及するものは、大部分の人にとって、想像可能で、常識的で、マネできそうなことだということです。
 逆説のようですが、この普及ということを考えると、「大勢」となっている教育方法はむしろ真に有効な方法ではない可能性が高いということになります。「みんなの素朴な常識に合致し、みんなにとってできそう」という基準はそれ自体で「普通の人の常識に合致しない奇抜な教育方法」を排除だろうと思われるからです。本当に有効な教育方法は、ごく限られた者だけが知ることができ、洞察力のある者だけがその真価を認めることができ、勇気のある者だけが(周囲の直接間接の反対を押し切って)実行できる「特別な教育方法」なのかもしれません。
 自己表現活動中心の基礎日本語教育は、カリキュラムと教材のレベルで「特別な教育方法」を実現しました。同教育でナーチャリング・アプローチを実践することで授業実践レベルで「特別な教育方法」を実現できるかもしれません。手品のような日本語教育を実現することができるかもしれません。



12回 Research into practiceというパラダイムの幻想 


 本連続エッセイの最後として、research into practice(以下、RIPと略す)という発想の問題について論じたいと思います。
 そもそもカリキュラム開発者や教材作成者や授業実践者などの教育実践者はそれ自体高度な専門職(professional)です。つまり、関連領域の研究成果などを参考にしながらも、自身の言語活動者としての直感や第二言語使用者としての直感や、第二言語学習の経験からの洞察や言語的なセンスや、知的能力や企画力など自身が有する資質・能力を総動員してそれぞれの実践を企画し実行します。このように教育実践者にとって関連領域の研究成果は重要なものではありながらどこまでも参考でしかありません。つまり、現実の実践を有効に行うという観点でさまざまな判断や内容や方法の選択を行う規準の一つに過ぎないわけです。妙な喩えですが、教育実践というのは総合格闘技のようなものです。優れた総合格闘家は、柔道、空手、ボクシング、キックボクシング、レスリングなどの原理や技術を自分なりに体得し複合して自身の格闘技法を仕立て上げます。もちろん、身体作りや体力作りが基本にあります。教育実践者もさまざまな関連領域の研究に通じていなければなりません。また、直感やセンスや企画力なども基礎力として重要です。そのようであってこそ、真に高度専門職としての第二言語教育者と言えるでしょう。もちろん、心理学、第二言語習得研究、応用言語学、社会言語学、日本語学など特定の関連領域に強いということがあっていいのですが、高度な専門職というのであれば自身の得意分野以外についてもある程度万遍なく通じている必要があるでしょう。「わたしは日本語学だけ知っている」「わたしは社会言語学を背景とした日本語教育者だ」というふうに特定領域のみに偏っている人は、真の意味で高度な専門職とは言えないでしょう。それで、RIPについての議論です。
○ Reserch into practiceというパラダイム
 RIPというパラダイムは、研究から実践へということで、「実践に役に立つ研究をしてほしい/したい」、「研究(成果)を教育に生かす」、「実践に役に立つ研究とは何か」などの言葉で示されています。また、日本語教育学の論文や口頭発表では「その研究がどのように実践に役に立つか」について論じることが常道になっているようですし、日本語教育学関係の修士論文や博士論文でも「実践への応用」についての論述を含めることが院生に求められるようです。これらも、RIPのパラダイムだということになります。
 このような方面の日本語教育関係の「風景」を見てみると、日本語学の人たちは引き続き精力的に教育に役に立つ研究をめざして自らの道を切り拓こうとしています。待遇表現などを中心とした社会言語学の研究や最近のコーパスを使った日本語研究も広くはそのような流れに位置づけられます。また、過去30年くらいの関連領域の動きを見ると、語用論や中間言語語用論の研究が進むと語用論的なコンピテンスを養成しなければならないと研究者は言い、コミュニケーション・ストラテジーや学習ストラテジーの研究が進むと研究者はそれらのストラテジーの教育をカリキュラムに含めなければならないと叫び、フィラーやあいづちや終助詞などを研究する人はそれらに関する技能が重要であり指導するべき内容の一つであると声を上げます。
 このように、RIPのパラダイムは、第二言語教育における「常識」、あるいは教育への関心から出発した真摯な研究者であれば「当然めざすべき方向」になっているようです。しかし、筆者自身は従来からRIPのパラダイムに大いに疑問を持っています。もちろん、研究と実践は繋がらなくてもいい、研究から実践への貢献など期待しない、と主張するものではありません。以下、議論を続けます。
○ Researchとはどのような営みか
 Researchとはどのような営みでしょうか。人間の知的営み全般の観点から言うと、researchというのは、明らかにknowledge producing enterprise=知識生産活動です。つまり、人間が世界を知ることを拡大したり拡充したりそれを再編成したりする営みです。第二言語教育関係で言うと、関連領域が拡がり各々の領域で研究が展開されるというのは、関連するであろうと思われる知識がどんどん生産されて増え続けるということです。そして、関連するであろう知識の拡大は、それを取り入れて教育実践が一層有効で有益で豊かになる可能性がある半面で、関連するであろうと思われるものが多すぎて「制御不能」に陥るおそれがあります。現在はすでに「制御不能」になっているのかもしれません。そして、「制御不能」にならずにうまく関連領域との繋がりを保つためには、さまざまな関連領域のどの知識が重要でどの知識が重要でないかを判断すること、また、どの知識とどの知識をどのように活用して実践を編成していくか工夫することなどが必要です。
○ 「大学のセンセのリサーチャー」と「日本語学校の先生の実践者」という非対称的な関係
 日本語教育関係に限らず第二言語教育関係の世界を見てみると、「大学のセンセであるリサーチャー」と「日本語学校の先生である実践者」という非対称的な関係つまり妙な力関係のある図式が浮かんでくるように思います。「大学のセンセ」になった人は、多かれ少なかれ自身の専門研究分野を持っています。そして、「大学のセンセ」になった人は、自身が元々日本語学校の先生であっても、また現在も一部日本語を教える仕事をしていても、その人は「○○学のリサーチャーです」あるいは「専門は○○学です」と名乗ります。そして、そんな人が日本語教育について議論するときは「○○学のリサーチャーの立場から日本語の先生に向けて話す」傾向があります。つまり、自身について「リサーチャー」つまり「○○学の大学のセンセ」というアイデンティティを持っていて、そのアイデンティティや立場から話をする傾向があります。そして、そういう立場から話をされると、「日本語学校の先生」は位負けしてしまって、「ご高説を賜る」しかないことになってしまいます。また、「日本語学校の先生」の一部には、「大学のセンセから日本語教育の方法について『名案』を教えてもらいたい」と期待している人もいる(多い?)ようです。
 元々日本語教育に従事していたあるいは現在も日本語教育に従事している大学のセンセが日本語教育について議論をするとき、なぜ日本語教育学の専門家として、つまり「○○学を背景にもつ日本語教育の専門家」として議論をしないのか筆者にはわかりません。いやむしろ、○○学の研究者として大学教員になった人は、そもそも日本語教育について真剣に議論しなくなり、また、自身の研究と日本語教育の企画や実践などとの関連も真剣に考えなくなるように思います。
○ さまざまな背景をもつ日本語教育者間の対話 
 日本語教育学が発展するためには、「○○学を背景にもつ日本語教育の専門家」が出てこなければならないと思います。そして、さまざまな研究背景をもつそうした専門家が日本語教育の内容や方法や第二言語習得の原理や指導原理について真剣に対話するべきだろうと思います。この場合の対話というのは、お互いに背景が異なるわけですから、その背景の違いに基づく見解の相違というものがあるだろうと思います。そうした見解の相違をきっかけとして相互の見解の根拠を相手にわかるように示しそのことを通して自らも自身の見解の根拠を自覚し、そして相互に見解をすり合わせることで、合意に達しないまでも、より広く深い相互理解や相互承認に達するということです。そして、その場合に重要な点は、それぞれに研究の背景は異なっても日本語教育者として同じ土俵に立って、共通の関心として日本語教育のことを真摯に考えるということです。そして、そのような立場で対話をするならば、大学のセンセではないが一定の考えをもっている日本語の先生も一人の日本語教育者としてその対話に参加することができると思います。研究領域や立場を超えてそのような日本語教育についての真摯な対話が展開されることでこそ、日本語教育学は発展の土壌を得られるのだと思います。筆者自身は、今後も一方でバフチンなどの研究を進めながらもう一方でカリキュラムの開発や教材作成などもしつつ、引き続きそのような対話を促進し、自身も積極的な参加者としてさまざまな日本語教育者と対話を続けたいと思っています。


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