2018年4月22日日曜日

羅針盤:日本語教育の対話的実践研究者(201706)

大学の先生、特に人文系の先生というのはどっぷりと研究的なディスコース実践に浸って
いる人です。人文系の先生とお近づきになると分かりますが、先生たちにおいては研究活
動とジャーナリストの活動と作家の活動は近似していて、「大学生時代はジャーナリスト
になりたかった」や「いずれは小説を書きたい」というような言葉をしばしば聞きます。
この3つの活動の共通点は、宏大で膨大なディスコースの海に飛び込んで自身もそのディ
スコースの海にディスコースを投げ返すということです。大学の先生になっている人たち
は「偉大な『ディスコースの海』のスイマー(swimmer)」です。そのディスコース能力は
たいへんなものです。

そして、もう一つの共通点は、これはディスコース実践として避けがたいことですが、こ
の3者はいずれも「世界」に観察者(傍観者)としての目を向けて、同じく「世界」をそ
のように見つめている人に向けてそれについて語る(ディスコース実践をする)というこ
とです。(作家の場合は少し事情が「ズレる」気がしますが。)バフチンの言葉で言うと、
いずれもイデオロギー的活動となります。

バフチンは初期の短いエッセイ「芸術と責任」(1919)の中でイデオロギー的活動について
「芸術と生活は同一のものではないが、私のなか、私の責任という統一性のなかで、一つ
にならねばならない」と言っています。つまり、高次のディスコース実践である研究やジ
ャーナリズム等と、それとは別の次元にある生活でのディスコース実践は、ディスコース
実践としての次元は異なるが、「私の責任という統一性」において一つにならなければなら
ない、というわけです。このエッセイを7・8年前に始めて読んだとき、ぼくは、「芸術を
研究に、そして生活を教育実践に置き換えると、事情は同じだ!」つまり「『研究』と『教
育実践』は同一のものではないが、私のなか、私の責任という統一性のなかで、一つにな
らねばならない」と思いました。この言葉との出会い以来、ぼく自身はますます「研究」
と「教育実践」における「私の責任という統一性」において合一するようになりました。

その一方で、そんな人のことを何と呼ぶのがいいかについてはなかなかいい答えが浮かび
ませんでした。で、今回、対話的実践研究者、という言葉が浮かびました。ここに言う「実
践研究者」は、「実践をしながら実践についての研究もする」という意味で、です。「『実践』
を研究する」人ではありません。ここは「要注意」。そして、「対話的」というのは、2つ
側面があって、(1)積極的にそして能動的に対話をするのであるが、(2)他の同種の人とだ
けでなく同時代の人のあるいは先人が残している理論や叡智とも対話をする、という意味
です。そして、いつも思うのですが、(2)の後半(「先人が…」)がなければ、教育実践に関
心を置くディスコース実践は相互作用を起こして上向することはできない、でしょう。

フツーの大学の先生は、基本的に「研究」という世界だけに住んでいます。かれらは研究
という世界の住人です。そして、そのような種類の人が、実践に関心を寄せたとしても、
それはやはり実践の当事者としての関心ではなく、研究者らしい観察者・傍観者としての
目です。そして、それに基づくディスコース実践をした場合には、そのディスコースの向
け先は同じような視線の研究者です。かれらは決して「実践の世界に関わっている当事者」
の立場にはなりません。わたしたちは、かれらから同時代の理論や叡智や過去の理論や叡
智を教わることができます。しかし、わたしたちが「問うた」ときの応答としてのかれら
のディスコース実践は、かれらはさすがに「偉大な『ディスコースの海』のスイマー」な
のでひじょうに豊かに応えてくれるのですが、わたしたちの「問い」にピッタリとかみ合
うものにはなかなかなりません。なぜなら、かれらとわたしたちは根本的な興味や関心や
志向が異なる「異なる世界の住人」だからです。しかし、わたしたちは「多弁なかれら」
との対話を粘り強くつづけたほうがいいでしょう。かれらのディスコースを通して「先人」
に至ることもしばしばできるからです。

日本語教育学という学問領域があるかどうかについては日本語教育学をどう捉えるかによ
って答えが異なりますが、日本語教育学を「日本語教育についての対話的実践研究者のデ
ィスコース実践の蓄積」と考えるなら、日本語教育学はまだ緒についたばかりだと言わな
ければならないでしょう。

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