2018年4月22日日曜日

羅針盤:「研究(実践)実施者としてのわたし」と「研究報告者としてのわたし」(201607)

NJ研究会フォーラム第14号に「何てゆるい!」というタイトルで、教育研究の方法につ
いての「留意点」を書きました
(https://groups.google.com/forum/#!topic/njkenkyukai/ijeT67gLl7Q)。6月4日・5
日の2日間にわたり、サンフランシスコでICPLJ(日本語実用言語学国際大会)が開催さ
れ、基調講演とワークショップをし、そしてもちろん、研究発表も聞いてきました。研究
発表は、ハワイ大学のVera Hanaokaさんの日本語授業におけるco-regulationの研究な
ど興味深いものもある一方で、教育実践関係の研究では「内容や具体的な教育実践はとて
も興味深いけど、発表の仕方がどうも…」というものが多かったです。その「発表の仕方
がどうも」というところについて書きます。

端的に言って、教育実践関係の研究はどれも「自慢」になってしまっているように思いま
す。確かに、興味深い企画や授業設計や教材開発などを行い、一定の有効で有益な教育が
実践されたであろうことはわかります。しかし、研究発表として実践について報告するの
であれば、「一生懸命考え工夫して実践したわたし」つまり「研究(実践)実施者としての
わたし」と、「その実践について研究としてクリティカルに吟味して報告するわたし」つま
り「研究報告者としてのわたし」という2種類の「わたし」が登場しなければなりません。
そして前者の「わたし」は相応の満足をし一定の充実感を持っていていいのです。しかし、
後者の「わたし」は、いわばもう一つの目として、前者が計画し実施した実践や研究活動
を厳しく見つめなければなりません。そして、研究発表は、後者の「研究報告者としての
わたし」がまとめあげ、報告しなければなりません。そうでないと、前者による自慢話に
なってしまいます。

別の言い方をすると、一つの教育実践は、研究の対象となった瞬間に「公共的な」ものと
なり、それは「研究報告者としてのわたし」によって正確に衆目に晒されなければならな
いし、またその実践は「研究者としてのわたし」による厳しい批判に晒された上で報告さ
れなければなりません。そして、研究報告者と聴衆は、当該の教育実践に対する批判の
criticalityにおいて議論を展開するべきなのです。

研究発表を行う個々の日本語教育者がそのように二重の「わたし」を持って、後者の厳し
いわたしにおいて報告を行い、そして聴衆といっしょにクリティカルに実践を検討してこ
そ、教育実践に関する議論が深まり、そこから深い洞察が得られるのです。

実践の自慢とそれに対する「やんわりした」批判、そしてその批判に対する「自己防衛」。
そんな構図で教育実践研究をしていては、「深まる」ことはあまり期待できないだろうと思
います。

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