ぼくの限られた経験の範囲での「見え方」ですが、西洋的な教育ある人たちは物事を分析 的に考える習慣が身についているように思います。この場合の「西洋的な」というのは、 端的に言うと、論理主義の伝統、あるいは、物事を言葉や記号や図などにして明瞭に説明 しようとする精神の伝統というようなものです。そして、西洋の大学やそれ以外の地域で も西洋式の教育をやっている大学などで教育を受けた人は、先に言ったように、物事を分 析的に考える習慣が身についているように思います。 そんなことを強く感じたのは、短期留学生のための講義(英語で行いました)を担当した 経験からです。授業中に発言を求めるとかれらの多くは、少し考えた後に、内容の巧拙に かかわらず、たいてい理路整然と弁舌爽やかに話します。学生たちは、大学3年次以上で、 院生も一人いました。そして、こんなことを考えていると、キーコンピテンシーの「自律 的に活動する力」というのが思い出されます。ご存じのようにキーコンピテンシーは、3 領域9コンピテンシーの形で示されていて、「自律的に活動する力」は、以下のように第3 領域として出されています。 3.自律的に活動する力 A. 大きな展望の中で活動する力。 B. 人生計画や個人的活動を設計し実行する力。 C. 自らの権利、利害、限界やニーズを表明する力。 AやBは次のステップのこととして、この3のCの「自らの権利、利害、限界やニーズを 表明する力」がしっかりと特定されているのは注目するべきだと思います。そして、その 上で、3のBやAがあって、さらに、下のように領域1と領域2があるのだと思います。 1.相互作用的に道具を用いる力 A. 言語、記号、テクストを相互作用的に用いる力。 B. 知識や情報を相互作用的に用いる力。 C. 技術を相互作用的に用いる力。 2.異質な集団で交流する力 A. 他者と良好な関係を作る力。 B. 協力する力。 C. 争いを処理し、解決する力。 日本の人や教育の傾向性を見ると、3Cをすっ飛ばして、2のAやBなどをいの一番に強調 し、1の「言語、記号、技術、情報、技術」などの習得を重視して「相互作用的に用いる」 を忘れていると思います。と言うか、実は3Cの自身の利害やニーズや権利をきちんと表 明するということがまずあった上で、他者のそれらもよく聞き取って共通の利害などを見 出しその追求のために、協力し相互作用的に言語や知識や技能を用いるということなのだ と思います。もっと分かりやすく言うと、個の確立が第一の課題で、その上でのコンピテ ンシーだということです。3のAやBも個の確立と自覚の上で始まる話です。 このあたりは、「キーコンピテンシーの概念自体がすでに西洋的だ!」というふうに非難す ることもできると思いますが、キーコンピテンシーを論じたどの本を見てもそのような論 は出てきません。ぼくが見ている本は一般的なものに限られていますが。 個を確立していない個体の集団でボスの短い指示の下にボスの一挙手一投足と顔色をうか がいながら一つの群れとして動く人間集団というのも一定のポテンシャルがあるでしょう。 今はやりの「忖度」に基づく集団です。そして、そういう人間集団のメンバーは、群れが うまくいっているかぎりはハッピーなのだろうと思います。しかし、その一方で、そのよ うな人間集団のメンバーにとっては、所属している集団こそが唯一の世界(home universe) となり、他の集団ではぜんぜんやっていけない人になってしまうだろうと予想されます。 日本では「多文化共生」がはやりですが、それが、日本を旗印としてまずは「わたしたち 日本人」対「非日本人」の線を引いた上で「わたしたち(日本人)も、他の文化の人たち とうまく付き合うようにしていきましょう」という構図になっていることにどれほどの人 が気づいているでしょうか。そんなことをしている間は、多面性を備えた多様な個人がそ れぞれの個性を発揮し称え合いながら生き生きと生きられる社会にはなりません。日本の 中の多様性の称揚、個人の多様性と個人の中の多面性の称揚、まずはこのあたりにもっと 注目し光を当てる必要があると思います。「個の確立が第一」という論に即座に与するもの ではありませんが、何だかこの国は窮屈な感じがします。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年4月22日日曜日
羅針盤:分析的に考えることと見解を明らかにすることと個の確立(201705)
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